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其の十五


 筑後川の源流ば出てから15回目、今回は久留米市の中心部に架かる国道3号線の「久留米大橋」、2000年にでけた「2000年橋」、古い「小森野橋」ばたどります。 

  下流の河川敷からみた久留米大橋。橋桁の下遠くに前回ふれた西鉄の電車橋と宮ノ陣橋がかすかに見えとる。
 
 久留米大橋はもともと大正2年(1913)、今の場所に幅4.5m、長さが203mの木橋として架けられ「小森野橋」ていいよったとバッテン、筑後川三大水害のひとつて呼ばれる大正10年(1921)の洪水で流がされてしもうた。

 昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートゲルバー工法の橋として再建されこのとき
「久留米大橋」て改名された。しかし、車道幅が片側3.25mと狭く、大型車は離合もやっとかっとやった。通行人や自転車の安全性が保たれんていうことになり、昭和44年(1969)専用の側道橋がひっつけて設置された。

 その後、ずぅーっと九州の大動脈としての国道3号線ば支え、地域の産業・経済発展に計り知れんゴト貢献してきたとがこの久留米大橋やった。

 バッテン、橋も年には勝てん。老朽化と筑後川の拡張工事のため、平成4年(1992)11月に上流15mの場所に今度は幅が10.75m(車道8.25m、歩道2.5m)長さが402mの新橋が誕生した。それがいま我々がお世話になっとる「久留米大橋」タイ。河口からいうたら29kmのとこにある。

 橋の形式は単純4径間連続鋼床版箱桁。

 現代の橋は材料によって、鋼橋とコンクリート橋に大別できる。

 一般的に川幅の広い大きな橋には、鋼橋が、比較的小さい橋にはコンクリート橋が架けられる。

 鋼橋は重量が軽く、大きな川ば一気に渡れる特徴があり、コンクリート橋は耐久性に優れ、維持管理がラクていう特徴がある。

 久留米大橋の中央部には「門司から115kmですよ」ていう表示板が立っとる。

 国道3号線は北九州市門司区老松公園前の交差点から鹿児島市中央公園まで、全長392kmで繋がっとる。





右・位置関係がわかるごと前回の宮の陣橋から並べてみた。右が上流。
下左・橋の北口の親柱。
下右・北口のたもとにある
高野産八幡神社。桜は咲いとるバッテン、人の子一人もおらん。

 北側には「久留米大橋北」の信号が、南の久留米市内側には「久留米大橋南」信号があって、両岸の土手ば走る道路との接点になっとる。

 右岸側の北口信号傍には「高野産八幡神社」があって、詳しいことはよう分からんバッテン、いい伝えによると、朱雀天皇の承平2年(933)、一品兼基(いっぽん かねもと)親王が建てた神社で、久留米旧城郭内にあったとゲナ。

 丹波からここに転勤してきた初代藩主有馬豊氏(ありま とようじ)が、お城の鬼門になるここに明正天皇の寛永2年(1632)に守護神として社殿ば再興したていう。祀ってあるとは仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の3点セット。旧藩主の信仰があり、明治6年(1873)村社になった。
 神社の名前に「産:うみ」てついとるもんやケン、安産ばお願いにお参りする人が多かていう。

 神社の裏手には、国土交通省筑後川河川事務所、筑後川ダム統合管理事務所、それに筑後川から福岡都市圏に毎秒約2トンば導水しとる水資源機構福岡導水管理所などがかたまってあり、筑後川の治水、利水、環境はここで管理しとる。

 「碑」があった。「筑後川災害復旧記念の碑」と彫ってある。全文ば読んでみる。

 昭和28年6月25日より5日間北九州一帯を襲った豪雨は最大日量434ミリメートル連続雨量1149ミリメートル瀬下水位9メートルに及び大正12年以来30年間営々として築き上げた筑後川の治水工事は全体計画の7割5分を終えていたのに堤防至る所溢水破堤筑紫平野は一面泥海となる惨状を呈し浸水面積53000町歩被害額450億円に達した国直轄河川の災害も破堤26か所延長73キロメートルその他決潰崩潰等100か所を超えた。

