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雑・音楽回想録⑧   

世界は二人のために


—ベルリンの壁を壊した真の力— 


 1989年11月、それまで44年の永きにわたって東西を隔てていたベルリンの壁が崩壊し、東西の都市がひとつになった。そして20世紀末の秋、盛大に開かれた「十周年記念祝典」の席にはコール前西独首相、ブッシュ米元大統領、ゴルバチョフ元ソヴィエト連邦大統領など東西ドイツの統一に繋がる政策をとってきた大国の首脳が功労者として招かれていた。 確かに、ペレストロイカ政策を進めたゴルバチョフも、ブッシュ元大統領も貢献者には違いないが、東ドイツの難民を自国経由で西側へ逃避させることに目をつぶったハンガリーやオーストリアの為政者達のほうこそ真の功労者であったはずだが…。
 いや、それどころか、全く異質な見方をする人もいる。最大の功労は、実は日本の技術が生み育て遂に世界標準となりきったビデオ録画再生システムVHSがそれだというのだ。その開発ものがたりは、後にNHKのドキュメント番組“プロジェクトX”の代表的作品となって世に知られたが、1976年に日本ビクターにより開発されたVHS方式は、ソニーの開発したベータ方式と激しい普及化競争を演じた末に世界市場を席巻した。 冷戦の続く時代は日本の製品が東欧市場へ輸出されることは困難であったが、VHSのファミリー戦略に同調した英国、ドイツ、オランダなど西欧メーカーの商品が、様々な裏のルートを通じて、東ドイツや、ソ連など東欧諸国に流れ込んでいくのは自然の理であった。浸透して行ったのは勿論ハードウェアだけではなく、西欧の映画を初めとするソフトウェアも流れ込んで行く。国家の厳重な統制のもとに慎ましやかな生活を強いられてきた東欧圏の庶民の目に、その映像が描き出す自由主義諸国の華やかな生活文化がどんなに魅力的に映ったか想像するに難くない。共産主義が至上のものと教え込まれてきた東欧の大衆はビデオ映像のもたらす西側諸国の豊かな世界に目を開かされ、羨望し、次第に国家社会への不満のエネルギーとして成長して行ったのである。  この話を、政治家相手にしたことがある。羽田政権の下わずか49日間ではあったが法務大臣の任を全うした三重県選出の中井洽議員の後援会の会場、1994年秋のことだった。永年、社会党議員として活ozawaichiro02躍されたご父君中井徳次郎氏は、我が父の第八高等学校時代の学友で、大学こそ京都、東京に分かれたが、戦時中は、共に満州官吏として活躍した間柄で、我々夫婦の仲人役をお願いした縁もあって、令息、洽(ひろし)議員の後援会へは時々顔を出していた。偶々そのパーティーに出席された、当時の新進党党首小沢一郎氏に向かって、 「ベルリンの壁が崩壊したのも、ソヴィエト連邦が瓦解したのも政治の力ではなく、ビデオの力ですよ…」 などと大見得を切ってしまった。

