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其の二十


 さあいよいよ筑後川の旅もラスト前。今回は駅長が好きでとっておきの筑後川昇開橋が主役。そしてこの橋ば渡りよった佐賀線の跡ばたどります。

     肝心の可動桁が故障し、1年半もかかって修理、平成25年(2013)6月に復旧した。筑後川昇開橋。

 佐賀線(さがせん)は、昭和6年から佐賀駅と瀬高駅の間 24.1kmば走りよった国鉄の路線やった。ぜんぜん儲からんもんやケン、国鉄再建法の第2次特定地方交通線に指定され昭和62年廃止されてしもうた。

 途中の駅の数は13(うち信号場1やった。佐賀駅〜東佐賀駅〜南佐賀駅〜光法駅〜諸富駅〜筑後若津駅〜筑後大川駅〜東大川駅〜筑後柳河駅〜百町駅〜三橋駅〜瀬高駅、その信号所いうとは筑後川昇開橋の真ん中にあった。

 佐賀線はもともと政府の予定では「佐賀縣(県)佐賀ヨリ福岡縣矢部川、熊本縣隈府ヲ經テ肥後大津ニ至ル鐡道、隈府ヨリ分岐シテ大分縣森付近ニ至ル鐡道」ていう大構想の一部やったっちゃが、昭和12年(1937)に分岐線として開業しとった宮原線も廃止されてしもうとる。

 地図ば見てもらえば分かるやろうバッテン、佐賀線は諸富〜筑後若津間で筑後川ば、筑後若津〜筑後大川間で花宗川ば渡らないかん。普通の橋では筑後川の河口ば通る大型船が引っかかって通られん、そこでとげんしたかていうと、筑後川に架かる全長506mの筑後川橋梁(通称筑後川昇開橋)ば、列車が通るとき以外、橋桁の中央部ば23m上昇させられる可動橋にした。そやケン、昇開橋ていう。

 花宗川に架かる花宗川橋梁(全長64m)はどうしたかていうと、橋桁ば両側から75度跳ね上げる跳ね橋にした。これば跳開橋ていう。佐賀線が廃止された後、花宗川橋梁のほうは解体され撤去されたバッテン、筑後川昇開橋のほうは保存され、国の重要文化財に指定されとる。

 沿線の大川市は家具が盛んで、佐賀線でも全国へ向けて出荷されよった。また、諸富駅の近くには1970年代頃まで味の素九州工場があって、引込線まであったていう。

 沿線住民にとっては欠かせない路線で、全盛期には佐賀線ば経由して熊本駅と長崎駅ば結ぶ急行「ちくご」も運転されとったとやけど、時代の波で乗客も貨物もモータリゼーションにやられてしもうたていう訳タイ。

 開業当初は蒸気機関車が客車も貨物も引っ張りよった。しかし戦後間もない頃からガソリン汽動車ば導入、そのあとはディーゼルカーに置き換え運行しよった。

 いよいよ蒸気機関車が引退するていう1972年頃、駅長が撮った貴重な写真がある。大正生まれのキューロクに牽引された、客車と貨車が筑後川昇開橋ば渡っとった。


上・もういよいよ蒸気機関車がのうなるていう昭和47年(1972)に撮った筑後川昇開橋と蒸気機関車の写真。
左・遊歩道になっても線路のイメージは残してある。

 ほんなことや ? ていうような話が残っとる。

 戦時中、特急「富士」が、東京〜博多間で運行されてとった時、一等車と展望車が連結されとった。博多に着いた列車ば折り返すとい、この2両の向きば変えないかんとバッテン、博多駅やとなりの竹下駅にもこの2両の向きば変える転車台がなかった。

 どうしたかていうと、竹下(鹿児島本線)→鳥栖(長崎本線)→佐賀(佐賀線)→瀬高町(鹿児島本線)→竹下の間ば蒸気機関車がこの2両だけば牽引して(途中の駅はノンストップタイ)。でこのデルタの路線ば一回りすることで向きば変えとったとゲナ。呑気な時間と金のかかる話。こげなことしよったケン、国鉄は大赤字タイ。

 いまこの吉原病院は時の流れにのって「吉原リハビリテーション病院」ていう南佐賀でいちばん立派な病院になって近くにある。

 記念碑のある駅跡やった場所は「デイサービス吉原」いう通所介護の建物があり、撮影のついでに覗いてみたら、20人ばかりの老人が介護士の指導で体操ばさせられよんなった。

