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雑・音楽回想録⑤ 

私の青空


— 財津一郎さんと川名ゴルフ — 

 「戦国時代の僧侶の頭に、開頭手術の痕があったのでは、みっともないですからネエ」・・・
 新ミレニアム2000年のNHK大河ドラマ「葵・徳川三代」で安国寺恵瓊を演じる役が決まった財津一郎さんは、こう言って苦笑した。いよいよロケの準備に入ろうとする 99年の2月、河津桜の綻び始めた川名ホテルのティーラウンジで、ゴルフプレイのスタートを待つ間の話である。  先年の大河ドラマ「秀吉」では、木下藤吉郎秀吉の父親役を演じた。このところ、円熟の境地と言えようか、渋い脇役を見事にこなし続けている財津さんが真剣な表情で悩んでおられる。悩むのも道理。今度は大河ドラマ始って以来のハイビジョン撮影だから…である。通常のテレビ番組なら鬘でも着ければ済む話だが、ハイビジョンは通常のテレビに比べ解像度が2倍以上ある。顔をアップで撮ると毛穴まで鮮明に映る。役者泣かせと言われている。だからこそ、鬘を着けないで剃髪しようという訳である。実に真摯でひたむきな財津さんの人柄が現れている。
 もう何年になろうか、財津さんが脳内出血で倒れた。車を運転中のことで危うく大惨事になるところだった。そうでなくても通常なら、機能障害が残る可能性の高い病であるが、みどり夫人の献身的な看護とご本人の再起への強い想いが相俟って、見事に完治された。数ヶ月のリハビリを経ての初のゴルフでは、さすがにパットの方向が全く合わず苦労されていたが、プレイの後のパーティでは、 「開頭手術をした後、側頭部に開けた窓をチタンの鋲で留めてあるのです。つまり、私のはチタンヘッドと言う次第で…」 と周りを笑わせた。時あたかもゴルフクラブの素材にチタンが使われ出したはしりの頃であった。

 その昔、大阪朝日放送(?)制作の「てなもんや三度笠」という喜劇番組が財津さんのテレビ初登場だったと思う。藤田まこと、白木みのるといった浪花の個性派コメディアンを相手に、大げさな身振りと甲高い声で奇妙なギャグを振りまく素浪人役を演じるそのダイナミックな演技を毎週結構楽しんで観た記憶がある。てっきり吉本興業生え抜きの役者かと思っていたが、根は、ミュージカルを志す演劇青年であったそうだ。  熊本の名門済済黌高校時代から舞台を夢見、早稲田大学演劇部を目指して上京したが、生活の糧を求めて帝劇のコーラス団に入ったのが役者への第一歩だったそうだ。その後、米軍のキャンプ廻りなどの下積みで唄を磨き、浅草演劇界へ飛び込んだ…といったような話を伺ったのは何度もお目にかかって後のことである。観客の目の厳しい大阪で一時を過ごされたのも、自ら選んだ試練の道であったのであろう。    素顔の財津さんに初めてお目にかかったのは、伊豆は川奈ホテルのゴルフコースであった。とある出版社が主催し年に3回、某業界傘下の各企業から要職が一同に会して、将来の業界育成を語り合うフォーラムに、出版社のW社長の肝いりで、みどり夫人と共にゲスト参加して戴いて以来、ほぼ毎年一、二度はこの会に参加されてゴルフをご一緒し、又、前夜の会合では軽妙洒脱なお話を聴かせていただいた。

       

 旧聞になるが、ある時、東京12ch.のテレビ番組「中村雅俊のゴルフ熱中塾」にゲスト出演されたことがあった。休日の昼間の放映で、ゴルフはビギナーに近い俳優の中村雅俊がゲストとペアを組んで、芹澤信雄プロにレッスンを受けながら挑戦する——という内容であったが、アマチュアゴルファーにとっては結構ヒントを得られるので、昼食を摂りながらよく楽しんだ番組である。
 財津さんが出演された日は、生憎のドシャブリであった。ゴルフは自分との戦い、自然との戦い——と言うものの、雨のゴルフは決して、面白いものではない。澄みきった青空、燃え立つ緑のフェアウェイで白球を追ってこそゴルフの醍醐味である。プロのトーナメントならばいざ知らず、アマチュアのレッスン番組のこと、体が資本のタレントなら、撮影延期を申し出る位のことはあってもおかしくはない悪コンディションであった。にもかかわらず、局側の都合か財津さんの意思かは定かではないが、撮影は決行された。アマチュアゴルファーとしてはかなりの腕前をもつ財津さんのことである。頭からレインウェアに身を包んだ完全装備で、悪条件の中を淡々としてボールを追っておられたが、その手に着けておられたのは、なんとゴム引き軍手であった。あの黄色いポツポツとすべり止めがついた作業用手袋である。人一倍、周囲の目に意を払う芸能人が…と思わずにはいられない光景であった。が当の財津さんはいたって真面目顔でインタビューに応えておられる。
「雨の日のグラブはこれがヒジョ〜にいいんです」——と。
その財津さんが、グリーン近くからのアプローチショットをミスした。芝を採り過ぎる、いわゆる「ざっくり」という打ち損じである。やがて、ホールアウトした財津さんに芹澤プロがワンポイントアドバイスをする段になった。
「財津さん、先ほどアプローチをミスされましたね。雨の日はどうしても、スィングが早くなりがちなんです。早く打って、早く傘の下に入りたい…という気持ちが、知らず知らずの内に働くのです。だから雨の日は、ふだんより意識してゆっくり打つ心がけが大切なのです。」
 プロとは言え、ご自分の息子ほどの若者のアドバイスに、当の財津さん、いささかのけれんみも無く、
「なるほど、これは適切なアドバイスを有難うございます。自分のゴルフライフの中で、今日は又素晴らしい勉強をさせてもらいました」
と最敬礼で謝辞を述べられた。普段スクリ−ンやブラウン管を通じて、俳優としての演技を観るだけでは伺い知れない財津さんの人柄である。

