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其の二十一


 このシリーズは始まったとが2010年11月。くじゅう・阿蘇から3年以上・21回にわたって延々と下ってきた筑後川。
 その筑後川の旅もついにラスト。今回は河口のあたりば回りますバッテン、筑後川の河口は広か広か。またなんやらかんやらいっぱいあって、ちっとやそっとじゃ納まりきりまっせん。

 新田大橋は合成鋼箱桁+中央部はローゼ鋼アーチ。橋の長さが500m。幅員が11m。完成したとは昭和48年(1973)

 まず地図ば見ちゃってんしゃい。
 前回の筑後川昇開橋(地図のいちばん上)のすぐ下流に大きな大きな中州があるやろう。

 これば大野島(おおのしま)ていう。筑後川の最下流で、もうすぐそこは河口ていうところにある三角州タイ。島の北半分が福岡県で「大野島」て呼び、南半分は佐賀県で「大詫間(おおだくま)」ていう。

 筑後川は太古のむかしから、大量の土砂ば下流に運び続けてきた。また、過去数百年の間に、流れも少しずつ変えてきた。16世紀ごろ河口にはふたつの三角州がでけた。北の三角州は「雄島」または「平尾島」、南の三角州は「雌島」て呼ばれとった。大きな州になったもんやケン、すぐに開拓も始まった。

 慶長6年(1601)津村三郎左衛門ていう人が、7人の同志とともに開拓ば始じめなった。その7人は、今でも大野島に多か古賀、今村、中村、長尾、永島、堤、武下、吉川ていう姓ば持つ人たちの祖先になる。

 ところが、川ば挟んで向かいあうとる柳川藩と佐賀藩は、ふたつの島の所有ば巡って対立しとった。最終的には正保の時代に幕府の松平伊豆守が調停し、柳川藩が北の「雄島」ば、佐賀藩が河口側の「雌島」ば取ることで決まったていわれとる。

この「雄島」が後に「大野島」て呼ばれるごとなり、「雌島」が「大詫間島」て呼ばれるごとなったとタイ。

筑後川昇開橋のすぐ下で川が西へ分岐する。これが早津江川で大野島との間に架かっとるとば「早津江橋」ていう。左が佐賀県川副町、カメラが立っとるとこは福岡県大川市大野島。

 ところが自然の力はとてつもなか。当初あったふたつの三角州の間にも、土砂の堆積が続き、とうとう、ふたつの三角州は陸続きとなってしもうた。陸続きになったもんやケン、また領地争いが始まった。

 決着がつかんもんやケン、とうとう今度は神頼み。どうしたかていうと、筑後川の上流から御幣ば流してそれが漂着した地点ば境にすることになった。アホかていうような決め方バッテン、決まった境には「通り柴」ていう水路が開削され、もう喧嘩の起こらんゴトしたらしか。

 廃藩置県の時にも、この藩境がそのまま引き継がれて、現在も三角州の中央ば北西から南東に斜めに県境が走り、北が福岡県、南が佐賀県になっとる訳タイ。(地図の淡いピンクが県境)
ひとつの島が二藩二県に分かれとるとは、日本全国に三千あまりある島の中でも珍しか。
文化9年(1812) には、伊能忠敬が大野島ば測量したていう記録がある。

 ていう訳で、州の東側ば筑後川、西側ば支流の早津江川が流れとる。筑後川ば渡る新田大橋(先頭の写真)、早津江川ば渡る早津江橋と川副大橋の3つの橋が架かっとる。

 早津江橋は佐賀市川副町と大野島ば結び、川副大橋は佐賀市川副町と大詫間(おおだくま)ば結んどる。

 早津江橋(はやつえばし)が開通したとは昭和26年(1951) これで初めて大野島が本土と陸続きになった。
 ところが完成したばっかしの早津江橋は、昭和28年の水害で流失してしもうた。この水害は6月の梅雨時で佐賀平野は水浸しになった。

 上流から流れてきた廃材などの残骸ば橋脚に絡みついたもんやケン、圧力がかかり耐えきれんごとなって、まもなく橋は押し流されてしもうた。

 早津江橋は主要県道大牟田・川副線の終点で、福岡県大川市大野島と佐賀県佐賀市川副町ば結ぶ重要な橋。
 このため、国土交通省・佐賀県・福岡県の三者で架け替えば計画し、昭和57年から工事に着手、総工費23億円ば投じ、平成3年3月に完成した。橋の長さは222m。巾が11m。橋の形式は「PCポステン単純T桁5径間」ていう至ってシンプルなコンクリート橋。

