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雑・音楽回想録⑪   

AS TIME GOES BY

— 夜のエンターテナー達 — 



 定年を二ヶ月ほど後に控えた1998年末、8年ぶりに前橋工場を訪問した。
 遡る、1987年に社内の事業再編成があった。今日で言うリストラのはしりである。神奈川県の大和工場を拠点としていたS事業部と群馬県の前橋工場を拠点としていたR事業部が合体して、年商1500億円を越える規模のA事業部が誕生した。
 合体した事業部の企画室を預かる身となり、両工場にそれぞれ十名余づつのスタッフを抱かえることになった為、三年半ほどの任期中、毎月二、三度は前橋にも足を運び、事業企画や、商品開発の企画立案などの業務を通じて、元来風土の異なった事業体の一元化に汗を流した。
 当時、経済成長は鈍化傾向にあったとは言え、新技術の続々誕生する音響機器業界は話題も多く、当の事業部門も年間2000億円を目指す中期計画を立てるなど、積極経営路線の活気に溢れた事業活動を展開しており多忙とは言え、張りのある日々であった。
 転勤はサラリーマンの常、やがて元号が改まり、経営陣の一新に伴い本社に転属し、全社の研究開発行政などの業務に埋没することとなり、当の事業所から足が遠のいてしまった。そして十年近く経過するうちに人事交流が進んで、大和時代に苦楽を共にした連中の数多くが前橋勤務になっていたので、定年退職を控え、彼らの活躍ぶりを拝見しつつ永年お世話になったお礼を述べるのが訪問の意図だった。
 厳しい市況の続く中にもめげず、後輩諸氏が事業活動に多くの成果を生み出している様子を目の当たりにして、頼もしくも思い嬉しくもあった。そして、その夜は有志達が定年送別会を開いてくれるという。
 指定された時間に、会場のホテルへ赴くと三十名を越える仲間が待ち構えてくれていた。しかも、広間に入るや否や、ジャズバンドの演奏で迎えてくれるという趣向。これは、二十年近く一緒に商品企画をやってきたN君のアイディアに違いないナ…と気がついたが、後で聞くと前橋、高崎界隈のライブハウスを駆け回って、出張出演をしてもらったのだという。色々な思い出話が交わされて、素晴らしいひとときを楽しんだ会の半ばで、N君が「折角、貴殿の好きなジャズのバンドを呼んだのだから、何かお好みの曲をリクェストされたら如何…」という。しからばお願いしましょうと、女性シンガーに依頼したのが他でもない『As time goes by』であった。

♪You must remember this
 A kiss is still a kiss
 A sigh is just a sigh
 The fundamental things apply
 As time goes by
 And when two lovers woo they still say
 I love you
 On that you can rely
 No matter what the future brings
 As time goes by
タイトル曲“As time goes by”再生
   (YouTube)

