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其の十三


 前回の筑後川は「筑後川大いくさ」の草臥れる話やったケン、今回は久留米の中心部で、カックンとほぼ直角に曲がっていく筑後川と、その周辺にゴチャゴチャと集中して架かっとる橋ばクサ、のんびりと眺めながら下っていこう。

 下の地図ば見ちゃってん。右が上流で恵利堰の下にある筑後川橋から旅はスタートする。道草喰いながらどこまで今回下っていっきるか、さぁね、行き当たりばったりの旅の出発タイ。

   下・下流から見た筑後川橋。歩行橋の「白」とダブってしもうて、「赤」の塗装が下流からでは目立たん。

 久留米市は合併で市域が広がったもんやケン、市内には両筑橋から六五郎橋まで19本もの橋が筑後川にかかっとる。
 
 片ノ瀬温泉のそばの筑後川に架かる橋ば
筑後川橋ていう。支流の小石原川まで股越しとるケン、橋は長い長い赤色の鋼トラス橋。片ノ瀬温泉の宣伝のためか別名ば片ノ瀬橋てもいう。

 下流側に後ででけた(1967)白い歩行橋がくっついとって、遠目にも赤白のコントラストが映える。昭和6年にでけた橋で、時代ば感じるレトロ橋バッテン、もう80年も筑後川の川風にさらされとって、草臥れ感が目立つ。

 筑後川ていう名前がついとるくらいやケン古か。後から造った九州高速道の橋は、国のメンツもあって、筑後川大橋て名前ばつけたバッテン、この筑後川橋と紛らわしか。なんでもそうやけど早かもん勝ちタイ。

 この橋ば渡っとるとは、一般県道の中尾太刀洗線いうてルートナンバーが743

 田主丸町の中尾から北上してこの筑後川橋で筑後川ば越し、小石原川のそばにある大堰(おおぜき)神社の前ば通って太刀洗町役場ば通り越して大刀洗町の本郷で国道322号に接続しとる。

 橋の長さは約500m、巾が6mちょいしかなかケン、大型車は離合するとに神経ば使う。橋脚はT字型でRC。RCいうたら鉄筋コンクリートのこと。橋桁はPC、PCいうたら鉄筋の代わりにピアノ線ばコンクリに入れて強度ば増したもん。昭和6年にもう使われとったいうとが凄か。

 この辺り木材の産地日田と家具の町の大川との中間点にあるケン、明治・大正期までは木材輸送のための筏(いかだ)やら川舟の港として賑わうとったていう。

 鉄道・道路の発達と昭和初期に行われた河川改修で港の機能がなくなったもんやケン、衰退したとやが、昭和35年に炭酸泉が湧きだし、田舎の湯治場として息ば吹き返した。
 現在は3軒の旅館が元気に営業して、夏には花火大会もある。

下・筑後川橋から下流ば見る。左に見えるとが片ノ瀬温泉・小林荘。

左・橋の袂の女カッパは胸ば隠して艶っぽか。上右・車道橋と赤白で対比しとる歩行橋は、通る人もめったになくて勿体なか感じバッテン、車道橋は狭うして自転車やら人間はとても危うて通ることはでけん。

 2007年4月21日に九州地区で先行上映され、同年6月から全国ロードショーば開始した映画 「Watch with Me 〜卒業写真〜」のロケが、 この橋のたもとで行われた、

 この映画の舞台は久留米市草野地区。ガンで余命半年と宣告された報道カメラマンの上野和馬が、残された時間ば故郷の草野で過ごしたかいうて、妻由紀子ば連れて帰郷する。

 同級生の医師・田中が働いとるホスピスに入所した和馬は、肉親や友人達と接するうちに、忘れとった昔の記憶が蘇り再び生きる希望ば取り戻し、自分が育った故郷の人々や美しい景色ば納めた「写真集」ば作ろうと懸命にシャッターば切る。