 早津江橋の完成によって、周辺地域の発展はもとより、福岡・佐賀両県の結びはさらに強まり、産業経済の発展にどれだけ寄与しているか計り知れん。

 新田大橋(にったおおはし)の開通は昭和48年(1973) さらに昭和58年(1983)には筑後川で最下流の川副大橋(かわぞえおおはし)が開通し、島への上水道送水が開始されとる。

 平成19年(2007)  川副町が佐賀市に編入され、大詫間の区域は佐賀市川副町大詫間てなった。

 早津江川が筑後川から分かれて約1kmの右岸に、佐賀藩が安政5年(1858) に造った三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)の跡がある。

 三重津海軍所とは蒸気船などば造船したり、修理したりする施設でクサ、西洋船ば動かすための教育・訓練機関も兼ね備えとった。

 国産初の蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」ば製造したともここていわれとる。幕府も蒸気船運用は、ここに丸投げしとったゲナ。それくらい当時の佐賀藩は近代化の先頭ば走りよった。

 まだ知られとらんで、だぁーれも行かんとこバッテン、近年、発掘調査と文献調査が進められ、平成22年(2010) に世界遺産(「明治日本の産業革命遺産群」) 暫定リストへ新規登録された。2013年には国の史跡にも指定されとる。

 慶応3年(1867) 戊辰戦争の時には、出兵する藩兵の乗船地になったていう記録も残っとるゲナ。海軍所廃止後は明治35年(1902) に海員養成学校が設立され、明治43年(1910) には佐賀商船学校になった。

 佐賀商船学校は昭和8年(1933) に閉校するまで、多くの卒業生ば海運業界へ送り出して日本の近代化に人材面でも貢献しとる。

 現在は三重津海軍所で活躍した佐野常民ば記念した「佐野記念公園」になっとって、説明版などで海軍所の配置が確認できる。

 公園のすぐそばには、「佐野常民記念館」いうとがあって、佐野常民の偉業だけじゃなく、三重津海軍所のレプリカやらが解説展示されとる。

 博多のもんなあ、あんまり知らんバッテン、佐野常民ちゃ誰な。日本の政治家タイ。

 佐野常民(さの つねたみ)は文政5年(1823)にここ早津江村で生まれ、佐賀藩士から80歳で死ぬまで、第1次松方内閣で第8代 内閣の農商務大臣、第3代元老院議長やらば勤め、日本赤十字社の創始者としても知られとる(知らんやったとは駅長だけか ? )。
 勲一等旭日桐花大綬章ばもろうて、佐賀の七賢人に挙げられとる人タイ。

 上方で勉強し佐賀藩に戻って三重津海軍所の責任者となったときには、藩主・鍋島直正から「栄寿左衛門」の名ば授かっとる。

 文久3年(1863) には、三重津海軍所で幕府が造りきらんで発注した蒸気鑵(ボイラー) ば製作したこともある。

 慶応3年(1867) 、パリ万国博覧会に参加し、その万博会場で国際赤十字の組織と活動ば見て感動。
 明治10年(1877)に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の必要性ば痛感し「博愛社設立請願書」ば政府に提出。

 これがのちの日本赤十字社となる。明治19年(1886) 東京飯田町に博愛社病院ば開設、日赤病院の始まりタイ。
 明治20年(1887) 、博愛社ば日本赤十字社と改称し、初代社長に就任しなった。

上・三重津海軍所の配置図。下・現在、公園化工事が進んどる海軍所の跡地。左から右へ筑後川から分かれてきた早津江川が流れ、300m下流には早津江橋が見える。

上・「佐野常民記念館」の前庭にある佐野さんの胸像と、ここに佐賀商船学校がありましたとバイていう記念碑。
左・正面から撮った「佐野常民記念館」 この裏手が早津江川で海軍所の跡がある。

日本赤十字ば創立した佐野常民

 筑後川昇開橋が歩いて渡れる時間帯で、引き潮のとき下流ば見ると「川の中に石積みの低っか土手」が見える。

 新田大橋からやったら目の下に見える。しかもこの土手は遙か河口の方さい延々と続いとるとが分かる。

 ふの悪うして満ち潮やったら、水の底に沈んでなぁーも見えん。こらいったいなんかいな ?