 1931年H.Hupfieldが作詩、作曲したヒット作である。あのハンフリーボガードとイングリッドバーグマン主演の名画「カサブランカ」(1942)のなかで、I・バーグマン扮するイルザ にせがまれた酒場のピアニスト、サム(ドリー・ウィルソン)が歌って再びヒットしたという。
 昔、TV放映されたときの字幕スーパーでは、「歳月は流れても」と邦訳されていたと記憶しているが、嫁いだ長女がクリスマスにプレゼントしてくれたDVD(岡枝慎二氏訳)によると「時の過ぎ行くままに」と邦題がついている。同名異曲が沢田研二のヒット曲にあったけれど、やはりこの訳がぴったりくる。
 こだわりと想いを込めたN君のプランニングがなんとも嬉しく、苦楽を共にした仲間達の差し出す杯を次々に受けながら、演奏に耳を傾けていると、色んな想い出が、走馬灯の如く瞼を巡り、浮かんでは消えていった。女友達に前夜の居場所を問われたハンフリーボガードのように 「そんな古いことは忘れた…」とはいかなかった。
 永いサラリーマン生活を通じて、知己を得た人は数知れないが、中には仕事の上では殆ど接点がなく、ひたすら夜の世界で付き合い続けたひとがいる。I・Y氏、入社は一年か二年先輩で、一度も職場を同じくしたことが無い。近所付き合いの間でもない。にもかかわらずサラリーマン現役のうち二十数年、懇意にお付き合い戴いた稀有な間柄である。慶応(法)の出身で、会社では広報、宣伝畑から入って、大半は、エンドユーザーとの接点に当たるショールームの運営管理を担当していた。ポストに恵まれたとは言えないが、営業部門のように販売数字に追われることも無く、開発設計のように日程やコストに苦しむこともなかったから、心穏やかに会社生活を過ごせたという意味では羨ましい境遇であった。学生の街、高田馬場駅近くにあるBIGBOXという西武経営のビルに、多目的ホールや小スタジオを備えたショールーム施設『Music Plaza』があり、彼がその館長職だった頃に付き合いが始まった。コーポレイト・コミュニケーションという仕事柄というだけでなく、彼の人材交流は極めて多彩で、数多くの異種異彩の人々を紹介してくれた。現役時代に出会った人々の名刺を整理したホルダーの中に「I人脈」と分類した分が200枚近くある。I・Y氏が紹介してくれた個性豊かな人々である。
 その中の一人、平川洌さんは三つの顔をもった異才人である。れっきとした商事会社の社長としての顔、慶応外語の教師の顔(ご父君は、戦後NHKラジオの英会話番組「カムカム英語」の平川唯一氏である)。そして、私が会うときの三つ目の顔は、いつもウクレレを小脇に抱かえた、ミュージシャンのそれであった。  ウクレレと言えば、ハワイアンに欠かせぬ楽器である。弦は僅かに4本、素人目にはいかにも取っ付き易く見える為か入門者は少なくないのだが、かといってこれを究めたという人の話もあまり聞いたことがない。  そこへ行くと、平川さんのウクレレは、驚異的なトレモロのテクニックに支えられている。
 演奏曲は、「ビア樽ポルカ」「熊ん蜂の飛行」「12番街のラグ」「ラクンパルシータ」などのテンポの速い曲が得意だが、圧巻は「第三の男」である。あのオーソンウェルズ主演の名作のテーマ曲で、原曲はアントン・カラスがツィターという弦楽器を演奏したものである。映画の中にはこの楽器の演奏風景は出てこないので、長い間、「一体どんな楽器だろう」と思っていた。処が、実は映画の中にちゃんと登場していたのである。何度目かビデオを観ていて気がついた。最初のタイトルバックに主題曲を演奏しているツィターの弦面がクローズアップで撮影されていたのであった。モノクロ映画の所為か、タイトル文字を追っていて見逃していたのだ。
 13本もの弦だからこそ、あの哀愁を帯びた繊細で複雑な響きが出るのだと、聴く度に思っていたものである。処が、平川さんはたった4本弦のウクレレで、この難曲を弾きこなす。趣味が嵩じてCDを出したり、「ウクレレ教室」なるビデオを出したり、プロはだしの活躍だが、友人や知人のパーティーなど頼まれると気安く出かけて行く。私との出遭いの場もそんなパーティーの席ばかりであった。
 すっかり、「夜遊び」から遠のいてしまった今日、平川さんの名演奏を耳にするのは手元のCD(「ウクレレ・ファンタジー」—日本クラウンCRC-202859)のみになってしまったが、何時の日か、SPレコードでは、あの「第三の男」の裏面に入っていた曲、「カフェ・モーツアルト・ワルツ」をリクェストしようかと思っている。  以前、バブル経済で浮かれた日本のデパート企業が買い取るという話もあったウィーンの「カフェ・モーツアルト」はその後、どうなっているだろうか…。
          
  I・Y氏とは良く飲み歩いた。行く先は殆どライブをやっている店だった。銀座の「サロン・サイセリア」は、元々T音楽事務所の経営するジャズライブハウスで、ジミー原田や鈴木章二、北村英治、ジョージ川口など、戦後の日本のジャズ界を背負った著名なジャズメンが日替わりで演奏していた。その店のハウス・ボーカルの上石りえ子というシンガーは、声量豊かで、レパートリーも広く、前述のBIGBOX のコンサートにも顔を出したり、ヤマハホールで個人リサイタルを開いたり、CDを自主製作したりの元気さだったが、彼女の歌う「サマータイム」は見事だった。歌い出しが、美空ひばりの「りんご追分」で、途中から、ごく自然に「サマータイム」(ミュージカル『ボギーとベス』の主題曲)にすり替っていくような特技の持ち主だった。
 その後、六本木へ移って「ステラ」というジャズライブを構えたと聞いたが、遂に店を覗くチャンスもないままになってしまった。  「サイセリア」の方は、今はサロン風レストランになっていて、四万十川の食材にこだわった懐石料理を売り物にしている。珍しいからと、一、二度は接待に利用したが、バブルの崩壊とともに足が遠のいてしまった。
       
 六本木のライブスポット「バードランド」のオーナー太田貴美子女史は確か、父君が丸之内にあるレストラン海運会館のオーナーだと聞いた。店で自らマイクを持つことはなかったが、フラダンスチームを主宰しておられ、I・Y氏の仲介で、我々オーディオ・メーカー仲間の納涼懇親会に特別出演して貰ったことがあった。竹芝桟橋を基点にした「東京湾クルージング」という海上観光遊覧コースがあり、夏の宵など屋形船やら大型クルーザーなど結構賑わいを見せている。その中で、シンフォニー丸という洒落たクルーザーの船尾キャビン一室を借り切っての船上パーティーは、それだけでも豪華な雰囲気だが、そこにアマチュアとはいえ、五、六人もフラダンサーが華を添えるのだから賑々しい。フラダンスサークルのメンバー達も、教室でのレッスンから解放されてノリに乗って、いやが上にも盛り上がり、同船の一般客や乗船員が入れ替わり立ち代りキャビンの窓越しに覗きに来る有様。本来、このクルージングは、浦安沖で東京ディズニーランドの花火を海上から眺めるという趣向が呼び物なのだが、この日ばかりは花火も形無しであった。
 太田オーナーはなかなかのアイデア・ウーマンで、今世紀からジャズの日を制定しようと呼びかけ、JAZZのJAとZZをもじって1月22日を"JAZZ DAY"として定着させようと踏ん張っているという。
   