 災害発生後管内はもちろん他地方建設局の応援を得て直ちに泥海の中に緊急工事に着手し幾多の悪条件を冒して日夜砕励した時あたかも田植期ではあり梅雨末期の出水に備え破堤か所の応急締切工事を施し引続き台風期を目前にひかえてこれら応急堤の重要部に補強を行ったが幸い天候に恵まれ順調な本復旧工事に移行昭和30年3月完成の日を迎えた。

 この災害復旧工事は築堤延長40キロメートルその土工量150万立方メートル護岸延長60キロメートルその面積34万平方メートルでありこれに要した資材は主なものだけでも34000トン木材51000石及び鋼材470トンの外割石玉石174000立方メートル等莫大な数字となり労務者延250万人工費30億円に達した。

 穀倉と呼ばれ豊穣を誇る沿岸一帯は一夜にして見渡す限り冠水あるいは流失埋没青田は砂原と変わり父祖伝来の沃土は永遠に地上よりその姿を消すのかと危ぶまれたのであるが各方面の涙ぐましい復興への意欲と努力とによって今や惨状を思い起こすよすがすらなく肥沃なる平野は再び母なる筑後川に潤されかつ育まれている。

 水害は河川の恩恵を忘れ天への感謝の念を怠った頃にやって来るよって今後ますます河川を愛護し天を敬い筑後川治水百年の大計を果す改修工事完成に向って絶えざる力を尽くすことを誓うものである。
 ここに災害復旧工事の概要を述べこの感懐を永く世の識者にわかつために碑を刻む。

   昭和30年3月31日        九州地方建設局    筑後川工事事務所長 田中寛二 

 高山彦九郎なんていうたっちゃ、近頃の若っかもんなぁ知らんやろう。討幕運動の先陣ばきった尊王の旗手やった。

 その彦九郎さんにご挨拶ばすませて裏手に回ったら、なんとも奇妙なかたちの墓石があるじゃなかね。

 墓碑の形はひょうたんで、その台座が酒樽タイ。こらなんかいな ? 駅長はこげな変わったもんが大好きタイ。

 説明板もなぁーもなかケン、帰って調べてみたら・・・
 ひょうたんの下に眠っとんなるとは、200年以上も前に死になった
西道俊(にし どうしゅん)ていう長崎の蘭法医学者やった。

 蘭法医学者いうたっちゃ歯科さんタイ。しかし、高山彦九郎となんか関わりのあるとやろうか ?

 時は寛政の頃(1795)ていうケン、明治維新より70年以上も前のこと。西道俊と高山彦九郎とが初めて京都で出会うた。旅籠の風呂場でやった。

「嫌な世の中やねぇ。役人なぁ百姓が食うもんも食わずに納めた年貢ば、湯水のように無駄遣いばかりして・・・」  
 「それもこれも、徳川の世が長うなり過ぎたけんですタイ。幕府は天子さんに天下ば返さないかんですバイ」

 ふたりは意気投合して「飲みまっしょう」ていうことになり、彦九郎の部屋で酒盛りば始めた。

上・高山彦九郎の墓。
下・どうぐら久兵衞の「ひょうたん墓」

 

 久留米の寺町、それぞれの寺には、江戸期から明治にかけて、日本や久留米に大きな足跡を残した人の墓がある。中でも遍照院には政治に関係した人がたくさん眠っとんなる。

 高山彦九郎ば初め、維新後久留米で殺された、長州の尊攘主義者大楽源太郎などなど。中でも目ば引くとが酒樽にひょうたんばのせた西道俊の墓。道俊の「ひょうたん墓」は、彼の知人やら同志たちがその死ば悼んで、彦九郎の墓の直ぐ傍に造った。

