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雑・音楽回想録⑨   

星に願いを


— とんだ爆弾騒ぎ — 


 海外へ出かける際に利用するエアラインには人それぞれに、何故か相性があるような気がする。数多い利用歴の中で搭乗する度に必ずと言っていいほど話題を提供してくれたエアラインがUA(ユナイテッド航空)である。名門Pan-Americanの流れを汲む米国屈指の航空会社だ。
  確か1980年 6月、NYから直行のUA便で帰国した時のこと、成田の上空で何度か旋回を繰り返している。何か変だなと思っているうちに機内アナウンスが「到着ターミナルが混雑しているので、バス輸送になる」といった主旨を伝えた。百年の計を持たないで飛行場を作ったりするから、早くもパンク状態か…等とグチをこぼしつつ、降りる準備を始めた。ファーストクラスの乗客が先頭に立ち、ビジネスクラス、エコノミークラスと続くのだが、乗降口に向かって通路を進んでいくと、ビジネスクラスの席に外人の家族が一組残っていた。ただ、それだけのことだから、さして気にもとめず後続の客に急かされるままに歩を進めた。乗降口迄来ると、むっとするような湿気の多い日本の空気が頬をなでる。「さて明日から又、ビジネス戦争か」と思いながらタラップに足を掛けた。ふと、下を見ると大勢の人が一様にカメラを首からぶら下げて居る。フラッシュの閃光がパラパラと煌く。「この便に余程の有名人が乗っているのか…」と思い、カメラマンに迎えられてタラップを降りる気分も悪くはないナ。と思わず手を振ったりしたが閃光もシャッターの音も、それ以上には返ってこない。当たり前である。彼らのお目当ては私ではなかったのだ。 バスでターミナルに着きバッゲージクレイムに行くと、閑散としている。ターミナルが混んでいるという機内のアナウンスは一体何だったのだろう不審に思いつつ通関を抜けてロビーに出てみると、黒山の人だかりではないか。その人々の眼が通関からの出口にくぎ付けなのである。「何かあるんですか?」と手近かの人に問いかけると「ポールだよ、ポールマッカートニー!」という。
 翌日の新聞をみて驚いた。あのビートルズの一員ポールマッカートニーが来日したのだが、『麻薬保持の疑いあり』との通報があって空港で身柄を拘束されたというのであった。そうか、あのビジネスクラスの座席に残っていた一家がそうだったのか。そうと知っていれば、サインのひとつも貰っておくのだった…と思ったが後の祭であった。

 そのトラブルに捲込まれたのは、1991年、これまたNYから乗ったユナイテッドエアラインの成田行き直行便であった。前年オーランドにオープンしたテーマパーク“ユニバーサルスタジオ”の1年後の成長ぶりを視察しての帰りで、いつもの厳しい業務出張と違って機内で報告書を書く必要もなかった。日本へ向かう機内はどこのエアラインも日本食のサービスがあるのだが、外国系のはどこもいまひとつ頂けない。使用される食器はガラスや陶磁器など、ほんもの指向になってきたが肝心の味となると、日本のエアラインの方が数段上である。どうせ半日後には美味しい蕎麦が味わえるのだから…と出された食事もそこそこに、ビジネスクラスでは無料サービスのアルコールをしこたま飲んで映画を観ながら寝入ってしまった。

