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其の十二


 今回の筑後川は、水やら橋の話じゃのうして南北朝の話から始めろう。
 南北朝いうたら、むかし小学校の歴史の時間で習うたごたるバッテン、もうまるっきり忘れてしもうとる。
 またその頃習うた日本の歴史は、天皇家の正当性ば国民に押しつけるため、ねじ曲げられたもんやったケン、全くいい加減。忘れとったほうがかえってよか。

 南北朝時代(なんぼくちょうじだい)いうたら、なんな ?  日本の皇室がふたぁつに分かれとった時代のことタイ。
 正確にうと鎌倉時代の後で、1336年(延元元年/建武3年)に朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室がまたひとつになるまでの約50年間ばいうとる。

 なし皇室が分裂したとか。主役はだれやったとか、それがなし筑後川と関係するとか。だんだん分かってくるケン、駅長の「どうでもよか日本史」ば続けて読んでくれんね。

 

  上・「古事記」でニニギノミコトが天下ったていう天孫降臨神話の舞台、宮崎・鹿児島県境の高千穂峰(1574m)

 日本の皇室は天照大神からずーっと続いとって、万世一系て教えられとった。これが全くのウソッパチで、その最たるモンが「古事記」タイ。

 いい加減ば絵に描いたごたる「古事記」は、天武天皇の命令でクサ、稗田阿礼(ひえだの あれ)いうとが憶えとった天皇の系譜とか古か伝承ば、朝廷のお抱えライター太安万侶(おおの やすまろ)が聞き書きして編纂したものていわれとる。そやケン、朝廷に都合のよかごと嘘八百もいれて書かれたもんタイ。

 それによると天照大神から神武天皇への血統は、
 
天照大神(アマテラス)は女で、弟の素戔嗚尊(スサノヲ)と誓約ば(うけい・これがまた何か分からんもんタイ)して生まれたとが天忍穂耳命(アメノオシホミミ)。

 これが栲幡千々姫(タクハタチジヒメ)いうとと結ばれてでけた子が、
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)で天照大神からいうと孫になるケン、歴史では天孫(てんそん)て教えられた。

 ニニギが猿田彦(サルタヒコ)の道案内で天下ったていうとが霧島の高千穂峰。これが(天孫降臨)タイ。

 このニニギが笠沙の岬(カササ・現在の鹿児島県南さつま市の旧笠沙町)で木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)ば見初めて、生まれたとが火遠理命(ホオリノミコト)で、ご存知海幸山幸の山幸彦。

 笠沙町ではニニギが天下ったとは、町内の野間岳(591m)ていい伝えとる。
 物好き駅長が登って見たバッテン、多少それらしき雰囲気はあった。しかし駅長の考えは非科学的な天下りより「黒潮で流されてきた南方のもんが、東シナ海に突き出しとる笠沙の岬に漂着したっちゃなかか」ていうとやった。

 この地方の大山祇神(おおやまずみ=豪族て思えばよか)の娘が木花咲耶姫で、そうなりゃ話の辻褄が合う。

 火遠理命の山幸彦がクサ、豊玉姫(とよたまひめ)と作った子ば鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)ていう。

 なしこげな変な名前か ?  当時お産のときは、鵜の羽根ば集めてお産小屋ば作ったげなバッテン、急に産気づきなったもんやケン、屋根も壁も「葺きあえず(間に合わんまま)」生まれてしもうたケン、鵜草葺不合命なんていう名前になっとると。

 産むところば見たらいかんバイていわれとったとい、オギャーて声のしたもんやケン、つい山幸彦が覗いたら豊玉姫は人間の姿やのうして八尋の鰐やったていう。

 こうしてでけた鵜草葺不合命が、海神・綿津見神(ワダツミノカミ)の娘玉依姫(タマヨリヒメ)と作った四人の子の末っ子がクサ、神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)いうて、これが日本の初代天皇の神武天皇タイ。

 西暦でいうたらマイナス660年、いまからいうたら2600年も前、縄文時代の話やった。

 ええーと、なんの話ばしよるとやったかいね。そうそう神話じゃのうて南北朝やった。ごめんごめん。

 交代ごうたいで天皇ば立てた南北朝時代

 こうして神代からなんがなんか分からんまま続いてきた天皇の血統がクサ、また徹底的にゴチャゴチャになったとが南北朝時代。ことの起こりはこうタイ。

 鎌倉時代半ばの1246年(寛元4)、後嵯峨天皇が退位しなったあと、皇室は後継ぎば誰にするかで争いが起こり、大覚寺統いうと持明院統いうとに分裂してしもうた。

 そこで鎌倉幕府がいたらんこと口出しして「大覚寺統と持明院統さんがかったりごうしに皇位につかっしゃったらたらどうですな」て取り持った。これば歴史では両統迭立ていう。それば持明院統は受け入れて1331年に、まず光厳天皇が皇位についた。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、これが面白うなか大覚寺統の後醍醐天皇は、全国の武士に「いたらんことする鎌倉幕府ば倒せ」て綸旨(りんじ・天皇の命令)ば発した。