 佐賀線が走るまえ、明治37年(1904)頃、ここには馬鉄(ばてつ)いうとが走りよった。
 馬鉄いうとはなんかいうたら、正式には馬車鉄道。レールの上ば馬が客車ば引いて走る輸送方法タイ。

 佐賀馬車鉄道株式会社いうとがでけて、初めは佐賀市内の明治橋(現在の馬責馬場)から諸富まで、幅2尺6寸(約79cm)の軌道が敷設されとったていう。そして翌年には水ヶ江から県庁前、御幸橋ば経て佐賀駅前まで路線ば延ばした。

 佐賀駅から諸富までは13駅。所要時間は約1時間余りやったていう。
諸富国道ガー夕ガタ、馬場に乗ればツーツラツー、はよーねんねんしんしゃいの」て当時の佐賀の子守唄にもうたわれとったゲナ。

 なんで「ガータガタ」やったかていうと、開業ば計画しとった時、東京の新橋から日本橋ば走りよった東京馬車鉄道いうとが電車ば走らせるごとなって馬車鉄ば止めた。

 それで使わんごとなった馬車とレールば安ゃあすう譲り受けたとはよかったバッテン、線路はもうすり切れてしもうとった。そんなら反対側ば使おういうて、裏返しに線路ば敷設して開業したもんやケン、車輪の回転が悪うて「ガータガタ」やった。

 料金はどうやったかていうと、佐賀〜諸富間ば60回乗れる回数券があって、なんとなんと1円40銭やったていう。

 
愛右衛門橋のすぐ南側が「馬鉄道の停車跡」で、現在、吉原病院の敷地内に青銅の「記念碑」が埋め込まれ、それには次のようなことが刻まれとった。

「大正元年(1912)神野、川上間の川上軌道が設立された。同年8月には佐賀馬鉄と合併して佐賀軌道株式会社と改名したが、昭和12年(1937)には全線がバスに変わった」
 なお、この記念碑は吉原病院院長吉原正智さんが私費で建立されたていう。

 例によって物好き駅長が佐賀線の跡ば実際に走って見た。跡形もなくなっとるとこもあれば、ちゃんと保存されとる駅もあって、路線跡はほとんどは「徐福サイクリングロード」として残っとった。

佐賀駅
 
えべっさんと浮立とそして佐賀線跡

 佐賀駅には佐賀線用の0番ホームや枕木の跡が今も残っとって、長崎本線の高架には佐賀線が併走しよった部分も、佐賀駅バスセンターの上に確認でける。
 
左上と下の写真。

 佐賀駅ば出たらすぐにカーブしながら地上へ降りていっとったことが分かる分岐跡も中途半端に壊されたまま。
 
下3番目の写真。

 地上に降りた地点から東佐賀駅跡までの用地は一般道路に転用されてしもうとる。

 
東佐賀駅は築堤上にあったらしかバッテン、もう築堤の土砂は除去され都市計画道路になって跡形ものうなっとった。

 
佐賀線が廃止された後しばらくは、西日本鉄道・堀川バス・佐賀市営バスの3社が瀬高〜佐賀間に、国から貰うた転換交付金で購入したバスば共同運行しよったバッテン、現在はもうグズグスになってしもうとる。

 またこの東佐賀駅から南佐賀駅までの間は佐賀線の用地ば転用した都市計画道路なっとってリッパなもん。

 途中の八田江川に架かる橋の欄干には洒落た蒸気機関車の彫刻まで残されとる。

 橋の名前も「佐賀線偲橋」とはニクい。
 下の写真。

 南佐賀駅は残り、こっから筑後川昇開橋手前まで、自転車専用道路「徐福サイクルロード」になっとる。サイクルロードてなっとるバッテン、自転車専用道路ではなくて人間も犬猫も歩くことがでける。
下の写真は「サイクルロード」の入り口。上の写真と対面になる。

 南佐賀駅 東佐賀から1.7kmでホーム 1面1線。開業は昭和10年(1935) 廃止は東佐賀やらとみんな一緒。
 廃止された時は単式ホーム1面1線を持つ無人駅やった。佐賀駅方に貨物・保線用の引込み線があって、国鉄無線の中継所もここにあった。

