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其の十九


 筑後川もここらまで下ってくると川幅の広かとにたまがる。天気の時はよかバッテン、くもりやら、ちょっとガスのかかった日は・オーバーじゃのうて川の向こう岸が見えん。
 橋も残りが少のうなったケン、ひとつづつ大事に見ていきまっしょう。今回は
鐘ヶ江大橋・諸富橋・大川橋あたりば訪ねます。

 青木中津大橋の下流約2kmにかかっとるとが鐘ヶ江大橋。長か橋やケン、歩いて渡るのには時間かかる。。

 筑後川も下流のこのあたりになると、永年にわたり上流から流されてきた土砂が堆積して中州ばっかし。川の蛇行も激しかもんやケン、川の真ん中に決めた県境もくねくねと曲がってややこしか。

 今回のスタート鐘ヶ江大橋も西側は中州ば開発した島。道海島(どうかい)ていう。いまは筑後川の右岸にあるバッテン、佐賀県じゃのうて福岡県大川市てなっとる。

もともとこの中州ば開発したとは、三潴郡中古賀村(現大川市)の人で、緒方将監(おがたしょうげん)ていう。慶長15年(1610年)頃やケン、もう500年以上むかしの話タイ。

 まずこの人は筑後川の左岸、斥歯(農作がでけん不毛の土地)の地ば数年かかって7町余の田ば開きなったていう。これが現在の城島町タイ。

 ここが成功したもんやケン、のちに村民ば連れてもうちょっと下流の中州も開拓しょうとしたところが、この中州は右岸の佐賀に近かったもんやケン、肥前のもんが黙っちゃおらん。

 なんべんも苦情やら嫌がらせにあいながら、18年もかけて50余町の耕地ば作り、中古賀の村民ば移住させて一村落ばつくった。

 その広さは大正11年の測量によると、東西8町7合(948m)、南北8町3合(約904m)、周囲29町31間(約3,719m)、耕地反別69町4反(約688,268m2)、人口は660人にもなっとったていう。

 で、浮島も道海島も、川の中州バッテン、慶長15年から筑後の領土となっとった。

 ところがその後、川の流れが完全にこの島の東側に寄ってしもうたもんやケン、この島は右岸側(佐賀県側)に接近し、いまの形からすれば、佐賀の土地やろうて思うてしまう。

 バッテン、過去の経緯があるもんやケン、福岡県ということになっとる訳タイ。

上・地図の赤線は国道20号線。
  青線は佐賀と福岡の境界線。

上・下流からみても鐘ヶ江大橋は長い長い。
中・道海島へ渡りきった橋の袂から。欄干のデザインが面白い。
下・道海島側の出入り口。橋は渡っても、道海島があるケンまだ福岡県。

 鐘ヶ江大橋は川の流れが変わって遙か彼方の島になった道海島と福岡県ば繋いどる。この橋ば渡っとる道は「佐賀県道・福岡県道20号佐賀大川線」ていう。

 起点は佐賀市の水ケ江2丁目、終点は大川市大字鐘ケ江。その地名ば採って鐘ヶ江大橋て名付けられた。起点の佐賀市街が多少混むほかは佐賀平野ば気持ちよう走れる直線道路タイ。

 筑後川の北側は基本的に佐賀県の領域バッテン、県境付近の道海島地区と鐘ヶ江地区ば結んどる鐘ヶ江大橋は福岡県の区域やケン、実際には福岡県の県道としても指定されとる。

 橋がでけたとは昭和56年3月。
 河口からの距離が10kmで、川幅が広うなっとる場所やケン、橋の長さが422m、巾が12.8mもある「まさに大橋」 形式は5径門連続鋼版箱桁いうて、頑丈な橋脚が5本も立っとる。

 エツ(斉魚)は、ニシン目・カタクチイワシ科に分類される魚の一種。東アジアの汽水域(淡水と海水が混じっとるとこ)に生息する魚で、食用になる。
 成魚は全長30cm-40cmほど。体は植物の葉のごと前後に細長く、左右から押しつぶされたように平たか。
 体側は銀白色の円鱗におおわれ、全体的にはナイフの刃のような外見で格好良か。

