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雑・音楽回想録⑧ | | |||||||||||||||||||||||
世界は二人のために | ||||||||||||||||||||||||
—ベルリンの壁を壊した真の力— | ||||||||||||||||||||||||
1989年11月、それまで44年の永きにわたって東西を隔てていたベルリンの壁が崩壊し、東西の都市がひとつになった。そして20世紀末の秋、盛大に開かれた「十周年記念祝典」の席にはコール前西独首相、ブッシュ米元大統領、ゴルバチョフ元ソヴィエト連邦大統領など東西ドイツの統一に繋がる政策をとってきた大国の首脳が功労者として招かれていた。 確かに、ペレストロイカ政策を進めたゴルバチョフも、ブッシュ元大統領も貢献者には違いないが、東ドイツの難民を自国経由で西側へ逃避させることに目をつぶったハンガリーやオーストリアの為政者達のほうこそ真の功労者であったはずだが…。 初めてベルリンの壁を訪れたのは、1973年の夏であった。第2次世界大戦の不幸な結末として民衆の意思とは無関係に国は2つに分断され、東ドイツの中に西ベルリンは取り残された。西側、自由主義社会に帰属していたとは言え陸の孤島であることには違いなく、大戦後、急速に進歩発展する欧州西側諸国の産業や文化の恩恵を享受するには極めて不便を託っていた。 その西ベルリンの活性化の為に、西ドイツ政府は色々な施策を打っていた。2年に一度開催されてきた「国際無線展IFA(International Funkausstellung)」(通称ベルリンショウ)もそのひとつであった。後年になって調べて解ったのだが、この「国際無線展」というのは歴史が古く、1924年にまで遡る。その名前が意味する様に、スタートはラジオ放送の普及普遍の為だったようだ。マルコニーが無線電信を発明したは1895年、いわゆるモールス符号というデジタル信号伝送であった。1906年には米国で不特定のアマチュア無線家を対象に音楽などが流された。いわゆる放送の始まりである。以後先進国で、次々にラジオ放送が始まった。ドイツでは、わが日本に先立つこと一年半前1923年10月29日に開始されている。そしてその翌年にベルリンで開催されたのが「国際無線展」の前身、「大ドイツ無線展」である。ラジオ受信機を一目見、聴こうと押し寄せた市民は11万人に及んだという。実は、音楽や朗読が空から降ってくる…そんな事実を当時の民衆にとっては俄には信じ難く「あれは悪魔の声だ!」という風聞が流れてラジオ受信機の普及が阻害されそうになり、その危惧を払拭する為に展示会を催し、市民に「ラジオ」の存在を実体験させるべく必死に集客したのだという説がある。以来、1939年迄に16回の開催を重ね、ラジオ送受信機技術や新製品の紹介の場として、また1936年ベルリンオリンピックを目標にしたTV放送技術の確立への貢献も果たした。その一方ではナチスのプロパガンダ活動の為に大衆動員するイベントとして政治的に利用されても来たらしい。 西ベルリンは、未だ建物の随所に弾痕など大戦の名残があったものの、予想以上に落ちついた美しい街であった。十日間の展示会を終えて、展示機材を当時ハンブルグにあったドイツ駐在拠点へ向けて送り出した後、折角訪れた歴史的都市ベルリンなのだからと、市内を半日ほど車で巡ってみることにした。普仏戦争でのプロシャ軍の勝利を記念して建造された「戦勝記念塔」のヴィクトリア像は黄金色に輝き、旧プロセイン国時代の国王であったウィルヘルム・フリードリッヒ1世が、妃シャルロッテの為に4年間をかけて建造した離宮、シャルロッテンブルグ城は、戦禍をかいくぐって美しいバロック建築の姿を見せていた。