 しかし、病魔はそげな和馬の残された時間を容赦なく喰うていく。容態が悪化していくケン、和馬の行動ば由紀子は抑えようとするっちゃが、和馬は聞き入れず撮影ば続けようてする。

 なぜそこまで和馬は「写真」にこだわるとか?
 和馬のほろ苦い初恋の思い出と一枚の古い写真
と共に、由紀子はその理由ば知ることになる・・・

 次第に明らかになる少女との過去と進行する和馬の病状。余命わずかと宣告されたがん患者、彼を看病する妻、彼らを取り巻く親戚や友人たちの心のきびを情緒豊かに描いとった。

 複雑な感情ば全て昇華し、由紀子はやがて穏やかな和馬の死に臨む。

 上野和馬が津田寛治、妻の由紀子が羽田美智子。監督は瀬木直貴やった。

 エンディングで流れる主題歌は、Hi-Fi Setが歌う荒井由実(現・松任谷由実)作詞・作曲の「卒業写真」


上・土手は菜の花とダイコンの花がまっ盛り。
中・水神さんから筑後川橋の遠望。
下・橋の下には川船が見えた。

上・昭和6年3月、製造は「播磨造船」ていうネームプレートがしっかりと鉄骨に残っとった。
下・・映画ロケのあったあたり、菜の花がいっぱいに咲いとった。

 大城橋(おおきばし)は筑後川橋の下流約3km、久留米市北野町大城と善導寺町ば結んで架かっとる長さ340mのコンクリート橋。橋の形式は専門語で云うと「PC5径間連続箱桁」橋。

 PCいうたら強度ば補強するためにピアノ線ば練り込んだコンクリで、通常の鉄筋コンクリに比べて強かていうことはもう云うた。長かスパン(橋桁と橋桁の間隔)にすることがでける。

 コストはかかるバッテン、長持ちすることもあって、いまでは国内のコンクリート橋のほとんどがこのタイプででけとる。
 5径間とはスパンが五つ(ということは橋桁が4本)

 箱桁いうとは橋梁内に空洞ば作って軽量化したもん。そのため、桁の断面が箱のごたる形ばしとるケン箱桁ていうとですタイ。大きな橋梁に採用される事が多か。

 印刷は専門バッテン、橋の専門家ではなか駅長が、なし橋のことば知ったかぶりしてしゃべりよるかていうと「筑後川ばレポートするとに橋ばのけて話ば進められん」て思い、橋のことば「ちいーっとばっかり」勉強したけんタイ。

 橋が完成したとは平成18年3月。昭和16年から架かっとった旧橋は道路幅が狭うて老朽化も進んどったケン、平成4年から架け替えが進められとった。一時、橋はでけとるとい取り付け道路がでけずに渡れんままほったらかされとった。

 ウワサでは、選挙のとき自民党候補者の得票数が北野町で少なかったもんやケン、しっぺ返しに予算ばつけんやったていう。真偽のほどは分からん。

 やっと通れるようになった橋は、車道の幅が旧橋より2メートルほど広がり、大型車の通行も円滑になった。3.5メートルの歩道ば含む橋の幅は11.25メートルになった。

 橋は県道81号の久留米浮羽線(くるめうきはせん)が通っとる。81号線いうとは久留米市宮ノ陣町の八丁島から、西鉄甘木線に沿うて北野町へ、そこから筑後川の右岸ば東へ、大城橋ば渡って左折、今度は川の左岸ば恵利堰の南ば抜けて田主丸・吉井と突っ切り、長野水神社で右折、久大本線うきは駅で国道210号線に出とる主要地方道タイ。

 ところで橋のある場所の名前やが、なし「北野・大城」ていうとか。駅長が勝手に想像ば働かせてこじつけると、善導寺の北にある野っぱらやケン「北野」やろうもん、大きな城があったケン「大城」タイ。て、こうなる。

 調べてみると今の北野町は、明治22年(1889)4月1日の町村制施行で十郎丸村・今山村・中村・陣屋村が合併して御井郡北野村が成立しとるようやケン、この名前は近現代で新しか。名前の由来は次の項でハッキリする。