 弘法大師が筑後川に流した葦の葉が魚になったと伝えられるエツ。青木島には弘法大師ば祀る「エツ大師堂」がある。また、城島町ではこの伝説に語られるエツば宝の魚として、毎年エツ漁のはじまる5月上旬に、豊漁ば祈願する「エツ感謝祭」が行なわれとる。

 
川岸の「エツあります」の看板につられて入った食堂の女将さんにいわせると「エツはっさいの(ですね・筑後弁)、ほんなこつ(本当に)、ちっごがわん(筑後川の)ここんにき(ここらあたり)でしか獲れん珍しか魚ですもんの」ていうことになる。

 なるほど流通手段が発達しとる今日でも、すぐ近くの福岡市でさえついぞ見かけたことがなか。鞘から抜いた刀のごとスマートな形ばしとって、鱗が銀色に光っとる。小骨が多かケン、小さく刻んで刺身や煮つけにして喰う。
 この魚カタクチイワシ科で、毎年5月から7月にかけて産卵のために筑後川を上って来るところば捕獲する。
そんな珍しか魚やケン、起源についてもいろいろな説がある。

 1200年ほど前の平安時代。ある晴れた日の夕暮れ時。筑後川のほとりにある渡船場に一人の行脚僧がさしかかり、川岸に船ば着けた船頭に「もしもし、川を渡してはくださらんか」て呼びかけた。

 バッテン、坊んさんの格好があんまりみすぼらしかったもんやケン船頭が聞いた。
「坊さん渡し賃は持っとるとの ? 」

 坊さんは渡し銭ば持たんていう。船頭は「金なしでは渡してやれん」てすげなく断った。
坊さんは隣の船に頼むけど、金ば持たんて分かれば断られ、また次の船も断られる。船頭の誰ひとりこの僧ば船に乗せてやろうちゅうもんなおらんやった。

「今日はなんか悪かことでもしたつかなぁ、小魚の1匹も獲れんかった」独り言の愚痴ばこぼしながら通りがかった若っか漁師の兄さんがこれば見て、
「あのう、お坊さん。俺のボロ舟でよかったら、乗らんの」
「ありがたい、しかし、いま拙僧はは文無しじゃ」
「そげなもんはいらんよ。俺は渡しの船頭じゃなかけん」

 若い漁師は、泊まり綱ばはずすと手ば差し伸べて、坊さんば舟に乗せた。
「さあ行きますばい、対岸まで10分ぐらい。しっかり掴まっといてくんしゃい」
「ところで、坊さんはどこん人の?」

「はい、拙僧は四国の讃岐(香川県)で生まれた空海と申します。仏の教えば学ぶために唐の国に渡り、昨日日本に帰ってきたところです」
「それはご苦労なこつでしたね。それでこれからどちらまで?」

「はい、唐で学んだことを一刻も早く都で待っている弟子たちに伝えなければなりません。大宰府に立ち寄った後、すぐに京に向かいます」

 間もなく舟が対岸の渡し場に着いた。
「助かりました」
「なあに、たいしたことじゃなかですよ」
 若者が笑うと、坊さんも気が楽になっとか一緒に大声出して笑うた。

「ありがとうございました。なにかお礼をとは思いますが、お見かけのとおり乞食坊主、もしも、あなたが暮らしに困るようなことがあったら、この魚ばとって暮らしの足しにしてください」

 坊さんは岸に生えとった葦の葉ば一枚とって川に投げ入れた。見とるとその葦の葉は、一匹の魚いなって、夕日に銀のうろこば輝かせながら、水中深く消えていった。

「きれいな魚やったのう。坊さん、俺はあげな魚ば見たこつがなかですよ。何ちいう魚な?」
「あれは、斉魚(エツ)」
「えッ(ここギャグ)」

 舟から降り立った坊さんは、そのまま夕暮れのなかに消えていきなった。

 それからというもの、この魚が筑後川に繁殖し、あの時の若い漁師はこの魚ば取り、暮らしが立てられごとなったていう。

 旅の僧は弘法大師やったて伝えられとる。

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 これだけ調べがついて、一通りエツについてのレポートがでけたもんやケン、駅長は満足して、ひとりで「悦」に入っとる。