 川奈ホテルは日本では数少ないプライベートゴルフ場を持ったホテルである。サブコースとも言える大島コースの方は、最近でこそ日帰りプレイも許容しているが、アリソンバンカーで有名なG.H.アリソン氏設計の富士コースは宿泊プレイが原則である。自然の地形を活かした景観の素晴らしさと共に、随所に落とし穴があり、だからこそ挑戦欲をそそるコースは、日本のゴルファーにとって憧れの地であり、数多いわが国のゴルフ場の中、人気投票で常に三指に入る。下手なくせにその名門コースで、12年間に15ラウンドもプレイ出来た自分は幸せであったと痛感しているが、プレイの度に必ずどこかに顔を出す「魔物」に悩まされたのも懐かしくも苦々しい想い出である。今日は調子がいいぞとスコアを数えた17番で、バンカーを往復し、1ホール13打叩いてしまった苦い経験もある。
そういえば、'96年も暮れようとする12月28日だったか、超一流の某総合電機メーカーの元会長だったA氏がバンカーから数回打って漸く脱出した後グリーンの上で倒れそのまま帰らぬ人となったとニュースになったのは、この富士コースの1番ホールであった。400ヤードの打ち下ろしのミドルホール。ティーショットを左に引っ掛け、第2打がチョロ、そして第3打がグリーン手前のガードバンカー、さほど深くもないバンカーショットを1打でクリアできず・・・とくれば、並みのゴルファーなら頭に血が昇る。「Aさん、もうピックアップしなさいよ。遊びなんだから・・・」とのパートナー氏の声も耳に入らずか、2度、3度と打ってようやくグリーンに上がった途端にばったり倒れたという。何をそこまでして・・・と言うは、た易い。なれども“たかがゴルフ、されどゴルフ”というものだ。
 その事件の僅か1ヶ月余り後、同じバンカーを幸いにも1打でクリアしたお蔭で、こちらは今日まで生き長らえているのだが…。

 我々業界のフォーラムにはじめて財津さんが参加されたのは1993年2月の祭日のことであった。プレイ前夜、ホテル庭園にある鄙びた料亭で、すき焼きをつつきながらライバル企業の戦士達十名ほどが、業界の行く末を展望し、夫々の抱負を語り合った。市場は熟成し需要の伸びも頭打ちにさしかかった頃でもあり、結構、肩に力の入ったスピーチやディスカッションが続いた。
 会の締めくくりに、ゲストの財津さんにお話を頂戴する段になった。
「毎日、舞台で仕事を続けていると、生活がアブノーマルになってしまうんですね。」
と財津さんは静かに切り出された。即ち、夕方楽屋に入ってから、宵のうちが本番、舞台がはねて食事やら、翌日の打ち合わせやらを済ませて帰宅、床に就くのは明け方という日々の繰り返し、普通人とは昼夜が逆の生活である。
 そんな財津さんが、「ものは試し」とゴルフに誘われたのは齢五十を過ぎてのこと。ホテルのモーニングコールで早朝に起こされ、カーテンを引き開けて呆然とした—と語る。
「眩し〜い太陽が水平線から顔を出し、眼前に真緑の起伏が横たわっている—こんな素晴らしい景観がこの世に存在していたことをすっかり忘れてしまっていた…」
と心が洗われるほどに感動したそうである。以来財津さんは、みどり夫人共々にゴルフに傾注し、還暦近くで、80台のラウンドスコアを実現するまでに上達されたそうである。

第36回FF('98.2.11)

 そんな話を伺いながら、先刻から業界内の議論を戦わせていたのが恥ずかしくさえ思えてきた。  自分達の上がっている土俵なんて狭いものだよ。世の中にはもっと違った世界があるんだよ——と私の脳裡には入ってきた。
話が一区切り終えたところで、財津さんは、「みなさんも、こちらへ入っていらっしゃい」と、食事の世話を一段落させて別室へ下がっていた仲居さん達に声を掛けた。そして、携えていたセカンドバッグから、小さなテープレコダーを取りだし、流れ出した音楽に合わせて唄い出した。

♪日暮れに、辿るは楽しい我が家

 狭いながらも楽しい我が家

 愛の灯影のさすところ

 恋しい家こそ、私の青空

    ・・・ 

 