左と下の2枚・「PC5径間連続箱桁」橋のメカニックな迫力。
下・架け替えられた後のひろびろとした車線。

 この北野町の赤司(あかじ)いうところは古代から栄えた場所のごたって、古墳やら遺跡がいっぱい発掘されとるていう。むかしから集落が形成されとって、その中心地に今もある赤司八幡があったらしか。
 鎌倉時代には赤司氏いうとが治めとって、赤司城ていう堀ば備えた平城が築かれとったらしか。戦国時代にはこの辺で激しか戦いが繰り広げられとって、一時は筑後制圧に意欲的やった大友軍の立花道雪が赤司城ば治めとったても云われとる。

 それでなし「大城」なのか。1601年関ヶ原の功績で筑後の領主となった田中吉政は、弟の田中左馬允(さまのすけ)清政に1万7000石ば与え赤司城の城主にしとったていう。

 清政は城下町づくりにも力を入れ、今のような街並みば作っとゲナ。1619年に清政が亡くなるとその後筑後の国は田中氏から有馬氏に代わり、その時に一国一城令が出て赤司城は廃城となった。城の石垣などは取り壊され、全部久留米に運ばれて久留米城の材料として使われたらしか。そやケン、城の面影は全く残っとらんで、今は農村としてのどかな雰囲気だけが満ちあふれとる。

 北野村はその後明治34年(1901)に町制ば施行して北野町となり、昭和30年。(1955)には北野町・弓削村・大城村・金島村が合併して新しか北野町となる。この時の新町名候補としては北野町のほかに五庄屋町、三井町、新北野町、大城町、中通町、千歳町、三歳町が挙がったていう。

 平成17年(2005) 田主丸町・城島町・三潴町とともに久留米市へ編入され消滅したことは記憶にまだ新しか。

 筑後川の支流・陣屋川の堤防沿い4キロにわたって約50万本のコスモスが咲き誇るコスモス街道が有名。    左と下の2枚。

 この北野天満宮が創建されたとは、今から約950年以上も前の天喜2年(1054)。後冷泉天皇によりこの地が選ばれ、関白藤原道隆の孫やった貞仙上人に勅命ば下して創建されたていう。かなり巨大な神社で、社領も1,000町歩(約10km2)あったゲナ。これは藩主でいうと田中忠政の時代ていわれとる「田中筑後守殿 家人数並知行付帳」に「四拾九石八斗 北野天神」ていう記録がチャーンと残っとるゲナ。京都の北野天満宮から菅原道真公の分霊ば持ってきて祀ったていう。

 この北野天満宮ば持ってきたことで、それまで「河北庄(かわきたのしょう・筑後川の北の村)」て呼ばれとったとば「北野」て呼ぶようになったとタイ。

 源平合戦の兵火に焼け落ちたとバッテン、源頼朝が再建、さらに足利義満がこの周辺の荘園ば認め、栄えたらしか。戦国時代には再び崩れたり再建したり、秀吉に社領ば没収されたりしたとやが、現在の天満宮の景観が出来上がったとは江戸時代の1764年。当時の久留米藩主・有馬頼貴(よりたか)の庇護によるものて云われとる。

 入り口の鳥居は肥前鳥居。鳥居に慶長12年(1607)の銘が入っとるケン、江戸時代初期に作られたことが分かる。柱が一本の石じゃのうて三つの石が組み合わさっていることが特徴ていう。

 鳥居に覆いかぶさっとる大きな楠木が凄か。根というか幹の根元というか、そこがまるでたまねぎの形ばしとって膨れ上がっとる。

 創建からここに立っとるちゃケン、樹齢は1,000年以上にもなっとるやろう。

左・北野天満宮の楼門。


                 大城橋の南2kmにある善導寺
    浄土宗の七大本山の一つで、正式には終南山光明院善導寺(しゅうなんざん
           こうみょういん ぜんどうじ)ていう。
    九州の浄土宗の中心に君臨するお寺タイ。浄土宗の日本での開祖は法然上人。
            この善導寺には、こげな話が残っとる。