 地元では沈床(ちんしょう) ても呼ばれるこの導流堤(どうりゅうてい)は、筑後川の蛇行ば防ぎ、河口での土砂の堆積ば防止するとともにクサ、船舶の航路ば確保するため、内務省がオランダ人のデ・レーケていう技師の指導で、明治16年(1884)に調査ば開始して、着工時期は不明バッテン、明治23年(1890) に完成したもんタイ。

長さ約6km強。当時の金で費用64万2055円ばかけてでけた。別名「若松港導流堤・筑後川導流堤・デレーケ堤」また「筑後川の龍」ても呼ばれ有名なもんタイ。

 こげな大事な航路やケン、こらあ、なんとかせんとおおごとバイ。そこでオランダから連れてこられたとが、ヨハニス・デ・レーケていうお雇いの外国人やった。

 彼は明治16年に筑後川ば視察し、その後、日本各地の河川ば見て回り、考えなったとが導流堤タイ。

 導流堤は川の流れば速めることで河口付近での土砂の堆積ば防ぎ、航路ば維持することがでける。

 導流堤は狭く、深い部分ほど水の力が強く、流速も大きくなるていうノズルと同じ原理ば利用し、この水の力で堆積する土砂ば下流へ押し流す。

 100年以上経った現在でも、ちゃんとその水深ば保っとるとにはたまがるばかり。

 
造り方は川底が軟弱な地盤やケン、粗朶(そだ:雑木) ば敷き詰めた上に枕石ば入れて沈めとる。

 粗朶はクッションの役割ば果たし、強い水流のあたりを和らげている。また結果としてこの沈床に鰻などの魚が住み着くことにもなっとる。

 導流堤は満潮時に水面下になるケン、航行の安全のため導流堤上に間隔ばとって標識を並べ立てた。

 築堤ば指導したヨハネス・デ・レーケは、明治6年に31歳で来日して、その後30年にわたって日本の治水に力を尽くし、筑後川以外でも大阪淀川や木曽三川の治水、防災に手腕ば発揮しなった。

 その間、明治12年に妹ば、また明治14年には最愛の妻ば失くしなったが、日本の治水に対する情熱が冷めることはなかったていう。

 日本の土木の基礎ば築いたとして勲二等瑞宝章ば授与され、明治24年に内務省の正式な勤務官となったバッテン、明治36年に惜しまれつつ故国に帰ってしまいなった。退職金は、現在の価値にして4億円に相当したていう。

 今日も筑後川の流ればスムースにしてくれとるデレーケ導流堤は日本土木学会の平成20年度選奨土木遺産に推薦され、また土木遺産in九州の「A級土木近代化遺産」に指定されとる。

上・新田大橋から真下に見える干潮時のデレーケ導流堤。晴れた日やったらすぐそこに筑後川昇開橋も見える。
下・新田大橋から下流側、河口へ向こうて延々と続いとるとが分かる。左は福岡県の大川市から柳川市へと続く。
下の下・導流堤の左は大野島港。漁船が出入りでけるごと所々堤が開けてある。満潮の時のための標識も左下に見える。

阿蘇・くじゅうば源流とする筑後川は、九州一の大河川やケン、その流域にはただ広かでは現しきれん広大な沖積平野(ちゅうせきへいや)がひろがっとる。一般に筑後平野ていうとるこの土地は、太古から気の遠くなるごたあ時間ばかけて、筑後川の堆積作用によって創られたもんタイ。

 しかも筑後川は日本三大暴れ川のひとつで、「筑紫次郎」ていう異名までもっとるやんちゃ坊主。そやケン、1600年代から両岸の各藩は、田畑ば守りながら開拓する新田にも安定した 給水ば確保せないかんもんやケン、苦労ば重ねてきた。

 このシリーズの「其の7・8・9」でも取りあげてきた「筑後川四大堰」やら、「其の16」で書いた蛇行部ば解消するショ ートカット(捷水路)、二重堤防の千栗堤防(ち くりていぼう)などなど・・苦労の跡ばっかしタイ。

 川が大きければ大きかだけ、上流から運ばれてくる土砂も多か。河口になれば川が横に広がって流れが遅うなり、上げ潮ともぶつかって 土砂が溜まってしまう。放っといたら川底ば埋めてしまう。

 筑後川河口では干満の差が激しかケン、干潮時に船が通行できず、満潮時でさえ曲がりくねった澪筋(みおすじ・普段水が流れとる道筋)ばはずして座礁してしもうたこともあったていう。 さらに、明治になると蒸気船の航行が増え、現在でも有明海での海苔養殖の漁船などが盛んに行き来しとる。

 筑後川には多くの橋が架かっとるバッテン、この橋が一番下流に架かっとって、橋の長さ500mも筑後川の橋では一番長か。ナシ新田大橋かていうと、河口から4.4Km新田地区と大野島に架かっとって、いちばん長い大きな橋やけんタイ。

 この橋の上流には若津港があり船の往来も激しかケン、水面からの橋高は高う設計されとる。
 この橋は昭和48年(1973)に架設されたけど、それまでは県営渡船(新田の渡し) で人々は行き来しとったていう。 この橋がでけたお陰で、この地区の交通の利便性は、抜群に良うなった。

