橋の形式は単純4径間連続鋼床版箱桁。
現代の橋は材料によって、鋼橋とコンクリート橋に大別できる。
一般的に川幅の広い大きな橋には、鋼橋が、比較的小さい橋にはコンクリート橋が架けられる。
鋼橋は重量が軽く、大きな川ば一気に渡れる特徴があり、コンクリート橋は耐久性に優れ、維持管理がラクていう特徴がある。
久留米大橋の中央部には「門司から115kmですよ」ていう表示板が立っとる。
国道3号線は北九州市門司区老松公園前の交差点から鹿児島市中央公園まで、全長392kmで繋がっとる。
右・位置関係がわかるごと前回の宮の陣橋から並べてみた。右が上流。
下左・橋の北口の親柱。
下右・北口のたもとにある
高野産八幡神社。桜は咲いとるバッテン、人の子一人もおらん。
北側には「久留米大橋北」の信号が、南の久留米市内側には「久留米大橋南」信号があって、両岸の土手ば走る道路との接点になっとる。
右岸側の北口信号傍には「高野産八幡神社」があって、詳しいことはよう分からんバッテン、いい伝えによると、朱雀天皇の承平2年(933)、一品兼基(いっぽん かねもと)親王が建てた神社で、久留米旧城郭内にあったとゲナ。
丹波からここに転勤してきた初代藩主有馬豊氏(ありま とようじ)が、お城の鬼門になるここに明正天皇の寛永2年(1632)に守護神として社殿ば再興したていう。祀ってあるとは仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の3点セット。旧藩主の信仰があり、明治6年(1873)村社になった。
神社の名前に「産:うみ」てついとるもんやケン、安産ばお願いにお参りする人が多かていう。
神社の裏手には、国土交通省筑後川河川事務所、筑後川ダム統合管理事務所、それに筑後川から福岡都市圏に毎秒約2トンば導水しとる水資源機構福岡導水管理所などがかたまってあり、筑後川の治水、利水、環境はここで管理しとる。
「碑」があった。「筑後川災害復旧記念の碑」と彫ってある。全文ば読んでみる。
昭和28年6月25日より5日間北九州一帯を襲った豪雨は最大日量434ミリメートル連続雨量1149ミリメートル瀬下水位9メートルに及び大正12年以来30年間営々として築き上げた筑後川の治水工事は全体計画の7割5分を終えていたのに堤防至る所溢水破堤筑紫平野は一面泥海となる惨状を呈し浸水面積53000町歩被害額450億円に達した国直轄河川の災害も破堤26か所延長73キロメートルその他決潰崩潰等100か所を超えた。
災害発生後管内はもちろん他地方建設局の応援を得て直ちに泥海の中に緊急工事に着手し幾多の悪条件を冒して日夜砕励した時あたかも田植期ではあり梅雨末期の出水に備え破堤か所の応急締切工事を施し引続き台風期を目前にひかえてこれら応急堤の重要部に補強を行ったが幸い天候に恵まれ順調な本復旧工事に移行昭和30年3月完成の日を迎えた。
この災害復旧工事は築堤延長40キロメートルその土工量150万立方メートル護岸延長60キロメートルその面積34万平方メートルでありこれに要した資材は主なものだけでも34000トン木材51000石及び鋼材470トンの外割石玉石174000立方メートル等莫大な数字となり労務者延250万人工費30億円に達した。
穀倉と呼ばれ豊穣を誇る沿岸一帯は一夜にして見渡す限り冠水あるいは流失埋没青田は砂原と変わり父祖伝来の沃土は永遠に地上よりその姿を消すのかと危ぶまれたのであるが各方面の涙ぐましい復興への意欲と努力とによって今や惨状を思い起こすよすがすらなく肥沃なる平野は再び母なる筑後川に潤されかつ育まれている。
水害は河川の恩恵を忘れ天への感謝の念を怠った頃にやって来るよって今後ますます河川を愛護し天を敬い筑後川治水百年の大計を果す改修工事完成に向って絶えざる力を尽くすことを誓うものである。
ここに災害復旧工事の概要を述べこの感懐を永く世の識者にわかつために碑を刻む。
昭和30年3月31日 九州地方建設局 筑後川工事事務所長 田中寛二




高山彦九郎なんていうたっちゃ、近頃の若っかもんなぁ知らんやろう。討幕運動の先陣ばきった尊王の旗手やった。
その彦九郎さんにご挨拶ばすませて裏手に回ったら、なんとも奇妙なかたちの墓石があるじゃなかね。
墓碑の形はひょうたんで、その台座が酒樽タイ。こらなんかいな ? 駅長はこげな変わったもんが大好きタイ。
説明板もなぁーもなかケン、帰って調べてみたら・・・
ひょうたんの下に眠っとんなるとは、200年以上も前に死になった西道俊(にし どうしゅん)ていう長崎の蘭法医学者やった。
蘭法医学者いうたっちゃ歯科さんタイ。しかし、高山彦九郎となんか関わりのあるとやろうか ?
