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雑・音楽回想録⑨ | | |||||||||||||||
アル・ディ・ラ | ||||||||||||||||
—もうひとつの同窓会— | ||||||||||||||||
同窓会という会合に興味を抱くようになったのは、齢、五十も半ばを過ぎたころであろうか。社会人生活もおおよそ先が見え、人生も間違いなく折り返し点を通過した頃から、青春時代への懐古の念が心の片隅に頭を擡げてくるようである。それまで年一回程度だった大学時代のクラス会が、夏の「ビールを飲む会」、晩秋の「一足早い忘年会」、春秋二回のゴルフ、その合間を縫って三々五々と集まる居酒屋での「ダベリング会」…という具合にエスカレートする。高校の同窓会も故郷での会はともかく、東京同窓会にも「そろそろ行ってみるかな」と折角の休日をおして都心まで出かけるに至ったのは定年を間近に控えてからだった。その内還暦を機会に同期で集まらないか—などという声がいずこからともなく聞こえてくると「よし一肌脱ぐか」と、幹事役をかって出る始末。サラリーマンリタイア後二年、毎日が日曜日の昨今は、会社時代の職場単位のOB会やゴルフ愛好会なども含めると、ほとんど月に一、二回は「過ぎ去った時間を共有するためのコミュニケーション」に、のこのこ、そわそわと出かけるようになってしまった。そんな中でも二年に一度の会を心待ちにしている、とっておきの同窓会がある。 送られてきたビデオテープを、デッキに装填する。懐かしい『アル・ディ・ラ』の歌声を背景にタイトルが流れる。 『第十回津高放送部OB会』… 仲間うちでも特別メカ好みのT.T、A.F両君の新兵器デジタルビデオで撮影したものを編集したドキュメント映像である。ミレニアムの2000年5月、小田原駅から、箱根登山鉄道、路線バスを乗り継いで集合地に顔を揃えたのは総勢17名の熟男熟女達。関東地区在住者の有志が知恵を絞り、下見までして設定した一泊二日の箱根観光の始まりは、「ガラスの森」内にあるイタリアンレストランでの昼食からであった。今回の顔ぶれは、S31年組が 2名、最多のS32年組が 7名、S33、S34年組が夫々 4名づつ。久しぶりのクラブメイトの再会に話が弾む。 グラスワインで乾杯をし、パスタ料理を楽しみはじめた頃、ステージでアトラクションのカンツォーネが始まった。本場イタリアからのデュオである。
懐かしい曲である。1961年サンレモ音楽祭での優勝曲。当時サンレモ音楽祭というイベントの存在は内国のもので、日本で知られるようになったのは外国人が参加出来るようになった1964年以降らしい。この曲が広く知られるのは、1962年の米国映画「恋愛専科(Lovers must learn)」の日本封切りによってである。 この映画をどこの映画館で観たのか全く忘れたが、不思議に記憶に残っているシーンが多い。当時は美人女優の一人として人気の高かったスザンヌ・プリシェット扮する米国の美人女子大教師が、仕事の上で上司と衝突して退職し、イタリアへと一人、船旅に出る。船中で知り合ったイタリアの有閑紳士(ロッサノ・ブラッツィ)の紹介で、ローマでは下宿(日本で言えばウィークリーマンションか?)に滞在することになる。このロッサノ・ブラッツィがイタリアお定まりのプレイボーイかと思いきや、意外にもまともな紳士であって、スザンヌの相手役になるのはハワイアン・アイだったか、ルート66だったかTVムービーで人気の色男トロイ・ドナヒューであり、同じ下宿に住むアメリカからの留学青年で目下失恋中という設定である。観光旅行にきたスザンヌはこの青年のオンボロバイクに同乗して、イタリア各地を案内してもらうという筋書きで、観ているだけで名所巡りをしているような気にさせてくれる、将にイタリア観光局ご推薦といった観光映画作品。