 橋の形式は合成鋼箱桁5連+中央部はローゼ鋼アーチていう。橋の両側は箱桁で、真ん中だけが補剛桁とアーチ部材の双方で抵抗ば分担しあうアーチ橋になっとる。路線名は県道柳川早津江線。橋の巾も10.8mある。

 橋の下流右岸には、筑後川の河川敷ば利用した大規模な筑後川総合運動公園がある。

上・大野島の公園から見た新田大橋。
左・河川敷の芝生は広うて家族連れのリクレーションは独り占めできる。
下・筑後川総合運動公園は、橋の下から下流に向こうて巾200m、長さ1km以上もあり、隣り合わせで佐賀県川副町の運動広場もある。

Topと下の写真は筑後川の左岸・大川市新田地区から撮したもの。早朝から漁に出た漁船が港へ引き上げていく。

 橋ばっかしやったら飽きのくるやろう。新田大橋ば大川市に渡ったケン、古賀政男記念館ば訪ねてみろう。

 古賀 政男(こが まさお) は誰でも知っとるやろう。昭和期の代表的作曲家でギタリストとして有名タイ。

 明治大学(旧制) 商学部ば卒業。本名は古賀正夫ていう。
国民栄誉賞ば受賞しとんなって、従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章まで貰うとんなる郷土の芸術家タイ。

 
少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽ば勉強。マンドリン音楽家・「古賀正男」から、多くの流行歌ばヒットさせた流行歌王「古賀政男」になり、国民的な人気ば確立しなった。

 東京音楽学校首席卒業のクラシック正統派藤山一郎から、歌謡界の女王・美空ひばりまでその作品は5000曲にもなるていわれとる。

 明治37年(1904) に福岡県三潴郡田口村(現・大川市) に生まれた。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の「誰か故郷を想わざる」のモチーフになったていう。

 7歳で父を亡くしたもんやケン、故郷ば離れて朝鮮に渡り、感情起伏の激しか少年時代ばすごした。故郷ば無くした悲しみから生まれた歌が「人生の並木路」ていう。

 青春の時期に朝鮮におったことで、後の「古賀メロディ」は朝鮮音楽の影響ば受けとるていう意見もある。

 昭和5年(1930) 秋には、佐藤千夜子の歌唱によって「影を慕いて」ばビクターで吹込んだ。当時、死のうと思うとった古賀が、川崎町の森林ば歩きよったら、ふと我に返り、書いたとがこの歌やったていう。

上・駅長とその老人会が館長と唄いよる。
左上2枚・古賀政男記念館と前庭の銅像。
左・記念館に移設された古賀政男の生家。
下・ゴールデンレコードやらトロフィーなど記念館の展示物は懐かしかもんばっかし。

 昭和6年(1931) 日本コロムビア専属作曲家として契約、作曲に自信が無うて悩んどったとき、東京音楽学校の藤山一郎と出会うたことが古賀政男の人生を大きく変えることになった。藤山一郎の歌唱力が古賀政男の才能ば開花させたていわれとる。

 「酒は涙か溜息か・丘を越えて・影を慕いて」の3曲がSPレコードで発売されヒット。それ以後は多くのヒット曲ば世に出した。

 昭和9年(1934) テイチクに移籍してビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などで、「緑の地平線・二人は若い・東京ラプソディ・あゝそれなのに・青い背広で・人生の並木路」などのヒット曲ば連発した。

 戦後になると昭和23年(1948)の近江俊郎が吹込んだ「湯の町エレジー」がヒット。
1960年代には美空ひばりの歌ば手がけ、昭和40年(1965) 発表の「柔(やわら)」は、なんと190万枚ば売り上げるていう大ヒットとなり、第7回日本レコード大賞も受賞。翌昭和41年(1966) 発表の「悲しい酒」も145万枚ば売り上げるていうミリオンセラーとなった。

 作曲活動の傍らで昭和34年(1959) には日本作曲家協会ば創設し初代会長。晩年の昭和49年(1974) には「広島平和音楽祭」ば始めたりしなったバッテン、昭和53年(1978) 7月25日とうとう死去。直後の8月4日、国民栄誉賞ば贈られた。

 古賀政男記念館は、古賀政男が生まれた福岡県大川市によって1982年に開設された。古賀にまつわる写真のほか、「影を慕いて」の直筆楽譜や国民栄誉賞など顕彰された盾・トロフィー類が展示され、隣接地には復元した生家も移設されとる。