時は寛政の頃(1795)ていうケン、明治維新より70年以上も前のこと。西道俊と高山彦九郎とが初めて京都で出会うた。旅籠の風呂場でやった。
「嫌な世の中やねぇ。役人なぁ百姓が食うもんも食わずに納めた年貢ば、湯水のように無駄遣いばかりして・・・」
「それもこれも、徳川の世が長うなり過ぎたけんですタイ。幕府は天子さんに天下ば返さないかんですバイ」
ふたりは意気投合して「飲みまっしょう」ていうことになり、彦九郎の部屋で酒盛りば始めた。
上・高山彦九郎の墓。
下・どうぐら久兵衞の「ひょうたん墓」
久留米の寺町、それぞれの寺には、江戸期から明治にかけて、日本や久留米に大きな足跡を残した人の墓がある。中でも遍照院には政治に関係した人がたくさん眠っとんなる。
高山彦九郎ば初め、維新後久留米で殺された、長州の尊攘主義者大楽源太郎などなど。中でも目ば引くとが酒樽にひょうたんばのせた西道俊の墓。道俊の「ひょうたん墓」は、彼の知人やら同志たちがその死ば悼んで、彦九郎の墓の直ぐ傍に造った。
「むかしからお参りが多かとゲナ。なんのお参りかいうたら、第一は、道俊が頭のよか人やったケン、受験生が合格祈願に来る。それから、道俊が大の酒飲みやったケン自分で「酒絶ち」ばしきらんもんが頼み参りに来る。
そしてもう一つ、「歯痛ば治しちゃんしゃい」いうて頼みに来るもんもおったゲナ。
道俊が歯医者やったけんねぇ。昔は、早う治るごというてクサ、墓石ぱ削り取って飲みよったてもいう。
こればよく読むと、昭和28年の大災害がいかに大きかったかがよう分かる。
昭和28(1953)年西日本水害とは、6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)ば中心に梅雨前線ば原因として発生した集中豪雨による水害のこと。
阿蘇山・英彦山ば中心に総降水量が1,000ミリば超える記録的な豪雨によって、九州最大の河川筑後川ばはじめ白川など九州北部ば流れる河川が、ほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪ていう水害ばひき起こした。
死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人ていう大災害やった。
この水害で筑後川など九州北部の河川で、治水対策が根本から改められることになり、現在においても危険水流量の基準になっとるていう。
そのなかのひとつ遍照院(へんしょういん)には高山彦九郎の墓がある。墓の傍には純日本式の庭園があって、どの季節に行っても静かなたたずまいば見せてくれる。
これは昭和35年に月星ゴム(現月星化成)から寄贈されたもんで、北山杉ば京都から運んで植え、中の島ば配した心字池にかかる石橋は、高山彦九郎にゆかりのある京都三条の橋ばイメージして作られたていう。
また、京都から移築した茶室と、犬走りの玉砂利敷きも、鞍馬山から「貴船の赤石」ば運んでを並べとるていう懲りよう。茶室の名は高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に因み「以白庵(いはくあん)」ていう。茶室は一般にも開放利用されとる。
このお寺には宣伝して人集めするような気は全然なか。逆に言うと知る人ぞ知るで、静かな自然が残されとる、ても云える。駅長が訪れたときには、お寺の加勢人さん老夫婦が落ち葉かきばしよんなった。