 これに応えたとが足利尊氏(あしかが たかうじ)やら新田義貞(にったよしさだ)タイ。彼らの働きで鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇による親政が始まる。これば「建武の新政」ていう。

 バッテン、政治に素人の親政では混乱が続き、また恩賞の不公平によりる不満も出てクサ、尊氏が親政にイヤ気がさして離れると、不満ば抱えた武士たちの多くが尊氏について出て行く始末。後醍醐天皇は新田義貞(にった よしさだ)や北畠顕家(きたばたけ あきいえ)に尊氏ばやっつけろて命じる。

尊氏たちは九州へ逃げていく。
・・・て、ここまでが第一幕タイ。

 足利軍が布陣しとった後方の(宗像神社側から)急に強風が吹き出してクサ、浜辺の砂ば巻き上げ菊池軍のほうさい襲いかかった。

 風下の菊池軍は目もあけとかれんで戦う段じゃなか。2万の兵が2千に負けて菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直(あそ これなお)は佐賀まで逃げ、小城の天山で自害してしもうた。

 て、これは一般にいわれとる伝承。ほんなことは、菊池軍にかたっとった肥前の水軍・松浦党が寝返ったとばきっかけに、多数の裏切りが出たけんタイ。裏切りが出た背景には、2万の大軍とはいうても、その大半は「宮方が有利なごたるケン、菊池のほうについとって様子ば見とってみろう」ていう日和見の武将たちが大半やったていうこと。間違いなく宮方ていえるとは阿蘇惟直ぐらいやった。

 
 尊氏に神風が吹いた多々良が浜の戦い

九州に逃げ込んだ尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる。
 一方、肥後国の菊池武敏ばはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など、九州の諸豪族の大半は宮方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がっとった。

 尊氏は、宗像神社の神主でこのへんば縄張りにしとる古豪・宗像氏範(むなかた うじのり)に「助けちゃんない」て頼んだら「そんなら宗像大社にお参りするがよか」ていわれ、戦勝ば祈願してもらう。

 これでちっとは元気の出た尊氏軍、多々良浜(東区名島)に布陣して待ち構えとる宮方の菊池軍と戦うとバッテン、なんせ足利軍はその数わずか2千騎に過ぎんやった。
 兵力の差は歴然で、はじめから宮方の菊池軍が優勢で押しまくっとったとやが、ここで宗像神社にお参りした効果か、なんと神風が吹いた。

上・南さつま市金峰町の道の駅「きんぽう木花館」にある木花咲耶姫の像。もともと本人がそうやったげなバッテン、渋か金色の像も、そらあ美人でスタイルも抜群。

いまの多々良川河口。尊氏軍が布陣した右岸(北側)から、菊池軍が対峙した左岸(南・福岡市側)を見る。むかしは海岸線がこのへんまであって広か砂浜やったていう。

 また圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法で、攻めてきた尊氏の根性も「この男はやるバイ。こっちのほうについとったほうが、どうもヨカごたる」て寝返りば誘うた理由やったかも知れん。

 結局、この戦いで九州のほぼ全部が足利方につくことになり、体勢ば立て直した尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣(いんぜん・さっきの綸旨と似たようなもん)ば掲げて東征する。

 迎え撃つ後醍醐天皇方は新田義貞・楠木正成(くすのきまさしげ)が湊川の戦いで負けたもんやケン、比叡山さい逃げて籠もった。

 尊氏は後醍醐天皇との和解ば図り、ウマいこというて三種の神器ばだまし取り、持明院統の光明天皇ば京都に擁立した。これば北朝ていう。

 その上で建武式目(いまでいうマニフェスト)なるもんば制定し、施政方針ば定めて正式に幕府ば開く。
 ここまでば第二幕として昼食休憩にしょう。

上・東区松崎。ここは多々良浜の東の端にあり、むかしは蓮根畑でゆるい坂になっとったケン「蓮根坂」ていうた。
 勝ち目がなかと思うた尊氏が鎧の片袖に助けば求める手紙ば挟んだまま戦うたていう「片袖塚」が残っとる。

左・敗走
した菊池軍の将で、阿蘇の大宮司やった阿蘇惟直は肥前小城の天山で追いつめられ自刃した。
「故郷の阿蘇が見えるとこに葬って」ていう遺言で、天山(1045m)の山頂にその墓がある。(写真の右端)。
 晴れた日には墓が向いとる方に阿蘇山が見える。

 後醍醐天皇は比叡山から脱出して奈良の吉野へ逃れ「北朝に渡した神器は贋物で光明天皇の皇位は正統なもんじゃなか」て主張して吉野に吉野朝廷ば開いた。これが京都から70kmばかり南になるケン、南朝ていうたとタイ。

