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其の十四


 くじゅうば出てから14回目、やっと久留米にさしかかった筑後川の旅。ところが、やっと久留米に入ったいうとは間違いで、もうとっくに川は久留米市に入っとった。

 地図ば見てもらうと分かるやろうバッテン、2005年に平成の市町村合併で久留米市はクサ、北野町・三潴町・城島町・田主丸町ば加えたもんやケンとつけむのう東西に長うなって、それこそ「うなぎの寝床」のごとなってしもうた。

 今回はその久留米市の中心部に架かる重要な五橋ば、菜の花と一緒に見てまわりまっしょう。

  久留米市は両筑橋から六五郎橋まで19本もの橋が筑後川に架かっとる。川の蛇行が地図ではよう分かる。
 
 おっと、その前に、なし久留米ていうとか ? にちょつと触れとこう。いろいろとこじつけた由来はあるとバッテン、駅長がいちばん気に入っとるとは、筑後川がここでウンと蛇行して
「転く(くるめく)」=くるめいとる=ていう説タイ。
 それば頭の隅に置いといて、さぁ出発します。

 合川大橋(あいかわおおはし)は久留米市の(東)合川町に架かっとるけん合川橋タイ。
 なし「大」のついとるとか ? 対岸の宮の陣まで橋の長さが361mもあるけんタイ。完成したとが昭和63年3月やった。

 橋の形式は5径間連続PC箱桁ていうコンクリート橋で、巾が13mもある堂々たるもんタイ。

 合川大橋ば渡っとるとは国道322号線。
 西鉄電車と国道3号線が立体交差しとる久留米市東町の交差点から、東へ走って「高速道入り口」の信号で左折、九州自動車道の下ばくぐって322号線は合川大橋で筑後川ば渡る。

 そっからは北へ向こうて一直線、ていいたかバッテン、大刀洗町・秋月と抜けて難所の八丁峠ばジグザグで越え、筑豊に下りて嘉麻市から田川市。香春からは日田彦山線に沿うて金辺峠(きべとうげ)ばトンネルで越えて、最終北九州市小倉の三萩野交差点で国道3号に合体する。

 全長86.0kmもある九州北部の大動脈とまではいか

 高良山の中腹には高良大社(こうらたいしゃ)が鎮座しとる。この神社は筑後国一宮。「一宮(いちのみや)」いうたらクサ、その地域でいちばん社格の高っか神社のこと。一の宮とも一之宮とも書く。たとえば阿蘇神社は肥後一宮で、神社のある地名まで一の宮。

 高良大社、古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれとった。社殿は国の重要文化財に指定されとって、神社建築としては九州最大のもの。

 祀られとんなるとは、正殿が高良玉垂命。左殿が八幡大神。右殿が住吉大神になっとるとバッテン、これに関しては古うから論争があり、武内宿禰説・藤大臣説・月神説などがあってほんなことは分からん。

 高良玉垂命(こうら たまたれのみこと)いうとは誰かいな ?  
 景行天皇が大足彦(おおたらしひこ)ていい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)ていうケン、景行天皇タイて言い張っとる学者もおる。

  高良山にはもともと高木神(高御産巣日神、高牟礼神)いう神が鎮座しとんなって高牟礼山(たかむれ)て呼ばれとったが、あるとき高良玉垂命が来て「一夜の宿に山ば貸しちゃりやい」て申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界(けっかい・神と俗界の境)ば張ってそのまま鎮座(居ずわった)してしもうたていう伝説がある。

 んバッテン、大静脈ぐらいの貢献ばしてきとる。
 昭和45年(1970)に一般国道322号(北九州市〜久留米市)として指定された。

今も御井町に残る高良大社一の鳥居。トラックが衝突して壊した「貫」だけが新しく白か。

 むかしは香春街道・秋月街道ていいよった。歴史は古うて、7世紀から大宰府と豊前国・大和朝廷ば結ぶ街道として使われとったらしか。 8世紀には東大寺大仏建立のため、香春岳の採銅所で採れた銅がこの街道で運ばれたていう記録も残っとる。

