このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「青空に映える古澤醸造」(2002.11.30)

秋の空に映える古澤醸造の建物である。
この建物では、搬入される芋を受け入れたり、その処理が行われている。

蔵の代表銘柄「八重桜」の文字が嬉しい。
「宮之城で見つけた焼酎ベンチ」(2002.12.22)

宮之城町の商店街。駐車場の前に置いてあった黄色いベンチだ。書かれているのは地元で造られる銘柄。
“地”という言葉を強く感じた一瞬でした。これこそが正しい焼酎の有り様かも知れません。
「宮崎市のとある“お花屋さん”」(2003.01.08)

観光ホテル街の路地裏にあった“お花屋さん”である。地元メーカーの銘柄入りの樽が店先に置いてあったが、聞けばこれにお花を活けてパーティー会場などで使用するのだそうだ。

“清酒”じゃなくて“焼酎”というのがイカしません?
「ゴールド白波」(2003.02.10)

かつて何度かあった焼酎ブームの名残なのか。たまたま通りがかった漁港町の居酒屋の看板は既に無い「ゴールド白波」であった。

時間帯のせいもあるだろうが、昼には定食も出すらしいこのお店には客の姿はない。何だか寂しさだけが漂っていた。
「杷木町・酒屋寸景」(2003.11.19)

「らんびき」のゑびす酒造の近くに酒屋がある。同蔵の古い銘柄「福徳 ゑびす」の看板がかかっていた。色あせてはいるが、どことなく存在感がある。

店は日曜と言うこともあり休みであったが、まだこの銘柄を扱っているのだろうか。

「“金の露”の看板」(2003.12.15)

国富市街の北のはずれの路地裏。牛の声が聞こえるそこに古い“金の露”の看板があった。黒い銘柄の文字は消えかかっているのに、稲の束は鮮やかな黄色。非常にアンバランスな感じを受ける。

今、国富町に焼酎蔵はこの川越酒造場1軒のみである。
「“極楽”の手さげ袋」(2004.01.05)

かつて人吉の焼酎は九州山地を越えて宮崎の地まで流通していた。西米良村が人吉藩であった頃の名残であろう。西米良村の村所の酒屋では球磨焼酎が幅を利かせている。

この手さげ袋はかつての東米良村である西都市の銀鏡地区で発見したものである。焼酎ではなく道具を入れる作業袋として使われていた。

「渡邊酒造場のボイラー」(2004.02.02)

県内に2つ残るうちの1つのコルニッシュタイプのボイラー。カマ自体は銀色に輝いて“バリバリ”に現役であることを主張しているのだが、そんなカマを煉瓦がしっとりと包み込んでいるのだ。

そんな柔らかさからだろうか。この蔵の焼酎は独特の円い味わいがある。
「九州産業交通のバス広告」(2004.03.10)

九州産業交通の人吉営業所で休むバス達。鼻先には源流の蔵で名を馳せる球磨郡水上村の“鬼倒(大石酒造場)”の宣伝広告がかかっていた。

九州の各地では、このような焼酎会社の宣伝広告を掲げた車輌をしばしば見かける。旅行の際、バス車体を観察してみるのも楽しいかも知れない。
「益々繁盛」(2004.04.02)

もしかしたら私が知らないだけかも知れないけれど、清酒にはない独特の世界を強烈に感じるのが“益々繁盛”瓶の存在である。2升5合で“升升半升(ますますはんじょう)”。「一升瓶の大親分」といった御姿でどっしりゆったりとした風情。

鹿児島の銘柄だが、高原町の某温泉旅館のカウンターで見つけた。なぜ、高原町で強烈な支持を受ける明石酒造の銘柄ではないのか不思議だ。
「粕取り焼酎と阿部の笹かまぼこと」
(2004.05.10)


知人からいただいた笹かまぼこをつまみに粕取り焼酎を飲んだ。笹かまぼこの上品な甘みにとろりとした粕取り焼酎の風味が合う。

製造元の阿部蒲鉾店。同社のHPによると昭和10年創業の老舗である。画像右側のクリーム色の物体は“柏かまぼこ”。季節商品だそうだ。こげなおいしいものを下さって本当にありがとうございます。
「“雲海”のグラス」(04.06.03)

吉塚の商店街にある酒屋で買ってきた“雲海”の販促コップ。値段はたったの50円。聞けば1升瓶を2本くらい買うとおまけにあげていたとのことであった。

これからの暑い時期は、ロックで飲むことがメインとなるため、このような大きめのグラスが大活躍します。
「渡邊酒造場・進化論」(04.07.10)