 そして勢力範囲ば広げるために、北陸やら九州などの各地へ自らの皇子たちば送り込んだ。

 ここで、ちょっと待てよ。各地に送り込むほど皇子たちがウンとおったっちゃろうか ?  疑問に思うた駅長が調べてみたら、なんとなんと後醍醐天皇は「絶倫天皇」いうことが分かった。これは絶対に学校の歴史には出て来とらん。

 びっくりしたらいかんバイ。 皇后がふたり(これは当時よくあったこと、理由は天皇のタネば絶やさんため)、後宮(もともと女官達が暮らす御殿のことバッテン、天皇の手がついた女のこと)というか天皇が関係した女、なんと28人。そして産ませた子ども32人。

 勢力拡大、血筋ば守る意味もあったろうバッテン、後醍醐天皇の場合は、英雄色ば好むだけでは片づけられんぐらいに常識外れとる。

 九州地方では、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた菊池氏などと、尊氏が残した一色範氏や仁木義長などの勢力が争いば続けとった。

 1336年(延元元) 後醍醐天皇は南朝勢力ば強化するために、懐良親王(かねながしんのう)ば征西将軍として派遣した。派遣したちゃいうもんの懐良親王は当時まぁだ8歳。

 親王は五条頼元(ごじょう よりもと)らに補佐されて四国伊予国忽那島(くつなじま・いまの愛媛県松山市)へ渡り、瀬戸内海の海賊やった熊野水軍の助けば受けて数年間滞在したていう。

 その後、1341年(興国2)に薩摩の谷山港に上陸。谷山城にとどまって北朝・足利幕府方やった島津氏ば牽制しながら九州の諸豪族ば味方につけるため努めた。

 そこでやっとこっと肥後の菊池武光(きくち たけみつ)やら阿蘇惟時(あそ これとき)ば味方につけ、1348年(正平3)に菊池武光の隈府城(いまの菊池市)に入って征西府ば開き、九州の地盤拡大ば開始した。

 この頃、北朝の天皇は崇光天皇。足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏(いっしき のりうじ)、仁木義長(にき よしなが)たちば置いとったケン、これらと攻防ば繰り返しとった。

 1354年に南朝の支柱やった北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が死んだら、南朝側で北朝に対抗しきる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族だけになってしもうた。

 そうしたなかで、第三幕は今回のメインテーマ。 筑後川ばはさんで南北朝が戦うた「筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)」の時がやってきた。

 それは大保原の戦いとも、大原合戦ともいわれ、日本における三大合戦のひとつていわれ有名タイ。1359年(延文4/正平14)8月6日のことやった。

 1959年7月、懐良親王の宮方は、まず川の南岸高良山・柳坂・耳納山にかけて布陣し、懐良親王は高良山の毘沙門岳城に本陣ば置いた。

 少弐頼尚(しょうに よりなお)は北岸の「杜 (ネズリ) の渡」ば前にして陣取り、宮方が川ば渡るとばみすまして襲撃するつもりやったとバッテン、足利尊氏は宮方の軍の気勢が盛んなとば見て、急に兵ば引き、川の北数キロの大保原(いまの小郡市)に陣ば移した。
 少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱以下、その数約6万やったていう。

 耳納連山の西の端にある高良山。この山頂に懐良親王が本陣ば置いた。眼下には筑後川と筑後平野がひろがる。

下・左岸から見た原鶴大橋と温泉街。橋の形式は 3径間連続鋼床版箱桁。素人が聞いたっちゃなんのことかさっぱり分からん。

 菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万もそれば追うごとして川ば渡り、川の北岸に布陣、両軍合わせたら約10万の大軍が睨みあうた。

 征西将軍の懐良親王は31歳、布陣した場所が現在の福岡県久留米市宮ノ陣あたりやったケン、いまでも宮ノ陣ていうとるとタイ。
 杜 (ネズリ) の渡はその碑が筑後川大橋北岸のたもとにある。

 そして8月6日夜半から7日の夜明け前の襲撃で戦端は切って落とされた。

 この時の菊池武光奮戦の有様は、後で書く詩の中で頼山陽がたまがっとる通り。

 懐良親王も三カ所に刀傷ば負う激しさやった。(見てきたわけやなかケン、らしか)

 この戦いで足利側の少弐直資(しょうに なおすけ)は戦死、両軍合わせて4,800人ばかりが討死したていわれとる。

 南朝軍は北朝の足利勢力ば徹底的にやっつけて、太宰府さい追いやってしもうた。

 そしてこの戦ば境にして、九州の実権ば得た南朝軍は大いに振るい、1961年7月には大宰府ば占領して親王の御座所もここに移す。

 九州はこの後、幕府が今川了俊(いまがわ りょうしゅん)ば九州探題として派遣するまでの13年ほど、南朝が支配することとなる。

上・毘沙門城のあった高良山。手前の道が耳納スカイラインで、この一帯は森林公園とかつつじ公園とか呼ばれとる。
左・山頂の毘沙門城跡。いまは木立のなかで見晴らしもなか。