 初めてベルリンの壁を訪れたのは、1973年の夏であった。第2次世界大戦の不幸な結末として民衆の意思とは無関係に国は2つに分断され、東ドイツの中に西ベルリンは取り残された。西側、自由主義社会に帰属していたとは言え陸の孤島であることには違いなく、大戦後、急速に進歩発展する欧州西側諸国の産業や文化の恩恵を享受するには極めて不便を託っていた。  その西ベルリンの活性化の為に、西ドイツ政府は色々な施策を打っていた。2年に一度開催されてきた「国際無線展IFA(International Funkausstellung)」(通称ベルリンショウ)もそのひとつであった。後年になって調べて解ったのだが、この「国際無線展」というのは歴史が古く、1924年にまで遡る。その名前が意味する様に、スタートはラジオ放送の普及普遍の為だったようだ。マルコニーが無線電信を発明したは1895年、いわゆるモールス符号というデジタル信号伝送であった。1906年には米国で不特定のアマチュア無線家を対象に音楽などが流された。いわゆる放送の始まりである。以後先進国で、次々にラジオ放送が始まった。ドイツでは、わが日本に先立つこと一年半前1923年10月29日に開始されている。そしてその翌年にベルリンで開催されたのが「国際無線展」の前身、「大ドイツ無線展」である。ラジオ受信機を一目見、聴こうと押し寄せた市民は11万人に及んだという。実は、音楽や朗読が空から降ってくる…そんな事実を当時の民衆にとっては俄には信じ難く「あれは悪魔の声だ!」という風聞が流れてラジオ受信機の普及が阻害されそうになり、その危惧を払拭する為に展示会を催し、市民に「ラジオ」の存在を実体験させるべく必死に集客したのだという説がある。以来、1939年迄に16回の開催を重ね、ラジオ送受信機技術や新製品の紹介の場として、また1936年ベルリンオリンピックを目標にしたTV放送技術の確立への貢献も果たした。その一方ではナチスのプロパガンダ活動の為に大衆動員するイベントとして政治的に利用されても来たらしい。
第2次世界大戦中・戦後の空白期を経て、1950年に復活したが、暫時デュッセルドルフやフランクフルトなど西ドイツ諸都市に会場を求め、1971年に漸く「国際無線展」として再びベルリンに定着し、以後隔年開催となったのだ。 東欧圏内に孤立し、国際ビジネスの点では極めて便の悪い都市西ベルリンの市民に、西側自由主義国の先端技術や最新の文化を伝え、娯楽の機会を与えようという意図が、いかにも主催国西ドイツの国柄かと思われる。 欧州市場にエレクトロニクス製品を輸出し始めていた日本の各企業が参加し始めたのもこの頃であった。その展示会に、独自に開発した4チャネルステレオを出展し欧州諸国に普及させようと二十数個のダンボールに納めたデモンストレーション機材と共に出かけたのであった。

 西ベルリンは、未だ建物の随所に弾痕など大戦の名残があったものの、予想以上に落ちついた美しい街であった。十日間の展示会を終えて、展示機材を当時ハンブルグにあったドイツ駐在拠点へ向けて送り出した後、折角訪れた歴史的都市ベルリンなのだからと、市内を半日ほど車で巡ってみることにした。普仏戦争でのプロシャ軍の勝利を記念して建造された「戦勝記念塔」のヴィクトリア像は黄金色に輝き、旧プロセイン国時代の国王であったウィルヘルム・フリードリッヒ1世が、妃シャルロッテの為に4年間をかけて建造した離宮、シャルロッテンブルグ城は、戦禍をかいくぐって美しいバロック建築の姿を見せていた。

シャルロッテンブルグ城観光用「物見やぐら」から東ベルリン市街を垣間見る

 東西ベルリンの市街は大半が幅15メートル程の濠で隔てられており、東側は濠に添って壁が設けられているが、西側の壁はブランデンブルグ門を貫通する道路等を遮断する程度で、それ自体意外にも素朴で厳めしさを感じさせない。濠の近くには観光客用の「物見櫓」さえある。昇って見ると東側の壁の先には、東ベルリンの市街地が広がっている。これまた整然とした静かな街の佇まいである。シンボルのTV塔も聳え立つ。 「なあに、壁越しに西ベルリン側から見られる地区だけは整備しているのさ」  と傍のドイツ人がつぶやいていたが、「鉄のカーテン」などと日頃の報道で知る印象ほどの緊張感は無い—と思いきや、壁の向こうの「物見櫓」は観光用ではなく、鉄兜を被り銃を抱えた警備兵がいる。東ドイツ国旗の翻るブランデンブルグ門の上層部にも三々五々と兵士の姿が見え隠れしている。ふと見ると、傍らの草むらに真新しい十字架の墓標が見えるではないか。近寄ってみると「1973.4.24」と日付が読み取れる。僅か数ヶ月前のものである。近くで観光客相手に絵葉書を売っている老人に尋ねると、その夜、壁を乗り越えて東から脱出しようとして銃撃されたのは青年であったと言う。 「彼は恋人に逢うために、命を掛けたのだ」と老人は痛ましげに首を振った。  当時、東西ベルリンの市内には地下鉄が往来しており、この地下鉄の駅かチェックポイントチャーリーと称された検問所の2箇所が市民に許された関所で、パスポートさえ携帯していれば西側の市民が東へ入るのは比較的容易であったが西側の新聞や雑誌の持ち込みは禁じられていた。(東独と国交の開かれたばかりの当時、日本の一般旅券では入国は出来ず、後に一日ビザが発行されるようになった)但し、東の住人が西へ入るのは厳しく制限されていた。「壁の被害者」は、常に東ドイツの市民であった。  