 館内では今の館長さんが古賀政男になりきって、懐かしの古賀メロディーば聴かせてくれる。

丘を越えて(1931年) 藤山一郎
酒は涙か溜息か(1931年) 藤山一郎
私此頃憂鬱よ(1931年) 淡谷のり子
影を慕いて(1932年) 藤山一郎
強くなってね(1933年) 渡辺光子
サーカスの唄(1933年) 松平晃
ほんとにそうなら(1933年) 赤坂小梅
夕べ仄かに(1935年) 松島詩子
緑の地平線(1935年) 楠木繁夫
東京ラプソディ(1936年) 藤山一郎
男の純情(1936年) 藤山一郎
女の階級(1936年) 楠木繁夫
ああそれなのに(1936年) 美ち奴
うちの女房にゃ髭がある(1936年) 杉狂児・美ち奴
青い背広で(1937年) 藤山一郎
人生の並木路(1937年) ディック・ミネ
のばせばのびる(1937年) 楠木繁夫
青春日記(1937年) 藤山一郎
人生劇場(1938年、1959年) 村田英雄 
誰か故郷を想わざる(1940年) 霧島昇
なつかしの歌声(1940年) 藤山一郎・二葉あき子
新妻鏡(1940年、1965年) 霧島昇・二葉あき子 
紫紺の歌(明治大学第一応援歌 霧島昇
紅い睡蓮 (「熱砂の誓ひ」主題歌) 李香蘭
そうだその意気(国民総意の歌) 霧島昇・李香蘭
南の花嫁さん(1942年) 高峰三枝子
月夜船(1944年、1949年) 近江俊郎(1949年)
旅役者の唄(1946年) 霧島昇
麗人の歌(1946年) 霧島昇
悲しき竹笛(1946年) 近江俊郎・奈良光枝

恋の曼珠沙華(1948年) 二葉あき子
湯の町エレジー(1948年) 近江俊郎
雨の夜汽車(1948年) 奈良光枝
シベリヤ・エレジー(1948年) 伊藤久男
三百六十五夜(1948年) 霧島昇・松原操
港の恋唄(1949年) 鶴田六郎
希望に燃えて(1949年) 伊藤久男・霧島昇
赤い靴のタンゴ(1950年) 奈良光枝
トンコ節(1951年) 久保幸江・加藤雅夫
月が出た出た(1951年) 霧島昇・久保幸江
ゲイシャ・ワルツ(1952年) 神楽坂はん子
白虎隊(1952年) 霧島昇
こんなベッピン見たことない 神楽坂はん子
見ないで頂戴お月さま(1953年) 神楽坂はん子
りんどう峠(1955年) 島倉千代子
江戸の闇太郎(1957年) 美空ひばり
青春サイクリング(1957年) 小坂一也
永遠に答えず(1957年) 島倉千代子
無法松の一生(1958年) 村田英雄
思い出さん今日は(1958年) 島倉千代子
銀座地階の女(1959年) コロムビア・ローズ
花散る下田(1960年) 島倉千代子
東京五輪音頭(1963年) 三波春夫
柔(1964年) 美空ひばり
ウソツキ鴎(1964年) 小林幸子
お島千太郎(1965年) 美空ひばり
柔の男(1965年) 美空ひばり
悲しい酒(1966年) 美空ひばり
世界平和音頭(1968年) 都はるみ
浜昼顔(1974年) 五木ひろし

古賀メロデイーどれだけ知ってますか ? どれが唄えますか ?

   影を慕いて

 まぼろしの 影を慕いて
 雨に日に
 月にやるせぬ わが想い
 つつめば燃ゆる 胸の火に
 身は焦がれつつ しのびなく

 わびしさよ せめて痛みの
 なぐさめに
 ギターをとりて 爪弾けば
 どこまで時雨 ゆく秋ぞ
 振音(トレモロ)さびし 身は悲し

 君故に 永き人世(ひとよ)を
 霜枯れて
 永遠に春見ぬ わが運命(さだめ)
 永ろうべきか 空蝉(うつせみ)の
 儚き影よ わが恋よ

  まぼろしの 影を慕いて
     大川市・古賀政男記念館

 とくに、秋になると自生した塩生植物のシチメンソウが真っ赤なじゅうたんになり、県外からも大勢の観光客が来る。

 シチメンソウ( 七面草)いうとは、塩分の濃い海水にも耐えて育ち、国内では、有明海(佐賀・ 長崎県)沿岸と、北九州市から大分県北部の海岸に限られとる。

 なし七面草ていうか ?  ていえば、葉の色が赤から緑から赤て変わるとば、七面鳥の顔色の変化に、こじつけとうとタイ。

 潮が引いとると群生地まで近づける。群落地はコンクリートの歩道と捨て石で囲まれた、幅約10m〜20m、 長さ約1.6kmの広大な場所で、一面シチメンソウばっかしで真っ赤っか。堤防の上の展望台から見ても、どこまで続いとるとか分からん。