 廃線後、ホームや、レールなどは残されたバッテン、駅舎だけは当時からの建物ば改築して内部はトイレに変身しとった。

 光法駅 南佐賀 から1.5km 佐賀から5.5kmで筑後川昇開橋とのちょうど真ん中辺りにあった。ホーム は1面1線。開業は昭和13年(1938) 廃線後の跡地は、徐福サイクルロードの一部として整備され、駅のホームなどはそのまま残してある。
 この光法でクロスしとる県道285号線道は、南へ下れば佐賀空港、北へ上れば国道34号線と繋がっとる。

 佐賀の「馬鉄跡」の前水ヶ江通りから国道208号線ば大川の方へ走ってくると、光法を過ぎて諸富町に入ったところに小振りな陸橋がある。これはそこまで国道のすぐ北側ば併走してきた佐賀線が、ここで国道ばクロスして南側に変わる所。

 橋にかかる両側の坂は桜並木になっとって風情がある。橋の名は「おもいで橋」。橋の欄干には佐賀線ばイメージしたモニュメントや、サイクルロードやケン、自転車なんかが親柱に飾られとる。
 
下の写真は「おもいで橋」からいま走って来た佐賀の方ば撮した。

 橋の坂ば下って来ると、なんか分からん変てこりんなモニュメントがあって、そっから諸富町体育館のある諸富駅跡まで一直線。

 
諸富駅 光法から2.3km 佐賀からは 7.8km。ホームは相対式1面2線やった。開業昭和10年(1935)

地名は「もろどみ」バッテン、駅名は「もろ とみ」やった。

 相対式ホーム1面2線で、側線が何本もあり、列車行き違いのでける駅やった。

 最晩年には出札が復活し、硬券乗車券や廃止記念入場券も発売された。また、瀬高駅方には味の素九州工場の引込み線があった。

 廃線後は、町営の体育館や産業振興会館になっとる。ホームなどの当時の設備は残っとらんバッテン、写真つきの記念碑が建てられとった。

 その碑文によると「開業時の昭和10年には乗降客が48.270人もあって賑おうた」ていう。
左の写真が諸富体育館にある諸富駅跡の碑。

 佐賀線が走りよった頃は、この橋の真ん中に筑後川信号場いうとがあつて、筑後川昇開橋の中央部にある可動式橋桁の昇降ば受けもっとった。

 分かりやすういうと、列車が通らん時は、真ん中ば跳ね上げ、高いマストの船でも通れるようにしとく。

 列車が通る時間になると橋桁ば降ろして線路が通れるようにする。

 そのための係員は、福岡県側から渡って信号所と行き来しよった。

 やっと佐賀から10キロ弱走って筑後川昇開橋のたもとまでやつてきた。

 いまはここに「もろどみ一番館」いう農産物直売所がある。

 徐福の像も故郷の方ば向いて立っとる。

 線路は1本だけやケン、転轍機は要らんと思うとバッテン、なしかここにある。
 
下の写真。

 ここで筑後川昇開橋ば渡ります。(上と右・塗装後)
 渡って振り返ってみます。(下の写真・塗装直し前)

 筑後川昇開橋ば渡ったらすぐが筑後若津駅開業は昭和13年(1938年) 

 筑後川昇開橋の展望所にもなっとったケン、いま駅跡に記念碑も建てられとる。
 
左の写真

 筑後若津駅から800mで筑後大川駅。 佐賀からいうと10.1km。開業昭和8年(1933) ホーム 2面3線 1日の乗降客は357人ほどやった。

 廃止時は単式ホーム1面、島式ホーム1面3線の業務委託駅で、急行「ちくご」の停車駅やった。昭和20年代ごろまで同駅から若津港までの引込線があった。

 現在はハローワークの駐車場に記念碑が残され、路線跡は都市計画で柳川への広か道路に変わりよる。

 佐賀線跡の旅は、筑後川昇開橋ば渡ったここまでで一旦終わり。主役の筑後川昇開橋の写真ばお楽しみ下さい。

 筑後川昇開橋がでけて、汽車は走っても上流に諸富橋・大川橋がでけるまで、人間は「渡し船」でわたるしか方法はなかった。

 いまの「もろどみ一番館」のあたりに「石塚の渡し」いうとがあって、対岸の若津へ買い物に行ったり、遊びに行くもんで繁盛しよったらしか。渡し賃は終戦後で人間がひとり5円。自転車が10円。オート三輪が100円やった。