 鍋島から佐賀市の西側・南側を回る道路ば、それぞれ環状西通り・環状南通りていう。正式には国道208号線。
 むかし佐賀線がはしりよった跡に沿うて東へ走って来て、筑後川ばここで渡り、大川市から大牟田へ繋がっとる地方の主要道路タイ。

 それがこの諸富橋ば渡っていくケン、とても通行量が多か。

 歩行者とは共有でけんごとなって、人道橋は上流側に追い出された。

 諸富橋ばわたると、そこは筑後川の中州で名前もズバリ「中の島」 正式には佐賀県諸富町徳富。この小さなゴルフ場と緑地公園のある中の島までは佐賀県の範囲。

 この橋見た目に古くさい。というかレトロ調。それもそのはず、でけたとが昭和30年の3月ていう。

 ひとつ上流の鐘ヶ江大橋が昭和56年やから、それからすると20年以上古か。

 河口からの距離480m。橋の巾が狭かはずタイ。8.99m

 橋の形は鉄鋼ば三角形に組み合わせて作つたトラス橋。作るのに手間はかかるバッテン、材料が少なくて済むケン、一時このての橋が流行った。

 専門的には連続5径間鋼床板桁ていうとやけど、これだけ聞いたっちゃなんのことか素人にはさっぱり分からん。

右上・諸富町側からみたところ。トラックの離合はスレスレ。
右下・後でくっつけた人道橋。

上・佐賀県側から見た諸富橋。しっかりしたコンクリートの橋脚4本で踏ん張っとる。

上・諸富橋の西口交差点は、佐賀方面からきた車と、大川から橋ば渡ってきた車が時間によっては渋滞する。橋が狭うて徐行しかでけんから。
左・三角形の集まりで橋桁ば支えとるトラス橋。天気の日は「白」が映えて美しか。

右・諸富橋の下流500mには、次号で取りあげる「筑後川昇開橋」が見える。
 左手のお城のごたる建物は、中の島の南端にある「ロイヤルパークアルカディアリゾート」ていう結婚式場。
下・夏・入道雲とよかコントラスト、下流の筑後川昇開橋から見た諸富橋。

 上・下流から見た大川橋。建物は中の島にある結婚式場「ロイヤルパークアルカディアリゾート」右が大川市。

 最初の地図ば見てもらうとよう分かるとおもうけど、佐賀から走って来た国道208号線は、筑後川にぶっつかって、まず236mの諸富橋ば渡る。

 渡ったらそこが中の島。約500m中の島ば走り、今度は216mの大川橋ば渡って福岡県に入る。ということはこの辺の川幅900m近くにもなるていうこと。

 地図の一番上の道海島と違うて、中の島は県境が東側の流れの中心になっとるケン、大川橋の真ん中に県境標識がある。おなじ中州でも、道海島は東側にあとから川の流れが広がり、はじめ福岡側にひっついとった中の島は、佐賀県側へ川幅がひろがって佐賀県から離れても、佐賀県のまま。ああ、筑後川河口の県境はせからしか。

 
大川市(おおかわし)は、福岡県の南西部にある都市で、家具の大生産地として知られとる。福岡市からは西鉄電車とバスば乗り継いで1時間強で行ける。市の西に筑後川が流れとるケン、家具の町として発展してきた。

 なんで ?
 家具の原料の「日田杉」ば、むかしは筏流しで運ぶことがでけとったけんタイ。

 大川家具発祥の地ていわれる
「榎津(えのきづ)」。この地名は、室町時代、戦で兄を亡くした榎津久米之介いうとが、乱世ばはかなんでここに流れ着き、自分の名前の榎津て名付けたことに由来する。天文6年(1537)の頃ていうケン、今からいうたら、500年近うむかしの話。

