| このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |

![]()
(2)
![]()
(1) 九頭竜川と渡し 九頭竜川など三大河川では、すでに中世から渡舟が利用されていたことが記録にあります。 江戸期に入って軍事的見地から橋が架けられたのは福井大橋(九十九橋)や舟橋(九頭竜橋)など一部に限られ、ほとんどの川で渡舟が利用されました。 貞享2年(1685)に編纂された「越前地理便覧」にある九頭竜川など渡場の概観図をみますと次のとおりです。 九頭竜川
これらの渡場には、それぞれ渡守が控え人々の往来の便宜を図っていました。 渡守は渡場により人数が異なりますが、通常は2,3人が交代で勤めていました。それでは九頭竜川の主な渡場を順次、見ていきましょう。
(2) 主な渡場 ◎ 舟橋(福井市舟橋)・現在の九頭竜橋付近 近世、福井城下の北方、九頭竜川左岸の舟橋村(福井市舟橋町)と右岸の稲田村(福井市稲多町)の間にあった舟橋です。 天正年間(1573〜1591)柴田勝家が舟渡しを舟橋に改めた伝えられ、多数の舟を鎖でつないで板を架け渡し、橋にしたことから橋名になりました。 しかし、15世紀末(1400年代)に「高木舟はし」という記録が残っていますので、舟橋の存在は、この頃まで遡ると考えられます。 鳴鹿(永平寺町)付近で福井平野に出た九頭竜川は暴れ川にふさわしく乱流をしばらく続けますが、舟橋村付近までくると幾筋もの川筋が一つに収束して絶好の渡渉点となりました。 このため古くから、この付近で九頭竜川渡河が行われ、鎌倉末期から室町期以降、北陸街道を越える重要な渡場となり、中世から近世には九頭竜川筋における唯一の舟橋になりました。 舟橋について「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記しています。 交通の要地は戦略の要地でもあり、舟橋南詰に南北朝期から近世初めまで勝虎城(別名黒竜城・舟橋城)があって新田義貞勢と勝虎政澄勢、加賀・能登一向一揆勢と朝倉勢などが戦っております。 また、柴田勝家時代の福岡七左衛門をはじめ代々橋奉行が置かれ、江戸期には四王天家が橋奉行を世襲して勝虎城跡に奉行役所を置きました。 明治8年(1875)ここに木橋が架けられて舟橋は廃止されました。ここで使った舟鎖は鳴鹿の舟橋に使い、さらに明治15年(1882)に小舟渡の舟渡しに転用されました。 なお、北庄本丸跡と伝えられる福井市柴田神社には舟橋の鉄鎖の一部が伝えられています。 また、九頭竜橋南詰西側の堤防上に舟橋の由来と橋奉行四王天又兵衛の役所跡を示す標石が立てられています。
◎ 鳴鹿渡(吉田郡永平寺町鳴鹿山鹿)・鳴鹿橋付近 上記絵図「ク 鳴鹿渡」とあるところですが、現在の永平寺町鳴鹿と東古市とを結ぶ川幅80間(約144m)の渡河点です。 奈良中期の天平勝宝7年(755)頃、坂井郡に「久米田橋」という橋があり、橋の位置は山間部を流れてきた九頭竜川が福井平野に出た永平寺町鳴鹿山鹿付近に比定されています。 この付近は古来から越前国府(武生市)へ通じる山沿いの陸路が、ほぼ南北に通っていたところで、当時、久米田橋はきわめて重要な橋でした。 時代が下り、いつしか橋の姿は消えて渡舟による渡場、鳴鹿の渡(別名赤岩の渡)になりました。 中世は朝倉街道の要衝として下流に森田舟橋ができるまでは交通量も多く、舟も馬舟が使用されて対岸の鳴鹿には旅宿や遊女屋もでき、宿町として賑わったといわれます。 川舟は船頭が2人いて、客なら5,6人、貨物なら200〜300貫くらいを積みました。明治8年(1875)森田舟橋が木橋になったので不用になった舟を買い取って鳴鹿へ回し、20艘ほどの鳴鹿舟橋ができました。 舟は鉄鎖で繋いで両岸にくくりつけ、鎖は真ん中で藤で結び洪水など緊急時には切れるようにしてありました。 しかし、ここも交通量が増加して大正4年(1915)6月、ワイヤーを使った橋長75間(約137m)の釣橋になりました。 昭和8年(1933)これまでの欅柱をコンクリートに、昭和26年(1951)すべて鉄材で造り、昭和39年(1964)7月、幅7mに広げた長さ133mの鉄筋コンクリート造りのトラス橋になりました。