'90.6.8オープンした ユニバーサルスタジオ・オーランド

 どれくらい時間がたったろうか、機内アナウンスが流れ周囲がざわざわしている。
 アナウンスに耳を澄ますと、「機体をチェックする為に緊急着陸する」という。しょうがないな、米国のエアラインは合理化が進み過ぎて機体整備も充分でないのだから…などと隣席の先輩氏がぼやく。以前からの習慣で、離陸した時点で腕時計は日本時間に修正してしまっており現地の時間も定かでない。やがて高度を下げた機は滑走路にすべりこんだ。窓から見える風景はただひたすらに広い草原と見受けられる。格納庫らしき建物以外に建造物が見当たらないでは無いか。これはシアトルかどこかの軍の基地に違いない。あまり深くも考えず、一時間ほどで再出発だろうと高をくくっていたところ、今度は手荷物を持って降りろと言うアナウンス。用意されたタラップを降りると、ポリスカーが数台止っていて、警官が百メートル程先の格納庫とおぼしき建物へ誘導する始末。その格納庫の事務所らしきところを覗くと、壁に地図が貼ってある。なんとここはカナダのエドモントンではないか。どうも赤道を中心にした世界地図を見慣れていると、NYから成田までの航路を勘違いし勝ちである。最短のルートはずっと北寄りのカナダ経由なのだ。再び表に出て眼を凝らして見渡すと、はるか彼方に管制塔もターミナルビルも確かに見えた。これまた、狭い成田の空港を基準にしていた誤解である。やたらに広いエドモントン空港の滑走路の一番外れに駐機したらしい。そうこうしている内に数少ない日本人の乗務員がようやく説明して廻り始めて事情が掴めた。それによると、「機に爆発物が仕掛けてある」との情報があり、念のために緊急着陸した。機体をチェックするから暫く飛べないという。やがて、小型トラックが来て飲み物とクッキー等のサービスを始めるやら、ブランケットが配られるやらの騒ぎで長期戦の兆しが見られ始めたが、当初の苛立ちも事情が判れば、それなりに収まってきた。
 「やれやれ、とんだ災難だね」など現実には無事であるが故の軽口を叩き合いながら、配られたブランケットを地面に引いて乗務員も含めて三百人近い人々が寛ぎ始めた。乗客に申し訳無いという態度をとるのは、日本人乗務員だけで、機内では乗客サービスにこれ努めるフライト乗務員の殆どは、地上では全く仕事をしない。自分たちも被害者と割り切ったものである。現地時間は午後も遅くになっていたが、緯度から言えば樺太の北端くらいの北緯の地のこと、六月の太陽は中天に眩しく輝き、爽やかなそよ風は肌に心地よかった。機内で退屈しのぎにと、スチュワーデスに要求して貰っていたトランプカードをポケットから取り出し、あぐらをかいて氏とポーカーを始めた。もう使う当ての無い弗紙幣をやったり取ったりのヒマつぶしである。
 かれこれ一時間もたったろうか、格納庫の中に数個のテーブルが設えられ、その前に列を作って並べという指示がでた。乗客ひとりひとりに尋問が始った。人づてに伝わって来た話では、どうも機内に爆発物を仕掛けたというメッセージが残されてあったのだと言う。こうなると、乗客全員が被疑者である。尋問するのは地元の警官らしい。非番に急遽借り出されたかの如く、どう見ても私服とおぼしきジーンズ姿に、西部劇でおなじみのシェリフ・バッジだけを輝かせた田舎のおまわりさんが、一生に初めて出遭った大事件…とばかりに妙に張り切っている。
 「ハーイ。俺はジョン・マッコーイだ。ジョンと呼んでくれ」
等とバカに調子がよい。挙句の果ては、日本のパスポートはとても色が綺麗だ(当時は真っ赤な表紙のものだった)等と、つまらぬことに感心したりで、肝心の尋問といえば、パスポートの確認と旅行の目的、行き先を尋ねる程度で、全く形式的でしかない。それでも、何しろ余談が多いのだから結構時間がかかる。数列が並行して行われたのだが全員の尋問が終わった頃には太陽が地平線に沈みかけていた。
 やっと大型バスのお迎えがやって来て、ターミナルビルへ移動と相成った。やれやれ、これで無罪放免かと思いきや、今度はボディチェックと手荷物の検査だという。これは実に入念な検査である。取り調べ官も連邦警察らしい。NYの免税ショップでしこたま洋酒を買い込んだご仁などは大変である。全てのパッケージを開かれ、ボトル一本づつ明かりに透かして診る程の念の入れよう。こちらは幸いにも、久しぶりに手に入れたヴァランタインの30年物一本だけだったので助かったが、それでもキャプテンバッグの中身はひっくり返され、書類や辞書はページを繰って見ると言う具合。なんでも最新の小型プラスティック爆弾は辞書をくり抜いて隠せるのだそうである。
 延々と時間をかけたその検査の後に、次ぎは「筆跡鑑定」だと聞いた頃には怒り心頭を通り越して、もう勝手にしろという気分であった。語学が達者であれば、「いいかげんにしろ!」くらいのことは言いたかったが、悲しいかな、啖呵を切れるほど英語力の持ち合わせがない。大人しく言われるがままである。機内のトイレに書き残されたメッセージと同じ言葉を三回書けと言われたのはなんと、