 すぐ南には高良山が控え、西1kmには久留米百年公園がある。
 
高良山(こうらさん)は高牟礼山(たかむれやま)とも呼ばれ、むかしから宗教的な山として崇められてきた。

 古代の神籠石式山城の遺跡も残っとって、軍事的な要衝やったことが分かる。

 また、中世には山頂の毘沙門岳城ばはじめ、吉見岳城やら東光寺城などが築かれとって山全体が陣所になっとったらしか。

 南北朝時代には南朝方の懐良親王がここに陣取って、筑後川合戦ば采配したことは前号で書いた。

 参道に残る「一の鳥居」は、承応4年(1655)に久留米藩2代藩主有馬忠頼が寄進したていう。

 石材はいまの田主丸町から花崗岩ば切りだし、藩内の15才から60才までの男子延べ10万人ば動員して耳納の山裾ばここまで運ばせたとゲナ。
 題字は上野寛永寺の門主。

 このでけて350年以上も経っとる文化財の鳥居は、普通の道路に立っとるもんやケン、昭和53年(1978年)に大型車両がぶっつかって
「貫」ば壊してしもうた。なんとか「そそくって」元通りにしたバッテン貫だけが新しか。

 ところで鳥居(とりい)ちゃなんかいな。なし鳥居で云うと ?  鳥居とは人間の住む俗界と神さんの領域ば分けとる神社の「門」のこと。
 あの格好から鳥がよう飛んできて止まっとるケン、鳥居タイ( ? )。

 二本の柱が立っとって、よこ柱が三本。下ば「貫(ぬき)」上んとば「島木(しまぎ)」ていう。
 島木にひっついとる一番上んとば「笠木(かさぎ)」 島木と笠木の真ん中に通常、額があがっ とって、これば「額束(がくづか)」ていう。
 たて柱の下の石の土台はまんじゅうの格好しとるケン、ズバリ「饅頭」。

 笠木がのうてシンプルなもんが「神明鳥居(しんめい)」 笠木があって反らしたり細工しとるとば「明神鳥居(みょうじん)」ていう。

 さあ、これでもう鳥居については、知らんもんに大きな顔して解説してよかバイ。

   
  鳥居とは ?

 「蝉丸とは今でこそ、しがない芸人に身を落としとるバッテン実は天皇の子で、生来盲目のため天皇は付き人ばつけて逢坂山に捨てさせたとバイ」 客からこの話ば聞いた京都色街の遊女の「小夜」ちゃん。

 「おかわいそうに…」蝉丸への同情もあって惚れてしもうた。ところが、この時代、盲目の琵琶法師が女の相手ばすること自体がご法度で、お上に知れるところとなり、蝉丸に遊女ば世話した公家は直ちに処刑。蝉丸は所払い(追放)となってしもうた。

 ところがタイ。都ば離れる蝉丸に、小夜ちゃんが旅姿で追いかけてきて「あたしが蝉丸さまばお守りします。ですから、何処へでも連れて行ってください」ていうた。とゲナ。

 蝉丸が流された先、それが九州の久留米やったていう訳よ。当時久留米の高良山には、盲目の芸人で「平家座頭」と「仏説座頭」ていう組織があって、「平家」は高良神社、「仏説」は御井寺の支配下にあったていう。今風にいうたら、障がい者芸能プロダクションやったっちゃろう。

 「平家座頭」とは、声が良うて琵琶ば弾きながら、正確に壇ノ浦ば歌える者だけに許されたグループで、この資格ば持てば、上級の客の宴に呼ばれ、ギャラがびっくりするごと多かった。

 一方「仏説座頭」は、筑後一円の村々に散らばっとって、彼らは家々ば回り、お経ばあげてお布施ば貰うて生きとった。

 京の都から流されてきた蝉丸は、本場で鍛えた喉と頭のよさば買われて、「平家座頭」に組み入れられ金ば稼ぎよった。バッテン、金にルーズやったもんやケン、稼いだ金は賭博につぎ込み、生活費は小夜ちゃんの稼ぎば頼りにしとったらしか。

縄張りから追い出され麓に残された高樹神社と石段
 そのうちに小夜ちゃんの持ち金も底ば突く。小夜ちゃんにとって悪いことは重なるもんで、都から蝉丸のもとに「罪ば許すによってすぐ帰ってこい」ていう命令が届いた。
 田舎暮らしにうんざりしとった蝉丸は、天にも昇る気持ちタイ。

