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雑・音楽回想録④ | ||||||||||||||||||
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— 小椋 佳の詩心 — | ||||||||||||||||||
わが国フランス料理界の重鎮であり、麻布にある「ビストロ・ドゥ・シテ」という小さなフランス料理店のシェフだった勝又登さんは、毎日がお客との真剣勝負であると言う。お客のテーブルを廻るのは、単にあいさつをするためではない。「とっても、美味しいですね」などと通り一遍の感想を述べるお客は問題外。 「今日の鱸のムニエルはスパイスがとてもマッチしている上に付け合せの野菜との取り合わせがが見事ですね」 などと、その日自分の意図した味付けを図星に指摘されると、そのお客との勝負は負け。自分の意図が読まれなければ勝ち——という具合にオードブルからデザートに至るまで、お客の舌と戦う毎日だと語ってくれたことがあった。彼が麻布の店を後進に譲って、箱根芦ノ湖を見下ろす高台で「オーミラドー」というフランス料理中心のオーベルジュ経営に携わってから久しいが、未だに一度も訪れる機会が無い。 神奈川県は大和の事業所勤務だった頃、度々利用したスナックが町田にあった。元はクラブだった店だから雰囲気はまずまず、その割に低料金なのがサラリーマンには何より有り難く、職場の仲間内での懇親会や、形式張らない取引先の接待時などにうってつけの店であった。おまけに、古ぼけてはいたがマホガニー仕上げのピアノがあって、ピアニストまでいた。このピアニストのセンセ(この世界では、こう呼んだ)なかなか気の利いた御仁で、勿論カラオケの伴奏もするが、歌う客がいない時などでも適当に何かしら静かにピアノを弾いてくれる。仕事の絡みで気が滅入って、独り水割りを舐めているような時、バラード風のスタンダードジャズ等を弾いてくれる。お客の好みをしっかり頭にいれているのである。時にからかって、こんな曲、あんな曲とリクウェストすることがあっても、何でもござれと弾きこなす。あるとき意地悪を企んで 「センセ、ジョージ・ウィンストンの『オータム』を弾いてくれませんか?」 と投げかけた。 さすがに 「…すみません。その曲は聴いたこと無いです。」 との答え。 —— ヘヘヘ、今日は勝ったぞと心の中でほくそえみながら、 「ジョージ・ウィンストンてのはね、ブライアン・イーノと並んでスケープミュージックって最近話題になっている環境音楽っていうか、言わば『癒しの音楽』の第一人者なんだ。ピアノを弾く際、靴ばかりか、靴下も脱いじゃって素足でペダルを踏むそうだよ。それくらい微妙な音の余韻を大切にする音楽家なんだ。いまどき、若い女性にすごい人気で、先生もこれくらい知ってないと女性にもてないよ。」 などと知ったかぶりをして溜飲を下げたものだった。 それから暫く時をおいたある日、カウンターで独り水割りを舐めていると、背中で『オータム』が聞こえて来るではないか。 「センセ、なかなか、やりますネ。」 「いやア、この前、レコードを買っちゃいましたよ。」 という。 聞けば、楽譜はどこにも売っていなかったので、買ったレコードを何度も聴いて、自ら採譜したのだという。 こんなプロに出遭うと本当に嬉しくなる。 やがて、日本橋の本社に転勤になり、この店からも足が遠のいてしまったが、このセンセはまもなく早世してしまったと聞いた。なんでも、酒の飲み過ぎで胃をやられたらしい。 そういえば、いつもピアノの上に琥珀色のブランデーが載っていたっけ。まだ30代半ばという。惜しい男だった。 銀座にもプロがいた。日本橋勤務だった3年ほどの間、何軒かの行きつけの店が出来た。いずれもカウンターバーか、小奇麗なスナックというレベルの店である。そんな店の中に若いギタリストを入れているバーがあった。札幌の出身だというママが、銀座で十数年頑張ってやっと権利を手にしたという店は将に鰻の寝床のような狭いカウンターバーであった。