普段、寝る前にお世話になっている焼酎。手持ちの1升瓶を並べてみた。

奥の方から手前へと製品は新しくなっていくが、その進化はラベルデザインだけに現れているのではない。より味わい深く、よりノンべぇの心を魅了する焼酎へと変わり続けていると思うんですよね。
「宮崎空港の“霧島”」(04.08.12)

宮崎の空の玄関口“宮崎空港”。その出発待合室に宮崎の2大銘柄のディスプレイが置かれている。そのうちの“霧島酒造”。

こっち側はレギュラーの“霧島”。反対側は“黒霧島”である。ロビーのはじっこにあるので、知らない人もいるかも知れませんね。
「ある日の台所寸景」(04.09.05)

ほんの少し前の台所。我が家の台所のテーブルの下には消費中の焼酎瓶が並ぶ。ある日は宮崎焼酎だったり、この画像のように鹿児島の有名銘柄と粕取り焼酎だったり。

・・・ひどいときには4合瓶、5合瓶、1升瓶が乱れ立つ事もあるので、妻に言われるまでもなく自分でも“だらしがない”と反省している。
「“月の輪”を飲んだ夜」(04.11.02)

知人より戴いた岩手県の純米酒を開封した。湯煎で少し温めてカップへ。妻も長男も既に眠っていて、少し開いた台所の窓からはコオロギや名前も知らない秋の虫の声が聞こえる。もしかしてとベランダに出たが、月の姿は見えなかった。

月は出ていなくても、酒はすっと喉の奥へと流れていくのでした。
「真夜中のたのしみ」(04.12.20)

真夜中に鉄道趣味誌を広げながら燗を付けた焼酎を飲む。この雑誌を買い始めた高校の頃にはまったく考えもしなかった真夜中の過ごし方だ。

このような時間の使い方を非常に贅沢に思うのだけれど、たまにこのまま眠ってしまって家族のひんしゅくをかってしまうことが欠点といえば欠点。
「消えた佐土原の焼酎“白梅”」(05.01.12)

日豊本線佐土原駅のすぐ東側にあった岩切酒造の焼酎。全体的に白色のラベルだが、日向灘の日の出だろうか。その赤色が図案全体を引き締めていた。

既に存在しないことがとても惜しく思える。本当に美しいラベルだ。
「寶星☆焼酎」(05.02.12)

佐賀県には非常に多くの日本酒の蔵がある。また、そのうちのいくつかの蔵では麦焼酎や米焼酎を造っており、中には特産の菱で焼酎を造る蔵もある。

そのような状況だが、農村部ではこの甲類焼酎の人気も根強いようで酒屋ではもちろんスーパーでも店頭化。「甘口」などというバージョンまで存在する。
「苔むす・・・。」(05.03.08)

小林の本坊酒造が高原町の地域ブランドとして出荷していた“皇子原”焼酎。高原町の霧島山麓一帯が神武天皇が誕生し、幼少時代を過ごされた土地に当たるという伝説に因んだ銘柄である。この銘柄自体は都城市の大手ブランドに押される形で消滅したような話を聞いた。

・・・狭野神社の近くにある杉林の中にポツンとたたずんでいた。
「農家の庭先にて」(05.04.02)

串間市のとある農家の庭先。農作業の道具や使用しなくなった家具といった中に地元の焼酎の1升瓶が置かれていた。

農作業で疲れきった体を優しく包んだのでしょうか?単に習慣的に飲んでいるだけなのでしょうか?飲み終われば即、ゴミ行きというそのけなげな1升瓶の残骸に極めて土着的な焼酎の有様を感じてしまいます。
「はにわ」(05.05.10)

西都市の中心部を貫く自転車道。これは元国鉄妻線の線路跡だ。今はケヤキやツツジなどが植えられて、コンクリートの埴輪がたたずんでいる。かつて線路であったとはぱっと見ただけでは分からない。地元でもだんだんと国鉄の汽車の記憶は薄れつつあるという。

ある古い食事処の壁には西都市の焼酎の銘柄が入れられていた。そのうち、下の銘柄は既に無い。
「瓶一生」(05.07.02)

五ヶ瀬川沿いの隘路に立っていた1軒の酒屋。その店先の風景。

焼酎や醤油、お酢の瓶が仲良く置かれていた。酒屋の周囲には人家がない。リサイクルされることもなくこの瓶はどれほどの時間をこの場所で過ごしたのだろうか・・・。そのようなことを考えながら、この透明な1升瓶を撮影した。
「みやざきの焼酎コップたち」(05.08.06)