 世話になった小夜ちゃんば置き去りにしたまま、さっさと久留米から消えてしもうた。

 残された小夜ちゃんは、途方に暮れた。蝉丸ば追いかけようにも路銀がなか。すっかり落ち込んで夢遊病者のごと、ふらふらさまようとる小夜ちゃんば見たもんは「可哀想かねえ」ていいながらも、なにもしてはやれん。

 そのうちに小夜ちゃんの姿も久留米で見かけんごとなった。筑後川に身ば投げたとも、嫌うとった大金持ちにイヤイヤながら貰われて行ったとも云われとるバッテン、真相は誰も分からん。

 「蝉丸塔」は、御井寺の近くの料亭水明荘の中にあったもんば、この寺に移し替えたていう。

 塔が信仰のシンボルとなったとは、蝉丸と残された遊女の悲劇からでたもんで、塔のカケラば粉にして飲むと「縁切りの」願いが叶うていうもの。そのせいか塔のあちこちに削り取られた跡がある。

 蝉丸がほんなこと高良山まで遊女ば連れてやってきたとかどうか、その頃のもんなぁもう生きとらんちゃケン、こら分からん。

 しかし、あんたも縁ば切りたかごたる人がおるとやったら、いっぺんお詣りして試してみてんしゃい。
 バッテン駅長は責任持ちまっせんバイ。

 縁切り話がほかにもあったねぇて思いよったら、62番線の「長者原駅」で取りあげた「野芥の縁切り地蔵」がそうやった。

上の上の上・高良山のふもとにある由緒ある古寺「御井寺」 土地の名前も「御井町」ていうぐらい。
上の上・境内の片隅に「蝉丸塔」の小屋があった。
上・削り取られてしもうた塔石(白い部分)。削った人が封筒に入れたお金ば置いとった。

 大昔の話やケン、現代風に書き直すと、このへんば支配しとったボス(高木神)のとこへ、どっかからほかの親分が来て、高木神ば追い出し居ずわってしもうた。・・・てなる。


 韓国語では集落のことば「ムレ」ていうケン、初めおんなったとは韓国の神やったかもしれん。

 現在もともとの氏神やった高木神は、追い出されて( ? )麓の二の鳥居の手前の高樹神社に住んどんなる。

 
なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前は「高牟礼市民センター」
 久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に高牟礼の名前が残っとる。

 高良山の西の麓に古か寺がある。高良山御井寺(みいでら)ていう。本尊は阿弥陀如来さん。
 境内に寛政年間にでけた
「蝉丸塔」いうとがあって、縁切り祈願で知られとる。御井寺の縁切り塔てもいう。

 その由来は ? 蝉丸伝説にちなむ・・・・こげんとが駅長はいちばん好きタイ。

 蝉丸(せみまる)とは、室町時代の世阿弥によって作られた謡曲「蝉丸」に登場するシテ(主人公のこと)ばいう。蝉丸は京の都で名ば売った盲目の琵琶法師で、百人一首の中にも有名な歌が載っとる。

「これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」

 百人一首カルタの絵札で蝉丸さんはだいたい後ろ向きで描かれとって、禿げ上がった頭が強調されとるケン、坊主めくりなどの遊びでは、トランプでいうジョーカーの役目ばしとる。

 なし ? そげん有名な都の芸人が、なし ? どげんして ? 久留米の高良山あたりに現れたとか ?

 時は平安時代。

 合川大橋の下流約500mに九州自動車道の筑後川大橋がある。河口からいうと31km。橋の形は3径間連続下路トラス+2径間連続下路トラス橋。トラス橋いうとは鉄骨ば三角形に組んで橋桁ば支える構造の橋タイ。橋の長さは389mで幅が33mもある。

 完成したとは昭和48年3月(1973) 九州自動車道が初めて開通したとが昭和46年(1971)6月の植木IC-熊本IC間で、翌年南関IC-植木ICが開通。
昭和48年(1973)11月16日 鳥栖IC-鳥栖JCT-南関ICが開通してこの橋が通れるゴトなった。早かもんででけてからもう40年も経つことになる。

