梅林寺の本堂正面には浮彫りの扉ば持つ唐門が貫禄ば見せ、裏に廻ると始祖ば初め歴代藩主の霊廟やら墓塔が、静かな小松林の中に風格ばただよわせて林立する。
外苑は寺の名に合わせたごと梅林が広がり、梅の咲く季節には市民の憩いの場になっとる。
水天宮に祀られとるとは、天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院・平徳子)・二位の尼(平時子)。
社伝によれば、寿永4年(1185)、壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使の局伊勢が千歳川のほとりに逃れて来て、安徳天皇と平家一門の霊ば祀る祠ば建てたとが始めていう。
伊勢は剃髪して名ば千代て改め、加持祈祷ばしたケン、当初は尼御前神社て呼ばれとった。
左・水天宮の川辺に残る「瀬ノ下渡し」跡。筑後川には62の渡しがあったていうバッテン、この瀬の下の渡しもその一つで長門石への唯一の交通手段やった。橋がでけても昭和56年まで運行しとったゲナ。
上・長門石橋の親柱(西側)
右・この地図ばよう見て貰えば今回取りあげた橋やら、レポートに出てくる場所が分かりやすかと思います。
ふだんはそげな自然の流れでよかったろうバッテン、いったん上流に大雨が降って、川が増水したらおおごとタイ。蛇行しとるところで、必ず水が溢れ洪水ばしょっちゅう引き起こしよった。筑後川が「あばれ川」て云われてきた訳タイ。
ひどかときはここで溢れた水が、約30kmも離れた佐賀城まで水浸しにしたこともあったゲナ、右岸の鍋島藩はたまったもんじゃなかった。
バッテン、困った時にはなしか救いの神が現れる。むかしから云うてあるタイ「家貧しゅうして孝子現れ、国危うして忠臣現る」て・・・・鍋島藩に現れた忠臣が水の神様ていわれとる成富兵庫茂安(なるとみ ひょうご しげやす)やった。
この人のことについては、ふる里駅・待合室の九州遺産の佐賀県の「石井樋」ていう項目と、
http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/isan/title.html
同じ待合室の山ものがたりの福岡県の山その3の「蛤岳」にも詳しゅう紹介しとるケン、
http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/yama/yama3/yamaindex.html
そっちば読んでからまた戻ってきて貰えば理解が早かろうや。
鍋島藩の家老やった成富兵庫茂安は、大雨のたんびに溢れる筑後川ばなんとかせないかんて考え、蛇行した川の右岸に堤防ば築くことにした。
地図見て貰えば一目で分かるごと、この堤防は長門石の対岸千栗(ちりく)から、坂口まで3里ていうケン、約12kmもあった。これば千栗堤防ていう。千栗て書いて、なし「ちりく」か ? 「ちくり」の間違いやなかと ?
駅長もはじめは「ちくり」て読みよった。それがなし「ちりく」いう地名になったとか、別枠に書いとります。

千栗(ちりく)と千栗八幡宮
長門石橋ば渡って直線で約1.5km、信号四つ越すと「千栗八幡宮」に突き当たる。
小高い丘の天辺に向こうて急な石段が登っとる。本殿はどうもその上にあるらしか。
登ってみよう。・・・・・待て。
その前に「千栗」て書いて、なし「ちりく」なんて逆さ読みばするとか ?