 自分の爺さん・親父・兄貴の側室やら、挙句の果てには叔母さんにまでも手ば出しとるていう辺りは乱脈極まれりタイ。おまけに11歳の少女ば浚うてきて我が物にしたり、15歳年上の女にも手ばつけるていう節操のなさ。

 後醍醐だけじゃなか。後深草・亀山天皇でっちゃ異母姉妹に手ば出して子ば産ませとるし、後深草の愛人やった後深草院二条は西園寺実兼や亀山天皇とも関係ば持っとつたていう。当時の宮廷における男女関係の乱れは言語道断、ひどかったとバイ。これも学校の歴史には当然のことバッテン、出て来とらん。

 これで何が万世一系の天皇家か。国民ばおちょくるともいい加減にしとけ。おっとこげなつまらんことで腹かいちゃおられんとタイ。

 生まれたこども32人のなかの半分が男の子で、これだけおれば全国各地へ送り込めた筈。これで駅長やっと納得がいった。

 蛇足ついでに、これら男の子(いや失礼、皇子)の名前には、尊良・世良・宗良・護良・恒良・成良・義良・懐良みんな「良」がついとる。

 むかしから「水の道」として利用されてきた筑後川やが、ここは重要な「陸の道」渡しの跡。
 筑後川の戦いのとき、北朝方の大軍がここ「杜の渡し」ば前にして鰺坂庄(現味坂)に布陣しとる。
 いまはすぐそばに九州自動車道の「筑後川大橋」が架かっとって1日に何万台もの車が渡っていきよる。
 奥に見えとるとは、懐良親王の本陣があった高良山。

 高良山から杜の渡しば渡って懐良親王が戦の陣ば置いたとがここ。
 宮さんの陣があったとこやケン「宮の陣」ていう地名・駅名(西鉄甘木線)が残っとる。云うことは先に書いた。
 境内はひろく、懐良親王が戦勝ば祈願して植えなった「将軍梅」はいまでも毎年花ば咲かせよる。
 すぐ隣には「偏万寺」いうて合戦の戦死者ば弔うたお寺もある。


日本の三大合戦
関ヶ原の戦い
川中島の合戦
そして
筑後川の戦い
(大保原の戦・大原の戦いともいう)


 少弐の本陣

 北朝の小弐軍が本陣ば置いた跡は、現小郡市役所の場所で、いまは東原公園があって「大原古戦場跡」の碑が立っとる。
 東西は基山から甘木へ走る現甘木鉄道の沿線、大板井・松崎・山隅・大刀洗。南北は西鉄大牟田線の沿線、三沢・大保・小郡・端間・鰺坂・宮の陣の広大な範囲が激戦の場になった。

上・小郡役所横の戦場跡。
左・大原合戦650年ば記念して建てられた「鎮魂の碑」

ののの
助べぇていうか、やりっ放していうか、精力絶倫天皇

たったの8歳で征西将軍になった、いや、させられた懐良親王
かねながしんのう とも かねよししんのう とも詠みがややこしか



  文政の元十一月 
  吾 筑水を下って舟筏を雇う。
 水流箭の如く万雷吼ゆ 
  之を過ぐれば人をして毛髪を竪てしむ。


  居民何ぞ記せん正平の際
  行客長えに思う己亥の歳。
  当時の国賊鴟張を擅にし
  七道風を望んで豺狼を助く。


  勤王の諸将は前後に没し
  西陲僅かに存す臣武光。
  遺詔哀痛猶耳に在り
  龍種を擁護して生死を同じうせん。

   
  大挙来たり犯す彼何人ぞ
  誓って之を剪滅して天子に報いん。
  河は軍声を乱して銜枚に代り
  刀戟相摩す八千の師。


  馬傷つき兜破れて気益々奮う
  敵を斬り兜を取り馬を奪って騎る。
  箭を被ること蝟の如く目皆裂く
  六万の賊軍終に挫折す。


  帰来河水に笑って刀を洗えば
  血は奔湍に迸って紅雪を噴く。
  四世の全節誰か儔侶せん
  九国逡巡す西征府。

    
  棣萼未だ肯て北風に向かわず
  殉国の剣は乃父より伝う。
  嘗て明使を卻けて本朝を壮にす
  豈共献と同日に語らんや。


  丈夫要は順逆を知るを貴ぶ
  少弐大友何の狗鼠ぞ。
  河流滔々去って還らず
  遥かに望む肥嶺の南雲に嚮うを。


  千載の姦党骨亦朽ち
  独り苦節の芳芬を伝うる有り。
  聊か鬼雄を弔うて長句を歌え
  猶覚ゆ河声の余怒を激するを。



 文政元年11月、舟ば雇うて筑後川ば下った。その流れの早かことは矢の飛ぶごたって、水の音いうたら轟々ゆうて万雷が一ぺんに吼えよるとに似とった。ここば通るもんなあ、身の毛のよだつ思いばさせる凄さやった。