カラオケブームの最盛期であったが、「銀座でカラオケじゃあ格好がつかない」などと言って、生のギター演奏を店の「売り物」にしたという。このギターのセンセがまた、若いに似合わず客の気を逸らさない良く出来た人物だった。昼間は池袋でカラオケ教室を開き、夜は銀座で2軒の店を掛け持ちでこなすという。 何度も通わぬうちに 「たまには一曲どうですか?」 と声をかけられた。 「センセ、俺は小椋佳しか唄わないよ」 と酔った勢いでからかう。実は当時、テープやCD、レーザーディスクのカラオケには、小椋佳のレパートリー曲は殆ど入っていない事を知っているから言えるセリフなのだ。 「珍しいですね。じゃ今度、仕込んでおきますよ」 とセンセもさらりとかわす。 暫くして、その店を訪れると、くだんのセンセ 「どうぞ」 と4、5枚の紙切れをさしだす。それは彼が自らメモった小椋佳の唄だった。それも、私の大好きなアルバム『彷徨(さまよい)』に収録されているナンバーである。過日センセをからかった後、同席した友人相手に小椋佳の話をひとくさり語り合ったのを、後ろでしっかり聴いていたのだ。 「まいったナ。ここまで、責められたら負けだね。」 とマイクを持った。 「そうだナ。唄ったことが無いけれど、今は梅雨の時期だから、これを練習させてよ。」 と選んだのが『六月の雨』である。偶々その日は、梅雨のはしりの雨が降っていた。
実にシンプルでありながら、「六月」「花」「変わる」「幾つ」「数え」と、これでもかと言わんばかりに韻を踏んだ詩は素朴だが見事である。紫陽花という言葉さえ使わず、「姿の変わる花」と表現するのも憎い。この曲は、友人の結婚式に招かれ、披露宴の出し物として唄を所望されていたのに、何も準備せずに当日を迎えてしまった小椋佳が、雨空を見上げて即興的に作ったのだそうだ。これだけの曲を即興で創ってしまうとは、やはり只者ではない。 小椋佳という人物、不思議な才能の持ち主である。神田の料亭の長男に生まれ、小学生時代は勉強嫌いの劣等生だったのが、高校生のときには哲学書を読み漁りインド哲学にのめり込み、現代の釈迦になろうと思いこむほどだったという。危なく、もうひとり「教祖」が生まれるところであった。で、東大の志望コースは宗教学科のある文Ⅲだったのに、「君の実力では、文Ⅲはもったいない」と教師に言われ、文Ⅰを受験したという。東大法学部を出たら、司法試験か、上級公務員、そして官僚という常識路線でないのが、彼らしいところか、突然のように、芸術に傾斜して、自己の才能に自惚れたり、寺山修司と接近した結果、己の才能に幻滅したりの「ふつーの青年らしい学生」で、結局は「組織内の存在となりつつ、何らかの創造作業を行う表現者の道を目指し」て一銀行員になる。サラリーマンとなってから、ひょっとした切っ掛けでシンガーソングライターになり、数々のヒット作を生み出すが脱サラをしてしまうほど軽薄でないところが憎い。平家物語ではないが、「見るべきものは見つ」と、企業内人間として悟って銀行を去ったのは、むしろ歌手としての峠はとっくに越えてしまった40代半ばで、しかも再び学士入学して「哲学」の門を叩くという風変わりな人生を歩んでいる。 『シクラメンのかほり』や『少しは私に愛を下さい』など、失礼ながら、その風貌からはとても想像できないような、プラトニックでメルヘンチックな歌詞は、どこから創造されてくるのか…と思うが、一方では平易な言葉でありながら難解な、如何にも哲学少年が綴るような歌詞も少なくない。食品会社「味の素」の、家族愛をテーマにしたというTVコマーシャル映像への挿入歌『愛燦燦』は歌謡界の大御所、美空ひばりの唄でヒットしたが、将に彼女の人生を歌い上げているかのような、素晴らしい詩である。ひょっとすると小椋佳はこの曲を創ったとき、美空ひばりの死を予見していたのではなかろうか…とさえ思わせる。 銀座のセンセのご指導で、カラオケのレパートリーはすこしずつ拡がった。中でも『木戸を開けて』は少年時代の自影が重なってくるようで好きである。