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雑・音楽回想録⑦   

国 境 の 町


—子守りのスエさん — 

 すべてが記憶の彼方へ、遠ざかりつつある・・・。
 小学校の五、六年の頃だったろう。学校の課外授業で、津の観音寺境内にあった「曙座」という劇場に映画鑑賞に連れて行かれたことがあった。当時、一学期のうちに一度位はこんな機会があった。教育指導要綱のなかに謳われているのか、三重大付属小学校という環境がそうだったのか定かでないが、中身がどうであれ授業の代わりに映画鑑賞というのはありがたかった。映画のタイトルは定かに覚えていない。多分、「聴け、わだつみの声」あたりだったと思う。覚えているのは、その時にだけ特別のことがあったからである。 映画の上映に先だって、東海林太郎が唄を聴かせてくれるというのである。当時は、通常の映画館でも時として、地方巡業の浪曲師や歌手の公演があった。そして偶々その日の夜に東海林太郎の公演があったのだろう。それにしても、今考えても不思議である。入場料も払わない、そして、彼の唄を十分に理解さえ出来そうもない小学生を相手に聴かせようというのである。引率の教師が依頼するなどは考えられないから、東海林太郎自身の意志であったと思われる。リハーサルのつもりであったのかも知れない。彼は、自らの「流行歌」を芸術の域に引き上げる意志を持っている数少ない歌手の一人であり、初めての劇場での公演に先立ち、聴衆の入った会場の音響効果を把握するのが目的だったのかもしれない。担任の黒川孝雄先生という人は、めりはりのはっきりした熱血教師ではあったが、なかなか、物分りのいい面もあったのだろうか。何しろその当時、子供が流行歌を聴いたり唄ったりすることなど、ご法度に近かったのだから…。 あの直立不動で、いかにも真面目に唄う東海林太郎の姿もTVなど無い時代であるから、初めてである。「赤城の子守唄」など彼のヒット曲を何曲か唄って聴かせてくれたのであろうが、記憶にあるのは「国境の町」という一曲のみである。なぜならこの曲は、物心がついて初めて耳にした「はやり歌」なのであった。

 帝大法科・国家官僚・政治家を夢見た父であったが、ファシズム台頭する日本に夢を砕かれたのか、大学を出ると、念願だった内務省への就職を捨て建国中の満州国への奉職という道を選んだ。新京、チチハル、ハルピン、吉林、錦州…と、建国の日未だ浅い満州の各地を転属し、内蒙古自治区政府顧問として張家口に赴任したのは昭和十八年、吉林で生まれた私も四歳になっていた。張家口は北京から北西へ約200キロ、八達嶺を越え、外・万里の長城を目前に仰ぐ、さいはての地である。既に、対米戦線も厳しさがつのっていた時期に、我が国の為政者は広大な満州に飽き足らず蒙古まで支配下に置こうと企んでいたのであろうか。
 侵略者の常であろう様に、我が家は張家口の公共施設である図書館を接収したもので、通りから数段の石段を登った上に見上げるほど大きな鉄の扉を備え、門番までがいる大門をくぐり、石畳の通路を幾度も鍵の手に曲がってようやく中庭に辿りつくというまるで小さな城のような邸宅であった。中庭を囲むように、コの字に配置された建屋は、正面が大広間で、右袖が父の書斎、両親の寝室、母親の居室そして厨房と続き、左袖には客間、ダイニングルーム、子供部屋、使用人の部屋という具合。門番の中国人老夫婦の他に、やはり若い中国人のコックが居たが、下こしらえ役の域を出なかったのか、度々客間で催される宴会のもてなしは殆ど母の手に委ねられていた。その上、母は国防婦人会などにも担ぎ出されて三人の子育ては手が廻らなかったのであろう。幼児の面倒は子守りのスエさんの役だった。その名の通り何人兄弟姉妹の末っ子だったのであろうか、岐阜は大垣の家を離れ単身はるか満州へお手伝い奉公に出された十七、八の娘心は如何ばかりであったろうか。

♪橇の鈴さえ淋しく響く
 雪の荒野よ、旅の日よ
 ひとつ山越しゃ他国の星が
 凍りつくような国境

 その唄は、スエさんが唄っていた。自分で買ったのか、母が買い与えたのか、一枚のレコードを手廻し蓄音機に何度も何度もかけては口ずさんでいた。

♪故郷離れてはるばる千里
 なんで想いがとどこうぞ
 遠いあの空つくづく眺め
 男泣きする宵もある       

“タイトル曲”再生(リンク先:You Tube)
(大木惇夫作詞)

 荒涼たる満州の果てしない大地は、男でも寂寥の念に駆られるのである。まして、はたち前の娘ならこの唄の歌詞が心に染みてくるに違い無い。勿論幼いわが身に彼女の胸の内に想いをいたすことなど出来よう筈もない。けれども戦後何歳ぐらいからであろうか、ラジオやTVで東海林太郎のこの曲を聴く度にスエさんを想い出すようになった。 