 ここは、正平の昔、菊地武光奮戦の場所タイ。  当時は国賊 (足利義詮) が鴟梟(ふくろう=凶悪の代名詞)ごと暴れ回って、凶逆のしたい放題。近畿はおろか日本全国のもんがその威勢ばえずがって豺狼 (足利のこと) の味方について、これば助けよった。


 勤王の諸将 (楠木正成・新田義貞たち) は相次いで死んでしまい、西の果てに僅か臣武光ば残すばっかりになってしもうた。
 後醍醐天皇が死になったときの詔(みことのり)が、悲しゅて痛ましゅうて今なお耳に残り、なんとしてでも懐良親王ばお護りして賊ば討ち、あくまで生死ば共にするて決意ばしたもんタイ。

 たまたま大軍ば引き連れて来て、九州ば犯す者がおる。誰かて思うたら、裏切り者の少弐頼尚やなかか。武光は腹かいてぞうのきりわいて、そんならこいつば徹底的にやっっけてやろうタイ。皇恩に報いとはこの時しかナカて決意した。

 8月6日の夜、筑後川の川音が軍馬の響きばかき消してくれたもんやケン、枚を銜む(兵士やら馬が声ば出さんごと口に物ば咬ませた)必要もなか。これに乗じ、敵に気取られんうちに「杜の渡し」ば渡り、夜明けと共に菊池八千の精兵は敵陣になだれ込んだ。

 筑後川の右岸、大保原の一帯は、忽ち刀と戟とが互いに打ち合う修羅場となり、武光も馬は傷つき冑はやぶれたバッテン、勇気凛々、敵将少弐武藤ば斬って冑ばとり、馬も奪うてまっしぐらに頼尚の本陣に切り込んだ。

 戦いは実に6時間にもなり、頼尚の子頼泰ば生捕りにし、忠資と敵将4人ば斬った。敵の死傷3,200人、味方も1,800人ば失うた。

 箭(矢)が全身にささって、まるではりねずみ、眼尻は張り裂けて血がふきだすごる形相、さすが少弐勢もたじたじとなり、東方に敗走した。

 やっと戦いが終わって、川の水で刀ば洗うたら、血がうずまく激流 にほとばしって、時ならぬ紅雪ば噴いた(川の流れが真っ赤になった)。

 それにしても菊地氏の忠節は武光だけじゃなか。父武時・子武政・孫武朝と、四代にわたって天皇に尽くした。
 ほかにこれに比類する武将がおったろうか。武光の兄弟も、武重といい、武敏といい、誰一人として北朝についた者はおらん。

 国難に殉ずる精神は、父武時からびしっと伝えられとったに違いなか。九州ではほかの豪族たちも懐良親王による征西府の威風と、菊池の忠節ば見て簡単には足利に協力できんやった訳タイ。

 正平23年、武光は明の太祖が征西府に送ってきた書状の無礼さば見て使者ば追い返し、日本の威光ば守ったことがあった。足利義満が明に対して臣いうてへりくだり、恥知らずの行為に出たことと比べたら雲泥のちがい、同日の段じゃなか。
男児として大切かとは、物事の順逆ばわきまえて貴ぶていうことやろう。逆賊足利にくみした少弐・大友の如きは全く犬畜生というてもヨカ。

 さて、筑後川の水は滔々と流れ去って再び帰らんごと、年月もいつのまにか遠くへ隔たってしもうた。遥かに肥後の連山が南方の雲間に聳えとるとば見ると、当時、菊地氏が一族挙げて南朝のために尽くした忠節ばひしひしと連想させられる。

 千年が経って少弐・大友ら姦賊の一味は、その骨とともに朽ち果ててしもうたバッテン、これにひきかえ、菊地氏の忠節は、その名も芳り高う今に伝えられとるとタイ。

 むかしば思い出して英雄武光の霊魂ば慰めようと、この長詩ば歌うたら、筑後川の川音は、いまなお武光がそん時の怒りば、屁こきよるかのごと、激しく心に響いてきて押さえられん。

 小郡から西鉄大牟田線に沿うて焼く800m北へ行くと大原小学校がある。ここも筑後川合戦の激戦地のひとつやが、校庭の隅にこんもりとした林が不自然な形でのこっとる。
 むかし、この辺りには「小善風」ていう四つの塚と「大善風」ていう三つの塚があって、両方合わせ
「善風塚」て呼んだ。
 合戦で戦死した七人の武将ば祀っとったらしか。

 電車が通ったり学校がでけたり、自衛隊まで開発されてしまい、塚はどこへいったか分からんごとなってしもうとる。武将達はさぞ悔しがって柄(塚)ば握りしめとろう。

 たとえば白髪三千丈ていうごと、だいたい漢詩いうとは大袈裟かもんバッテン・・それにしても
 菊池武光さん「箭(矢)が全身にささってクサ、まるではりねずみ、眼尻は張り裂けて、血がふきだすごる形相」ちゃ、大袈裟か表現ば差し引いたっちゃ、この合戦のすざましかったとが伝わってくる。