 久米之介はその後、家臣の暮らしば支えるために船大工の技術ば生かして指物ば始めた。これが大川家具の出発点ていうわけで、榎津久米之介は大川木工の祖ていわれとる。

 江戸時代後期になると、大川家具の歴史ば大きく変える職人「田ノ上嘉作」が現れる。

 家大工やった彼は長崎で修業ばして箱物の技術ば習得して帰郷。ここに榎津箱物が生れる。さらに孫の初太郎も嘉作の名ば継いで長崎に出向き、唐細工の技法ば取り入れ
「榎津指物」ば、いまでいうブランドもんに発展させていった。

 以後、田ノ上一門の名工たちは、時代に合った唐木細工やらオランダ家具などの新しか技術ば盛り込んで今日の大川家具の礎ば作ったていうワケよ。

 
明治以降、大川家具は全盛期ば迎え、昭和10年には国鉄佐賀線(瀬高〜佐賀)が開通したもんやケン、販路は九州一円に拡大していった。

 そして昭和30年、大阪で開かれた西日本物産展で河内諒デザインの「引き手なし和箪笥」が最高賞ば受賞して、大川家具の実力が全国に認められていった。

左・大川市の願蓮寺(がんれんじ)に立つ榎津久米之介の銅像。

 このごちゃごちゃしとった江戸時代の小保地区は、久留米藩と柳河藩の藩境にあって、宿場や港町として栄えとった。

 現在も当時を偲ばせる建物が残っとるほか、藩境石ていわれる「石列」が残っとる。

 石柱は28本残り、石質や大きさが違うバッテン、同じ間隔で、2か所に穴のあいた石がある。この穴には多分横木ば通しよったて思われる。

 文化8年(1812)測量のため、この地に立ち寄った伊能忠敬の測量日記には「右八幡宮、左側久留米柳河境石」と書いてあるケン、18世紀中頃には石列があったことがわかる。

 戦国時代、大川は筑後国柳川城主の蒲池(かまち)氏が治めとった。
 天文15年(1587)筑後国三潴郡は、三池郡・山門郡とともに立花宗茂の領地となる。ところが慶長6年、宗茂が関ヶ原の戦いで西軍についたもんやケン、宗茂はここば取りあげられて、三潴郡は田中吉政の領地になった。

 10年後には吉政が死んで田中忠政が継いだとバッテン、また10年後その忠政が死んだら、後継ぎがおらんやったもんやケン、武家諸法度に基づいて領地ば没収され、筑後国の北部は有馬豊氏(ありま とようじ)に受け継がれていった。若津港がてけたとがその頃で宝暦元年(1751)やった。

 夕暮れの大川橋。有明海に沈む夕陽も季節によってかなり位置が変わる。県道48号線「大川橋信号」から。

 大川で「おふろうさん」て呼ばれ親しまれとる風浪宮(ふうろうぐう)の歴史は古か。

 今からさかのぼること約1800年前のこと。神功皇后が新羅外征からの帰りにクサ、筑後葦原の津(現在の大川市の榎津のこと)に船ば寄せなったところ、どうしたもんかい皇后の乗った船の帆柱に白鷺がこつ然と現われて、東の方さい飛び去ったとゲナ。

 皇后は「この白鷺こそ勝利の道ば開いてくれた少童命(わだつみのみこと)の化身バイ」ていいだし、白鷺の飛んで行って止まった所にお社ば建てさせなった。
 そして、海の神様少童命(ワダツミノミコト)ば祀らせたとが起源ていわれとる。

 で、祭神は、少童命三座(表津少童命、中津少童命、底津少童命)、息長垂姫命(神功皇后)、住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)、高良玉垂命。と、とつけむのう多か。