 こげなこと書きよったら「そんくらいのことは知っとる。くらぁさるうぞ」ていわりょうごたるバッテン、JCTいうたらジャンクション(junction)の略で分岐点・合流点のこと。ICはインターチェンジ(Interchange)。いくつかの道路が交差するとこで、立体的に道ばつなぐ構造のこと。ついでにランプいうとは、高さの違う道路ばつなぐための傾斜した車道のこと。高速道に乗るためには、坂ば上がらないかんやろう。あればランプていうとタイ。

 九州自動車道は北九州市門司区ば起点とし、佐賀県・熊本県・宮崎県ば経由して鹿児島市まで総延長 346.4kmの高速道路。普通はただ九州道ていいよる。正確に堅ぐるしゅういうと「国土開発幹線自動車道」の「九州縦貫自動車道鹿児島線」てなる。

 上・塗装に取りかかる前の筑後川大橋。約400mの橋はこうしてみるとやっぱあ長か。撮影2010年3月。

 九州道は全線でのトンネル数が32。そのうち23本が球磨川沿いの山襞ば縫うて走る八代JCTと人吉ICの間に集中しとる。九州道で一番長か6,340mの肥後トンネルもここにある。こげな地理的条件もあって八代IC-人吉ICの間は距離が38.5kmと非常に長く、日本の高速道路でインターチェンジ間の距離が一番長か。

トンネルの話やなかった。橋の話ばせないかんとやった。
この橋一日だいたい6万5千台ぐらいの車が走りよる。九州自動車道でいちばん走行車両の多かとが筑紫野ICと鳥栖JCTの間で1日約10万台ていうケン、筑後川渡る車はそれに次いで多かことになる。

 ついでにいちばん少うて道路が空いとるとは鹿児島〜宮崎県境の栗野ICあたりで1日約1万台。
 それで九州道がどれだけ稼ぎよるかていうと、2003年度で年間104,572,377,000円。1日平均にすると286,500,000円ていう。
 桁の大きゅうて数えられんケン、アバウト1日3億円、年間1千億円てなる。ひぇーッ。
 おっと橋、橋やった。

左・錆びくれてきた上り線のトラス。
上・下り線も似たようなもん。
  撮影2010年3月

 白塗装で年月も経ってずず汚れ、サビも出よったケン、平成24年(2012)に1億3千万円かけて上り線のトラスば塗装した。今度見に行ってみたら、下り線の塗装替えが始まっとって、テントで覆われとった。2013年の8月までかかるとゲナ。

上・2012年7月に塗装がすんだ上り線。左にでけよる橋桁は3号線バイパス用。下・塗装工事中の下り線。

 2010年に行ったときは気がつかんやったバッテン、九州自動車道筑後川大橋の下流側にひっついて新しか橋桁の工事がありよった。工事現場の人に「高速の橋ば広げるとですな」て聞いたら、首振って現場の入り口に立っとる看板ば指さした。

 その看板には「3号線バイパス」の工事概略が説明してあった。それによると・・
 名前が
「鳥栖久留米道路(とすくるめどうろ)、佐賀県鳥栖市から福岡県久留米市まで国道3号線のバイパス。

 
起点が佐賀県鳥栖市高田町の現国道3号交点で、終点が福岡県久留米市東合川五丁目の国道322号交点。九州自動車道久留米ICの近く。4車線で距離が約4.5kmていう。

 久留米市中心部の慢性的な渋滞ば解消するためと、久留米市東部の環状道路としての役割ば果たす予定ゲナ。 平成19年度に事業化されたもの。

 いま、大型クレーンが2台も入って、懸命の橋桁工事が進んどる。

 橋の名前が「筑後川橋」の予定げなバッテン、そうすれば隣の「筑後川大橋」と紛らわしかし、上流にある中尾大刀洗線の「筑後川橋」とダブってしまう。

下・3号線バイパスと新しか筑後川橋の説明看板。(分かりやすかゴト駅長が手ば加えた)

上・日当たりの良か土手では家族連れが散歩したりしとって、チッゴらしか長閑(のどか)な風景が見れた。

 宮ノ陣橋は九州自動車道の筑後川大橋から1.7km下流に架かっとる。

 2径間連続箱桁 2径間連続ランガー桁 2径間連続箱桁の美しい橋。ランガー桁橋いうとはアーチ橋の一種バッテン、アーチの鋼材が細かケン、スマートに見える。完成したとは昭和61年(1986) 河口からの距離30kmで橋の長さが401mで巾が11m。