 炎天の7月19日から始まった戦いは、8月6日の夕方から喰うか喰われるかの大いくさになり、大宰小弐方はその子も戦死、家来3,600人も打取られて8月7日ようやく大宰府さい逃げていったバッテン、宮方も1,800人の戦死者ば出した。

 菊池武光も負傷するし、将軍自身も3カ所もの深傷ば負いなったもんやケン、勝つには勝ったもんの後の始末も出来んごたあ有様やった。

 そこの田ん中、あすこの畦、あっちの溝にゴロゴロ死んだままタイ。夏のことやケン、死体の腐った臭いが風の吹きようで高良山の上まで上がっていったていう。

 「放ったらかしちゃーあんまりムゴかバイ」云うことで、高良山の坊さんたちが、死体ば一体ずつひととこに集めて大きな塚ば造って、供養してやんなったていう。

 それからこの塚のことば「五万騎塚」ていうごとなったとタイ。明治も初めの頃までは、梅雨の晩になると火の玉ん出よったゲナ。どうかすると馬の鳴声やら、戦のときの雄叫びやらも聞えたていう心霊スポットやったらしか。

 物好きな駅長が訪ねたとき、このあたり一帯はもう病院やら教会に様変わりしとったバッテン、西鉄甘木線の線路沿いにこんもりした木立があって、その中に五万騎塚の碑が確かにあった。しばらく耳ば澄ましとったバッテン、流石にもう馬の鳴き声はせんで、電車の音だけが聞こえてきた。

 身体に3カ所も傷ばあうてまで奮戦しとんなった宮さんの懐良親王はどげんしなったかていうと・・・

 小郡市の福童(ふくどう)地区にある大中臣(おおなかおみ)神社。この神社の境内に樹齢約600年の老フジがある。「将軍藤」ていわれとって根元の周囲が3メートルもある。県指定天然記念物になっとる。

 この将軍藤はクサ、大保原合戦で負傷した 懐良親王が、大中臣神社のご加護によって全快しなったもんやケン、お礼に奉納しなった藤の木て伝えられとる。

 「将軍藤」は例年4月24日頃〜5月6日頃が見頃で「将軍藤まつり」が開催され、多くの見物客で賑わう。
 祭り期間中だけは隣接しとる広か「福童公園」が臨時の無料駐車場となるバッテン、ここも合戦の古戦場やった。

 筑後川の戦いで死んだ両軍の武士たちば祀った塚は、当時数千坪もあったとバッテン、九州自動車道ばつくる時ここにまとめられた。
 宮の陣3丁目「古賀病院21」の近くにある。

頼山陽

  頼山陽の篇の漢詩、
 「筑後川を長下りて菊池正観公の戦処を過ぎ感じて作有り」


戦で五万人が死んだケン「五万騎塚」
「武将が七人葬られとる「善風塚」

近くには自衛隊の小郡駐屯地・・こらぁ関係ないか

 頼山陽の漢詩に戻る。
 「帰来河水に笑って刀を洗えば  血は奔湍に迸って紅雪を噴く」

 また、博多弁でホンヤクすると、「やっと戦いが終わったケン、、川の水で刀ば洗うたら、血がうずまく激流にほとばしって、川の流れが真っ赤になってしもうた」

 小郡から東へ約4kmのところに大刀洗町がある。町の中ば筑後川の支流が流れとる。
 筑後川の戦いで菊池武光が小川ば渉ったところば「菊池渡り」ていい、太刀ば洗った川を「大刀洗川」いうごとなったとが、「大刀洗」ていう地名の由来ゲナ。

 ちょっと待った。「大刀」いうたら「支那」の刀バイ。いまどき支那なんていうたら問題になろうごたるバッテン、むかしの中国は支那やケンしようのなかタイ。漢ても明でもなんでもヨカ。日本刀は「太刀」やろうもん。

 なし「太刀洗町」じゃのうして「大刀洗町」かいね。日本語のおかしかろうもん。
 それはですな、1889年に町村制が発足したとき、村が「太刀洗村」て申請したとばクサ、県か国か知らんバッテン、担当の書記がボサーッとしたやつで、「大刀洗村」て書き間違うて官報に載せてしもうとるとタイ。

 村が気づいて、直して貰おうとしたとバッテン、官僚制度の悪かクセたい。直すてなったらオイソレとはいかん。手続きのややこしかし時間がかかるもんやケン、とうとうそのままになっとると。そやケン、公式なもんは間違うたままの「大刀洗」ば使い。(例)大刀洗平和記念館など。

 役場以外のもん、例えば甘木鉄道の駅なんかは「太刀洗駅」てややこしゅう使い分けとる。

 漢詩に戻る。

 武光が太刀ばあろうたとこには碑が立っとる。バッテン、車の通りが多か国道の下やケン、まず見つけるとが大変やし、頼山陽になったつもりでむかしの気分にひたるなんてでける場所じゃなか。