 
 本殿の入口に立つ阿曇磯良丸の木像ば初めて見たら誰でもがたまがる。
 海神やケン、体中に貝やら珊瑚ばひっつけとんなるけんタイ。

 神主さんはどうしなったかていうと、神功皇后についていって船団の指揮ばとった航海熟練の家来、阿曇磯良丸(あづみいそらまる)ば風浪宮の初代神官として任命しなった。

 阿曇氏は以来この地にとどまり、いまの宮司さんまで67代も続いとる。

 船の名前に「●●丸」て“丸”の字ば付けるとは、磯良丸の“丸”に由来するとゲナ。

 駅長の考えは、勝利の功労者やった阿曇磯良丸にたいし、後々喰うていけるごと褒美としてこの土地と神社ば与えなったとであって、白鷺がどうのこうのていうとは、どうでもよか皇后のこじつけタイ。

 それにしても神功皇后は部下思いで頭の良かリーダーやったことが分かる。

 勝運の神ていうことから、戦国時代の武将・蒲池鑑盛(かまち あきもり)が厚く信仰し、いまの本殿は彼が再建したもんで、もう450年ぐらい経っとるはずなのにしっかりしとる。

 江戸時代には久留米藩主有馬ばはじめとして、筑後国一円の国司たちのお参りがおおかったゲナ。いまも勝運、開運の神として広く信仰ば集めとる。

 毎年2月9日から11日にかけて行われる「風浪宮大祭」は、久留米高良大社や水天宮とともに、筑後地方の三大祭りの一つに数えられとる祭りで、期間中は約15万の参拝客で賑わうていう。

西向き一直線に並んだ本殿・山門・渡り橋。鳥居の西には道路ば挟んで大川公園。本殿の裏は大川中学校と当初の境内は相当広かったことが推測できる。

上・阿曇磯良丸が手に持っとるとは干珠・満珠いうて。潮の満ち引きば自由に操れる道具。彼はこれで戦ば勝ちに結びつけた。
下・船のマストにとまった鷺がおいでおいでばしてこの楠に止まったケン、ここに風浪宮ば作ったていう文化財の大楠。

 風浪宮境内は、桧皮茸・三間社流造の本殿をはじめ、白鷺が止まったていわれとる樹齢約2000年の大樟。
 二重基壇の上に五層の軸部と屋根とを重ねた俗称、
正平塔といわれる石塔がある。明治時代に、本殿と正平塔は国の重要文化財に指定されとった。

上左・また灯篭がクサ、凝りに凝っとってよう見ると中が大川お得意の「組子」ででけとった。
上右・重文の「正平塔」は無防備で囲いもなかバッテン、大丈夫かいなて心配しとうなる。

 なかでも佐賀、三重県の熊野、和歌山県の新宮、鹿児島県のいちき串木野、山梨県の富士吉田、東京都の八丈島、宮崎県の延岡などが有名か。

 熊野市の波田須からは2200年前の中国の硬貨やった「半両銭」が発見されとったり、徐福が持ってきたて伝わるすり鉢ばご神体にしとる神社まである。

 そればみんな回りよったら肝心の筑後川が終わらんケン、身近なとこだけにすると、鹿児島の場合はこうタイ。

 出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島あたりが有力とされとる。

 途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)やら朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされとる。

 そんなら日本の何処に着いたとか ?

 北は青森県から南は鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されてとって。日本全国が徐福ゆかりの地ばっかしタイ。

左・徐福上陸の地ていわれる諸富町寺井津。

                      筑後川昇開橋のそばに立つ徐福像は東シナ海の方ば向いとった。

 徐福(じょふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士やった。方士いうたら当時の科学者いうか技術者いうか、そんなもんタイ。BC210年頃(BCていうことはビフォアーキリストやケン、西暦前210年ていうことになる)

 徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山にこれば飲んだら絶対死なん不老不死の霊薬がある」て具申し「そんならぜひ採ってきて欲しか」いうことで援助金ば出させ、3,000人の若い男女の技術者ば連れ、米・麦・粟・キビ・豆などの五穀の種、農具,武具ば積み込んで東方に船出した。

 そうしたら、広か大陸に行き着いたもんやケン、始皇帝が首ば永うして待っとる不老不死の薬やらほったらかして、自分がそこの王になって戻らんやった。・・・ていうぐらいの記述が残るしたたかモン。それが日本やったとかも知れん。

 さあ、いよいよ一行は徐福が探し求めた仙薬があるハズの山、金立山ば目指すことになる。

 長崎自動車道「金立PA」の南側に、佐賀市金立町千布ていうとこがある。千布の交差点から北ば見ると、金立神社、金立山が一直線上に見える。なんでここの地名が千布ていうか ?