 橋の上ば走っとる(ここシャレ)とは、県道88号線で路線名ば「久留米小郡線」ていう。名前の通り起点が久留米市の国道210号線の通町で、小郡市津古の国道500号が終点の距離14.2km。

 久留米市内では中央公園やら百年公園の沿線ば走り、橋渡ってからは、ほとんどが西鉄大牟田線と並んで、宝満川の左岸ば北上する。ま、のどかなチッゴらしか路線タイ。


 入り口は百年公園の西、渡ったあとは宮の陣駅の前ば通ってずーっと小郡まで西鉄大牟田線と並んで走る。
 これが県道88号線。

 同じアーチ橋でもランガー橋はスマート。逆にいえば少々頼りなかバッテン、ここの景色には溶け込んどる。

 橋ば渡るとは久留米東バイパスの「中央公園北」信号からで、渡ったら「宮の陣橋北詰」信号に突き当たる。右に行けば川の右岸土手。左へ行くとすぐに西鉄大牟田線の「宮の陣駅」がある。

 宮の陣駅(みやのじんえき)は甘木線との分岐駅やケン、急行も停車する。地名は「宮ノ陣」バッテン、駅名は「宮の陣」でややこしか。でけたとは大正13年(1924)でけっこう古か。

 甘木線が急カーブでほぼ直角に分岐するため、甘木線のホームは弓形に曲がっとって、ホームとドアの隙間が広か。注意してもらうため、その隙間の床に回転灯が設置されとって、列車が到着すると点滅するごとなっとる。
 それでも駅長の友達は、ホームと電車の間に足ば突っ込んで捻挫するていうドジば踏んだ。

 接近・案内放送もなく、予告なしでだまーって電車が来る。しかも上りホームの階段付近は後ろが壁やケン、特急が通過するときの強風で物が飛ばされるていう「危なか駅」のひとつ。

 それでも、1日平均2011年で2.282人が利用しとる。

上・アーチがブルーで手すりがイエロー。洒落た配色はよかとバッテン、晴れた日はアーチが空の色に溶け込んで写らん。
左・親柱は大理石。結晶質石灰岩(けっしょうしつせっかいがん)のこと。中国雲南省の大理市あたりで採れるケン、大理石タイ。英語で言うとマーブル。

 正平14年(1359)8月後醍醐天皇の皇子懐良親王(かねなが)が、南朝宮方の菊池武光やら草野永幸たちば率いて、足利方の少弐頼尚(しょうに よりなお)と大保原(いまの宮の陣から小郡にかけて)で激しか戦いば繰り広げなった。

 九州ばどっちが治めるかいう雌雄ば賭けた戦いやったケン「筑後川の戦い」とも「大原の合戦」ともいうて、日本の三大合戦のひとつに数えられとる。あとのふたつは、関ヶ原と川中島の戦いタイ。

 この戦いについては、前号で詳しゅう書いた。この戦で西征大将軍懐良親王が陣取んなったとが、ここらあたりやったケン「宮ノ陣」ていうことも前回書いた。

 この故事にちなんで、のちに高良大社の宮司船曳鉄門が神殿ば建て、懐良親王の甥で後の西征将軍良成親王(よしなり)ば祀った「宮ノ陣神社」いうとが橋の北側にある。

 駅長は初めから懐良親王が祀られとんなるもんて思い込んでお参りしとったら、このことば知って肩すかし食ろうた。懐良親王ば合祀したとは明治44年やつたゲナ。

 ということになると、境内の親王お手植えの紅梅も、ほんなもんかどうか分からんごとなった。

下左・参道に紅梅が咲く宮ノ陣神社。下右・境内の懐良親王お手植えて伝えられる紅梅は「将軍梅」ていう。
(撮影2013年2月)

 久留米百年公園
 この公園は平成元年、久留米市が市制100周年ば迎えたとば記念して造られた公園で、筑後川の左岸に接した国道210号線沿いにある。

 公園内のツツジ園には約100種50万本のツツジが植えられとって、4月中旬から5月上旬にかけて一面ツツジのジュウタンが出現する。 毎年4月5日から5月5日まで「久留米つつじまつり」が開催され、30万点を超えるツツジの即売会も行われとる。