 むしろ、それより500mばかり下流にある。大刀洗公園のほうがすっきりとしとって、武光の銅像に会うこともでける。

左・「菊池武光公太刀洗之碑」は大きな自然石の台座の上に聳え立つ。刻まれた文字はチャンと太刀になっとる。
上・国道500号線は「山隈」信号の100m先で太刀洗川ば渡るバッテン、みじかかコンクリ橋やケン、運転しよったら分からんまま通り過ぎてしまう。近くのスーパーに車ば置いて後戻ったら太刀洗川があって、橋の下に碑があって、橋の欄干に武光の兜が飾ってあるとがやっと見つかった。


忠臣・菊池武光と大刀洗

上・菊池武光の銅像がある「大刀洗公園」 手前に流れとるとが大刀洗川でほんなことい刀ば洗うた場所は、右手上流500mにある。公園は管理棟もあり、管理者もおってきれいに掃除もいきわたっとる。写真は武光の像ば背にして3枚パノラマで撮った。武光の目線ではこう見える。

上・菊池武光のアップ
左・武光の像は血糊のついた刀ば洗うて、水ば切るために振り下ろしたポーズ。
 銅像には太平洋戦争の空襲で受けた機銃掃射の弾痕が約80カ所も残っとるていう。

なお台座にも弾痕がハッキリと残っとるバッテン、その写真はステンショの太刀洗駅で見てつかあさい。

 菊池 武光(きくち たけみつ)は、肥後益城郡豊田庄(現熊本県熊本市城南町)出身で、菊池氏第15代当主。第12代当主菊池武時の子。官位は肥後守。
1345年(興国6年/貞和元年)に阿蘇惟澄と共に北朝勢力から居城深川城ば取り返し、これば契機に第15代当主となった。
その後南朝後醍醐天皇の皇子で、征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王ば隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に活躍した。

 1351年(正平6年/観応2年)には筑後に進出して勢力ば拡げ、1353年(正平8年/文和2年)の2月には、北朝の九州探題やった一色範氏と少弐頼尚の両者ばやっつけて、九州における南朝勢力ば確立させた。

続いて豊後・肥前などにも進出して大友氏泰ば降伏させ、一色範氏も長門に追放。日向の畠山直顕も破った。そして1359年(正平14年/延文4年) に、懐良親王ば奉じて筑後川の戦いで少弐頼尚ば破る。

 戦いの後、傷ついた武光が刀についた血糊を川で洗ったところが現福岡県三井郡大刀洗町タイ。

 筑後川の戦いのあとも菊池武光は大宰府に逃げ込んだ少弐頼尚ば夜襲ばかけて追い出し、高良山から懐良親王の征西府ば太宰府に移して確立した。これで九州における南朝の最盛期がしばらく続くことになる。

 しかし、1372年(文中元年/応安5年)になると3代将軍足利義満の幕府は、斯波氏経(しば うじつね)、渋川義行(しぶかわ よしゆき)の後任として今川貞世(さだよ)ば九州探題として任命、彼は慎重な作戦ばたてながら北朝勢力の回復ばめざし、次第に大宰府包囲網ば形成していった。

 文中元年(応安6年)8月菊池武光の軍勢は撃破され、ついに大宰府は陥落した。武光は懐良親王とともに大宰府から逃れて高良山に退却、さらに菊池へと撤退した。了俊の抜け目のなか戦略で南朝勢力の衰えは決定的となった。

 親王は征西将軍職ば退き、耳納ば越えて筑後矢部(八女郡矢部村・いまは八女市)に逃げ込んだ。北朝の後光厳天皇は武光の武威ば恐れて、その追討ば命じる綸旨(天皇の命令)ば出した。

 今川了俊は逃げ込んだ南朝軍ば激しく攻めたてたバッテン、星野・矢部の天険と南朝方の死守によって攻め入ることが出来んやった。

 そうこうしよるうちに、1383年(弘和3年/永徳3)3月27日、親王は55歳で死になった。
 大円寺の東北方の地で遺体ば荼毘に付して 大明神山の中腹に埋葬し、九尺九寸の観音堂ば建てたていう。

 懐良親王と菊池武光は今川了俊との対峙ば続けたバッテン、次第に劣勢に追い込まれ、そのようななかで1373(文中二年)、菊池武光は波乱の生涯ば閉じた。享年は52て言われとる。

 武光の死後、武政があとば継いだっちゃが、武政には父武光ほどの力量はなく、九州の宮方勢力はいよいよ衰えていった。そして、翌三年には武政も病死。武光、武政の相次ぐ死によって菊池氏は大打撃タイ。

 武政のあとは武朝が継いだとバッテン、わずか12歳の少年やったケン、宮方の士気はいよいよ振るわんごとなってしもうた。1376年(天授二年) 菊池武朝は阿蘇惟武とともに肥前国府に布陣、翌年、大内義弘、大友親世らと激戦となったとバッテン、宮方は完敗して惟武は戦死し、武朝はかろうじて菊池に逃げ帰ることができた。