 「むかしからお参りが多かとゲナ。なんのお参りかいうたら、第一は、道俊が頭のよか人やったケン、受験生が合格祈願に来る。それから、道俊が大の酒飲みやったケン自分で「酒絶ち」ばしきらんもんが頼み参りに来る。

 そしてもう一つ、「歯痛ば治しちゃんしゃい」いうて頼みに来るもんもおったゲナ。
 道俊が歯医者やったけんねぇ。昔は、早う治るごというてクサ、墓石ぱ削り取って飲みよったてもいう。

 こればよく読むと、昭和28年の大災害がいかに大きかったかがよう分かる。

 昭和28(1953)年西日本水害とは、6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)ば中心に梅雨前線ば原因として発生した集中豪雨による水害のこと。

 阿蘇山・英彦山ば中心に総降水量が1,000ミリば超える記録的な豪雨によって、九州最大の河川筑後川ばはじめ白川など九州北部ば流れる河川が、ほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪ていう水害ばひき起こした。

 死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人ていう大災害やった。

 この水害で筑後川など九州北部の河川で、治水対策が根本から改められることになり、現在においても危険水流量の基準になっとるていう。

 そのなかのひとつ遍照院(へんしょういん)には高山彦九郎の墓がある。墓の傍には純日本式の庭園があって、どの季節に行っても静かなたたずまいば見せてくれる。

 これは昭和35年に月星ゴム(現月星化成)から寄贈されたもんで、北山杉ば京都から運んで植え、中の島ば配した心字池にかかる石橋は、高山彦九郎にゆかりのある京都三条の橋ばイメージして作られたていう。

 また、京都から移築した茶室と、犬走りの玉砂利敷きも、鞍馬山から「貴船の赤石」ば運んでを並べとるていう懲りよう。茶室の名は高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に因み
「以白庵(いはくあん)」ていう。茶室は一般にも開放利用されとる。

 このお寺には宣伝して人集めするような気は全然なか。逆に言うと知る人ぞ知るで、静かな自然が残されとる、ても云える。駅長が訪れたときには、お寺の加勢人さん老夫婦が落ち葉かきばしよんなった。

上流の左岸から見た久留米大橋。左が久留米市側。右のアンテナ塔は国土交通省筑後川ダム統合管理事務所。

 福岡から国道3号線で下ってきて、久留米大橋ば渡り1km足らず久留米市内に入っていくと、左手に櫛原町、右手には「寺町」が広がっとる。

 ここは地名のとおり約17の寺が集まっとって、 この通りに入ると静寂な別世界という感じがする。もともとここは、博多の石堂川沿いといっしょで、江戸時代に久留米藩が城の防衛線として寺ばっかり集めたとらしか。
 お寺は境内が広かケン、いざていうときには兵ば入れられるし、お墓ば倒せば守りの壁に使われるけんタイ。当時は26もの寺があったていわれとる。

 それぞれの寺には久留米で活躍した多くの先人達が眠っとんなって、その中には勤王の志士高山彦九郎(遍照院)、久留米絣始祖の井上伝(徳雲寺)、久留米つつじの始祖坂本元蔵(妙正寺)などがおんなる。

 これが観光上手の長崎やったら、派手に宣伝して賑あうとやろうバッテン、久留米は全然その気がなかとみえて、いつ行ってもこの一帯は静かなもん。悪ういうとゴーストタウン。町が死んどる。


   高山彦九郎とどうぐら久兵衞

 それから2年が経過して、道俊は風のうわさで彦九郎が、久留米で割腹自殺したことば知った。親友の森嘉膳(もり かぜん)の家でやった。
 道俊は、仕事ば投げ出して江戸に向う。彦九郎の親友やった林子平が彦九郎の辞世の句ば聞かせてくれた。
「朽ち果てし身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」「墓なく」は「儚く」にひっかけた。