 法然(ほうねん)上人の弟子やった聖光上人(弁長・鎮西上人てもいう)が 、ここ耳納のあたりば行脚して回りよったら、ある晩、夢ん中に唐の善導大師(ぜんどうだいし)が出て来て「いま博多の津に着いたケン、迎えに来んや」て云いなったゲナ。

 慌てて十里の道ば走っていったら、ちょうど宗(そう)からの舟が着いとって、下りてきた人が云うには途中大時化に遭うて舟がひっくり返りそうになったとゲナ。ところが一緒に乗っとった坊さんがお祈りしなったら、ピッタッと風が納まって助かったていう。

 「それそれその人バイ。はよ探そう」てあたりば見回したら、松原の中で背中見せて座っとんなる坊んさんば見つけた。走りよって前に回り顔ば見たら、なんと夢に出て来た善導大師そのもの。しかも木像やったゲナ。

 弁長は大師の木像ば背中にくくりつけて耳納まで戻り、いまの善導寺のとこに安置して開山したていわれとる。 建久2年(1192) 今から820年前のことやった。はじめは井上山光明寺ていいよったとバッテン、後にいまの善導寺になった。筑後の領主やった草野永平の尊敬と庇護ばうけて、弁長上人はこの地で法然上人の念佛の教えばひろめていったていう。

 博多の蓮池にも同じ浄土宗の同じ善導寺ていう寺があって、山号がはじめの頃の久留米善導寺と同じ光明山。
 建暦2年(1212)同じ弁長の開山ていう。久留米とおんなじ開山当時の話が伝わっとる。どっちがほんなことか大昔のことやケン、分からんバッテン、密接な関係があるとは間違いなか。


 善導寺六地蔵の話
 上・浄土宗の本尊は阿弥陀如来、薄暗か本堂でひときわ輝いとる。
 中・老木の茂る広大な境内に、本堂(国重要文化財)や三祖堂、釈迦堂、薬師堂、観音堂、開山廟、鐘楼堂、 山門、勅使門、大門、庫裏など江戸期建立の諸堂が建ち並び、いかにも古刹らしか。

 博多の善導寺のほうは、中世では大内氏の博多掌握とその保護、江戸時代には福岡藩主黒田氏の帰依ば得て大きゅうなった。
 久留米の「善導寺志」には、応仁の乱で筑後の寺も兵火ばうけたもんやケン、その乱ば避けて広誉上人が博多に移り、衰退しとった善導寺ば立て直したても伝えとる。そやケン、
 筑後の寺の什宝がいまも博多の寺に伝わっとるていう。

 善導寺ていう名の寺は全国に13もあって、台湾にまでひとつある。その殆どが善導大師にちなんで浄土宗の寺。

右・本堂に鎮座する巨大木魚。
  

 むかし、このへんは野ッ原で所々には森もあったりして、よう追剥やら強盗がでよったゲナ。

 六人組の強盗仲間がおってクサ、人ば殺しちゃあ古井戸に投げ込みよったていう。
 そのことば聞きなった善導寺開山の聖光上人が、井戸ば埋めてしもうてその上に、小か庵ば作って念仏供養ばしてやんなった。

 また六人の強盗たちにも仏の道ば話して聞かせなったとバッテン、こいつらよう話ば聞いとらんごたったケン、上人が天に向って合掌礼拝しなったところが、どうじゃろかい、原っぱ一面が明るうなって、森や林の上に紫雲がたな引いたゲナ。

 それば見た強盗ども、自分たちの罪の深さと恐しさば悟って、「上人さま、どうか私たちば弟子に してつかあさい」いうて頼うだていう。

 この六人の弟子たち、善導寺の本堂ば建てる工事のとき、罪の償ばしますいうて、みんながたまがるごとよう働いた 。そやケン、彼らが死んだ後、上人も村のもんも六地蔵ば建てて供養してやったとゲナ。 上の写真。