 写真ワンカットでは、とても全景は入りきらん。

Top・目の前に広がる有明海と東与賀町の七面草。
ゴミのごと小さく見える黒か粒々は飛んどる鳥。
右上・果てしなく続くシチメンソウの赤絨毯。
右・シチメンソウのアップはあんまりキレイなもんんじゃなか。群落ば離れて見るとがいちばん。
上・シチメンソウが群生する干潟の全景。広角レンズでも1枚の写真には入りきらんケン、3カットば繋いだ合成写真。

 古賀メロディーば口ずさみながら渡ってきた新田大橋ば渡り返し、大野島ば横切って早津江橋ば渡ると国道444号線に突き当たる。左折して西へ約6kmばかり走ると、そこは佐賀市東与賀町。「干潟よか公園」の標識に従って左折3kmで有明海の海岸にでる。

 ここは干潟の泥海岸で、
ムツゴロウやシオマネキなどば見ることがでける。堤防沿いには干潟ギャラリーもあり、ドライブコースとして人気がある。
 また、平成16年(2004) に開園した
「干潟よか公園(与賀と良かば引っかけたシャレ)」も整備され、子どもたちにも親しまれとる。

 昭和天皇が死になる前(昭和62年)の最後の行幸地としても有名で、記念碑と御製の碑が建てられとる。崩御は昭和64年(1989)

 御製碑には昭和天皇が出席した最後の歌会始で、ここに来たときの有明海の様子ば歌われた
「面白し 沖へはるかに汐ひきて 鳥も蟹も見ゆる 有明の海」が刻まれとる。

 平成18年(2006) には「全国豊かな海づくり大会」の会場にもなり、今の天皇・皇后も臨席しなった。

 この干拓地には「搦」( からみ) とか、「開」( ひらき) とかいう地名が多か。

「搦」いうとは、干拓堤防の中心となる杭に竹などの枝ば絡み付ける技法からきとる。
「開」いうとは、どうも土地ば開拓・開墾・開発が語源のごたる。

 壱岐に行くと「触(ふれ)」とか、「浦(うら)」ていう字が多かバッテン、「触」は主に農村地域の集落で、朝鮮語の「村(フレ)」からきとるとゲナ、「浦」は漁村地域の集落に多かごたる。

 人間がダメなら貨物でもよかタイ。いう訳で、近くに民家がなく、騒音被害の心配がなかていう利点ば売り込み、2004年に夜間貨物便の誘致に成功した。 重量のある貨物機が飛んでくれば着陸料が増え、旅客便に比べ1便当たりの収入が3倍になったて、空港は一時ほくほく顔やった。

 佐賀空港内に本社のある「エス・ジー・シー佐賀航空」が空中写真撮影や宣伝飛行、農薬散布、飛行訓練などのほか遊覧飛行もやって、軍事フライト以外ならなんてもやりますていう意欲がある。

 平成25年(2013) 国際線ターミナルビルが完成。
 ティーウェイ航空いうとが仁川国際空港( ソウル) 線ば就航ばさせた。今年の6月には春秋航空日本が成田国際空港( 東京) 線ば就航させる予定で、すこぅしは見通しも明るうなった。

 シチメンソウの「干潟よか公園」から東南へ直線距離で約2km、すぐお隣さんていうところに佐賀空港はある。

 もちろん有明海の干潟ば利用してでけた。みんなから佐賀に空港やら造って大丈夫 ? 誰が乗ると ? ムツゴロウでものせるつもり ?  なんていろいろ云われながら、開港したとは平成10年(1998) 7月28日。

 有明海に面した干拓地に作られた空港やケン、佐賀県が宣伝の意味もあってつけた愛称は「有明佐賀空港」( ありあけさが くうこう)

 
案の定、干拓地のため開港直後からバードストライクが多発。バードストライク( bird strike)ていうとは野球用語じゃナカ、鳥が構造物に衝突する事故のことばいう。主に飛行機と鳥が衝突することば指す。

 離島の空港ば除けば、佐賀空港は全国で最も発生率の高っか空港のひとつタイ。
 そのため、佐賀空港では余計な手間と予算ばかけて、爆音機の導入やら滑走路のパトロール、散弾銃での威嚇( いかく) 射撃などばせなならんごとなっとる。

 心配されよったお客さんはどうか ?
 開港以来、福岡空港の混雑ば避けたチャーター便の発着が見られるごとなった。空港の年間利用客数は、国内便で313,200人( 2012年度) 、国際便で34,142人( 2012年度) ていう。1日平均1,000人あるかなし。

