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「帰宅困難」な夜を経験して





   【地震発生編】
   【徒歩編】
   【電車・タクシー編】
   【サマリー】




■津波

 SF映画で描写される水の壁は、想像力に欠けると評さなければなるまい。

 それはむしろ、静かで穏やかなふりをしていた。しかし、裡に途方もないエネルギーを秘匿していたのだった。それは湾に入った刹那、正体をあらわした。奔流と化し、邪龍の如く暴れ、多くの街を、家を、人を、財を、夢を、希望を、そして命を、……圧し砕き、呑みこんだ。

 つ・な・み──津波。「それ」の正体である。

 われわれ日本人は昔から津波の存在を知っていた。つまり、われわれは何度も繰り返し津波の打撃を受けてきた。われわれは津波の脅威を熟知しているはずだった。ところが、われわれの蓄積したものを凌駕するほどの津波が、やってきてしまった。

 われわれの記憶はたかだか百年、われわれの記録はたかだか二千年にすぎない。記憶も記録も超える、即ち経験も知識も吹き飛ばすような、未知なる領域がまだまだあったのだ。いわゆる「想定外」の事象、しかし現実の津波は、想定どころか防潮堤をも乗り越えて、われわれの日常をほしいままに蹂躙する怪物だった。

 万余におよぶ方々が亡くなられ、さらに多くの方々が避難生活を余儀なくされている。報道されているあまたの悲報に触れ、涙を催さずにいられない。惨なるかな、惨なるかな。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表し、御冥福をお祈り申し上げる。被災者の方々には心よりお見舞い申し上げる。筆者の思いは、蛍の如き小さな灯にすぎぬかもしれぬ。しかしそんな小さな思いでも、皆皆の思いと合わされば、怪物を滅する神威となり、津波の勢いをも打ち拉ぐことができるのではないかと信じている。





■巻頭言

 さりながら、いまこのような記事を書くことは、軽薄の誹りを免れえないのみならず、単なる傲慢なのではないか、恐れを知らぬ振舞なのではないか、という危惧はある。率直にいって、筆者が経験したことは、東北地方の甚大な被害に比べ鴻毛の如き軽さであり、記録にとどめる価値があるかどうかすら知れたものではない。

 読者諸賢には改めていうまでもなかろう。平成23(2011)年 3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震、即ち東日本大震災(当初は東北関東大震災)のことである。

 底知れぬ畏怖を覚えつつも、しかし、筆者は敢えて書かずにはいられない。なぜならば、この大震災をじかに経験するにあたり、筆者に出来ることは限られており、しかも筆者は鉄道と交通という観点から書く以外の才も能も実績もないからである。

 たとえ言葉を弄するだけで終わろうとも、なにもせぬよりは良いのではないか。たとえ駄文であろうとも、なんらか知見のひとかけらでも残せれば、後刻の糧にはなるまいか。その一念を以って、書くばかりである。





【地震発生編】



■14時50分頃

 最初は職場の椅子で揺れを感じた。弱いながらも、下から突き上げてくる縦揺れである。「これは大きな地震になるのではないか」といういやな予感がして、身構える。案の定、というべきなのか。果たして強い横揺れがやってきた!

 職場は高層ビルの最上階である。耐震設計がされていても振幅が大きいようで、グワングワンと揺れに揺れる。慌てて席から立ち上がり、倒れてきそうなものから離れる。書庫では「ドシャーッ」と書籍が崩れ落ちる音がする。不安定に積んである書類は雪崩落ちてくる。窓から外を見ると、対面のビルの窓が歪み、奇妙な光彩を放っている。対面のビルだけでなく自分がいるビルも爆ぜてしまうのではないか、と不安になる。