 北野町には北野天満宮(きたのてんまんぐう)がある。祭神は無実の罪で大宰府に流された菅原道真。菅原道真公とカッパの伝説があり、今でも「カッパの手」が天満宮の宝物として保管されとって、25年に1度ご開帳される。
 境内には県の天然記念物に指定されとる樹齢900年の大樟もある。

 道真公は京都から大宰府へ下向の途中、藤原時平の追っ手ば逃れるため大分に上陸。筑後川ば下って来て北野ば通んなった。道真公が北野の川で馬に水ば飲ませよんなったら、河童が川の中から馬の足ば捕まえて、川の中に引きいれようてした。 驚いた道真公が刀ば抜いて河童の手ば切り落としなった。

 別の言い伝えでは、道真公が北野の岸辺で追っ手に襲われた際、河童が道真公ば助けて戦い、自分は相手から手ば切り落とされた。この河童は河童族の頭で「三千坊」という名前やったゲナ。

 チッゴガワのカッパの大将は「九千坊」のはずバッテン、ま、むかしむかしの話やケン、どうでもよかタイ。三分の一で聞いとこう。

 上流の大城橋から4.9km、下流の合川大橋まで1.4kmの久留米市の山川地区に架かっとるとが神代橋(くましろばし)。県道久留米筑紫野線ルート53が渡っとる。

 完成したとが昭和15年(1940)やケン、もう70歳ば越した爺ちゃん橋タイ。昔作った橋やケン、橋の巾がたったの6mしかなか(長さは386m)。しかも初めは車と人間とがいっしょやったケン、そのうちぃ危のうなって人道橋ば川上側にひっつけて作った。


 橋の形式はRC単純T桁のゲルバー桁。RCいうたら鉄筋コンクリートのこと。ゲルバーは桁(けた)とヒンジ(継ぎ目のこと)とからなる構造やケン、連続桁にでける長所がある。発明しなったとがドイツのゲルバー(J.G.Gerber)さんやったケン、ゲルバー橋タイ。東京の両国橋が形式の代表。

 橋の袂にある「史蹟・神代(くましろ)浮橋之跡」の碑文には、こう書いてある。
「史蹟 神代浮橋之跡 文永十一年蒙古軍来襲セシ時、神代良忠方便ヲ以テ日・隅・肥・筑諸軍ノ渡河ヲ容易ナラムル所ナリ」

 博多弁で詳しゅう翻訳したらこげんなる。
「文永11年(1274)、元・高麗の連合軍が襲来してきたもんやケン、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、薩摩・大隈・日向・肥後など南九州の御家人たちに出兵ば命じた。

 高良大社の一族でこの辺ば管理しとった神代良忠(くましろ よしただ)は、これら軍勢の通るとば助けるため、工夫ばこらしして九州第一の難所ていわれた筑後川に浮き橋ば架け(これが神代浮橋)、大軍の通行ば手伝うて、速やかに兵ば博多へ送り込んだ」

 左岸(久留米市山川町)からの神代橋。対岸も久留米市になった北野町。架け替え工事が始まった。2010年3月。

 「高良大社文書」には、この良忠の功績ば記した「幕府感状の写し」いうとが残っとるとゲナ。なお、神代舟橋は山本町の観興寺に伝わる絵縁起(国指定重文)にも描かれとるケン、コピーの写真(上)ば見ちゃんしゃい。

 もともと神代いうとは、その名が平安中期の「和名抄」に記されとって、むかしから南九州諸国と大宰府やら京都方面とば行き来する筑後川の要衝やったらしか。室町末期には坊津街道(薩摩・豊前小倉間)に「神代船渡し」の名前が見え、江戸期に入ると、鹿児島・人吉・熊本・柳川・島原などの諸藩は参勤交代のとき、ここば船渡りして、八丁峠か冷水峠越えの道で小倉に向いよったていう。