この曲もずっとカラオケの中には入っていなかった。バブルがはじけて、行きつけだった店もクローズしてしまい、くだんのセンセともそれっきりになってしまてから、唄うチャンスも遠のいた。 業務用のカラオケシステムを商いにしている関連会社の責任者についたE氏は、かって「喜多郎ツアー」でも一緒に仕事をし、また夜遊びもした仲で、この話をすると間もなく「孫悟空」というニックネームで売り出した通信カラオケシステムのレパートリーに取り入れてくれた。 「通信カラオケ」というシステムはCDやLDやテープ等の媒体(メディア)を、カラオケ店が個別に持たず、お客のリクウェストに応じて、必要な曲をデジタル符号化して通信回線を通して瞬時に送ってくる。言うなれば、楽譜を送って、お店に置いてある小さな楽器(IC化されたシンセサイザー)が自動演奏するの仕組みである。バックコーラスなど肉声は苦手という欠点はあるが、部屋単位に何百枚ものCDを備えておく必要が無い。その上、一枚のディスクに十数曲をパックにするのと異なって一曲単位で扱えるので、新曲もどんどん追加出来るのがメリットで、いつも同じ懐メロばかりという中高年はともかく、ホットな新曲を歌いたい若者需要にはうってつけのシステムといえる。お蔭で、余り需要の多くない曲もリストに入れられる様になったのである。
一般にバラード調の唄は歌詞を聴かせるものだが、この『木戸を開けて』の意味は、歌詞を聴いてもちょっと理解しがたい。副題の「家出をする少年が母に捧げる歌」を知って初めて納得するのである。父親に反抗してであろうか、自らの夢を追い求めて旅に出ようとそっと家を抜け出す少年の、されど絶ちきれない、母親への思慕の気持ちとの葛藤が切々と伝わってくる。 少年は(少女の場合はいざ知らず)必ず、親元を離れて旅立とうとする時期がある。自立心の表れである。そんな時、世の親は子供を押さえこもうとするのが常である。よく「親の心、子知らず」と言うがその逆も又真実なのである。 小椋佳の登場した時代は、それまで若者の心を席巻していたフォークソングが下り坂にさしかかった頃だった。元来フォークソングは、泥沼化したベトナム戦争に対峙したアメリカの若者達に広まった反戦歌で、大人達の体制や権威に抗うことを恒とする日本の若者達の共感を得て、和製フォークが台頭していったのだが、所詮直接戦争と無縁の日本では借り物でしかない。彼らの情感を吐露する手立てとしては意味があったが、日常会話的な言葉の羅列は、次第に「言葉」に対する価値意識を低下させて、リズムや音に偏重するようになっていった。声も言葉としてではなく、一種の楽器と化した。「ニューミュージック」と名づけざるを得なくなった新ジャンルの登場である。そんな風潮の中で小椋佳の素朴な肉声と、旋律の持つ抒情性に彩られた青春回送の詩は、日本の伝統的な歌謡のルネッサンス的な様相を帯びてフォークソングを蘇生させたといえる。言うならば「言葉の復権」を目指した音楽であった。そこには、北原白秋や佐藤春夫の詩の残像がある。日本語の言葉が持つ独特の響きが煌いている。なにかの記事に彼の言葉があった。〜人は歳を経ると共に感動する心、感激する可能性を失うようだ。全てを「ただそれだけのこと」という一言で済ませてしまったり、なにかの経験の焼き直しであると言った程度で片付けてしまうのは淋しいけれど事実のようだ〜と。 わが身を振り返って見れば、近年知らず知らずの内に、日常の会話のなかで「それがどうしたの?」「だからどうだっていうの?」等と訳知り顔の相槌をうって、話の腰を折ってしまうことが少なくない。眼には留まらぬほどの季節の移ろいや、人の心のささやかな発露(それが、言葉であれ、表情であれ)に、常に新鮮な感受性を示す感性は将に少年の心である。この「少年の心」こそが、小椋佳の原点であり、彼の詩心なのだろう。こんな心をいつまでも持ち続けていたいものである。
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