「これはただごとではない……」

 生まれて初めて、地震の揺れに恐怖を覚えた。さらにその後何度も余震が続き、肉体的にも「地震酔い」に苦しめられることになる。





■夕刻まで

 この地震で相当な被害が生じたことは、肉眼でも理解できた。台場のビル火災、市原の精油所火災、いずれもが窓の外に視認できたからである。

 その後しばらく、筆者は地震の情報収集と、書庫の復旧を手がけていた。家族の安否もなかなか見えてこない。電話は固定も携帯もまったく通じないし、メールは送付できても受信できたかどうかがわからない。かなり時間が経ってから、無事らしい返信が届く。

 問題は、今晩どうするか、である。鉄道各社は運行をやめている。とりわけJR東日本は、運行情報が15時30分頃から更新されていない。これをもって、JR東日本は本日中に復旧する気がない、と推測することができる。

 職場に泊るのは決して難事ではない。今晩の食糧は、幸い手許にストックがある。とはいえ、翌朝の食糧を入手できるかどうかの見込が立たない。さらにいえば、JR東日本が明朝すぐに復旧するという見込もない。ならばいっそ歩いて帰るか、という決意が芽生え始める。もっとも、しばらくはエレベーターが復旧せず、地上におりる気力がまず湧いてこない段階ではあった。

 17時すぎにエレベーターが復旧した。この時点で、食糧調達のうえ職場泊か、徒歩帰宅か、という二者択一問題に絞られることになる。





■決断

 いささか逡巡しながらも、徒歩帰宅を決断する。理由は以下の三点。

   ●明朝すぐにJR東日本が復旧するとは限らない
   ●宿泊確定組のオヤジどもが酒盛りを始め巻きこまれてはかなわないと感じた(苦笑)
   ●迷った時には前に出た方が良い結果が得られるはずという確信

 特に三点目は、この一年で痛感したところであり、人生訓になりつつある。考える前にまず動け、ともいう。だから前に歩き出すことにした。

 この時点で最大の心配は潮位で、間近に見える大岡川の遊歩道が水没していることから、東京湾とて津波被害(あるいは高潮被害)に遭わない保証はないと直感する。もし潮位がさらに上がれば歩行者などひとたまりもないはずで、その気配あらば職場泊に切り替えるつもりであった。

 筆者は、明確な危険に敢えて突進するほどの蛮勇を持っているわけではない。ただし、万全の確信があって出発したわけではないことも、あわせて告白しておく。





【徒歩編】



■18時30分頃

 事前に煎餅で小腹を充たしておく。夕食用におにぎりのストックはある。ペットボトル飲料を二本入手し、途中の補給用とする。課題は運び方で、書類鞄に収納してストラップをつけ、襷掛けで運ぶことにする。道中困ることは明白なので、用も足しておく。

 桜木町付近の職場を出発する。少しでも距離を短くしようと、みなとみらい大通を進む。体力に余裕はあっても、歩行者の数が多く、信号に引っ掛かるため、速度はあまり上がらない。それでも自動車交通よりましというものであろう。路上は渋滞で固まり、動く気配がまったくない。





■19時頃

 みなとみらい大橋(横浜駅東口付近)通過。累計 2.4km前進。区間時速 4.8km/h。

 雰囲気はまだまだ牧歌的。切迫感はあまりない。第一京浜に入ると、歩行者の数が若干減ってきた。上下方向はほぼ同数というところか。ヘルメットをかぶった若い女性三人組がおり、用意周到だなと感心する。

 ペースは順調に上がってくる。おにぎりを頬張りながらひたすら歩く。

 肉体活動の活発化に比例するかのように、催すものも出てくるが、東海道貨物支線跨道橋脇(横浜市営バス生麦車庫近く)に公衆便所を発見して、用を足すことができた。

 徒歩帰宅を決意したもう一つの理由は、京浜急行が早期復旧するのではないか、と期待したからでもあった。踏切の警報音が聞こえてくる。すわ、と思い生麦駅に近づいてみる。期待はむなしく、列車が抑止されたままで警報音が鳴りっぱなしなのであった。京浜急行もまた、本日中に復旧する見込なしとのことで、ならば歩きとおすしかあるまい。