東西ベルリンの市街は大半が幅15メートル程の濠で隔てられており、東側は濠に添って壁が設けられているが、西側の壁はブランデンブルグ門を貫通する道路等を遮断する程度で、それ自体意外にも素朴で厳めしさを感じさせない。濠の近くには観光客用の「物見櫓」さえある。昇って見ると東側の壁の先には、東ベルリンの市街地が広がっている。これまた整然とした静かな街の佇まいである。シンボルのTV塔も聳え立つ。 「なあに、壁越しに西ベルリン側から見られる地区だけは整備しているのさ」 と傍のドイツ人がつぶやいていたが、「鉄のカーテン」などと日頃の報道で知る印象ほどの緊張感は無い—と思いきや、壁の向こうの「物見櫓」は観光用ではなく、鉄兜を被り銃を抱えた警備兵がいる。東ドイツ国旗の翻るブランデンブルグ門の上層部にも三々五々と兵士の姿が見え隠れしている。ふと見ると、傍らの草むらに真新しい十字架の墓標が見えるではないか。近寄ってみると「1973.4.24」と日付が読み取れる。僅か数ヶ月前のものである。近くで観光客相手に絵葉書を売っている老人に尋ねると、その夜、壁を乗り越えて東から脱出しようとして銃撃されたのは青年であったと言う。 「彼は恋人に逢うために、命を掛けたのだ」と老人は痛ましげに首を振った。 当時、東西ベルリンの市内には地下鉄が往来しており、この地下鉄の駅かチェックポイントチャーリーと称された検問所の2箇所が市民に許された関所で、パスポートさえ携帯していれば西側の市民が東へ入るのは比較的容易であったが西側の新聞や雑誌の持ち込みは禁じられていた。(東独と国交の開かれたばかりの当時、日本の一般旅券では入国は出来ず、後に一日ビザが発行されるようになった)但し、東の住人が西へ入るのは厳しく制限されていた。「壁の被害者」は、常に東ドイツの市民であった。
ベルリンショウの会期中、フィリップスを初めとする多くの欧州企業とアポイントを取ることが出来、ハンブルグを足場に3週間ほどかけて、それらの企業を訪問することにした。ハノーバー、フランクフルト、ロンドン、パリ、アムステルダム、コペンハーゲン…と毎日飛びまわって、自社開発の技術を売り込む仕事である。 欧州の主要都市へは1、2時間のフライトで行けるので殆ど日帰り出張の様相だが、慣れない都市訪問と言葉の壁の為、結構タイトな日々であり、味の雑なドイツ料理にもいい加減飽いてきて、救いはアルスター湖のほとりにある日本食レストラン「湖月」で採る夕食くらいであった。
それは、佐良直美のデビュー曲で、1967年レコード大賞新人賞に選ばれた「世界は二人のために」である。彼女は、翌々年「いいじゃないの幸せならば」でレコード大賞も受賞した正統派の歌手で、ポップスミュージシャンとしては群を抜く歌唱力の持ち主であった。だが外人の巻き舌で歌うたどたどしい日本語にもかかわらず原曲のそれより遥かに上手く、妙に新鮮に聞こえる。実に情感のこもった歌い方に感心させられた。長距離ドライブにワインの酔いも手伝ってか、思わず目を閉じて聴きいってしまった。
その素朴な歌詞が洞窟のような岩壁に残響して余韻の尾を引く。聴きいっているうちに、何故か脳裡に浮かんできたのが、あのベルリンの壁のほとりに立った真っ白い墓標であった。 「世界は二人のために」は決して暗い曲ではないはずなのに妙にしんみりとした気分になって、僅か数ヶ月前、壁を越え、濠を渡ろうとして射殺されたという東ベルリンの青年と、彼が命を賭けた恋人に想いを馳せた。 あの激しい大戦はヒトラーという狂信的な指導者によって引き起こされた悲劇であったが、その戦の後、4国の共同統治という名のもとに、庶民はまた別の悲劇を強いられて来た。外部から見れば大戦は終わったと見えても、ドイツ国民にとってはまだ平穏な日々ではなかったのである。核兵器に晒され、終戦を敗戦国として迎え、沖縄や樺太等の割譲はあったとは言え、本土の分割統治というような悲劇に巻き込まれなかった日本はドイツに比較すれば、遥かに恵まれた敗戦であったと思わざるを得ない。 それから四年後のベルリンショウには、家庭用VHS方式ビデオ・カセッターの欧州仕様が出展された。日本ビクターのとったファミリー戦略に呼応した仏トムソンや英国のソーンEMI、独テレフンケン、オランダのフィリップスなど欧州の主たるエレクトロニクス企業が次々にVHS方式を採用して、商品化を進めた結果、大衆の生活の中に普及し始めた。そして、二〇年後には世界中で六億台のビデオデッキが使われるまでに至った。 それはもはやテレビ放送を録画する機械の域を脱してひとつの「文化」にまで成長した。 とは言え、世界を二分するイデオロギーの対決によってもたらされたベルリンの壁を破壊するほどの大きな潜在力にまで成長するとは誰が、想像することが出来たであろうか。
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