 これ以後、九州の宮方はぜんぜん力が無うなって、ついに1392年(明徳三年) 南北朝は天皇の血筋があっちぃ行ったり、こっちぃいったりしただけで、またひとつになった。

 そやケン、「今の天皇も駅長と同級生バッテン、どこの馬の骨が分からん」ていうとタイ。

 武光は菊池市の菊池神社に祀られ、墓所は菊池市の正観寺。銅像が大刀洗公園と菊池市の菊池公園にある。

上・星野村の大円寺にある懐良親王の墓。
左・耳納山麓・あじさいで有名な千光寺にある親王の墓所
下・宮内庁が「ここが本物やろうて認定した」八代市の懐良親王御墓(妙見町)


筑後川の戦い後日談
南北朝ばどうなった ?
懐良親王はどうした ?
菊池武光はどうなった ?


3つもある
懐良親王の墓所

 なしこげんあっちこっちに墓があるとか。ほんなことはどれか。

 駅長の推測は矢部で死になったとば、星野・大円寺の裏山で荼毘に付して 大明神山の中腹に一部ば埋葬し、分骨ば一時西征府ば置いとって縁のあった八代に持って行ったっちやなかか、ていうとタイ。

 話だけのも入れたら全部で7つも墓があるていう珍しか宮さんバイ。

駅長、菊池一族の本拠地やった菊池市ば訪ねる

菊池神社(きくちじんじゃ)は、明治3年に一族が本拠地にしとった守山城(菊池本城)のあった場所に建てられ、南朝側で戦うた菊池氏の3代(武重、武士、武光)ば祀る。境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されとる。桜の名所としても有名。
 菊池氏とともに戦うた一族の、ほかの将士も一緒に祀られ、毎年5月5日に例祭が行われる。

熊耳山正観寺(ゆうじざん しょうかんじ)
 これは筑後川合戦の前の話バッテン、後醍醐天皇の皇子・護良親王から北条高時ば討てていわれた菊池武時が、元弘3年(1333)3月、手勢150人ば率いて、当時櫛田神社のあたりにあった鎮西探題ば襲撃した。しかし、大友・少弐氏が裏切ったもんやケン、武時以下多数の菊池勢がこの博多合戦で討ち死にした。

 戦の直前に負けば覚悟した武時は嫡男の武重ば肥後に帰し、十男の武光ば博多聖福寺の大方元恢(たいほうげんかい)和尚に預けた。大方和尚は武光ばかくまい、無事肥後に帰したていう。

 兄の武重から家督ば継いだ武光は、博多の大方和尚ば菊池に招き、1344年に開いたとがこの正観寺。

 菊池氏が衰退すると、豊後から進出した大友氏も正観寺ば一時保護したとバッテン、戦乱が長引くにつれ建物も焼かれ、かつて伽藍(がらん)・塔頭(たっちゅう)・屋敷があった場所も一時は農民の耕作地になってしもうとった。

 寛永年間(1624〜44年)になって63代・別峰座元住持が再興、天和4年(1684)に京都南禅寺の末寺となり、元禄3年(1690年)、藩主・細川綱利が寺領12石5斗余りば寄進した。

歴史のある寺やがいまは見捨てられたごとして、決して裕福ではなさそう。その証拠に住職がゴム長ば履いて自分で境内の草取りやら掃除ばしよんなった。

 住職に会えたお陰で、駅長はいろいろヨカ話ば聞くことがでけた。
 例えば、武光の墓石が乗っとる亀のかたちの石、これば亀趺(きふ)いうて、は石碑の台座のことで、亀の形ばししとるケン亀趺、方形の台座やったら方趺ていうとゲナ。
 中国ば真似て江戸時代に始まったていう。

 何で亀かていうと、仏教では四霊(しれい)いうて、水ばつかさどる亀、地上の麒麟、空の龍、鳳凰が宇宙ば担当する霊獣て決まっとるていう。

菊池公園の武光像
 
菊池一族の本拠地やった菊池市の菊池公園には、昭和63年(1988)竹下内閣の時に実施された「ふるさと創生資金」ば使うて作られた菊池武光の銅像がある。

 昭和12年(1937)に建立された太刀洗公園のもんより新しかケン、作りも立派で堂々(銅像のギャグ)としとる。

 50年も前に2万円の募金で作った太刀洗のと、1億円使うて作った菊池の武光と、どっちがヨカな ? て聞かれたら、「なんちゅう(南朝)ても答えられん」てしか言いようのナカ。

 筑後川の戦いから650年経ったいまでも、このふたつの武光公は、まぁだ刀ば振り回して戦いよんなった。

           ああ、堰ば造る話もキツカバッテン、戦の話も草臥れる。
        
次回はまたば訪ねながら筑後川が直角にまがっとる久留米市あたりば
                軽ぁるう そうついてみろうかねえ。
                取材期間 2005.9.15〜2012.9.11

         まだまだ半ばの筑後川。次回のは、本流に入っての8回目です。

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