集めていたらいつの間にかまとまった数になってしまった宮崎の焼酎コップ。ロックやお湯割りなど用途に応じて様々な形態の物があることが分かる。

今も愛飲される銘柄から既になくなってしまった銘柄まで。その中から背景の白に映える物を集めてみました。
「“松露”の大看板」(05.09.09)

串間市街地の中心部に掛けられた“松露”の大看板である。所々色あせた古い看板であるが、蔵元が精力的に作成したのか、同市内各所で同じタイプの看板を見ることができる。

県南を代表する美しいラベルそのままの図案であるが、残念ながら昨年撤去されてしまった。おかげで、この建物の外観は随分イメージが変わっている。
「焼酎をくくる光景」(05.10.06)

宮崎県では何か節目の行事があると、焼酎をくくってのし紙でおめかしをして持っていく。「寸志」、「御祝」・・・。ここを御覧になっている方々の多くは清酒文化圏の方なのかもしれません。そのような場面で活躍するのは言うまでもなく地元の蔵元の清酒ですね。

焼酎文化圏である宮崎ではではちゃんと焼酎がその替わりをやってます。
「さいと いわくら つきのなか」(05.11.11)

宮崎焼酎の牽引役の一つである岩倉酒造場の「月の中」。そのラベルは他の銘柄にはない独自の世界を持っており、そしてどこか焼酎の味が染み出したような素朴さがあります。

先日の神宮大祭で県の酒造組合が開催した大試飲会での1コマ。なかなかこのような光景というのは見ることが出来ないです。
「【黒麹】旭萬年 焼酎生チョコ」(06.02.01)

大分の菓子店の企画により実現した製品群。ゼリーや生チョコレートと多岐にわたる商品展開がなされているのだが、これらに共通するのがそのパッケージではなかろうか。

宮崎市田野町にある渡邊酒造場もこの企画に参加しており、ゼリーはもちろん発売されたばかりの生チョコレートでもこの銘柄の魅力を味わうことができる。

それにしても、時代って変わったなぁ・・・と思います。
「杜氏潤平」(06.03.05)

日向の戦国大名伊東氏の居城であった飫肥城下にある小さな焼酎蔵で醸される焼酎は、若い杜氏による丁寧な仕込みによって今や全国区の人気を獲得しています。

味わいは紅芋(ことぶきかんしょ)を使用していることもあり、さっぱりとした甘酸っぱさが特徴です。

ラベルに踊る杜氏の名前が入った銘は、柔らかくもピシッと芯が通ったように存在を主張しているように私は感じるのです。
「祝いの席に」(06.08.11)

焼酎を生産・消費する地方では、祝いの席を盛り上げる酒もやっぱり焼酎。宴の盛り上がりも最高潮を迎えるに連れ、瓶をくくったビニールひもをライターで焼きとかし、1升瓶はそれぞれの席へと向かうこととなるのです。

宮崎では、南那珂などの一部の地域を除いて、地元の焼酎ばかりが並ぶことってまずございません。その様な中、たとえ一くくりでも見つけると、珍しさも相まって、ちょこっと嬉しくなりますよ。

ほら、ちょうど真ん中の緑色の瓶。あれが地元の銘柄なのですよ。
「列」(06.09.05)

道路沿いの酒屋の敷地に並べてあったおびただしい一升瓶の数。

一番手前の“黒霧島”の瓶も含めて、『元は』焼酎のモノが多い様だったが、中には『元は』みりんや『元は』醤油だってあった。

無造作に置かれている様であったが、その筒状の形状のためか、きちんと整列しているのが何だかおかしかったのだ。
「本土最南端の酒屋(推定)」(06.10.06)

佐多岬の先端を目の前にした集落にある酒屋。おそらくは本土最南端の酒屋なのでは無かろうか。

九州の突端に位置する岬であるから、台風襲来の際には大波が押し寄せるのであろうか。私の身の丈よりも遙かに高い防波堤が店からの太平洋の眺めを遮っていた。

店に入ったのはもうずっと以前になるのだが、酒屋以上に、この集落の何でも屋といった風情の方が強かった様に覚える。
「宮崎神宮本殿」(09.07.22)

神武天皇が美々津の港から東征をする前に都を営んだと伝えられる宮崎神宮。宮崎市内中心部に広大な杜を有し、その奥に鎮座する本殿の姿に霊威を感じる。宮崎は神話の国。県内の神社は大切にされている場合が多いのだが、宮崎神宮は特別な存在だと思う。

酒と神様というものは切っては切れない関係であり、土地の神様にはその土地の酒が奉納される。宮崎神宮には焼酎生産県らしく、県産焼酎がずらり・・・と並べられ、参拝客を楽しませてくれるのだ。
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『焼酎版』
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