 
道俊が「彦九郎の足跡」ばたどってみようと考えたとはその時やった。バッテン、懐に銭はナカ。 バッテン、若っか頃に覚えた独楽回しの芸がある。これで稼げば何とかなるやろう。
 「どうぐら九兵衛」の芸名もこの時につけた。

 「どうぐら」とは、曲芸や大道芸人の俗称タイ。「九兵衛」というとは「どうぐら」との語呂ば考えて適当につけた芸名やった。

 旅の手始めは、彦九郎が生まれた上野国(こうずけのくに)からやった。彦九郎が名主ば勤めた豪農の息子やったことばここで初めて知った。

 上野国から京都へ。さらに水戸、仙台、松前から北陸路へ、得意の独楽(こま)の綱渡りば披露しながらの旅が続いた。ついで中国から九州へ、九州では熊本から薩摩、日向ば経て豊後の日田からやっと久留米にたどりついた。行く先々で土地の酒ば飲み、彦九郎のことば聞いて回った。しかしどげんしても彦九郎が腹切って自殺までせないかん理由が分からん。

 九兵衛は、彦九郎の遺品やったひょうたんに酒ば注ぎ、遍照院に行ってみた。鬱そうとした大木の陰に、彦九郎の墓はあった。

 「先生はなし腹切ったりしたとですな」九兵衛は、ひょうたんの酒ば墓石に一滴かけて、独り言ばいうた。「松陰以白居士」と刻まれた墓石は、それでも何も答える筈がなか。

 「そんならこのどうぐら九兵衛が、一世一代の独楽回しばここでして見せますケン、答えてつかぁさいや」九兵衛は独楽(こま)の綱渡りから喧嘩独楽まで、曲芸一式ば墓前でひとり熱演した。

 「さあ、先生どうですな ? 」
 「それでも答えられん ? 」
 「そんなら、残った酒ば全部飲み乾しまっしょうや」

 九兵衛、ぐい飲みしたあと、残りば全部墓石にかけ「先生、また会いまっしょうね」て一声かけると、持ってきた短剣ば自分の腹に突き刺した。

 九兵衛が彦九郎の墓前で切腹自殺したとは、享和2(1802)年5月2日。享年73歳やった。
 なお、彦九郎の割腹自殺は47歳のときやった。

左・高山彦九郎が祀ら
れとる遍照院の墓所。

 上・夏目漱石が高良山から筑後川ば見て「菜の花の 遥かに黄なり 筑後川」て一句詠んだ時と違い、最近では白かダイコンの花がハバば利かすごとなった。畑で栽培されとった食用ダイコンが、川に逃げ出してきたとゲナ。

 市の歴史は、律令制下で制定された筑後国の国府が置かれ、筑後国の中心として昔から栄えとった。平安時代末期の長寛2年(1164)肥前の豪族草野永経(くさの ながつね)がいまの草野地区(旧草野町)に入り、以後約400年間、北部の山本郡は草野氏が支配し、南部の三潴郡は、蒲池鑑盛(かまち あきのり)ば領主とする柳川の蒲池氏が支配しとった。

  天正15年(1587)豊臣秀吉の九州国分(きゅうしゅう くにわけ)の結果、小早川隆景の弟・秀包(ひでかね)が久留米城に入った。関ヶ原のあとは、石田三成ばやっっけた三河国岡崎城主の田中吉政が柳川城に入り、筑後一国ば治めとった。

 ところが2代目藩主田中忠政が死んだら田中家は後継ぎがおらんやったケン、一家断絶となって筑後の国は南北に分けられ、北部に有馬豊氏(ありま とようじ)が丹波国福知山(現在の福知山市)から入って来て、以後久留米は有馬氏の統治により商業都市として発展していくことになる。

 遍照院の隣に瑞祥山少林寺(しょうりんじ)ていう臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)の寺がある。

 境内の広かとは遍照院バッテン、少林寺のほうが羽振りはよかごたる。この少林寺は元和九年
(1623) 有馬春林の命により俊嶺和尚(しゅんれい)が開いたお寺ていわれとる。

 例によって有馬春林ちゃ誰な ? 丹波福知山藩主やったとがクサ、慶長19年(1614)からの大坂の陣で手柄ばたてたもんやケン、筑後国久留米に21万石ばもろうて国持ち大名となった有馬 豊氏(ありま とようじ)のこっタイ。

 元和7年(1621)豊氏は久留米に入部して旧田中家時代の支城やった久留米城は修築したり、城下町の整備ば進めながら久留米の経営ば始めた。

 なし「春林」かていうと、戒名が「春林院」やった。梅で有名な
梅林寺も彼が丹波福知山の瑞巌寺ば久留米に移したもんタイ。

 寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発すると、老齢のくせに自ら島原まで出陣しとる。ていうか出陣せな徳川からクビにされるけん止むにやまれずのイヤイヤ出陣やったごたる。

 死になったとは74歳。墓は梅林寺。明治10年に創建された篠山神社にも、なしか知らんバッテン豊氏が祀られとる。

 いや、久留米藩主のはなしじゃナカ。少林寺の話しやった。

 江戸時代には久留米藩の重臣やった有馬光隆(ありま みつたか)の菩提寺となり、いま
桶冠観音て呼ばれとる聖観音の像が光隆によって、どっからかここに移されたて伝えられる。

 この寺に山門はなく、ただ門が南の方角に向けて開かれとる。入ってそのまま歩けば突き当たりがコンクリの本堂。その左手にある小さか堂が
「桶冠観世音菩薩(おけかぶりかんぜおん)」ば安置する観音堂。通称これば「桶冠観音」ていう。

 寺伝によると欽明天皇のころ、唐から来た連城法師(れんじょう)が持ってきた仏さんで、継体天皇の皇女・玉津姫の守り本尊やったていわれとる。

上・2000年橋がでけてからは、小森野橋の北300mの「小森野1」信号から別れて2000橋ば渡り、左カーブして東櫛原町から中心部の六ツ門へ抜けられるゴトなったケン市内へ入るとが楽になった。
下・下流の小森野橋から見た2000年橋。5つのスパンが美しか。

 2000年橋は西暦2000年 (平成12年3月)に完成したケン、この名がついた。
 久留米大橋の下流約700mに架かる。

 宮ノ陣橋からこの間は
筑後川リバーサイドパークとして河川敷が整備されとって、水と緑ば体感できる都市公園になっとる。

 約70ヘクタールある敷地内にはゴルフ場、サッカー場、野球場、テニスコート、ソフトボール場、多目的広場 など多くのスポーツ施設があって、市民のレクレーション場に利用されとる。

 駐車場も広かし、いつ行っても多くの利用者でにぎわうとる。
 春には、菜の花も美しか。

 
2000年橋は、長さが487m。巾24mで、専門語でいうと「PC5径間連続箱桁」ていうコンクリの堂々たる橋。

 この橋がでけるまで県道17号線(鳥栖筑紫野道路・愛称「かささぎロード」)ば南下して来た車は、全部小森野橋ば渡って久留米医大通りへ流れ込みよった。
(県道17号線については次の小森野橋で説明します)

 医大通りは道幅も狭く信号も多かったケン、混雑がヒドかった。

 久留米市(くるめし)は、福岡県の筑後地方にある都市で、人口が福岡市・北九州市に次いで福岡県では第3位、九州全体では第8位ば誇っとる。

 市域は東西約32km、南北約16kmで東西に長うて、市の南部から南東部は耳納(みのう)連山て呼ばれる山地が横たわり、鷹取山・発心山・耳納山などの山々が連なっとる。

 
筑後平野では最大の都市で、2005年に三井郡北野町・三潴郡三潴町・三潴郡城島町・浮羽郡田主丸町ば編入して人口が30万人ば突破したケン、2008年に中核市になった。