 中央公園内には久留米市鳥類センター(くるめしちょうるいセンター) いう動物園があって、入り口には昭和9年(1974)まで日豊本線ば走りよったD51923が保存されとる。

 園名が示すごと飼育動物はクジャク、キジ、水鳥などの鳥類が中心で、特にインドクジャクは約70羽もおって、園の中心的存在として威張っとる。

左・シロクジャクはインド孔雀の白色変種。右・曇り日が羽根ば開く。目玉模様の飾り羽根は毎年生え替わる。


  久留米100年公園      鳥類センター

 中央公園ば抜けて市街地へ入ってくると市内ば東西に走っとる「文化センター通り」へ出る。なんで文化センターなのか、石橋文化センターがあるけんタイ。むかしは筑後街道とも呼んどった。
 東へ善導寺〜草野と経由して日田へ通じる幹線道路タイ。

 石橋美術館(いしばしびじゅつかん)は、ブリヂストン創業者一族の石橋財団が管理運営しとる文化の殿堂で、春には久留米つばきでも人が集まってくる。

 収蔵品は、ブリヂストン創業者の石橋正二郎が生前に集めたいわゆる「石橋コレクション」ば基にしとる。
 同じ財団が運営する東京のブリヂストン美術館とはすこうしいきかたが違うて、日本近代洋画、書画、陶磁器、漆器などの工芸品ば重点的に収蔵しとる。特に、久留米出身の青木繁、坂本繁二郎、古賀春江についてのコレクションでは有名か。

 でけたとは昭和31年(1956) 石橋文化センターの中心施設として、石橋正二郎が久留米市に建物ば寄贈して開館した。「郷土の文化のために」ていえば格好よかバッテン、体の良か節税対策タイ。

 石橋美術館

上・チッゴ弁で携帯しながら地元の高校生が橋ば渡る。この橋ば歩いて渡る人は珍しか。
上左・筑後川はどこも河川敷が駐車場。ただし大雨の時は水没する。

上の左右と下・川土手には菜の花が満開。上流へかけて黄色の長か帯のごと咲く。それば高良山から見下ろした夏目漱石が 「菜の花の 遥かに黄なり 筑後川」て俳句に詠んだ。句碑は高良山の久留米森林つつじ公園にある。


地下足袋とタイヤ

 久留米ば代表する企業いうたらゴムに関係しとるアサヒコーポレーションとブリジストンやろう。

 アサヒコーポレーションの方は人間の靴。ブリジストンの方は車の靴タイ。どっちも「履きもん」で商売ば成功させた。

 人間用の靴の方は足袋からはじまっとる。明治6年(1873)裁縫の技術者やった
倉田雲平(くらたうんぺい)が、久留米市米屋町に家賃65銭の小さな店ば借り「つちや足袋」の製造ば始めた。
 大正12年(1923)には
「つちやゴム底足袋」ばヒットさせた。これが久留米ゴム3社のひとつ月星化成となり、今のムーンスターになる。

 
一方、仕立屋さんやった石橋徳次郎も明治26年(1893)に「お座敷足袋」の製造ば始めた。あとば継いだ長男重太郎と次男正二郎は、大正11年にアメリカのテニス靴からヒントば得て作った「ゴム底地下足袋」ば開発して売り出した。
 はじめ「嶋屋足袋」ていいよったとは「志まや」になり「日本足袋」と大きゅうなっていった。

 昭和2年(1927)になると、正二郎が日本で初めてタイヤの製造ば始めて独立し、「ブリジストン」ば創設した。社名は石(ストーン)橋(ブリッジ)ばひっくり返してつけた。

 重太郎の「日本足袋」のほうは、その後「日本ゴム」になり、いまはアサヒコーポレーションていいよる。これが久留米にゴム産業が発展する元になっとるていう訳。

 こげなお話知っとったぁ ?  やっぱぁ「ふる里の蒸気機関車」は乗ってみないかんねぇ。

 JR久留米駅前にある世界最大のタイヤ。
 直径約4m、重さ約5tもあるとゲナ。
ブリヂストン北九州工場(北九州市若松区)で製造され、
2011年1月に設置された。
 気になる価格は「高級乗用車1台分ほど」ていう。