 大野三平というピアニストがいた。新宿は歌舞伎町のカウンターバー「花」で、酔客のざわめきを超越して無我の境地でピアノを弾いているか、さも無ければ、店の隅っこでオン・ザ・ロックを傾ける姿しか記憶に無い。客にお世辞ひとつ言えるような男でなかった。その三平さんが胃潰瘍の手術で入院した。サラリーマンと違って、悪く言えばその日暮らしの怠惰で孤独な街のミュージシャンである。病にたおれて始めて気がつくナントカで、収入の道は絶たれるし、保険に入っていないから、医療費はかさむ…たちまち悲鳴をあげる有様。「花」のママがまた気風のよい人で、このまま放っておけないと、チャリティーコンサートを開く話になった。  こういう話を黙って見過ごしてしまわないのがI・Y氏の性分で、高田馬場のホールを提供したうえ、そこに定期、不定期に出演したことのあるミュージシャン達に協力を呼びかけたのだった。たちどころに夜の盛り場のミュージシャンが友情出演に集まった。そして、とある日曜日の夕、一流ホールでもない、世界に冠たるミュージシャンでもないこのコンサートは、意気を感じた「花」の常連客たちを観客に、大盛況裡に開かれ、百万円を超える見舞金を病床の孤独なピアニストに捧げたのだった。

 
 どんなコンサートでも、終わった後に必ず出演者の慰労会が開かれるのが常である。何らかの伝手を作って、この種の会に潜り込むと面白い。主催団体、スポンサー、楽屋裏方、時にはただ「関係者で〜す」等と訳の分からない挨拶をして潜り込む手もある。 大野三平支援チャリティーコンサートで、サックスを吹いていたQさんことQ・石川氏と知り合ったのも、やはり終わったあと、ビールと乾き物だけの打ち上げ会であった。長身で髭の似合うダンディな男で、話し振りでは都内数箇所のクラブやライブハウスに出ている他、地方巡業へも出かける様子であった。
 そのQさんと再び出遭ったのは、銀座のジャズライブスポット「クラビクラ」であった。初めて案内してくれたのは、会社の同僚S君で、彼が東京R大のジャズ同好会時代の先輩である佐藤修弘氏が、同店の経営者兼ピアニストという関係だそうで、鰻の寝床のように細長いカウンター中心の店は、佐藤さんのピアノとパートナー経営者の水野アキさんのボーカル中心だが、金曜日は佐藤氏の永年の友人Q・石川とその仲間が特別出演するので、早い時間からジャズ好きな中年サラリーマンで一杯になる。T・サックスがQさん、ドラムスがキンテン(金曜日の店長の意)こと渡辺文男、ベースが年に一度も笑ったことがないと噂の川端民生。テーマ曲はソニー・ロリンズの最高傑作とも言うべき「セント・トーマス」で、この軽快な曲に始まり、この曲に終わる。狭い店内に響くそのサウンドは素晴らしく、ご機嫌で、ウィークエンドのメンタル・リフレッシュには最高だった。 この店も1年近くはご無沙汰している。Qさんは元気だろうか。マッターホーンやアイガーも征服したアルピニスト、ボーカルの水野アキさんは相変わらず山登りに精を出しているのだろうか…。

 
 最近は、すっかりジャズライブの世界から遠ざかり、たまに友人の誘いに乗って、カンツォーネを聴きに出かける位になってしまった。
 ジミー原田、北村英治、世良譲、笈田敏夫、 ドリーベーカー、阿川泰子、アンリ菅野、アントニオ木村…。時にはブラウン管にも顔をだすこともないではないが、夜な夜な巷間で好きな音楽に生活を賭している多くのジャズメン達。彼らと出会い、その芸を存分に楽しませて貰った。そして一人ひとりが持っているドラマティックな人生を垣間見せて貰った。 I・Y氏も自由人となって、好きな音楽の世界を楽しんでいると噂を聞くほど疎遠になりつつある。彼自身、学生時代にハワイアンバンドで活躍した経験もあって、ベース、キーボード、ピアノはプロはだしであり、時には酔った勢いで飲み屋のピアノに向かったり、私のカラオケの伴奏に付き合ってくれたこともあった。
 「イーね!」 弾きながら掛ける彼の声に、褒められたかと調子に乗っていると、「イーね」は「好いね」ではなくコードの「E」のことを指しているのだと気がついた。音楽理論オンチをコケにしていい気になっている—そんな彼を「えん」の購読会員に誘ったら、金を払うのは厭だという。それなら読んで呉れなくても良い—と送るのをやめた。お互い臍曲がりなのだ。
 今度、逢ったら、また久しぶりにピアノで「As time goes by」を弾いてもらおうか、「カサブランカ」のピアニスト、
サムほどは上手くなくったっていいから…。      
   
 
 (2001.07.20)



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