かの名作「ローマの休日」とオーバーラップするかの如くであったが、テクニカラーの美しい映像が印象的だった。 若い二人が、パブで夜更かしをし夜明けの街に出ると、石畳の街に谺を残して響くのが、ドメニコ・モドーニョの「ヴォラーレ」(これもサンレモ音楽祭1958年の優勝曲、この曲あたりからカンツォーネが世界に認知されたと言ってよいだろう) 主題曲の「アル・ディ・ラ」は、全編を通じて流れていたと思うが、ふたりが乗るロープウェイの後ろに広がる雄大なアルプスの山々を背景に朗々と流れる歌はこれぞカンツォーネの真髄といった趣きの感動的シーンであった。 この映画の音楽監督はオーストリア生まれのマックス・スタイナーという人物だが、生涯に200本近い映画の音楽を手がけておりアカデミー賞の音楽賞、作曲賞に6度も輝いている逸材である。 本回想録の別稿「赤い風車」にご登場願ったM製作所OBのI.Iさんさんに電話でお尋ねしたところ、サンレモ音楽祭でこの曲を歌ったのは、ルチアーノ・タヨーリとベティ・クルティスという。その後の二人が、カンツォーネ界でどんな活躍をしたのか定かではない。ついでに、「アル・ディ・ラ」の意味を聞いた。「そこに」とか「彼方に」という意味でしょう—との事である。
まさに「彼方に」の想いである。それはいまを遡る1982年春、卒業四半世紀を経 た同期生を中心に、誰からともなく声を掛け合って風薫る新緑の古都鎌倉を散策し、鰻やの二階座敷で昼食をとりつつ、隔年くらいには集まろうか…程度の相談がまとまり、正式には名古屋を皮きりに、榊原温泉、京都、伊豆伊東、長島温泉、寸又峡、南知多、伊豆稲取、鳥羽と場所こそ違え、隔年に開催しミレニアム年の2000年、十回目を箱根で開催するに至った。 時により都合で参加出来ない人も勿論いるが、常時男女併せて15人位は集まる。集まるのは昭和31年卒〜34>年卒だけでそれ以前の人も以降の人もいない。先輩の中には後にNHKの名アナになられたK.A氏や母校の応援歌の作詞者として名を残すH.K氏などもおられるし、多分社会の第一線で活躍している後輩達も大勢いるはずだが、何故か前述の年代に限られており、正式に「・・・・OB会」とは言えないのであるが、こう呼んで誰も憚らないし、誰も気にしていない。勿論会則などというものもない、実にアバウトな会である。 会は一泊二日のプログラムで、昼食に始まり翌日の昼食で解散というのが標準的なパターンであり、開催地の近傍にある美術館や神社仏閣を尋ねたり、遊園地や公園をぶらつくケースが多いが、そういう合間も殆ど途切れなくオシャベリが絶えない。会のクライマックスは夕宴のあとにくるダベリングである。仕事の話、家族のこと、健康のこと、趣味のこと、要介護老人をかかえての奮戦談…など様々な話題が際限なく飛び出し尽きることがない。社会生活をまっとうして真に自分の為の人生を歩み始めた人、児童養護施設に打ち込んでいる人、寝たきりの姑に献身的介護をする人等々の話は、額に刻まれた深い皺にもまして、その人生が、歴史が溢れている。そして、夜が更け酔いが廻るほどに、話題は必ずタイムスリップして、在校時代の想い出に収斂していく。還暦前後の熟男、熟女がまるで現役高校生になりきって語り合う姿は傍から見れば異様に見えるかも知れない。 箱根の会の後、IT時代を反映しインターネット上に仲間の「掲示板」が作られた。日々の生活でのニュースや情報が短いメッセージや写真で、毎日のように交換されている。つい先頃からは、当時放送部の顧問教師H.K先生もこの掲示板に参加戴いている。