 中核市ちゃなんな ? 久留米の話やケン、そうくるやろうと思うとった。
 中核市いうとは人口が30万人以上で市議会も同意したら国に申請して指定ば受けられる。2013年現在、全国に42の中核市があって九州関係では下関・長崎・大分・宮崎・鹿児島・那覇が指定ば受け、佐世保が指定ば目指しとる。

 そんなら福岡はていうたら、福岡市は人口50万以上で区政ば敷いとる政令指定都市(せいれいしていとし)タイ。
 2012年(平成24年)現在、全国に20市あるなかのひとつタイ。

 目新しかところでは2012年に熊本市が政令指定都市になったケン、住所に・・・区がひっつくごとなった。北九州市ば入れて九州の政令指定都市はいま3つになっとる。

 桶冠観世音には次のごたる言い伝えがある。
 天正14年(1586)から15年にかけて行われた秀吉の「島津征伐」のとき、この尊像ばお参りにいっぱい村人が集まっとったら、堂塔の四方から薩摩の兵隊が火ば付けたもんやケン、あっという間に火につつまれてしもうた。

 自分たちの身も危うなって、観音さんばどうすることもでけんやったけど、とりあえずそばにあった「水桶」ばかぶせて、火の中から逃げ出した。逃げる間際の機転やった。

 堂塔はことごとく焼けてしもうたバッテン、人々が焼け跡ば見回っとったら、桶がひとつ焼けずに残っとった。

 「おかしかなぁ思うて」その桶ばとって見たら・・・・・・観音さんの尊像が光明ぱ放っとんなるやなかね、人々は「ははぁーッ」て平伏して拝み、これいらい「桶冠りの観音さま」て呼ぶごとなったゲナ。

 
この観音さん、ご開帳の時にしか直接は拝まれん。
 「そのご開帳はいつですな」て寺の人に聞いたら
 「50年に1回です」
 「次のご開帳はいつですな」て聞いたら「私も調べてみなよう分かりまっせん」て。
 「そげな有り難か観音さんなら、もっとみんなに拝んで貰うた方がよかでっしょうモン」ていうたら

 「昔から決まっとる寺の規則ですケン」てとりつくしまもなか。
 いまの寺が葬式屋になってしもうとるとは、ここらへんの考え方タイ。檀家だけば当てにした閉鎖的な考え。

 「どげんよかもんでも、みんなに見て貰うてこそなんぼの値打ちやろうもん」
 そやケン、久留米の寺町は死んどるとタイ。

ナカは見せられまっせん

少林寺の本堂。この左手に桶冠観音堂がある。

右・2000年橋南側の親柱にはヤミ金融のチラシが所狭しと貼られとって、それを中途半端に剥がしとるもんやケン、博多弁でいうと「ざまぁなか」
撮したままでは可哀想かったケン、駅長が画像処理できれいにしてやった。

左・新しか橋だけあってPC 5径間連続箱桁は、下から見ても美しか曲線美。
下左・欄干のデザインもしゃれたもん。
下右・橋の歩道から上流ば向くと、久留米大橋越しに高良山に続く耳納連山が霞んで見えた。

 2000年橋の下流約150mに架かる小森野橋は、完成したとが昭和32年(1957)10月やケン、もうかれこれ60年近う県道17号線ば支えとる。

 橋の長さ368.4m。橋の巾9m。形式はゲルバーガーダH型鋼桁。ゲルバーガーダ橋いうとは、ドイツのゲルバーさんが考え出しなった桁(ガーダー)橋のことで、桁にH型の鋼材ば使うとるていうこっタイ。

 県道17号・久留米基山筑紫野線は、久留米市から鳥栖市の鳥栖筑紫野道路ば通って福岡県筑紫野市を結ぶ県道のことで、もともとは「鳥栖筑紫野有料道路」やったとバッテン、平成19年(2007)に無料化された。