 対米戦線の戦況が次第に悪化しつつあることは、満州国官吏もそれなりに情報が掴めていたらしい。昭和十九年春、父はさっさと辞表を出して、帰国を決めてしまった。関東大震災で、東京は小石川にあった家業の印刷工場が崩壊し、その後の疫病で両親を相次いで失い、四人の弟を引き連れて名古屋の親戚を頼って学生時代を過ごした父に、帰る故郷はなかった。住まいを津に求めたのは、好きな海水浴に好都合だったからという。そう言えば「水のきれいな伊勢の海」は、近鉄の名キャッチフレーズだった。伊勢湾台風で海岸線がすっかり姿を変える前までの話ではあるが…。
「聴潮館」という旅館で数日を過ごしながらようやく見つけた住まいは参宮急行鉄道(現近畿日本鉄道)津新町駅の近く、東京で仕事をしている人の留守宅であった。父は仕事から開放されて、海釣りを楽しんだり、尺八を吹いたりのんびりした日々を送っていたが、南方の戦地で日々多くの兵士が命を失って行く中で、我が家だけに平和が保たれる筈はなかった。若い健康な男子はことごとく徴兵し尽くされ、四十歳を越えた父にまで「赤紙」(召集令状)が舞いこんだ。と同時に満州国政府から、再度、渡満しないかとの勧誘も来た。炭鉱の街「撫順」の市長がそのポストだとの事。戦地へ赴くことは即ち死を意味する時勢であり、満州といえども先は見えない。苦悩の二者択一を迫られた父は四人目の出産を控えた身重の妻と三人の子供を残し、単身で満州へ引き返す道を選んだ。撫順は露天堀で有名な石炭の産地で、当時、主エネルーギー源の供給基地として重要な位置付けにあったから働き盛りの男としてのやりがいも少なくはなかったであろう。いずれにせよ、父にとっての津での暮らしは僅か二ヶ月、束の間の寛ぎでしかなかった。  母は八月に女児を出産したが、戦況は日増しに厳しさを極め、ラジオが告げる「敵機来襲」の回数も日に一度や二度で済まなくなっていた。東京へ出ていた家主が疎開しに帰ってくるから家を空けろという話に、母は慌てて父の残して行った五年分の生活費の中から大枚をはたき、刑部(おしかべ)の借家を買い取った。いつ空襲で焼けるかもしれない家屋は、貸すより売った方が得だと大家は考え、母はその甘言に乗せられた。  あの焼夷弾が夜空を焦がさんばかりに津の街に降り頻った夜、この家と運命を共にするしかないと、母は我々四人の子供を従えて居座った。目と鼻の先、津中学校の校舎や体育館が燃え上がるのを玄関先の道端で、この世の終わりかと身震いしながら眺めた。この津中の焼け跡は、戦後、近所のこども達にとって格好の遊び場となったのだが…。  幸いにも、周辺は殆ど焼け落ちた中、我が家は残った。唯、土地感もなく乳飲み子を抱かえた母に食糧調達は極めて困難だった。ただでさえ少ない量を食べ盛りの三人の子供に優先して、自分は我慢する。そのため、悲しいかな母乳が出ない。やがて戦争は終わったが、乳飲み子のわが妹は終戦から二週間後わずか一年の短い一生を終えた。栄養失調であった。「お腹が空いた…」と自分で言えないままに、ただ天を指差して逝った。自ら口減らしの道を選んだのであった。母親は偉大であり、また愚かでもある。
 終戦の混乱で、父の消息は途絶えた。以来、五年余もの間、シベリアの抑留所で重労働に縛りつけられていた。帰国したのは昭和25年、最後の引き揚げ船だった。なかなか解放されなかったのは、収容所での共産主義洗脳教育に迎合しなかった為だったという。「フリも出来ない」のは真っ正直なのか、融通が利かない頑固者なのか。やはり愚直であった。

 話は戻って十九年の夏のこと、我が家の引き揚げと共に、大垣の実家に戻っていたスエさんが突然やってきた。母のお産が気にかかったのであろうか。出産までまだ日があり、手持ち無沙汰であった為か、二、三日滞在した後で、「タッチャン、大垣に遊びに行こう」
と言い出した。まだ、幼かった弟はともかく、小学校二年になっていた姉もいたのだが、何故か私だけがスエさんの実家へ泊りがけで行くことになった。日本へ来て、初めての旅行である。大垣までどんな経路で行ったのか全く記憶にないが、駅からスエさんの自宅まで灼熱の太陽の下延々と歩かされた記憶だけおぼろげながらに残っている。歩を進める度に舞いあがる砂埃に目をしばたたかせながら、人家も疎らな一本道を、母に託された土産の入ったリュックを背に、「何故、輪タクに乗せてくれないのだろう」と思いながら、スエさんの手をしっかり握りしめて歩いた。
 スエさんの家は小さな『よろずや』だった。珍しい駄菓子があった。冷たい井戸水に西瓜が漬かっていた。裏庭で、とんぼを追い、蝉を捕まえた。満州では経験出来なかった初めての体験に興奮した。
 そう言えば満州のスエさんは時々意地悪だったけれど、この時はとても明るくて、ずーっと親切だった。  そして、もう「国境の町」を口ずさむことはなかった。

 終戦の後、未曾有の社会的な混乱を経験する中、やがて、音信は途絶えた。そしてスエさんは記憶の彼方へ、遠ざかっていった。 スエさんが脳裡に甦ってくるのは、テレビやラジオで、「国境の町」を耳にした時だけになってしまった。


満州時代に家族で撮った数少ない写真。姉7歳、弟3歳と揃って七五三を祝った時。父は仕事で席を外さざるを得なかったのだろうか。右後方がスエさん。
  
('00.5.20)




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