それにはこげな言い伝えが残っとる。
遠い遠い奈良時代の神亀元年(724)ていうケン、やく千三百年も前の話。
肥前国の養父(やぶ)郡司やった壬生春成(みぶはるなり)ていう人が、千歳川(筑後川)岸辺のこのあたりで猪ば追いかけよったら、一羽の白い鳩が飛んできて弓の先に止まった。
鳩は八幡さんの使いていうケン、春成は「狩りば止めろ」ていうことやろうて感じ、猪ば追いかけるとば止めた。
その晩のこっタイ。白髪の翁が丸か盆に千個の栗ば盛って枕元に置き「この地に八幡神ば祀れ」いうて消えた。春成は、くたびれとったケン、夢見たとやろう思うて、翌日、再び同じ場所へ猟に行ったら、何と一夜のうちに栗の木が、しかも逆さまに生い茂っとるやなかね。
びっくりこいた春成は早速この山に八幡宮は祀り「千栗八幡宮」てしたとバッテン、「ちょっと待てよ、ただ千の栗じゃあ面白うなか。逆さまにはえとったっちゃケン、読みも逆さまにして「ちりく」にしようていうことにした。
それからは八幡宮もここの地名も「千栗」と書いて「ちりく」ていうごとなったとゲナ。ほんなことかいな思うて交差点の標識は確かめたら、英語でもChirikuて書いちゃった。
その千栗堤防、完成まで12年の歳月ば費やして、寛永年間(1643)にやっとでけあがった。なし12年もかかったとか。農家が閑な時期だけ農夫ば動員して作業ばしていったけんタイ。
この堤防はよう考えられとって、高さ4間(約7.2m)、馬踏(天辺の巾)2間(約3.6m)、表裏ともに勾配2割、川表には竹ば、川裏には杉ば植付けた。これは竹の根がようと土ばからめ、枝葉が繁って水勢ば弱めてくれるけんやった。
また、堤防は二重にしてその間は100間(約180m )。この空間ば洪水の遊水池とし、水勢ば弱めて堤防が決壊せんごと、よう考えた設計になっとつた。
千栗堤防がでけていくにつれ、右岸の鍋島側は大雨が来ても、洪水から守られるごとなった。バッテン、そのぶん対岸の有馬藩側はいっつも水浸し。被害ば受けた有馬藩の農民は、恨みばこめて「鬼の茂安」ていうた。
水天宮(すいてんぐう)は全国にある水天宮の総本宮。
瀬下開削
水天宮 梅林寺
佐賀ば守った 千栗堤防
こうなりゃ有馬藩もじっとはしとられん。
対抗するごとして寛永年間(1641)から寛保元年(1741)にかけて三瀦郡安武村(現安武町)に堤防ば築いた。
敷幅30間(約54m)、高さ4間(約7.2m)、馬踏3間(約5.4m)の規模やった。安武から下流の住吉におよぶ延長約1里13町(約5.5km)ば安武堤防ていう。
千栗・安武両堤防とも、以後300年にわたって筑後川ば暴れさせんゴトしたとやケン、その功績は大きか。
両堤防とも近年の河川改修やら県道整備で、昭和45年に壊されてしもうたケン、むかしの姿ばいま見ることはでけん。ただ、豆津橋から佐賀県に入り約1kmの「千栗」信号の手前に「千栗土居公園」いうとがあって、長さ約180mばかりが県の史跡として残されとる。
現在残っとる千栗土居の構造は、下部が砂の層、その上に粘土ば数段敷き固めて補強しとることや、土居の内外の犬走り(河川敷・いまは蓮池)ぱ残しとることなど、当時の築堤の様子が想像でける。
また、この辺りは町村合併で「みやき町」にいまなっとるバッテン、以前は恩人成富兵庫茂安の名前ばとって北茂安村ていいよった。
なお、この茂安は寛永11年(1634)、75歳で死去。家臣7人が殉死したていう。それだけ周りの人に慕われとったていうこと。墓は佐賀市田代の本行寺にある。
千栗土居公園
豆津橋渡って県道22号線ば北西へ真っ直ぐに1km走ると左手に土手が見える。
これが県道整備工事で姿ば消してしまう千栗土居ば後世に残そうとみやき町が公園化したもの。
4〜5月になると公園前には武者のぼりが立ち並び、7〜8月には蓮の花が3千坪の蓮池に咲く。
上・佐賀市の本行寺にある成富家代々の墓。茂安の墓は中央で、始めここには遺髪のみが埋葬されとった。ほかのとこにあった遺骨が昭和15年に確認され、ここへ改葬された。
右・この「茂安公築堤功績碑」は昭和10年(1935)に、当時の北茂安村と南茂安村の関係村長など千栗土居の恩恵ば受けた人々の発起で建てられた。
そんなら駅長さんもし、もうひとつ聞きますバッテン「長門石」いうとはなしですな ?