 鳥栖の門前交差点から筑紫野市の武蔵交差点までの区間には信号機、交差点がなかケン、一般的な道路と比べ快適に走れる。
 駅長お気に入りの道路のひとつタイ。


左・2000年橋がてけて通行する車が分散したケン、多少はラクになっとるかなぁ。
橋の北側には久留米高専があって学生さん達は、橋の下流側にあとでくっつけた人道橋ば利用して通学しとる。

 いかにも歴史のある感じの(悪ういえば古めかしか)小森野橋。鋼鉄の桁橋やケン、コンクリにくらべると細身。

上左・小森野橋の南側親柱。
上右・昭和32年に本橋がでけて、昭和65年に歩道橋ぱ継ぎ足したことが分かる。
左・医大通りから来た車は、急な左カーブで橋ば渡りだす。写真の右に写っとるとがあとででけた人道橋。奥のビルは医大。

 県道17号が途中通り抜ける鳥栖筑紫野道路(とすちくしのどうろ)は、鳥栖市から筑紫野市に至る一般道路で<
愛称ば「かささぎロード」ていう。

 昭和47年(1972年)5月に一般有料道路として供用が開始され、平成19年(2007)5月9日に無料で開放された。
 無料化の前は軽が100円、普通車が150円やったバッテン、真ん中辺りにあった料金所ば通らんやったら、前後はタダで走られよった。

 有料やった頃、料金所付近の通行量は1日平均約20,000台やったとが、無料化したあと調らべたら約40,000台で、ほぼ2倍になっとったゲナ。

 久留米絣ば編み出した(初めからギャグ)井上伝(いのうえでん)が生まれたとは、 天明8年ていうケン、1789年。今から数えると2百年以上も前の話。

 父は通外町で「橋口屋」ていう米屋ばしよったが、決して裕福ではなかった。伝は祖母ヨシノの影響で子供の頃から縫い物が好きやったケン、先生について本格的に織物や裁縫の勉強ば始めた。

 12〜13歳のころになると、もう大人もおよばんくらいに木綿織りが上手くなり、白木綿や縞ば織り上げては売りに出しとった。

 ある日、伝は着古した藍染の木綿の着物が、白か斑点のごたあ模様になっとることに気づいた。普通なら雑巾にでもしてしまうとバッテン、伝はそれば面白か模様と思うて
「こげな模様の着物が編めたらよかねぇ。1本1本の糸はどげんなっとるとかいな」

 当時の着物は単調な紺一色か地味な縞柄がほとんどやった。木綿の藍染は何度も洗ううちに染料が抜け落ちることは誰もが知っとったバッテン、それば気に留めるもんなぁおらんやった。


  久留米絣と      

 着物ば解いてみた伝は、紺色の糸が所々白うなっとることば見つけた。
「紺と白のまだらの糸で織れば、新しか模様の織物ができるかもしれん」
 伝は新しか白糸ば出してきて、ところどころば括り始めた。
「藍汁が染み込まんごつ、きつう縛らにゃよ」ばぁちゃんのヨシノがアドバイスする。

 染めあがったその糸ば機(はた)にかけて織ってみた。
 バッテン、伝がイメージした模様はなかなか思うようにはでらん。それでも諦めずに繰り返しよるうち、ようやく紺地に白い斑紋が表れた。これが「久留米絣」の始まりとなる。時に寛政12年(1800)の春先やった。

 それば見たもんは、あたかも雪や霰(あられ)が、飛び舞う姿に似とったもんやケン、「雪ふり」とか「霰織り」て呼び評判になっていった。伝は織物の模様が掠れて見えたことから、「加寿利」「お伝絣」て名づけ販売した。掠れとるケン、絣(カスリ)。伝はギャグも上手タイ。

