このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





ダッカ・テロ事件の衝撃









■衝撃ただ衝撃

 筆者は今まで、日本を出て14国を訪れたことがある。うち、仕事での渡航は12国。ここ数年に限っても、のべ 7度 8国に行っている。……この数字だけを採り上げれば、筆者は立派な「国際派」に見えてしまうが、筆者は外国でのシビアな交渉を経験していないから、さほどの実績があるとはいえない。それでも、そもそも外国に平常心で赴ける人間がまだ稀少(※)という事情もあり、またシビアな交渉力を必要としない業務領域も多いから、何かあれば筆者が起用される機会はあるだろう(*)、という程度の予感はある。
  ※:未だ英語でのコミュニケーションはハードルが高い。年配の方々はもとより、若手でも尻込みする傾向。
  *:現に昨年、「なぜ私?」という案件で某国に飛んだ経験あり。

 それゆえ、ダッカ・テロ事件の報を受け、他人事ならざる切実さを感じざるをえない。筆者自身はバングラデシュに行ったことはないが、筆者が行くような場所でテロが起こる可能性を痛感する。実際のところ、筆者某国出張での宿泊先ごく至近で、後日テロ事件が発生していたりする。

 殺された日本人 7名の年齢を見ると、切実さが更に増す。三十歳前後の若手、四十代の中堅、五十代のベテラン、高齢者世代に属する大先輩。これだけ幅広い年齢(しかも交通部門の方が複数)の方々が殺害されたということは、誰もがターゲットになりうる恐怖を暗示する。筆者にもしその運命がめぐっていたならば、事件現場で会食していた可能性がある。それゆえに恐ろしい。

 そして、殺されたのは日本人だけではない。イタリア人、インド人、アメリカ人も殺害されている。彼らがその場にいた目的は食事のためだから平和そのもの。あまりの理不尽に言葉もない。殺された方々には哀悼の意を表し、冥福を祈るほかない。





■コメント

 この事件の怖ろしさは、日本人が標的になったということだけではない。テロ犯たちは、行動力ある若者、働き盛りの中堅、円熟したベテラン、知恵・経験などを蓄積した大先輩、更にいえば若く魅力ある女性まで、ことごとく殺してしまった。つまり、テロ犯たちは、これら諸要素になんら一切価値を認めない、と頑迷なる狭量を表明したに等しい。国と国を結ぶ平和の架け橋となる有為な人物を認められないとは、何たる短絡、何たる近視眼、何たる愚かさか。救いがたく野蛮な暴挙である。

 さりながら、この暴挙はイスラム由来、と決めつけるのも短絡であろう。筆者がじかに接したイスラムの方々のなかには、俗っぽい方も決して少なくなく、また敬虔な方は温和で、所謂草食系の印象を受けた。 以前の記事に書いた とおり、宗教は仮託されているだけ、または名目上そのように分類されているだけで、本質はおそらく別のところにある。

 日本人は記憶を呼び覚まさなければならない。ここ半世紀、国内で如何なる「テロ」があったかを。昭和49(1974)年には三菱重工ビルが爆破されたではないか。平成 7(1995)年には地下鉄にサリンが撒かれたではないか。日本では思想・宗教の色が薄いから誤魔化されがちだが、池袋・池田小・秋葉原その他多くの場所で繰り返し起きている無差別殺人は、今日的感覚からすればテロに近い。

 平和に見える日本でさえ、テロまたはテロに類する事件が起き続けている。もっとも、凄惨な事件の発生は稀少で、対岸の火事と思った瞬間、絶大な平和に稀釈されてしまう。つまり、テロは他人事と主観している限り、如何なる危険であろうとも発生確率はゼロに近似されるのだ。

 日本人は単に無自覚だっただけで、今までにもテロまたはテロに類する脅威にさらされ続けてきた。思想・宗教の色にフィルターをかければ、洋の東西に関わりなく、共通の根は存外シンプルなのではないか。簡単な言葉に要約すれば、それは所謂「較差」であろう。そして、自己が世界の流れから取り残されている不安・不満・焦慮・悲哀・憤怒など負の感情——所謂ダークサイドの心——が混淆しているのであろう。

 それゆえ、筆者は「憤り」を持ちかねている。テロまたはテロに類する事件を起こす側の心理を理解できる部分もあるからだ。しかしながら、方法が決定的に間違っている以上、与することは出来ない。また、かような暴挙に踏み切れる心理までは受容できず、その点には深刻な恐怖を覚えざるをえない。

 ともあれ、この事件によって、テロは筆者にとって自分事に近づき、現実に起こりえる危険となった。今のところはただ恐怖に慄然とするしかなく、もどかしい思いだ。

 幸いなのは、テロは(ごく一部の荒んだ国を除き)まだまだ充分に稀少な事件で、現実には滅多に起きないということ。そして、当事国にとっても尋常ならざる事件で、鎮圧の対象とする価値観が共有されている、ということだ。

 バングラデシュ軍・警察は、危険を冒してテロ犯を鎮圧し、生き残っていた人質を救出した。また、多くのバングラデシュ国民が、殺された人々を悼む様子も報じられている。このような普遍的価値観の共有は、テロを鎮圧しうる武力の育成・鍛錬というハード面とならぶ、ソフト面での力となろう。

 テロへの「憤り」とは政治的な用語だから、これを使わなければならない立場の方々は使わなければならない。市井に生きる我々は、普遍的価値観を共有することで、暴発する負の感情に対抗していく道がある。なによりも、怖い。恐怖感情もまた、共有すべき普遍的価値観の一つである。

 ただし、筆者はある懸念を想起せざるをえない。普遍的価値観が世界中で共有されればされるほど、これを共有できない者たちの孤独と絶望は深まり、暴挙は過激の度を増していくはずだ、と。我々は暫く、恐怖にとらわれながら進んでいくしかなさそうだ。それが嫌な方々には、今回のみならず一連の事件を対岸の火事として眺めることを勧める。前述したとおり、危険を危険と認識しない限り、主観的な発生確率はゼロに近く、精神的平穏を得られるからだ。ただしこれは所謂「平和ボケ」と呼ばれる状態であることも付記しておく。





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