 金立山に向かって歩き始めた一行やったけど、このあたりは広大な干潟地の葦原で下はじゅくじゅく。歩きにくっか所やった。そやケン、持ってきとった布ば地面に敷いてクサ、その上ば歩いていったゲナ。

 ちょうど千反の布ば使い切ったとがここやったケン「千布(ちふ)」。これも下手なシャレ。
 使うた布ば処分した所が千駄ヶ原と千布塚とくれば、もうしつこか。やめてぇ。

下・桜の金立山。中腹に金立神社、麓の「徐福長寿館」には徐福が探した長寿薬「フロフキ」がある。金立PAから。

 どうしょうかて考えながらこの辺りでキャンプ張って暮らしとるうちに、ここが気に入って年月が経つ。

 徐福にも子が出け孫がでけてくる。連れてきた3000人の若者達にも家族がでけて、さいわい農具に武具は積んできとったし、種は持ってきとる。自然とここに農耕の
「クニ」が出来上がっていった。

 それが佐賀の場所的にも見合う
「吉野ヶ里」かもしれんし、リーダーの徐福はひよっとしたら東征して神武天皇になったとかも知れん。なんせ2200年も前のことやケン、誰がどげんおかしかて云おうと、見たもんなおらん。

 駅長が、
金立山の徐福像に聞いてみた。
「ほんなことあんたは、不老不死の薬があると思うて来なったとな」「いやぁ そんなこと信(秦)じない」

 九州ば回ったら、どこへいっても神功皇后と、この徐福(じょふく)に必ず突き当たる。それくらいあっちこっち、まことしやかな言い伝えが残っとる。
 もともと徐福ちゃなんかいな。2200年以上もむかし、不老不死の薬ばさがしにやってきた中国人タイ。
「それがなし筑後川と関係があるとですな」
「なんか知らんバッテン、風の吹き回しでクサ、筑後川の河口辺りに不時着しとんなるとタイ」
「オスプレイじゃあるめーし、不時着あなかろうもん」
「間違うた、漂着やった」
「それてまたなしこの辺ば探しなったと ? 」
「ここが探し(佐賀市)よかったけんやろう」
「なぁーんや初めから駅長の下手なギャグな。これからさきが思いやられるバイ」
「ま、そげんいわんで最後まで付き合うちゃってんやい」

 徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、近くの冠嶽に登ったところが、あんまり威厳のある山やったもんやケン、自分の冠ば脱いで奉納したていう。

 それが冠嶽神社の起源ていわれとって、山頂直下に東シナ海ば向いて立つ立派な記念の石像がある。合併前の市来町は、徐福の別名が「徐市(じょふつ)」で、徐市が来た町で「市来」ていうた。

 冠岳に王冠ば埋めた徐福はさらに北上して、王冠に付いとった紫の紐ば出水の山の山頂に埋めた。紫尾山の名はここから生まれたていう。みんな、コジツケが苦しか。

 佐賀県に伝わる「金立山物語」によると、BC219年、徐福は若い男女3000人とともに大船20隻で出航した。大陸ばあとにして数日の航海の後、一行がたどり着いたところが九州の伊万里やったていう。

 さっそく徐福たちは伊万里湾ば見下ろす不老山で仙薬ば探した。
 ここで薬草ば見つけきらんやった一行は南下して黒髪山に登った。標高516mの黒髪山は山岳信仰の霊場とされとった山タイ。徐福一行はこの山に入って黒髪山頂上にある天童の岩周辺で仙薬ば探したバッテン、ここでも見つからん。