 宮の陣橋の下流わずか200mのところに西鉄大牟田線の鉄道橋がある。

 完成したとは昭和56年(1981)3月。3径間連続2連で橋の長さが375m 鋼鈑桁に複線の線路が乗っとる構造。
もともといまの西鉄大牟田線ば始めたとは九州鉄道で、大正13年(1924)4月 福岡(いまの西鉄福岡天神駅と久留米(現在の西鉄久留米)間ば開業。

 昭和7年(1932)九州鉄道は 久留米から津福の間ば開業し、昭和12年(1937)には大川鉄道ば合併、上久留米〜津福〜大善寺〜榎津間ば譲り受ける。そしてこの間ば、軽便鉄道の狭軌から広軌(1435mm)に変えてしかも電化。大善寺〜柳河間も開業させとる。

 翌年には柳河〜大牟田の栄町まで延ばし、昭和14年(1939) ついに福岡〜大牟田間ぱ全通させた。
 こうして苦労の末大牟田線ば作った九州鉄道やったっちゃが、昭和17年(1942年)九州電気軌道が九州鉄道ば合併。これが西日本鉄道に改称して今日まで続いてきとる訳タイ。

西鉄甘木線は宮の陣から甘木まで17.9km。

 
ちょうど豊肥本線の立野から高森線と同じ長さの盲腸線。高森線は10駅で非電化バッテン、甘木線は全部で12駅でこっちは電車。

 甘木線いうたら駅長には戦時中のイヤな思い出がある。宮の陣から9つ目に「北野」ていう駅がある。

 以前は三井郡北野町やったけど、いまは久留米市になった。この駅の近くに千代島ていう集落があって、千代島から召集されてきとった人が駅長の親父と戦友やった。

 その関係で太平洋戦争の戦中・戦後、食糧難の時も千代島の農家から米などば分けてもろうて生活がでけとった。

 しかし博多から千代島まで西鉄大牟田線から甘木線ば乗り継いで、米やら野菜ば買いに行かないかん。

 これば当時は「ヤミ米の買い出し」ていうた。バッテン、時代は経済統制の厳しかった時代で「買い出し」は禁止されとった。

 田舎の駅には取締の経済警察官いうとが見張っとって「ヤミ米」ば運びようとば見つけたら没収してしまいよった。

 母と小学生の駅長は、母が米ばかつぎ、駅長は駅に警察がおらんかどうか、偵察に先走りしたもんタイ。

 前回の宮の陣橋で書いたごと、久留米駅から鉄橋ば渡った電車は宮の陣駅で福岡行きと甘木行きに別れる。

 この
甘木線ば開いた三井電気軌道(みいでんききどう)いうとは、大正時代に久留米と甘木・久留米と福島町(今の八女市)ば結ぶ鉄道ば走らせとった。

 それが大正13年(1924年)に九州鉄道に吸収合併され、九州鉄道が西日本鉄道に合併して甘木線のほうはいまの西鉄甘木線として残ったバッテン、
福島線のほうは昭和33年(1958年)廃止されてしもうた。

 福島線は、いまの国道3号線に沿うて八女まで走りよったとば、駅長もかすかに記憶しとる。
 九州鉄道が西鉄と合併するとき「久留米〜大牟田間に路線ば建設するなら福島(八女)経由にしちゃんしゃい」て条件ばつけたとバッテン、これは実現せんやった。

 これがもし実現しとれば、八女・瀬高がもっと発展しとったろう。

下左・鉄道橋の下流には国道3号線の久留米大橋が見える。下右・コンクリートの橋脚が鉄の桁を支える構造。

 鉄道橋ば渡った西鉄電車は600mばかりで櫛原駅に着く。

 
櫛原駅(くしわらえき)は、小ぶりな簡易駅舎に、相対式ホーム2面2線の地上駅で、ホームが上下とも3両分しかなかケン、3両だけしかドアの開閉ばせん。

 有人駅ではここだけ自動券売機がなく、乗車券は窓口で買わないかん。西鉄久留米駅と900mしか離れとらんで普通しか停まらんケン利用者は少なか。

 ここから久留米駅へ線路は高架になっていく。高架下の道ば南にまっすぐ歩けば10分前後で西鉄久留米駅に行ける。

西鉄久留米駅

 西鉄久留米駅はJR久留米駅とはまったく町の反対にあり、2km以上も離れとる。言い換えると久留米の町はJRと西鉄の駅の間にあるていうてよか。

 大正13年(1924年)前で書いた九州鉄道の駅として開業した。

 昭和25年(1950)に駅舎ば改築。平成19年(2007)はバリアフリー対応のトイレば設置した。平成21年(2009年)からはnimoca対応の自動改札機も設置されとる。