◎ 小舟渡(勝山市下森川)・小舟渡橋付近 勝山街道の九頭竜川渡河点で、江戸期、勝山藩領森川村と対岸の福井藩領中島村(上志比村藤巻)の間を結んだ渡しで、上記絵図「ケ 小舟渡」とあるところです。 「越前地理指南」によれば「一小舟渡、川幅百四拾三間、水七尺、岸四間、渡守村アリ」とあるように、 小舟渡は川幅143間(約260m)水深7尺(約7m)岸から水辺までが4間(約7m)あったようです。 当初、元禄から宝永年間(1688〜1710)この渡しに本保村(旧吉野村)から笠松清左衛門が移住して渡守となり、領主から舟屋敷と給米4石2斗を頂戴したといいます。 近世、舟元は代々森川村が勤めるようになり、大型舟3艘、小舟2艘を常備し、船頭が22人もいたといいますが、船頭は常時勤務でなく交代勤務していたのでしょうか。 明治15年(1882)下流の森田舟橋の古鎖を譲り受け、舟20艘を繋いだ全長57間(約104m)幅9尺(約2.7m)の舟橋になりました。この橋は人が1銭、馬は3銭を徴収される賃取橋でした。 大正10年(1921)現在の小舟渡橋(長さ220m、幅4.1m)である鋼製トラス橋が架橋され、勝山街道の交通の要所として長年利用されました。 しかし、昭和44年(1969)その下流に市荒川橋(長さ281m、幅8.8m)が完成し、勝山街道で最も重要だった橋の役目を終えました。
◎ 箱(筥)渡跡(大渡・下荒井の渡)(勝山市下荒井)・下荒井橋付近 古来、箱(筥)渡と呼ばれた渡場があったところで、九頭竜川中流右岸の氾濫源に位置した 大渡村から対岸の下荒井村に渡場が設けられて大野と勝山を繋ぐ重要な交通の要路でした。 奈良期、泰澄大師が白山禅定のため越知山から大野を経て、この渡しを箱の蓋に乗って渡ったことから「箱(筥)渡」と呼ばれるようになりました。 平安・鎌倉期、国府(武生市)〜勝山間は池田(今立郡池田町)、牛ヶ原(大野市牛ヶ原)、下荒井(勝山市下荒井)を経て九頭竜川を舟で渡っていました。 また、この付近は九頭竜川(本流)と真名川(支流)が合流するところで平素から凄い水勢があリました。 舟役は当初、大渡村が勤めていましたが、宝暦6年(1756)九頭竜川の洪水と氾濫で河岸にあった 大渡村が高地に移ったため、対岸の下荒井村に舟役が譲られ下荒井の渡になりました。 下荒井村も、かっては九頭竜川の中州にあって山形橋で往復していましたが、享保11年(1726)の女神川の山抜けと文政8年(1825)の洪水により現在地に移住しました。 舟橋ができるまでは大野・勝山間の往復で渡場は栄えましたが、明治35年(1902)橋長53間(約95m)幅9尺(約2.9m)の舟橋が完成し車馬の交通が自由になりました。 大正元年(1912)簡単な鉄線懸木造の吊り橋が架設され、大正15年(1925)橋長約230m、幅員約4mの鋼鉄橋に改造され下荒井橋と呼ばれるようになりました。 昭和17年(1942)下荒井発電所建設の付帯工事として下荒井橋が改修され、昭和27年(1952)にも大幅な改修が行われました。 昭和44年(1969)旧下荒井橋の下流5mに下荒井トンネル(延長475m)とともに下荒井橋が新しく架橋されました。橋長約268m、幅員7.5mで両端に歩道が付いたワーレントラス型の橋となりました。
|
| このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |