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其の十二 |
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上・「古事記」でニニギノミコトが天下ったていう天孫降臨神話の舞台、宮崎・鹿児島県境の高千穂峰(1574m) |
![]() ![]() ニニギが猿田彦(サルタヒコ)の道案内で天下ったていうとが霧島の高千穂峰。これが(天孫降臨)タイ。 ええーと、なんの話ばしよるとやったかいね。そうそう神話じゃのうて南北朝やった。ごめんごめん。 足利軍が布陣しとった後方の(宗像神社側から)急に強風が吹き出してクサ、浜辺の砂ば巻き上げ菊池軍のほうさい襲いかかった。 上・南さつま市金峰町の道の駅「きんぽう木花館」にある木花咲耶姫の像。もともと本人がそうやったげなバッテン、渋か金色の像も、そらあ美人でスタイルも抜群。 ![]() いまの多々良川河口。尊氏軍が布陣した右岸(北側)から、菊池軍が対峙した左岸(南・福岡市側)を見る。むかしは海岸線がこのへんまであって広か砂浜やったていう。 また圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法で、攻めてきた尊氏の根性も「この男はやるバイ。こっちのほうについとったほうが、どうもヨカごたる」て寝返りば誘うた理由やったかも知れん。 上・東区松崎。ここは多々良浜の東の端にあり、むかしは蓮根畑でゆるい坂になっとったケン「蓮根坂」ていうた。 |
後醍醐天皇は比叡山から脱出して奈良の吉野へ逃れ「北朝に渡した神器は贋物で光明天皇の皇位は正統なもんじゃなか」て主張して吉野に吉野朝廷ば開いた。これが京都から70kmばかり南になるケン、南朝ていうたとタイ。 九州地方では、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた菊池氏などと、尊氏が残した一色範氏や仁木義長などの勢力が争いば続けとった。 そうしたなかで、第三幕は今回のメインテーマ。 筑後川ばはさんで南北朝が戦うた「筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)」の時がやってきた。 1959年7月、懐良親王の宮方は、まず川の南岸高良山・柳坂・耳納山にかけて布陣し、懐良親王は高良山の毘沙門岳城に本陣ば置いた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 耳納連山の西の端にある高良山。この山頂に懐良親王が本陣ば置いた。眼下には筑後川と筑後平野がひろがる。 下・左岸から見た原鶴大橋と温泉街。橋の形式は 3径間連続鋼床版箱桁。素人が聞いたっちゃなんのことかさっぱり分からん。 菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万もそれば追うごとして川ば渡り、川の北岸に布陣、両軍合わせたら約10万の大軍が睨みあうた。 そして8月6日夜半から7日の夜明け前の襲撃で戦端は切って落とされた。 上・毘沙門城のあった高良山。手前の道が耳納スカイラインで、この一帯は森林公園とかつつじ公園とか呼ばれとる。 自分の爺さん・親父・兄貴の側室やら、挙句の果てには叔母さんにまでも手ば出しとるていう辺りは乱脈極まれりタイ。おまけに11歳の少女ば浚うてきて我が物にしたり、15歳年上の女にも手ばつけるていう節操のなさ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() むかしから「水の道」として利用されてきた筑後川やが、ここは重要な「陸の道」渡しの跡。 高良山から杜の渡しば渡って懐良親王が戦の陣ば置いたとがここ。 日本の三大合戦 関ヶ原の戦い 川中島の合戦 そして 筑後川の戦い (大保原の戦・大原の戦いともいう)
ののの 助べぇていうか、やりっ放していうか、精力絶倫天皇 ● たったの8歳で征西将軍になった、いや、させられた懐良親王 かねながしんのう とも かねよししんのう とも詠みがややこしか |
小郡から西鉄大牟田線に沿うて焼く800m北へ行くと大原小学校がある。ここも筑後川合戦の激戦地のひとつやが、校庭の隅にこんもりとした林が不自然な形でのこっとる。 たとえば白髪三千丈ていうごと、だいたい漢詩いうとは大袈裟かもんバッテン・・それにしても ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「将軍藤」は例年4月24日頃〜5月6日頃が見頃で「将軍藤まつり」が開催され、多くの見物客で賑わう。 筑後川の戦いで死んだ両軍の武士たちば祀った塚は、当時数千坪もあったとバッテン、九州自動車道ばつくる時ここにまとめられた。 頼山陽 頼山陽の篇の漢詩、 戦 戦で五万人が死んだケン「五万騎塚」 「武将が七人葬られとる「善風塚」 ● 近くには自衛隊の小郡駐屯地・・こらぁ関係ないか |
![]() 頼山陽の漢詩に戻る。 ![]() ![]() ![]() ![]() 左・「菊池武光公太刀洗之碑」は大きな自然石の台座の上に聳え立つ。刻まれた文字はチャンと太刀になっとる。 ● 忠臣・菊池武光と大刀洗 上・菊池武光の銅像がある「大刀洗公園」 手前に流れとるとが大刀洗川でほんなことい刀ば洗うた場所は、右手上流500mにある。公園は管理棟もあり、管理者もおってきれいに掃除もいきわたっとる。写真は武光の像ば背にして3枚パノラマで撮った。武光の目線ではこう見える。 上・菊池武光のアップ 菊池 武光(きくち たけみつ)は、肥後益城郡豊田庄(現熊本県熊本市城南町)出身で、菊池氏第15代当主。第12代当主菊池武時の子。官位は肥後守。 |
筑後川の戦いのあとも菊池武光は大宰府に逃げ込んだ少弐頼尚ば夜襲ばかけて追い出し、高良山から懐良親王の征西府ば太宰府に移して確立した。これで九州における南朝の最盛期がしばらく続くことになる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 懐良親王と菊池武光は今川了俊との対峙ば続けたバッテン、次第に劣勢に追い込まれ、そのようななかで1373(文中二年)、菊池武光は波乱の生涯ば閉じた。享年は52て言われとる。 武光は菊池市の菊池神社に祀られ、墓所は菊池市の正観寺。銅像が大刀洗公園と菊池市の菊池公園にある。 上・星野村の大円寺にある懐良親王の墓。 ● 筑後川の戦い後日談 南北朝ばどうなった ? 懐良親王はどうした ? 菊池武光はどうなった ? 謎 3つもある 懐良親王の墓所 なしこげんあっちこっちに墓があるとか。ほんなことはどれか。 ![]() 駅長、菊池一族の本拠地やった菊池市ば訪ねる 菊池神社(きくちじんじゃ)は、明治3年に一族が本拠地にしとった守山城(菊池本城)のあった場所に建てられ、南朝側で戦うた菊池氏の3代(武重、武士、武光)ば祀る。境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されとる。桜の名所としても有名。 熊耳山正観寺(ゆうじざん しょうかんじ) 歴史のある寺やがいまは見捨てられたごとして、決して裕福ではなさそう。その証拠に住職がゴム長ば履いて自分で境内の草取りやら掃除ばしよんなった。 菊池公園の武光像 |
ああ、堰ば造る話もキツカバッテン、戦の話も草臥れる。 |
まだまだ半ばの筑後川。次回の |
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