  Bomb on board 

の3語であった。この言葉を聞いて思わず唸ってしまった。なんとスマートなフレーズではないか…。これは日本人ではあるまいとも直感した。「機内に爆弾あり」という日本語を英訳せよと問われたら、学校教育で教わった文法重視の英語なら「There is a bomb in this airplane.」かな、否、…the bomb…だろう。いや、…in this flight.が正しいのでは…という程度に違いない。カナダや米国の空港警察官が日本人の英語力を知っていたら、この筆跡鑑定作業の対象から乗客の半数近い日本人を除外できたろうに…。
 なにはともあれ、この筆跡鑑定で犯人が特定出来たかどうかは判らなかったが、全ての捜査は完了したと伝えられ身柄拘束は解かれた。緊急着陸から既に半日以上の時間が経過しており、とても帰国予定の日曜日中に成田に辿りつく可能性はない。月曜日の出社も叶わない。その旨を電話連絡しなければと電話ボックスへ向かおうとしたが、ここはカナダであり、ポケットにあるコインは米国コインだ。思案にくれていると、誰かがコレクトコールで架ければ良いという。途端に廻りの日本人がどっと公衆電話口に殺到し、三、四台の公衆電話にまたまた長蛇の列ができてしまった。日本時間は土曜日で会社は休みである。電話代金が受信者負担だというオペレーターにワイフが「NO」と断ったら万事休すだなと思いつつ、自宅にダイヤルする。背後には順番待ちの列があり長話は出来ない。
 「これから言うことを黙って聞けよ。事情があって、帰りは1日遅れる。月曜の朝会社に電話して、出社が火曜日になることを伝えてくれ。以上連絡終わり!」ガチャン…という具合である。
 空港ロビーの特別室には、スナックのさし入れサービスが用意されてはいたが、間もなく近くのホテルへ案内されるだろうと思いコーヒー位にしか手を出さなかったのだが、これが拙かった。味ではない。折角の差し入れを口にしなかった事である。
 暫くすると、係員が「当便は、これからサンフランシスコ迄飛行し、そこで宿泊、翌日各エアラインに分乗して成田へ向かってもらう—」と言う。当分食事はお預けである。数時間の飛行の後やっとサンフランシスコに着陸、空港近くのホリディインに送りこまれた。一人あたり30㌦の食事券も支給された。やっとまともな食事にありつけると思いきや、時は既に真夜中。ホテル内のレストランはとっくにクローズしているではないか。愕然とすると同時にそれまで腹の底に貯まっていたモヤモヤが爆発する想いであった。食事券はあっても食事が無い。朝食で30㌦も使えるはずがないじゃ無いか。これは詐欺行為だ!
 自動販売機の炭酸飲料で一時的に空腹をごまかして、ベッドにひっくりかえったが、エアラインに対する憤りが甦ってなかなか眠れない。何気なく枕元のラジオのスイッチをひねると、流れてきたのが『星に願いを(When you wish upon a star)』である。その声は紛れもなく、サリナ・ジョーンズであった。 その昔、ウォルト・ディズニーの映画『ピノキオ』の主題歌として創られ、アカデミー賞を受賞した名曲である。

 前年だったか、サリナの東京公演を聴いた。1944年生まれだから将に円熟の歌唱力で、ビリー・ホリディ、サラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルド亡き今、ジャズの女性ボーカリストとして、第一人者といって過言でない。1980年代後半になってから、精力的にスタンダードジャズをレコーディングしてきたのも、歴史に残る前三者の名唱に劣らぬ実力をつけてきた証でもあろう。会社でHi-Fiスピーカーの設計者達がリスニングテストに、彼女のヴォーカルを好んで使ったのもこの頃だった。女声の音域をよく再生出来るか否かは、スピーカーの良否を決するからである。サリナのステージは、まるでクラシックコンサートと紛うばかりの雰囲気であった。
最新のサリナのアルバムはT.Tさんが独立して起こしたレーベル会社 "DREAM21"からリリースされている。(PRD-1654)
 エラ・フィッツジェラルドのようにステージを所狭しと動き回り、全身から声を搾り出すようなハデさがなく、バラードナンバーを静かに唄う姿が、聴衆をも、そんな気分に引き込んでしまったのであろう。静かな聴取態度、礼儀正しい拍手、通例では手拍子や、足踏みや、指笛が飛び交うジャズのコンサートと異質である。ステージの彼女も勝手が違うといった面持ちに受け取れた。
 日本のジャズファンに、しっかりと彼女を受け止めさせようというディレクターのT.Tさんの苦労を思いやると居たたまれず、スタンディングオーベイションをやった。中年の男が「アンコール!」を叫ぶなんて…後で振り返ると全く赤面の限りである。幸い、釣られて大勢の観客が呼応してくれて助かった。
 コンサートの二、三日あと、T.TさんからサリナのCDが送られてきた。そのジャケットには彼女のキスマークとサインがあった。     