「長門石 ( ながといし)」
平家が長門(山口県)から逃げてきたとき乗ってきたていう船の碇石(いかりいし)が、町内の長門石八幡宮にある。長門から来た石やケン長門石。分かりやすか地名の由来タイ。
また、大宰管内志(だざいかんないし)なんていう昔の記録によれば、この石に長門の国の船ばつないだことからこの地ば「長門石」というようになったてあり、本来、船の碇として使用されとったこの石が、後に船ばつなぐための舫石(もやいいし)に転用されたとかも知れん。
その長門石は筑後川の右岸にある町やケン、佐賀県やろうと思いがちバッテン、福岡県久留米市の一部。住所表記における長門石1〜5丁目と長門石町ば指す。
なし久留米の飛び地みたいになったとか ?
昔は筑後川がここで大きゅう蛇行しとって、川の真ん中ば藩の境にしとったケン、有馬藩の土地やった。
川が蛇行しとるために、毎年洪水に悩まされとった有馬藩が、とうとう我慢しきらんごとなって慶長9年(1604年)ここば直線状に掘削する工事ばした。これば「瀬下開削」ていう。
川は真っ直ぐになったバッテン、長門石は島になってしもうて生活がでけん。
正保2年(1645)藩主・有馬忠頼(ただより)は瀬下に船着場ば造り、上流の洗切に住む町人ば移住させて船手方にし、長門石とは渡し船で往来でけるごとした。
バッテン瀬下開削のお陰で長門石は、以後昭和49年(1974)に長門石橋がでけるまで、渡し船でしか往来でけん陸の孤島になってしもうとった。
いまは1丁目の長門石橋西交差点から佐賀県みやき町の千栗八幡宮前交差点ば結ぶ通りば中心に住宅街、マンション街ば形成しとる。
新しか住居表示が実施されとる長門石1〜5丁目が住宅街、されとらん長門石町が田園地帯と区分できる。
また、県境はむかしのままやケン、周辺はぐるりぐるっと佐賀県タイ。
橋がでけてから市内へ行くとに便利になって長門石の人口が急に増えたもんやケン、橋付近の交通が渋滞するごとなった。それに嫌気がさして最近は転居する人もおんなるゲナ。
長門石の名の元になった碇石は花崗岩で、高さ128cm、幅23cm、厚さ20cm、中心には幅4.5cmの固定溝がある。
昭和62年、久留米市は有形民俗文化財に指定した。
明治22年(1889)12月11日、九州鉄道が博多から久留米までの鉄道ば開業し九州で初めての汽車ば走らせた。
ていえば格好よかバッテン、実は、集中豪雨のため久留米駅手前の千歳川橋梁が間に合わず(資金が足りんごとなって、銀行との融資交渉に時間がかかった、ていう説もある)、川の手前に千歳川ていう仮駅ば作って、とりあえず開業させた。久留米間はどうしたかていうと、乗客ば歩かせて久留米駅も同日に開業したとゲナ。
千歳川橋梁が完成したとは翌年の3月1日やった。
ここでちょっとイランことバッテン、解説入れると、むかしの筑後川は時代によっていろんな名前で呼ばれとって、例えば千歳川・千年川(ちとせがわ)、一夜川(いちやがわ・大雨が降ったらスグ氾濫して一晩で流れが変わってしまうけんタイ)、筑間川(ちくまがわ・筑前と筑後の間ば流れとるけんタイ)とも呼ばれとった。
筑後川ていう名前が最終的に統一されたとは寛永13年(1636) 島原の乱のあとやった。しかしこの名前は筑前・筑後・肥前三国の国境ば流れる川やケン、つけられたもんで、上流の豊後国内では こうは呼ばれんやった。いまでも日田までは玖珠川とか三隈川とかで呼ばれとる。
当時のダイヤは一日3往復(上下6本)やった。博多〜久留米35キロば1時間23分で結んどった。機関車はドイツのホーヘンツォーレルン(Hohenzollen)製のBタンク3両。
いまは電化した鹿児島本線と九州新幹線の鉄橋が二本並んで一日中列車がシャンシャン走りよる。
博多から九千部山ばトンネルで抜けて新鳥栖に飛び出した新幹線は、真っ直ぐ真南に走って筑後川にさしかかる。新幹線の下、手前は鹿児島本線の線路。このへんにはじめ千歳川仮駅がでけとつた。
上・JR鹿児島本線鉄道橋。完成したとは昭和52年11月。橋の長さは411m、幅が10m。複線のトラス鋼橋。
