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近鉄・創業からの60年

ハンドルネーム: 狸

近畿日本鉄道のはじまり

近畿日本鉄道(近鉄)は、明治43(1910)年9月16日に、大阪〜奈良間に電気鉄道を敷設するために、「奈良軌道」として創立されました。当時、大阪と奈良を結ぶ鉄道は、今のJR大和路線とJR学研都市線しかありませんでした。どちらも生駒山脈を迂回するために距離が長く、SL牽引の列車ばかりで運転本数も少なく、たいへん不便でした。

奈良軌道は、翌月社名を「大阪電気軌道(大軌)」と改めました。建設にあたり、線路幅は、国鉄の1067mm(狭軌)に対して、1435mmの標準軌を採用しました。そして、大正3年4月に、生駒山脈を貫く生駒トンネルを完成させました。当時、生駒トンネルは東洋一とされた複線広軌式のトンネルで、大変な難工事でした。大正3年4月30日、上本町〜奈良間30.6kmが開通しました。開業時に使われた電車は、デボ1形といいますが、あやめ池で復元された車両が保存されています。

大正10年1月、大阪電気軌道は天理軽便鉄道を買収しました。天理軽便鉄道は、大正4年に天理〜法隆寺間9kmを蒸気鉄道として開通させていました。大軌は大正11年4月、平端〜天理間を電化し、上本町から天理までが1本のレールで結ばれました。法隆寺〜平端間は、戦争のために昭和20年に休止、その後廃止されました。

大正11年1月、大軌は生駒鋼索鉄道を合併しました。生駒鋼索鉄道は、わが国初めてのケーブルカーです。大正7年8月に鳥居前〜宝山寺間の1.0kmが開通し、合併後の昭和4年3月に、宝山寺〜生駒山上間1.1kmが開通しました。橿原線は、大正10年4月に西大寺から郡山まで建設され、大正11年4月には、平端までのび、大正12年3月に全線が開通しました。

参宮急行電鉄と伊勢進出

昭和2年、奈良線と布施で分かれて桜井に至る桜井線(現大阪線)の建設中に、桜井線を通って宇治山田まで進出するルートの計画を立て、姉妹会社の参宮急行電鉄(参急)を設立しました。

大軌は昭和4年1月に布施〜桜井間を開通させ、昭和4年3月に伊賀電気鉄道(伊賀上野〜西名張)を合併しました。その後、伊賀神戸〜西名張間は昭和39年10月に廃止されていますが、伊賀上野〜伊賀神戸間は、今も近鉄伊賀線として残っています。

また、昭和4年8月に吉野鉄道(吉野〜畝傍)を合併しました。このうち、橿原神宮前〜畝傍間は昭和20年に休止され、その後廃止されました。

昭和5年12月、山本〜信貴山口間(信貴線)が開通しました。

参宮急行電鉄による宇治山田への延長線は、昭和4年10月の桜井〜長谷寺間の開通にはじまり、昭和6年3月には、上本町〜宇治山田間137.2kmが全通しました。さらに参宮急行電鉄は、名古屋への進出を計画し、三重県下の地方交通の中枢となっていた伊勢電気鉄道と昭和11年9月に合併しました。これによって、中川〜桑名間が結ばれました。さらに昭和13年6月、参宮急行電鉄が新しく設立した関西急行電鉄の手によって、桑名〜名古屋間が開通しました。こうして、ついに大阪〜名古屋間が結ばれました。ただし、中川〜名古屋間は1067mm、上本町〜中川間は1435mmと線路幅がちがっていたので、直通列車を走らすことはできませんでした。

昭和15年1月に、参宮急行電鉄と関西急行電鉄が合併しました。昭和16年3月に、大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併し、関西急行鉄道となりました。そして、昭和18年2月に大阪鉄道(阿部野橋〜橿原神宮前間、古市〜河内長野間、尺土〜御所間)と合併しました。

近畿日本鉄道設立

関西急行鉄道は、昭和19年6月1日、南海鉄道(今の南海電鉄)と合併し、社名を近畿日本鉄道に変更しました。これは戦時中に、政府の命令によって行われたもので、他にも阪急と京阪が合併させられたりしています。しかし、南海鉄道との合併はあまり意味がなく、戦後の昭和22年に解散しています。

戦中・戦後の鉄道の荒廃はひどいものでした。窓ガラスはなく、扉は開いたままで、すし詰めの乗客を運んでいました。また、交換部品さえ手に入らず、破れたブレーキホースをそのまま使っていたことが原因で、列車が暴走してたくさんの人が死傷するような事故も起こっています。

そんなさなかの昭和22年10月に、座席定員制の特急が誕生しました。車両は、状態のよい車両をかき集めて整備したもので、転換クロスシートが並ぶ優雅さでした。この特急列車は、沿線住民に希望をあたえたと言われています。ちなみに「座席定員制」とは、今のように座席指定なのではなく、乗客が車内で好きな席を選ぶ方式でした。その後、昭和24年6月に、座席指定制に変更されました。

昭和24年12月1日に、近鉄バファローズが誕生しました。そして、昭和33年7月に、2階建て列車「ビスタカー(初代)」(10000系)の運転が開始されました。

昭和34年に襲来した伊勢湾台風は、名古屋線沿線に大きな被害をもたらしました。名古屋線も、線路が冠水してしまうなどの被害が出ましたが、復旧に際して、中川〜名古屋間の広軌化(1067mm→1435mm)を行いました。

こうして、念願の名阪直通が可能になり、同年12月に、上本町〜名古屋間のビスタカー(2代目)による直通運転が開始されました。そして、昭和37年4月には、団体専用列車「あおぞら号」の運転を開始しました。「あおぞら号」は、「2階建て電車で修学旅行に行きたい」という小学生たちの夢をかなえ、大好評でした。

昭和38年10月に、奈良電気鉄道(奈良電)を合併しました。奈良電気鉄道は、京都〜西大寺間の路線を運営していましたが、同区間は近鉄京都線となりました。

東海道新幹線が開通した昭和39年10月に、信貴生駒電鉄(新王寺〜田原本間)を合併しました。同時に、京都〜橿原神宮前間の特急の運転を開始しました。

そして、昭和40年4月に、三重電気鉄道を合併し、四日市周辺に支線を持つようになりました。また、昭和40年には、葛城山ロープウェーの営業も開始しました。

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