 サリナの『星に願いを』のお蔭で、やがて気分も収まり長かった一日が終わった。翌朝、UAは乗客を他社のフライトに振り替えることはせず臨時便を仕立てた。他社の便を利用すれば、その料金はUAが負担することになる。余計な経費支出を避けたのだろう。処がなんとこれがジャンボジェットでなく、キャビンの狭い727機であり全席がエコノミーシートであった。チケットはビジネスクラスなのに…と再び怒りが込み上げてきたが、如何ともしがたい。成田に到着するや否や、こんなエアラインとは一刻も早く、おさらばしたいと、真っ先に機外へ飛び出した。これが又災いを招いた。通路で新聞記者に捉まってしまった。
 翌日出社した時には、殆ど全社にこの事件が知れ渡っていた。誰かのいたずらで、朝刊の拡大コピーがデスクの上に乗せられていた。おまけに火曜日の午前中は定例常務会がある。後で聞いた話であるが、会議の始る前の雑談の中で、万一本物の爆弾テロで社員が犠牲になったら…という話題になったとか。曰く
「いや、経営環境の厳しい折です。保険金は入りますし、社員が二人減って助かります」
—等と無責任な冗談がでたと言う。ブラックジョークにも程があろうに…。 

翌朝の朝刊に3段抜きの記事が…

  UAがあれほど厳しいチェックをしたのには、それなりの背景がある。当時、中東は緊張状態にあり、米国の介入に対する反抗テロ行為が懸念されていた。米国籍のエアラインとしては神経を尖らせねばならなかった。おまけに、この数ヶ月前、成田を離陸しようとしていたUA機内で、乗客の一人が紙くずを丸めたものを、「爆弾だよ」とスチュワーデスに手渡した事件があった。ご当人は団体慰安旅行の気軽さ、ほんの冗談のつもりであったのだろうが、ことは冗談では済まなかった。当該機は離陸を中止した。当の乗客は大目玉を食らった上に後日、飛行中止に伴う巨額の賠償金を請求されたという。
 その昔、まだ、ドイツあたりでも、テロや、ハイジャックが懸念されていた頃のこと、海外取引先のVIPへのお土産を上司から託された同僚が、壊しては大変とずっと機内持ち込み手荷物として、行動したのであるが、ハンブルグからフランクフルトへ移動する際の搭乗口で、チェックに遭った。丁寧に包装されたお土産の品を開けさせられたのだが、これがなんと西陣織で創られた「打出の小槌」である。桐のケースに収められているとはいえ、その大きさといい、形といい、まるで「手榴弾」紛いである。軽機関銃を携えたドイツ警備兵にその物体の何たるかを説明して納得させるのに一時間以上を費やして出発時間を遅らせ、他の乗客達の顰蹙をかったことがあった。
 海外へのフライト旅行するには、いくつかのタブーがある。その最右翼は、危険物、武器の携帯(最近は麻薬も)であるが、疑念という観点からすれば、注意しすぎてもし過ぎることはない。お土産にと買ったキッチンナイフやアーミーナイフでさえ、見方によっては武器とみなされる。
 世の中平和…というが平和なのは一部の地域だけで、その平和な国のご仁が、気軽に開発途上国へ観光旅行に出かける時代である。当該国の政情や、治安、風習など予備知識を多少は仕入れておかないと、とんでもないトラブルに捲込まれ、折角の旅行が不愉快なものに終わりかねない。 
 二つ目は、エアラインの選択であろう。なんと言っても日本人の習慣や趣向を弁えているのは JALであり、ANAである。廉いだけの理由で慣れないエアラインを利用するのは避けたい。
 そして最期は、いつも空腹状態を避けること。機内食はフォアグラになったつもりで食べること。その上非常食をカバンにしのばせる位の危機管理意識を持ちたいものである。
 空高く飛ぶ金属の塊が絶対に安全だ…などとは夢々思ってはならない。

('00.4.20)

 
この文を書いた1年5ヶ月あと、あの忌まわしいニューヨークテロ事件が起きた。高層ビル破壊と共に、数件の航空機爆破テロが発生した。中東某国の対米敵対感情は、この十年の間にそれほど変わったであろうか。我々の経験したのは偶々「イタズラ」であったが、それは結果論でしかないのではないか—と考えると背筋に戦慄が走る思いがする…。 
('02.11.30)
 
 Music byby[ Bontoro ]
                                 

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