上・銅板彫刻の神代橋親柱。
右・橋の袂にある「史蹟・神代浮橋之跡」

 山本町の観興寺に伝わる絵縁起(国指定重文)にも描かれとる
「神代舟橋」の絵。
 舟ば筑後川の流れに対して直角に並べて繋ぎあわせ、舟橋にしとる様子がよう分かる。

上右・本橋に寄り添うごと後でくっつけた人道橋の橋脚。
上・人道橋は広うて安全。車の方が窮屈そうに渡る。


   なし ? 山川町にあって神代橋(くましろ)ていうとか ?   

 県道53号久留米筑紫野線(ふくおかけんどう53ごう くるめちくしのせん)は福岡県久留米市から筑紫野市に至る主要地方道(県道)。

 起点は久留米市御井町福広(国道322号交点)で終点は筑紫野市永岡小鳥待(112号福岡日田線交点)
 筑後平野ば横断するコースやケン、周辺には田園風景(いわゆるチッゴ平野)が広がる。

 久留米市と筑紫野市ば直線的に結んどるため、国道3号の混雑回避にも応用されとった。
 筑後川ば渡るこの神代橋は、大型車両の通行も多かケン、いま架け替え工事が進行中。


 神代(かみしろ)ていうたら、宗教上において神の化身または神そのものと扱われること。
 神代(かみよ)ていうたら、神話の時代という意。日本神話では、神武天皇の在位する以前までの時代(紀元前660年以前)のことばいう。
 神代(くましろ)日本人の姓のひとつ。神代(くましろ)氏は筑後で大宮司ば務めたという名族。
 島原半島にある神代(こうじろ)は地名で雲仙市国見町神代町のこと。島原鉄道の神代町駅(こうじろまちえき)もある。(じんだい)も同じく秋田県仙北市にある土地の名前。


 取材に行った日、物好き駅長が八丁峠(はっちょうとうげ)ば越え筑豊へ出てみた。

 八丁峠は、嘉麻市の泉河内と朝倉市秋月の境界にある峠で、標高525m。

 古うからあった街道の旧八丁越えと、秋月藩が旧八丁越の西側に作った新八丁越えがあったとバッテン、戦後に自動車が通れる国道322号の「八丁越え」が建設された。

 国道322号の八丁越えは朝倉市の秋月城跡へ分岐する交差点から、嘉麻市側の麓まで。頂上付近は幅員が狭い典型的な峠道で、積雪・凍結が生じやすか冬季では、しょっちゅう交通規制が発生するもんやケン「当てにならん」いうて、この国道ば利用する車両は少なか。

 福岡県の資料によると平成14年から平成18年の間で、年平均すると積雪による規制が728時間(約30日)、災害による規制が5845時間(約243日)にもなり、通算約273日(約9ヶ月)もの間、何らかの規制が行われとる計算になる。問題ば解決するために、八丁峠トンネル建設の運動がされとるけど、費用対効果から考えてもいつのことになるやら。

 天候のせいもあって薄暗か峠の道は、折れた木の枝が散らばり、前日の雪が道路の端に残っとって緊張の約30分。途中で出会うた車は3台やった。

上・左に写っとるとが新しか橋の橋脚バッテン、まぁだ2本しかでけとらんやった。国に金が無うして予算の執行が遅れとるとやろうか。自民党が勝って「待った」ばかけとるとやろうか ? (2012.12.29日現在)

       初めに書いたごと、サッサッサッと久留米市内の橋ば通り過ぎるつもりやったとバッテン
  ひとつひとつの橋にそれぞれギューギュー詰めの歴史があって、ご覧の通りたったのみっつしか回られんやった。
              最後にチッゴガワの冬景色ば見てもろうて、今回は終わります。
                   取材期間 2009.3.15〜2012.12.29

冬・ちっごがわ

耳納の夜明け

         なかなか進まん筑後川の旅。次回のは、本流に入っての9回目です。

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