ブランデンブルグ門はバリケードに阻まれている。主柱の挟間から東独のシンボル「テレビ塔」が見える濠の傍らに立てられた墓標は、東からの脱走に失敗して撃たれた人のもの 右端のものは僅か3ヶ月前の日付だった
       

 ベルリンショウの会期中、フィリップスを初めとする多くの欧州企業とアポイントを取ることが出来、ハンブルグを足場に3週間ほどかけて、それらの企業を訪問することにした。ハノーバー、フランクフルト、ロンドン、パリ、アムステルダム、コペンハーゲン…と毎日飛びまわって、自社開発の技術を売り込む仕事である。 欧州の主要都市へは1、2時間のフライトで行けるので殆ど日帰り出張の様相だが、慣れない都市訪問と言葉の壁の為、結構タイトな日々であり、味の雑なドイツ料理にもいい加減飽いてきて、救いはアルスター湖のほとりにある日本食レストラン「湖月」で採る夕食くらいであった。
 そんなある週末、駐在社員が「JALとの合コンに参加しませんか」と声を掛けてくれた。北廻り欧州路線のJALは当時、主要都市への直行便は無く、殆どがハンブルグを経由しており、乗務員もこの地で5日ほどの休暇(中一日欧州域内勤務)をとるルールになっていた。この休暇中、若いスチュアーデス達は単独行動を許されず、アシスタントパーサーがその監督官であった。傍目には羨ましいような役目だが、悪い虫がつかないように且つ退屈させない様にと、気疲れする仕事だと言う。そこで、現地に拠点を持つ日本企業と時々交流会などを企画しているという話であった。
 その日曜日、駐在社員の車3台が提供され、アウトバーンを、ハノーバーからゲッチンゲンまで南下、後に日本の旅行会社が「メルヘン街道」と名付けた東中部の街道を走り、グリム童話に登場する「魔法使い」の発祥の地でもあるハルツの森までドライブをした。小高い丘から針葉樹に覆われた「童話の森」に想いを馳せたり、魔よけのマスコットとして、訪れる観光客に人気の高い「箒に跨った鉤鼻の老婆」を求めたり…と久方ぶりの休日を楽しんのだが、スタートしたのも昼近くであったが、初めて訪れる異国のローカル街道。事故さえなければ飲酒運転にも寛大な国だが、そこは異邦人集団。ビール一杯、口にすることなく、往復600kmの行程は殆どノンストップの強行スケデュール。ようやくハンブルグ郊外まで戻りついた処で夕食会をすることになった。これまた行き当たりばったりに立ち寄ったのは、恰も岩盤を穿った洞窟の中に設えたと思わせる雰囲気のレストランだった。今となっては、店の名も出された料理もすっかり忘れてしまったが、若いスチュアーデスを4人も交えてのこと。久しぶりに寛いだ気分でワインを味わい、賑やかな会話が弾んだ。
 やがて食事が進む頃、「流し」の楽士がトリオで現れて静かに音楽を奏で始めた。ほの暗い蝋燭の灯りに照らされた洞窟のような室内でのディナーを一段と盛り上げる趣きで、いかにも中世の貴族にでもなったような気分に陥った。市中のビアホールなどで、賑やかなバンド演奏や、それに合わせて酔客達が大声で歌う場面は既に経験済みであったが、ヴァイオリンとギターとアコーデオン程度の編成で、スクリーンミュージックやポップスを静かに聴かせる心憎い演出はなかなかのものである。しかも岩盤を粗々しく、削ぎ落とした壁面は適度なな響きをもたらし音響効果満点。客が日本人と見てとったのであろう。楽士達は我々のテーブルに近寄って、『さくら、さくら』を演奏し始めた。  海外のレストランやバーなどで、日本人相手のサービスは決まってこの曲が演奏される。「またこの曲か」と苦笑しながらも、そこは芸人に対するエチケット。5マルクのチップを差し出すと、二曲目を歌い出した。    