 地元ではこの駅の中にあるバスセンターも含め、駅の施設全体ば指して単に
「西鉄」て呼ぶことが多く、これでJR久留米駅と区別されとる。


  
上から
  西鉄久留米駅の正面は市の中心部(西)ば
  向いとる。

  駅の北側ばメインストリートが走っとっ
  て「明治通り」ていう。奥が日田方面。

  駅北の東町交差点ガード下から3号線の
  宮の陣〜福岡方面。下りの車が信号待ち
  でいつも並んどる。

  東町交差点のガードから久留米駅の方ば
  見る。左手が国道322号線日田方面で、
  ガードくぐったら久留米市街


 西鉄のドル箱「天神大牟田線」は全長が75km、48駅のほぼ真ん中に久留米駅はあって、天神からは約40km
 2011年度の1日平均で乗る客は約18,000人。西鉄大牟田線の駅の中で2番目に多かバッテン、90年代初頭の6万人に比べると大幅に減っとる。

 隣の花畑駅に特急が停まるごとなったことも、久留米駅利用者の減少の理由やろうバッテン、JR九州久留米駅の約6,600人からすれば3倍の利用客があるいうことになる。

 駅のすぐ北側(久留米岩田屋本館横)には国道3号、国道209号、国道322号の交差する東町交差点がある。

 天神大牟田線が高架になる前は国道3号と国道209号が交差するすぐ脇に電車の踏み切りがあってとても危なかった。

 高架になってもバスセンターに入るバスなどでいつも混雑し、この東町交差点はドライバーから嫌われとる交差点のひとつタイ。

 駅の東口はロータリーになっとって、岩田屋久留米店・リベール久留米・ハイネスホテル久留米がペデストリアンデッキで駅の2階に直結しとる。 
 
上・オレンジ色が久留米駅東口のペデストリアンデッキ。

 またこのロータリーは通勤通学のラッシュ時には、
キスアンドライドで混み合う。キスアンドライド (kiss-and-ride) ちゃなんかいな。自宅から駅まで車で家族に送り迎えばしてもらうて通勤・通学することばいうとゲナ。

 送ってもろうた彼または彼女にキスばしてから、電車・バスに乗り換える(ライド)ことからこげな言葉が生まれたらしかバッテン若いもんならともかく、博多のもんには「歯の浮きあがって」合わん。

 ついでにペデストリアンデッキいうとは、車道から立体的に分離された歩行者専用の通路のことで
「歩行者回廊」てもいわれる。大規模なものは長崎駅前のごと高架広場のようなもんもあつて「横断歩道橋」とはちょっと違う。
 
下・東口は駅に向こうて左にリペール・正面に岩田屋・右にハイネスホテルと岩田屋新館が歩行者回廊で結ばれとってロータリーの上を一周でける。写真の正面が久留米駅。

上・下流から見ると鉄道橋の向こうに宮の陣橋のブルーアーチが。
下・本格的な装備の釣り人が・・「なんの釣れますとな」て聞いたバッテン、遠くて声が届かんやった。

       初めに書いたごと、久留米市内の主な橋ばサッサと通り過ぎるつもりやったとバッテン
    ひとつひとつの橋にギューギュー詰めの歴史があって、駅長の頭もコンピュータのメモリーも
               
もうパンクしてしもうたケン、今回は四橋で終わります。
   次号には
久留米絣の井上 伝さんやら、高山彦九郎・どうぐら九兵衞やら秘仏桶かぶり観音が出て来ます。
                   取材期間 2010.3.15〜2013.3.5

         なかなか進まん筑後川の旅。次回のは、本流に入っての10回目です。

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