上・橋ば渡った若津駅から先は、いまも地元のアーチストの作品が展示された遊歩道になって残り、花宗川に突き当たりる。

上・むかしは若津港の中心やったと思われる「筑後若津」の四つ角。大正の匂いがする薬局が元気に頑張っとる。いまでもこの交差点は車の通りが多い。

下・佐賀から分岐してきた佐賀線は、いまの環状東通りと交叉するこの「南佐賀東」信号辺りに「南佐賀駅」か゜あった。

     筑後川昇開橋の名場面


 佐賀線が廃線となり、この鉄橋も閉鎖され、筑後川ば管理しとる当時の建設省からは「撤去せろ」ていわれ、解体も検討されたとバッテン、地元での橋存続の要望が強く、平成8年(1996)に遊歩道として復活、利用することが決まった。

 解体せんでよかったねぇ。現在では大川市と諸富町のシンボル的存在になっとる。また、橋の両端には公園が整備されとって、現役当時の橋のモニュメントや佐賀線に使われていた3灯式信号機や警報機などが保存さとる。

 平成21年(2009)7月30日から平成23年(2011)2月13日まで、約1年半かけて橋脚の修復やら塗り替え、遊歩道の防水加工などの保存修理工事が行われて立派になった、調査費ば含めた総事業費は約3億円やったていう。

 ところがタイ。完璧になったと思うたら、12月に可動桁の滑車が具合の悪うなって、真ん中の桁は上がったまま、遊歩道としては使われんごとなってしもうた。

 そしてこれぞお役所のすること。修理がでけたとが、なんと平成25年(2013)の6月。ただ滑車ば治すだけに1年半もかかっとる。
 民間企業やったら1週間か10日で直す。そんくらいの危機感がなければ、1年半も迷惑かけたら、会社やったらとっくに倒産してしもうとる。


 平成24年(2012)3月27日からライトアップば始めたもんやケン、寒かところにわざわざもの好き駅長は撮しにいった。それが下の写真です。

 筑後川昇開橋(ちくごがわ しょうかいきょう) 英語では、Chikugo River Lift bridgeは、国鉄・佐賀線で筑後川ばまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町ば結んどった鉄橋。珍らしか鉄道用の可動式橋梁やったケン、佐賀線の廃線後も保存され、現在は歩道橋として活用されとる。

 平成15年(2003)に、国の重要文化財として指定され、平成19年(2007)には日本機械学会より機械遺産(23番)に認定された。

 
これがでけたとは、昭和10年(1935)、でけた年の5月25日には、もう待っとったごとして佐賀線が開業した。筑後川ば行き来する船舶と共存させないかんもんやケン、橋の一部ば上下させる可動式となっとる。

 可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるバッテン、この橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋としては日本に現存する最古のもの。
 そやケン、国の重要文化財になっとる。橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルていう。

 でけた当時は「東洋一の可動式鉄橋」て呼ばれた。また、この筑後川昇開橋の構造ば解説するために精巧な模型が鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されとる。また、昇開橋の精巧模型が昭和12年(1937)にフランス・パリで行われたパリ万博に出展され、世界中のもんばたまがらせた。

 建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があって大変な苦労があったていう。

左と下・3億円かけて補修中です。

 また、館内には「九州貨幣博物館」があって、ここはお金の博物館として西日本最大級の規模て自慢しとんなる。「万延大判金」や「天保小判金」さらに和同開珎から現代紙幣まで1,500点以上ば展示してある。

 ロビーにはおみやげコーナー、その奥にはレストランがあり、こちらでは大川・柳川名物のうなぎのせいろ蒸しや佐賀・大川特産のれんこん料理も食べられる。

 大川市の指定文化財ていうことになとるバッテン、(株)MIZUMAなんていう会社も関係しとるごとあって、どこが管理運営しとるとかピンとこんとこもある。

 佐賀から国道208号線ば走って来て諸富橋ば渡り、300mほどで中の島ば横切って、大川橋ば渡る。この橋の真ん中が佐賀と福岡の県境。橋ば渡ったらすぐの信号で右折する。

「駅長は博多んもんやろう、それになんで佐賀ば基点に走って来たりすると ? 福岡県の大川ば基点にすれば、すぐそこ。目の前タイ」て、クレームの出んごと言い訳しとくと、佐賀線は佐賀駅と瀬高駅ば結んで走りよったっちゃケン、どっちからでもよかとバッテン、駅長が佐賀の県立病院「好生館」でガンの治療ばしたり、心臓の手術ばしてもろうたりして佐賀びいきになったとと、好生館に通いよるうちに筑後川昇開橋より佐賀寄りが詳しゅうなったとがその理由タイ。それはともかく・・・