 これがいまでいうヒット商品になり、彼女の名は領内に知れ渡ることになる。
 伝が16歳の頃にはもう数十人の弟子が集まったていわれとる。

 21歳のとき、伝は井上次八に嫁ぐ。井上家は織屋やったケン、弟子の指導ばしながらさらに織りの技術ば磨いた。

 「久留米原古賀織屋おでん大極上御誂」のブランドで「お伝加寿利」はよう売れた。しかし、伝が28歳のとき頼りにしてきた夫ば病気で亡くしてしまう。
 3人の子どもがおった伝は途方に暮れながらも、なじみ深い通外町に戻り、生家の斜向いの小さな家で弟子ば集めて指導ば始めた。

 久留米大学病院(くるめだいがくびょういん)は、久留米市にある県南でただここだけの大学病院。

 昭和3年(1928) 九州醫學専門學校いうとがでけたケン、久留米市から市立病院の移管ば受け九州醫學専門學校附属病院てなったとが始まり。

 昭和25年(1950)久留米醫科大學附属病院になり、昭和31年(1956) 久留米醫大が廃止されたもんやケン、久留米大学医学部附属病院になり、昭和50年(1980) 今の久留米大学病院てなった。

 病院の中に「救命救急センター」があって、全国で5番目に配備されたドクターヘリが病院の屋上に常時待機しとる。平成14年から福岡県全域ば対象に運航開始、平成15年からは佐賀県全域に、現在は大分県の一部にも運航ば初めたケン、地域、とくに山間部僻地の住民は安心しとってヨカ。

 実際これまでにピーポーの救急車やったら助からんやったとい、ヘリで運んだケン、助かった例が何例もある。
助かった人は「ひとえにヘリのお陰」いうて、ヘリくだって喜んどんなる。

 40歳のころには、弟子が1000人にもなり、3棟も建て増したていう。弟子の内、400人ほどは各地に散らばり、機業ば開業したとゲナ。

 こうして筑後の村々では、女性のいるところ「トンカラリンていう機織りの音が聞こえん家はなか」てまでいわれた。

 絣は個人の趣味から産業として広まり、久留米は絣の産地として確立していった訳タイ。

 70歳になっても伝は「教えにきちゃんしゃい」てわれると、孫のトモば連れて子女の指導にあたり、その教えを受けたものは数千人ば越えるていう。

 「からくり儀右衛門」こと田中久重も協力して絣の板締め技法ば考えだし、それによって伝は絵模様も織り出すことに成功した。
 「からくり儀右衛門」については「ステンショの久留米駅」で紹介しとるけんそっちば読んでつかぁさい。

 伝は82歳で亡くなった。
 久留米絣のもつ木綿の素朴さと冴えた紺白。機(はた)と向き合い力強う生き抜いた女の一生やった。

左・伝さんが生まれなった通外町の「五穀神社」にある記念碑。凛とした胸像やった。
下・徳雲寺の墓の傍にも伝さんの銅像があり。こっちは穏やかな表情ばしとんなった。

上・寺町の徳雲寺にある伝さんの墓。自然石の立派なもんやった。白か斑点がでて久留米絣のゴト「かすれ」とった。

 人間は助かったて喜んどんなるやろうバッテン、小森野橋のほうは下に回って桁の裏側ば見て見ると、60年の疲れが素人の駅長でも分かるゴト鋼材の痛みに表れとる。

 橋ばドクターヘリで運ぶわけにはいかんやろうケン、これは補修して寿命ば延ばすか、架け替えるとか早めに手ば打たな「おおごと」の起こってからでは遅か。

右・鋼材がくたびれて泣きよる小森野橋の裏側。そういえば橋渡るときに揺れとった。
下・下流から・・大型トラックは危なかバイ。

  次号はこの先久留米城趾の下で、カックンと直角に曲がって南下するか、一旦立ち止まって右岸から流れ込んでくる「宝満川」へ道草喰うか、駅長も迷うとる。           取材期間 2010.3.15〜2013.4.5

       なかなか進まん筑後川の旅。次回のは、本流に入っての11回目です。

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