トラス橋いうとは、桁ば細長か部材で三角形に繋いだ構造のこと。それが鉄鋼でてけとるケン、トラス鋼橋。
手前は九州新幹線の筑後川橋梁。完成したとは九州新幹線開業の2011年3月。橋長411m。幅が11.30m。
橋の形式は 3径間連続合成箱桁2連。箱桁いうとはRC(コンクリート)で作った箱形ば並べて桁にしたもん。
下・3径間連続合成箱桁2連ていう橋の形式がよう分かる。3径間いうとはスパンが三つ。ていうことは橋脚が2
本。それが2連でふたぁつ続いとるていうこと。
左が北で鳥栖方面。右が久留米市内。緑のこんもりは「梅林寺」で、このへんから下流ば瀬下ていうた。
「筑後川治水誌」ていう記録によれば、「初め筑後川の形状、久留米城の西南側において屈曲甚しく河水の流れ宜しきば得ず、出水の際城中屡々浸水の害に遭う」て書いちゃる。
慶長6年(1601)当時の城主田中吉政の命令で、城の南にあった丘「鷺の森」ば掘削して、川の流れば変え水運の便ば図ろうてしたとバッテン、地盤が硬か岩ばっかしで開削は諦めざるばえんやった。ようするに博多弁でいうたら「ケツ割った」わけタイ。
のちに藩主が有馬氏に変わり、承応年中ていうケン、西暦でいうと1652年から1654年の頃、石工の酒井重右衛門いうとが、ここばブチ破って舟が通せるようになった。
これがいまの筑後川本流で、残った岩やら水底の小石は明治20年の改修工事でのかしてしもうたケン、いまは見たっちゃ「へぇーそうやったと」ていうぐらい、痕跡は残っとらん。
このお陰で長門石ば遠回りしとった筑後川は、ここだけに限っていうと、流れが真っ直ぐになったワケ。初めの地図ば参考に見て貰えば、水運もやが、その水害予防効果のほどが分かるやろう。
これば「瀬ノ下新川開削」ていうとバッテン、いま久留米のもんでも知っとるもんなぁ少なか。
上・北側の土手から左が鹿児島本線。右のコンクリ橋が九州新幹線。真ん中に見えとる建物は、久留米駅前の
「ザ・ライオンズ久留米ウェリスタワー」ていう35階建ての売りマンション。市役所のビルより高いケン、遠くから見たらいま久留米市でいちばん目立っとる。
八幡宮のほうは、承平年間ていうケン、(931年〜938年)に宇佐八幡宮の別宮になり、 朝廷からも厚く崇敬ば受けとった。慶長14年(1609)には後陽成天皇から「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅頼ば賜り、中世以降は肥前国一の宮て呼ばれるごとなっとんなる。
御祭神はどこにでもよう出てくる仲哀天皇・神功皇后の夫婦と、その子應神天皇の一家。
場所は、佐賀県みやき町。境内から筑後方面ば眺めると、筑後川ば挟んで、筑後国一宮高良大社と対峙する位置にある。目の下には長門石橋まで伸びる街路が一直線に見える。
長門石橋ば市内から渡るには、医大通りの「市役所前」信号やらブリジストン通りの「京町第二公園」信号ば通って「梅林寺地下道」いうとで鉄道線路の下ばくくらないかん。
朝晩、信号は混むし、雨でも降ったら地下道は冠水危険個所。取り付きにっか橋のひとつ。
長門石橋は県道「江口長門石江島線」に架かっとる。完成したとは 昭和49年3月。橋は巾が12.6m、長さが377m、5径間連続ラーメン箱桁ていう形式。通称ラーメン橋。ラーメンいうとは「骨組み」のことで、主桁と橋脚・橋台ば剛結構造したもん。剛結構造いうとはコンクリと鉄鋼ばガチンと結合したもんタイ。
右・堤防に上ると右下に県道。むかしはこれが川やった。下からやったら見上げるほどの土手が長さ180mだけ保存されとる。
上・長門石橋ば渡って真っ直ぐに約1200m走って突き当たると、千栗八幡宮に突き当あたる。
左右・狛犬好きの駅長が見つけた年代もんの狛犬さん。社殿にはもっと古か狛犬が保存されとる。
左・この石段ば来る日も来る日も走って上り下りしよった少年がおった。
少年の名は古賀稔彦。バルセロナとアトランタのオリンピックで金と銀のメダルばとった。