♪愛 あなたと二人
 花 あなたと二人
 恋 あなたと二人
 夢 あなたと二人
 二人のため世界はあるの
 二人のため世界はあるの
タイトル曲再生(YouTube)
(作詩 山上路夫)

 それは、佐良直美のデビュー曲で、1967年レコード大賞新人賞に選ばれた「世界は二人のために」である。彼女は、翌々年「いいじゃないの幸せならば」でレコード大賞も受賞した正統派の歌手で、ポップスミュージシャンとしては群を抜く歌唱力の持ち主であった。だが外人の巻き舌で歌うたどたどしい日本語にもかかわらず原曲のそれより遥かに上手く、妙に新鮮に聞こえる。実に情感のこもった歌い方に感心させられた。長距離ドライブにワインの酔いも手伝ってか、思わず目を閉じて聴きいってしまった。 

♪なぜ あなたと二人
いつ あなたと二人
どこ あなたと二人
いま あなたと二人
二人のため世界はあるの
二人のため世界はあるの

 その素朴な歌詞が洞窟のような岩壁に残響して余韻の尾を引く。聴きいっているうちに、何故か脳裡に浮かんできたのが、あのベルリンの壁のほとりに立った真っ白い墓標であった。  「世界は二人のために」は決して暗い曲ではないはずなのに妙にしんみりとした気分になって、僅か数ヶ月前、壁を越え、濠を渡ろうとして射殺されたという東ベルリンの青年と、彼が命を賭けた恋人に想いを馳せた。 あの激しい大戦はヒトラーという狂信的な指導者によって引き起こされた悲劇であったが、その戦の後、4国の共同統治という名のもとに、庶民はまた別の悲劇を強いられて来た。外部から見れば大戦は終わったと見えても、ドイツ国民にとってはまだ平穏な日々ではなかったのである。核兵器に晒され、終戦を敗戦国として迎え、沖縄や樺太等の割譲はあったとは言え、本土の分割統治というような悲劇に巻き込まれなかった日本はドイツに比較すれば、遥かに恵まれた敗戦であったと思わざるを得ない。

 それから四年後のベルリンショウには、家庭用VHS方式ビデオ・カセッターの欧州仕様が出展された。日本ビクターのとったファミリー戦略に呼応した仏トムソンや英国のソーンEMI、独テレフンケン、オランダのフィリップスなど欧州の主たるエレクトロニクス企業が次々にVHS方式を採用して、商品化を進めた結果、大衆の生活の中に普及し始めた。そして、二〇年後には世界中で六億台のビデオデッキが使われるまでに至った。  それはもはやテレビ放送を録画する機械の域を脱してひとつの「文化」にまで成長した。  とは言え、世界を二分するイデオロギーの対決によってもたらされたベルリンの壁を破壊するほどの大きな潜在力にまで成長するとは誰が、想像することが出来たであろうか。

 
 (初稿2000.10.20 改稿2003.6.20)
                                           

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