「大川橋」の信号からとろとろっと坂ば下って、またすぐ右の道に入ったら「旧三潴銀行」のクラシックな建物が右に見えてくる。

 三潴銀行(みずま ぎんこう)とは、明治27年(1894)に大川市の酒造会社・清力(せいりき)のそばに建立された「鐘ヶ江銀行」いうとがはじまり。 明治29年(1896年)三瀦銀行へ改称し、明治42年(1909)10月に現在地に本店ば建築したていう古か歴史のある銀行。

 以来、大川の商人や実業家たちで世話になっとらんもんなおらんていうほど、地域の産業発展に貢献した銀行タイ。その後三潴銀行は、福岡銀行の前身である十七銀行に合併され、現在はその建物だけがここに存在しとるていう訳タイ。

               三潴銀行ていう名前の由来は?
 
そもそもこの辺りは三潴県(みずまけん)やったからタイ。
 三潴県とは明治時代初期に存在しとった県で、久留米県、三池県、柳川県の3県が合併して三潴県ていいよった。あとから小倉県といっしょに編入されて、いまは福岡県。

 古か話ばすると、北部九州は筑紫の国て呼ばれ、7世紀後期までに筑前・筑後の両国に分離しとった。664年に大宰府が置かれて九州諸国ば管轄するようになったとき、筑前が15郡、筑後が10郡。平安朝期には筑前の博多荘(安楽寺)、筑後の三潴荘(東寺)など多くの荘園があったゲナ。

 ずーと下って、豊臣秀吉は1587年に九州ば平定すると、筑前ば小早川隆景に、筑後ば立花宗茂に与えた。
江戸中期以後は筑前福岡藩(黒田家)、筑後久留米藩(有馬家)、筑後柳川藩(立花家)・豊前小倉藩(小笠原家)の4藩、およびこれらの支藩が存在しとった。

 まぁーだむかしの話になると、日本書紀に、水沼県主(みずぬま あがたぬし)が登場する。景行天皇が九州に来なったとき、八女津媛(やめつひめ・八女地方の女ボス)のことば説明しとる。

 水沼県主は高三潴に本拠地ば置いとったらしか。ここには水沼氏と関連のある「弓頭神社」いう郷社がある。

 久留米市史第一巻(1981年久留米市)には「水沼君は、筑後平野の一角に勢力をはっていた豪族。大善寺の御塚、権現塚古墳は水沼君の奥津城(おくつき・墓のこと)であった。筑紫君は八女、水沼君は三潴を本貫としていた。ごく近接したところに古代豪族が両立していることは珍しい」ていう記録がある。

 駅長は「水沼さんが長ぁか間になまってクサ、三潴になったとやろう」て簡単に考えとる。2005年に城島町と三潴町が久留米市へ編入合併されたケン、いま三潴郡にある町は大木町だけになってしもうた。

上・ステンドグラスが美しかホールの壁面。
右上・ゲストルーム
右下・ホールでは結婚式もでけるようになった。

 一世紀の時空ば越えてここにある洋風建築の三潴銀行、建てたとは明治末期(1909)に、大川市内で同じ洋風建築の清力本社ば建てた棟梁の筬島伝太郎。
 
構造はレンガ造りのコンクリート塗りで、窓などの装飾部分には花崗岩が使われとる。

 屋根は石板葺、周囲は銅板葺で、てっぺんにはちゃーんと避雷針もある。

上・補修前の三潴銀行本館。
左・補修されたあと。
下・吹き抜けの二階天井。

 室内はケヤキ材ばふんだんに使い、天井にはドイツ製の厚い鋳型打ちブリキ。ペチカ(暖炉)には大理石とイタリア製の絵入りタイルが使われとるていう豪華さ。
 レトロ気分が味わえる大川の宝もんタイ。

 2009年に大改修が施され「三潴銀行記念館」として甦った。1階にはホールや金庫室、2階には重役室があったものをそのまま保存されとる。

 次回は大野島の重要文化財「山口家住宅」と「デレーケ導流堤」で本当にオシマイの予定です。
 あっそうそう橋ば忘れとった。支流早津江川に架かる「早津江橋」と「川副大橋」 本流最後の橋「新田大橋」ばお見せします。

            筑後川昇開橋・佐賀線跡の取材期間 2004.10.18〜2014.01.17

       ヤットコット河口まできた筑後川の旅。次回のは、本流に入っての15回目です。

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