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 懐かしい浅草オペラの名曲である。子供の頃何度となく耳にしたのは、確かエノケンの唄う濁声だった。元々はニューオーリンズジャズである。手元にある「1001ヒット曲集」という楽譜集(戦後、駐留軍のキャンプで、生活の糧を求めてバンドマンを勤めていた日本のジャズメン達が、米人から手にいれたり、自分たちの耳で聴き取ったりした、ジャズの譜面や歌詞を仲間内で共有化したものであり、公式に出版されたものではない)の復刻版にも、My Blue Heavenとして掲載されている。日本語の歌詞は、我が世代では、NHKラジオ「音楽の泉」の解説者で知る堀内敬三さんによるものとされている。
この曲を日本へ持ち帰ったのは、おそらく1921年頃に渡米した、菊池滋弥という慶応義塾の学生と思われる。彼は帰国後学生仲間とレッド&ブルー・ストンパーズと言うバンドを結成して、演奏会活動を続けた。1928年にコロンビアレコードから初めてのジャズソングが売り出されているが、その一枚が「あを空」(My Blue Heaven)であった。唄は二村定一であり、伴奏は先述のレッド&ブルーである。十数万枚の大ヒットだったという。後にエノケンこと榎本健一や古川ロッパ等も唄った。
 財津さんがこの歌を唄ったのは、あの日本航空123 便事故で御巣鷹山に散った坂本九と「エノケン・ロッパ物語」を演じた時だったそうだ。この作品でゴーデンアロー賞に輝いている。ある雑誌のインタビューの中で、財津さんはこう語っている。

第27回FF('95.2.11)

 ——戦争中、浅草の芸人が、召集令状(赤紙)が来て明日は出頭するという前夜、防空傘をかぶった電灯の下で
 「こういう歌を、胸をはって歌える時代がくるといいですね」
と小声で歌って出征していったそうです。…(中略)…そのワンフレーズに取り憑かれました。…(中略)…だから歌える限り歌っていこうと思い、大事な曲とし歌わせてもらっているんです。——  家族崩壊、家族分裂の兆しの少なからぬ現実を憂い、「家族の絆」というものの大事さを人一倍持っている財津さんである。
 ご自身の大病を愛妻みどり夫人の看護で見事に乗りきった財津さんであったが、数年の後に今度はそのみどり夫人が胃潰瘍で大手術を受けた。冒頭に記した '99年のゴルフは、みどり夫人にとって病癒えた後初のゴルフであった。胃の大半を切除した夫人は一度に口にできる食事はほんの僅かでしかない。そんな夫人の為に財津さんは、「ママは、途中でお腹が空くといけないから…」
とラウンジで用意してもらったサンドイッチをそっとキャディバックに忍ばせたのだった。 

 財津さんの自作の詩に『ゴルフ讃歌』というのがある。フォーラムの後のパーティで度々、自ら朗読して聴かせていただいた。

      ゴルフ讃歌

おお、ゴルフ、ゴルフよ!
在る時は易しく、在る時は厳しく
全ては己に発し己に帰する
己が己に審判を降す厳しくも素晴らしきスポーツよ!

おお、ゴルフ、ゴルフよ!
山並みを結ぶフェアウェイは、冬は薄イエローに染まり
やがて春の訪れと共に、緑に映え、緑に萌え、緑に匂い
夕日を背にフト振り返れば、青き芝は金緑色に輝く
そは将に天国と現世を結ぶ緑の絨毯か!

おお、ゴルフ、ゴルフよ!
きれいに刈り込んだグリーンは将に夢の丸盆
そこに到達する迄に配された様々の障害物
青杭、黄杭、白杭、ウォーターハザード、樹木、
そしてあの、げに恐ろしき砂の池!そは将に人生のそれに似て
乗り越えて行かねばならぬ難関の数々、寸分の甘えも許さない。

おお、ゴルフ、ゴルフよ!
グリーンに待つ一穴は将に安息の地か
カリカリカリコンコロコ〜ンと墜ちた瞬間
うす暗い円筒形の穴の中から白球が天に向かって微笑み返す
ある時は嬉しげに、又在る時はにが笑いで…

おお、ゴルフ、ゴルフよ!
今日も呼ぶ、我を呼ぶ、あの山、あの丘、あのスロープ
我は行く、今日も行く、ツーピース・ラージを抱いて
雨にも負けず、風にも負けず、雷だけはヒジョーに怖いけど
首と背中と腰の痛みすら、心地よきものに思える64の初夏だ!
希わくばゴルフの産む人の輪こそは、何時も爽やかで、
心地よきものであってちょ〜だい!                

作/財津 一郎

 演劇を愛し、唄を愛し、ゴルフを愛し、そしてこよなくみどり夫人を愛する素晴らしき『永遠の青年・財津一郎』氏が、舞台の上から、ブラウン管の中から、人生に対峙するひたむきな姿勢を訴え続けて戴きたいものと願わずには居られない。     

('00.03.20)

第24回FF('94.2.11)FujiNo.13
                    [参考資料] 雑誌 Senka21('98.6〜'99.12) 



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