上流の左岸から見た久留米大橋。左が久留米市側。右のアンテナ塔は国土交通省筑後川ダム統合管理事務所。
福岡から国道3号線で下ってきて、久留米大橋ば渡り1km足らず久留米市内に入っていくと、左手に櫛原町、右手には「寺町」が広がっとる。
ここは地名のとおり約17の寺が集まっとって、 この通りに入ると静寂な別世界という感じがする。もともとここは、博多の石堂川沿いといっしょで、江戸時代に久留米藩が城の防衛線として寺ばっかり集めたとらしか。
お寺は境内が広かケン、いざていうときには兵ば入れられるし、お墓ば倒せば守りの壁に使われるけんタイ。当時は26もの寺があったていわれとる。
それぞれの寺には久留米で活躍した多くの先人達が眠っとんなって、その中には勤王の志士高山彦九郎(遍照院)、久留米絣始祖の井上伝(徳雲寺)、久留米つつじの始祖坂本元蔵(妙正寺)などがおんなる。
これが観光上手の長崎やったら、派手に宣伝して賑あうとやろうバッテン、久留米は全然その気がなかとみえて、いつ行ってもこの一帯は静かなもん。悪ういうとゴーストタウン。町が死んどる。
高山彦九郎とどうぐら久兵衞
それから2年が経過して、道俊は風のうわさで彦九郎が、久留米で割腹自殺したことば知った。親友の森嘉膳(もり かぜん)の家でやった。
道俊は、仕事ば投げ出して江戸に向う。彦九郎の親友やった林子平が彦九郎の辞世の句ば聞かせてくれた。
「朽ち果てし身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」「墓なく」は「儚く」にひっかけた。
道俊が「彦九郎の足跡」ばたどってみようと考えたとはその時やった。バッテン、懐に銭はナカ。 バッテン、若っか頃に覚えた独楽回しの芸がある。これで稼げば何とかなるやろう。
「どうぐら九兵衛」の芸名もこの時につけた。
「どうぐら」とは、曲芸や大道芸人の俗称タイ。「九兵衛」というとは「どうぐら」との語呂ば考えて適当につけた芸名やった。
旅の手始めは、彦九郎が生まれた上野国(こうずけのくに)からやった。彦九郎が名主ば勤めた豪農の息子やったことばここで初めて知った。
上野国から京都へ。さらに水戸、仙台、松前から北陸路へ、得意の独楽(こま)の綱渡りば披露しながらの旅が続いた。ついで中国から九州へ、九州では熊本から薩摩、日向ば経て豊後の日田からやっと久留米にたどりついた。行く先々で土地の酒ば飲み、彦九郎のことば聞いて回った。しかしどげんしても彦九郎が腹切って自殺までせないかん理由が分からん。
九兵衛は、彦九郎の遺品やったひょうたんに酒ば注ぎ、遍照院に行ってみた。鬱そうとした大木の陰に、彦九郎の墓はあった。
「先生はなし腹切ったりしたとですな」九兵衛は、ひょうたんの酒ば墓石に一滴かけて、独り言ばいうた。「松陰以白居士」と刻まれた墓石は、それでも何も答える筈がなか。
「そんならこのどうぐら九兵衛が、一世一代の独楽回しばここでして見せますケン、答えてつかぁさいや」九兵衛は独楽(こま)の綱渡りから喧嘩独楽まで、曲芸一式ば墓前でひとり熱演した。
「さあ、先生どうですな ? 」
「それでも答えられん ? 」
「そんなら、残った酒ば全部飲み乾しまっしょうや」
九兵衛、ぐい飲みしたあと、残りば全部墓石にかけ「先生、また会いまっしょうね」て一声かけると、持ってきた短剣ば自分の腹に突き刺した。
九兵衛が彦九郎の墓前で切腹自殺したとは、享和2(1802)年5月2日。享年73歳やった。
なお、彦九郎の割腹自殺は47歳のときやった。