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其の十九 |
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青木中津大橋の下流約2kmにかかっとるとが鐘ヶ江大橋。長か橋やケン、歩いて渡るのには時間かかる。。 筑後川も下流のこのあたりになると、永年にわたり上流から流されてきた土砂が堆積して中州ばっかし。川の蛇行も激しかもんやケン、川の真ん中に決めた県境もくねくねと曲がってややこしか。 |
![]() 今回のスタート鐘ヶ江大橋も西側は中州ば開発した島。道海島(どうかい)ていう。いまは筑後川の右岸にあるバッテン、佐賀県じゃのうて福岡県大川市てなっとる。 もともとこの中州ば開発したとは、三潴郡中古賀村(現大川市)の人で、緒方将監(おがたしょうげん)ていう。慶長15年(1610年)頃やケン、もう500年以上むかしの話タイ。 ここが成功したもんやケン、のちに村民ば連れてもうちょっと下流の中州も開拓しょうとしたところが、この中州は右岸の佐賀に近かったもんやケン、肥前のもんが黙っちゃおらん。 ![]() 上・下流からみても鐘ヶ江大橋は長い長い。 ![]() ![]() 鐘ヶ江大橋は川の流れが変わって遙か彼方の島になった道海島と福岡県ば繋いどる。この橋ば渡っとる道は「佐賀県道・福岡県道20号佐賀大川線」ていう。 ![]() 橋がでけたとは昭和56年3月。 ![]() ![]() ![]() エツ(斉魚)は、ニシン目・カタクチイワシ科に分類される魚の一種。東アジアの汽水域(淡水と海水が混じっとるとこ)に生息する魚で、食用になる。 弘法大師が筑後川に流した葦の葉が魚になったと伝えられるエツ。青木島には弘法大師ば祀る「エツ大師堂」がある。また、城島町ではこの伝説に語られるエツば宝の魚として、毎年エツ漁のはじまる5月上旬に、豊漁ば祈願する「エツ感謝祭」が行なわれとる。 1200年ほど前の平安時代。ある晴れた日の夕暮れ時。筑後川のほとりにある渡船場に一人の行脚僧がさしかかり、川岸に船ば着けた船頭に「もしもし、川を渡してはくださらんか」て呼びかけた。 舟から降り立った坊さんは、そのまま夕暮れのなかに消えていきなった。 ![]() |
![]() ![]() ![]() 鍋島から佐賀市の西側・南側を回る道路ば、それぞれ環状西通り・環状南通りていう。正式には国道208号線。 それがこの諸富橋ば渡っていくケン、とても通行量が多か。 右上・諸富町側からみたところ。トラックの離合はスレスレ。 上・佐賀県側から見た諸富橋。しっかりしたコンクリートの橋脚4本で踏ん張っとる。 ![]() ![]() ![]() ![]() 上・諸富橋の西口交差点は、佐賀方面からきた車と、大川から橋ば渡ってきた車が時間によっては渋滞する。橋が狭うて徐行しかでけんから。 左・三角形の集まりで橋桁ば支えとるトラス橋。天気の日は「白」が映えて美しか。 右・諸富橋の下流500mには、次号で取りあげる「筑後川昇開橋」が見える。 |
![]() ![]() 上・下流から見た大川橋。建物は中の島にある結婚式場「ロイヤルパークアルカディアリゾート」右が大川市。 最初の地図ば見てもらうとよう分かるとおもうけど、佐賀から走って来た国道208号線は、筑後川にぶっつかって、まず236mの諸富橋ば渡る。 江戸時代後期になると、大川家具の歴史ば大きく変える職人「田ノ上嘉作」が現れる。 このごちゃごちゃしとった江戸時代の小保地区は、久留米藩と柳河藩の藩境にあって、宿場や港町として栄えとった。 ![]() 戦国時代、大川は筑後国柳川城主の蒲池(かまち)氏が治めとった。 ![]() 夕暮れの大川橋。有明海に沈む夕陽も季節によってかなり位置が変わる。県道48号線「大川橋信号」から。 |
![]() ![]() ![]() 大川で「おふろうさん」て呼ばれ親しまれとる風浪宮(ふうろうぐう)の歴史は古か。 神主さんはどうしなったかていうと、神功皇后についていって船団の指揮ばとった航海熟練の家来、阿曇磯良丸(あづみいそらまる)ば風浪宮の初代神官として任命しなった。 勝運の神ていうことから、戦国時代の武将・蒲池鑑盛(かまち あきもり)が厚く信仰し、いまの本殿は彼が再建したもんで、もう450年ぐらい経っとるはずなのにしっかりしとる。 ![]() 西向き一直線に並んだ本殿・山門・渡り橋。鳥居の西には道路ば挟んで大川公園。本殿の裏は大川中学校と当初の境内は相当広かったことが推測できる。 上・阿曇磯良丸が手に持っとるとは干珠・満珠いうて。潮の満ち引きば自由に操れる道具。彼はこれで戦ば勝ちに結びつけた。 ![]() ![]() 風浪宮境内は、桧皮茸・三間社流造の本殿をはじめ、白鷺が止まったていわれとる樹齢約2000年の大樟。 |
![]() なかでも佐賀、三重県の熊野、和歌山県の新宮、鹿児島県のいちき串木野、山梨県の富士吉田、東京都の八丈島、宮崎県の延岡などが有名か。 出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島あたりが有力とされとる。 筑後川昇開橋のそばに立つ徐福像は東シナ海の方ば向いとった。 ![]() ![]() さあ、いよいよ一行は徐福が探し求めた仙薬があるハズの山、金立山ば目指すことになる。 どうしょうかて考えながらこの辺りでキャンプ張って暮らしとるうちに、ここが気に入って年月が経つ。 九州ば回ったら、どこへいっても神功皇后と、この徐福(じょふく)に必ず突き当たる。それくらいあっちこっち、まことしやかな言い伝えが残っとる。 徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、近くの冠嶽に登ったところが、あんまり威厳のある山やったもんやケン、自分の冠ば脱いで奉納したていう。 佐賀県に伝わる「金立山物語」によると、BC219年、徐福は若い男女3000人とともに大船20隻で出航した。大陸ばあとにして数日の航海の後、一行がたどり着いたところが九州の伊万里やったていう。 ![]() 辰野金吾が設計した楼門がシンボルになっとる武雄温泉にも徐福伝説がある。 千布に住む源蔵ていうもんが,金立山への道ば知っとるということで、どこにあるかわからん不老不死の薬ば探すちゃケン、少しでも山に詳しかもんがおれば心強か思うて、徐福は源蔵に案内ば頼んで山に入ることにした。 ![]() むかし佐賀線が走りよった跡ば利用して、総延長5kmのサイクリングロードば作ったとき、徐福ば記念してその名前ば借りた。 |
![]() どげんでしたか今回の筑後川。佐賀・福岡の両岸ともいろんな歴史や人の営みがあって、選択に困りましたバイ。 ![]() ![]() |
鐘ヶ江大橋、諸富橋、大川橋の取材期間 2010.3.21〜2013.12.03 |
なかなか進まん筑後川の旅。次回の |
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