 バス会社は冷たかねぇ。
 開港時に定期バスば走らせとった西鉄バス・昭和バスと西肥バスそれに祐徳バスが開港後1年もせんうちに揃うて運航ば止めてしもうた。

 地元の人がいいよんなった「自動車のなからな、飛行機には乗りにいかれん」て。

 じっさいに駅長も佐賀市内から走ってみた。佐賀県庁から真南へ10km強。なあもなか干拓地ば走るとは高速道路なみの退屈感と戦わないかんやった。

 長崎自動車道の大和ICからやったら、40分以上は間違いなかろう。

 
佐賀県は利用客ば増やそうと、乗合タクシーに補助金ば出したり、航空機の夜間滞泊( ナイトステイ) ば勧めたり努力しとる。

 ナイトステイいうとはこうタイ。
 東京発最終便が乗客ば降ろした後、佐賀空港で夜ば明かし、翌朝、東京に向けて出発する。

 これによって東京日帰り出張が可能と宣伝し、東京便は開港当初の1日2往復から4往復に増やすことがでけた。

 県は夜間の駐機料ばタダにしたり、乗務員の宿泊費用などば負担したり、県民の税金で補助ばしとる。

 都心部に近か福岡空港は、騒音問題から早朝深夜に運用でけず、空港の拡張も難しか問題ば抱えとるケン、佐賀空港ば拡張して、成田、関西、中部に次ぐ国際空港にしまっしょうや、ていう案ば提提案しとるバッテン、どうなるか ?

 長崎道への取付道路ば整備して、福岡、熊本、長崎などへ高速道路ば使えるごとすれば1時間前後でアクセスでけるとやケン、この案はよかろうごたるけど、まだ実現の目途は立っとらん。

TOP・佐賀空港の洒落て云えばエントランス。上・入り口でお出迎えの「雲上恵比須」さん
中・1階の受付カウンター
下・3階から1階のホールば見たところ。
そのまた下・3階からみた1階のホール。この日は韓国便の就航式典がありよった。

 空港の建物は、まず入り口でえべっさんが出迎えてくれる。このえべっさんは空港と同時にでけたもんで名前が「雲上恵比須」 いつ行ってもニコニコしとんなる。

 1階は搭乗カウンターと到着ロビー。
 2階へエスカレーターで上がると出発ロビーと搭乗待合室に土産物売場。
 3階は レストランに有料待合室。
 屋上の展望デッキ・送迎デッキは有料。
 
 コストば抑えるため、国際線の搭乗ブリッジやチェックインカウンターなどは国内線ターミナルと共用になっとる。

 別棟になっとる国際線の待合室と到着ロビーが、佐賀錦ばイメージした木目の壁面ていうことば聞いたケン、撮しにいつたバッテン、韓国行きのキップば買わんと入らせてくれん。

 仕方無く国内線の3階廊下から撮ってきた。

 佐賀空港の良かとこは、駐車場が何時間置いてもタダ。何日置いといても無料。

 これは気に入った。収容台数は約750台バッテン、タダやけんかいつ行っても建てもんに近かとこは満杯。
 離れた第2・第3駐車場から歩かされる。

 
空港と隣接する佐賀空港公園の敷地内には、現役引退後のYS-11機( JA8733) が保存されとった。

 この機体は、「空港に常時駐機する航空機の数が少なくて寂しか」いうことで、佐賀県がエアーニッポンにおねだりして、開港時の1998年7月に寄贈ば受けたもの。

 2010年3月に再塗装などの整備を受けた上で一般公開されとるケン、屋外保存にしては今ならびっくりするくらいキレイにしとる。

上・東側のフェンス越しに撮った空港。
中・隣の空港公園には懐かしかYS-11が整備されて公開展示されとった。
下・落ちていく夕陽と空港の管制塔。

 佐賀空港のあるとこは、平成19年(2007) に佐賀市に編入された「佐賀市川副町(かわそえまち)」
 博多のもんはすぐ濁りとうなるバッテン、「かわそえ」は濁らんと。「町」の発音も「ちょう」じゃのうて「まち」。佐賀県内で「まち」て読むとは江北町(こうほくまち)とここだけやった。

 合併前の川副町やった頃は、佐賀空港があったことから、町のキャッチフレーズは欲張っとって
「空港都市ーエアフロントシティ川副」 快適な町、豊かな町、和やかな町」やった。

 
町の南にある佐賀空港ば含め、面積の半分以上は江戸時代中期から行われた干拓によって作られた土地やケン、低くう平でぜんぜん起伏のなか地形。

 筑後川河口の三角州、その南半分も川副町大詫間ていうことになる。大詫間も同様に350年間・50回もの干拓によって作られた。なお、三角州の北半分は福岡県大川市大野島。

 空港から北へ県道30号線ば6kmばかり走って国道44号線にぶっつかる。信号の名前が「咾分(おとなぶん・難読字)」右折して川副町支所の前から「犬井道」の信号ば通過、1kmの四つ角ば右に曲がれば「川副大橋(町はかわそえバッテン、橋はかわぞえ)」の長ぁかスロープが待っとる。