 黒髪山に登ったていう証拠が出とる。昭和41年1月に雑木林から「阿房宮朝硯」て書かれた硯が発見されたとタイ。「阿房宮(あぼうきゅう)」いうとは秦の始皇帝が建てた宮殿のことで、「アホ」という言葉の語源にもなっとると。そのワケは ?あんまり立派な阿房宮ば建てたて、国ば疲弊させてしもうたけんタイ。

 辰野金吾が設計した楼門がシンボルになっとる武雄温泉にも徐福伝説がある。

 温泉ば見下ろす蓬莱山は徐福一行が仙薬ば探し求めた山としても知られとる。

 探すとに疲れた一行はここの温泉に入って疲ればいやしたて、伝わっとるバッテン、いかにも温泉の宣伝臭か。

 武雄温泉まで探したバッテン、空振りやった一行は東に向きば変えて、たどり着いたとが竜王崎。こっから有明海へと船ば出した。

 
有明海ば北上して、筑後川の河口までやってきた徐福一行は、もうワケは分からんごとなって「えーい 一か八かタイ」いうて賭けばした。上陸地点ば決めるために大きな盃ば海に浮かべ「盃が流れ着いたとこに上陸しょう」ていうワケ。

 それで盃が流れ着いたとが、佐賀県の諸富町大字寺井津(てらいづ)字搦(からみ)ていう。そやケン今でもこの町に「浮盃(ぶばい)」ていう地名が残っとる。

 一行が上陸した場所は一面の葦(アシ)原で,それば手でかき分けながら進んだ。そのため片方の葉だけが落ちてしもうたていう。

 いまもこの一帯には片方にしか葉をつけないアシが生えとるとゲナ。この時落ちた葉が「エツ」ていう魚になったともいわれとる。

 一行はきれいな水ば得るために井戸ば掘った。徐福が汚れた手ばその水で洗うたケン「御手洗井戸」て呼ばれとる。この井戸は民家の庭に今でも残り、寺井の地名そもそもが「手洗い」が訛ったもんていう。

 しばらく滞在しとった徐福一行やったバッテン、ここの漁師が漁網に渋柿の汁ば塗るため、その臭いにがまんができず、この地ば去ることにした。

 去るとき、何か記念に残るものば残そうと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種ば植え。白檀に似ているというビャクシンは天に向かってまっすぐに伸び、樹齢220年以上経った今も元気な葉ばつけとるとゲナ。

 徐福が上陸した場所にはいま「徐福上陸地」て彫られた石碑が立っとる。
 お堂がある。堂の中には徐福像が祀られとった。厳重に戸が閉められとって中ば見ることがでけん。

 無理矢理扉ばこじ開けてカメラバ押し込み、徐福の写真ば盗み撮りしょうてしたら、徐福像がはいポーズしてくれた。

 千布に住む源蔵ていうもんが,金立山への道ば知っとるということで、どこにあるかわからん不老不死の薬ば探すちゃケン、少しでも山に詳しかもんがおれば心強か思うて、徐福は源蔵に案内ば頼んで山に入ることにした。

 しかし、金立山の木々ばかき分けて探しまわったバッテン、不老不死の薬はとうとう発見でけんやった。

 薬ば見つけきらんじゃおめおめと帰られん。

 (実は秦の始皇帝さん、徐福が出航した後すぐ
 にもう死んどんなった)

左・金立公園の徐福像。うしろは金立山。

 むかし佐賀線が走りよった跡ば利用して、総延長5kmのサイクリングロードば作ったとき、徐福ば記念してその名前ば借りた。
「徐福サイクリングロード」ていう。

 どげんでしたか今回の筑後川。佐賀・福岡の両岸ともいろんな歴史や人の営みがあって、選択に困りましたバイ。

 次回は20号、そしてとっておきの
筑後川昇開橋にデレーケ導流堤。20号でキリよく終わらせたかバッテン、やってみなわかりまっせん。お楽しみに。
 次回の地図はしつかり頭に入れといちゃんしゃい。

            鐘ヶ江大橋、諸富橋、大川橋の取材期間 2010.3.21〜2013.12.03

       なかなか進まん筑後川の旅。次回のは、本流に入っての14回目です。

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