会則もないこの会が何故これほど盛会に続くのか。メンバーの結束が何故こんなに強いのか、あまり深く考えたこともなかったが、ある時、参加者の誰かの何気なくつぶやいた一言にその疑問を解く鍵を得た気がする。 『自分が津高に入学した年に野球部が宿敵岐阜勢を破って、夏の甲子園出場を果たしたのだが、あの出来事が津高全体を一つにした切っ掛けになったのじゃないかナ…』 受験戦争のはしりの時代。ともすれば自己中心的な風潮が高まる中、甲子園出場はまさしく快挙であったろうし、教師も生徒も心を一つにし喜び且つ応援をした。その潜在的な効果は極めて偉大であったのだろう。そんなことから芽生えた気風を受け止めて生徒達は直面する受験戦争に専念するに止まらず、いろんな課外活動やクラブ活動にも目を向け活発な活動をした。そこには上級生と下級生の繋がりが育まれ結束力が生まれたと思われる。 学校放送の活動と言えば、半ば公的な役割を担っており、入学式体育大会等の公式行事では拡声機材の設営・保守等で時間勝負の緊張ある活動を求められたし、またインターハイなどの競技大会には母校の代表選手の活躍ぶりを取材に、休日も出掛けたりもした。各教室に配置された拡声機の配線のために夏休みの大半、天井裏を這いまわったりもした。そんな活動には上級生と下級生の差別は無くみんな一体で動いた。 昭和30年代と言えば、戦後の教育改革で生まれた男女共学制が漸く根をおろし始めた時期とも言える。キャンパスでの「歌声運動」が始まったのもこの頃だった。『自由闊達』というのが伝統的な校風ではあったが、それまで男女別れていた保健体育の授業が合同授業になり、フォークダンスのレッスンになったりもした。これを始めたのが文部省の指導方針であったのか、時の校長の英断だったか、現場の保健体育教師の独断であったか、今は知る由もないが、生徒である我々にとっては誠に有りがたい教育プログラムであった。時々の授業や体育祭だけの機会のみでは飽き足らずそれぞれのクラブ活動のなかで本来の活動の余暇をフォークダンスに興じる風潮が拡がったのは言うまでもない。 放送部はその先鋒隊であったろう。日曜日には、時にお手のものの「手回し蓄音機」を携えて阿漕の海岸あたりまで出かけた。フォークダンスのみならず、ハイキングやサイクリング、夏休みの野外キャンプなど男女混成での活動は極めて盛んであった。そのようなグループ活動では、先輩、後輩という関係よりは兄弟姉妹のような結びつきが生まれ育まれたと言える。 昨今マスコミに、若年層の凶悪犯罪事件や学園に於ける「いじめ」問題が頻繁に取り上げられる。これに対して、その道の専門家が色々コメントを述べているが、所詮、結果の分析であり評論に過ぎず、決定的解決策が見出されたという話は一向に聞かないし、類型の事件は後を絶たない。 教育論をぶつつもりは無いが、少子化の進む現代、子供達は家庭の中で自分と近い視点で会話し心を通わせる兄弟姉妹に恵まれにくい。学校や塾では、何かにつけ競争条理に立たされる。 「仲間と共有化し、共同歩調をとる様な課題」が欠如して子供達の心が孤立している処に問題が根ざしているような気がする。生徒達にとって求心力のある「共通テーマ」を教育の現場に設定し得ていないのではなかろうか…等と考えざるをえない。 そこへいくと、戦後の混乱のなかから遮二無二立ち上がり数少ない共有テーマを分かち合い助け合った我々の青春時代は、まんざらでもなかったんだと自己満足するのである。心を一つにして活動する『場』を通じて兄弟姉妹のような「信頼感」で結ばれたメンバー達は学窓を離れて四十年、日々の生活環境が散り散りなった今日でも強い絆で繋がりつづけている。 それは仲間がいる—というひとりひとりの想いによって保たれているからであろう。
[注]この稿は一部、津高同窓会誌(No.36 1999.1)に寄稿した文を引用した。 |
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