 昭和28年(1953) 6月25日〜27日 とんでもなか豪雨により佐賀平野のほとんどの河川の堤防が決壊し、全体が甚大な被害にあうた。昭和28年水害ていう。

 川副地区も水田は一面泥海になり、植えたばかりの稲田は絶滅。救援苗ば鹿児島県などから受けて田植えばやり直す有様やった。 
町内の交通はなんもかんもマヒしてしもうた。、大託間に渡る橋が無かったケン、普段は県営の渡船ば使いよったけど渡船は勿論ストップ。

 それから24年経った昭和52年(1977) 川副町発足以来2万町民の夢やった「川副大橋」の架橋が決まって5月2日にその起工式が大詫間の取り付け道路予定地で行われた。町民は大喜びタイ。

 もちろん名前は「川副大橋」 総延長695m。幅員は車道が6.25m、自転車道および歩道は片側だけについとって2.5m、その他路肩など合わせて10.25mの規模やった。

 総事業費は22億1,000万円で、完成したとは6年後の昭和58年(1983) やった。橋の完成と同時に大詫間(おおだくま)地区へ上水道の送水も始まった。

 川副大橋は道路でいうと「県道大詫間光法停車場線」
 橋の形式は「 5径間連続鋼床版箱桁 」ていう。

 橋の向こうが大託間。渡りきってすぐ右折したら郵便局・大託間小学校。その近くに「山口家住宅」がある。

  葦ぶきの屋根の形が漏斗型て知ったもんやケン、見に行きとうなって、もの好きにも筑後川の河口「大託間」までも来てしもうた。

 来てみて驚いたとは、建築年代が19世紀中頃て推定されとるとい、しつかり旧状ば留めとって、みすぼらしさが全然ないことやった。家の周りが小公園化され、駐車場・トイレもちゃんと整備されとるとは、さすがに「重文」やなぁて思わせた。

 駐車場に車が1台おったケン、先客かなと思うて運転席ば覗いてみたら、作業服のおじさんが昼寝ばしとんなった。静かな場所やケン、ぐっすり寝るとにはもってこいタイ。

 家屋いうか建物は、上から見たらほぼ正方形で、屋根の内側が谷のごと真ん中へ落ち込んでいっとる。こげな四角形の屋根の家は「じょうご谷」「四方谷」または「漏斗(じょうご)造り」て呼ばれ、筑後川河口近くの干拓地に多く見られる様式ていう。ほかでは見られん珍しかもんゲナ。そういえば、今までにこげな家屋は見たことがなか。

Top・駐車場側から見た旧山口家の堂々とした屋根。
上・雨水の排水装置。
右・室外の桶に逃がされた水は、下の排水溝にあふれる仕組み。
下・これが「耳子( みんのす) 」

 漏斗に集められた雨水はいったん家の中へ入れ、土間の上にある瓦製の樋( とい) で外へ逃がすらしかけど、大雨の時にはすごか勢やろう。

 
なしこげな屋根の形と排水のしかたになっとるとか ? その理由については学者の間でも諸説があってはっきりはしとらんごたる。

 屋根ばみてふっと気づいた。
 棟の上にある馬の耳に似た飾りが面白か。なんかいなて調べたら「耳子( みんのす) 」ていうとゲナ。こらぁまぎれもなく佐賀か筑後んもんの発音バイ。

 土間にはバイクなどが置いてあり、今でもひとが住んどるていう生活感があった。

 説明板によると、1974年に国の重要文化財の指定ば受け、2010年8月から国の補助で2,900万円かけて保存修理工事ば始めた。
 屋根には2トントラック20台分の葦が使われたゲナ。完成したとは2011年2月やった。

 先祖代々この家に住む山口さんは「両親の思い出が残る農家ば守り、このような家がかつて多くあったことを後世につたえていきたい」て云うとんなる。

 
 筑後川の河口の大託間でやっと長かったチッゴガワの旅も終わります。
 思い起こせば2010年11月、51番線から始まって3年半。21回に渡る連載でした。源流のくじゅう田の原橋からほぼ150kmも下ってきた勘定になります。よう飽きもせんで・文句も云わんで付き合うてもらいました。

 厚く厚くお礼申し上げて「大作・筑後川」ば、河口からの雲仙岳ば見なから終わりにさせてもらいます。ありがとうございました。

             筑後川河口の取材期間 2004.10.18〜2014.03.07

              筑後川が終わっても駅長の旅は終わりまっせん。
    次回
「くまがわ鉄道」の「田園シンフォニー」ていう列車に乗って、むかしの「湯前線」ば走ります。

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