 しばらく第一京浜を離れ、裏道沿いに進む。歩行者はめっきり減る。JR線路上を軌道自転車が走っているのが見える。点検作業中なのであろう。安全確認すべき範囲が広いという事情は理解できるが、すぐ復旧しないという現実を前にすると、利用者の一人としては屈折した思いを抱かざるをえない。

 鶴見線の高架橋をくぐると、左手に公園があらわれる。そのバチ状の広がりがなんとも鉄道らしい。こんな時であっても「これは廃線跡だな」と直感してしまうのは、カルマというべき愚かさか。後日調べると、海岸電気軌道の痕跡らしいことがわかった。





■20時頃

 京急鶴見駅前通過。累計 9.3km前進。区間時速 6.9km/h。

 ペースは順調である一方、困った事態に直面した。停電している区画が歯抜け状にあり、真っ暗な道が出てきたのである。これは怖い。

 率直にいって、徒歩通勤を決意して後悔した一瞬である。幸い、日本の治安の良さには素晴らしいものがあり、盗人追剥の類に襲われるという心配がないのはありがたい限りだ。しかし、だからといって、暗い足許の危険が軽減されるはずもない。

 鶴見橋から第一京浜に復帰する。停電であっても、滞りまくる自動車のヘッドライトが氾濫しており、明かりには困らない。

(参考までにいえば、第一京浜で筆者が追い越した自動車の総数は、千台を軽く超える。しかも、その後追い越し返された自動車の数は限られる。このたびの大地震のような非常時にあたり、自動車はあまり役に立ちそうにない)

 歩行者の数は、横浜市内とあまり変わらない印象。歩道の幅員が充分にあるため、通行に支障は少ない。





■20時30分頃

 川崎区役所前(川崎駅近く)通過。累計12.7km前進。区間時速 6.8km/h。

 動いているバスを見て、妙に心強く感じる。もっとも行先は浜川崎で、乗車しても自宅に近づいてはいかない。

 ここまで順調に進んできたものの、ペースが急に落ちてきた。 2時間を経過して疲れが出てきた。それに、襷掛けの書類鞄は片側一方に荷重がかかるわけで、バランスの悪さが顕在化してきた。左右を入れ替えてみても、即時是正できないから辛い。ペットボトルの水を口に含みつつ、中身を軽くすることに努める。

 六郷橋を渡る。横風が強い。好天の今日にしてこの状況だから、荒天時は歩くにも危険が伴うかもしれない。加えて歩道が狭く、さらに東京方面からの歩行者が数を増し、歩きにくくなった。

 泊れる場所があれば泊ってしまうか、と考えても、沿道のホテルはロビーに人が溢れており、見込ないのは明白である。歩けるだけ歩くしかない。諦念が先に立つ。





■21時10分頃

 京急蒲田駅前(空港線踏切)通過。累計16.5km前進。区間時速 5.4km/h。

 ペースはめっきり落ちた。疲労が出てきたようである。

 歩道が(六郷橋ほどではないにしても)狭く、東京方面からの歩行者が数を増したため(感覚的には道中で最大)、歩きにくくなった。信号に引っ掛かる機会が増え、そのたびに歩行者が滞留して歩きにくくなる、というルーチンが繰り返される。

 重くなった足を励ましながら、トボトボと進む。大森海岸駅付近で歩道が広がり、歩きやすくなった。東京方面からの歩行者は今までがピークだったか、と見当をつけたものの、読みは甘かった。京浜急行をくぐり歩道幅員が狭くなると、擦れ違うのも難儀なほどで、さらに東京方面からは「数の力」があるから、もはや歩けたものではない。

 やむなく、裏道に逃げこみ、混雑を避ける。といっても、道に詳しいわけではないから、すぐ第一京浜に復帰せざるをえず、混雑に揉まれ、ペースは落ちるばかりである。





■22時頃

 大井消防署(鮫洲駅前)通過。累計21.7km前進。区間時速 4.0km/h。

 消防署には人数が出て、第一京浜の推移を見守っている。そのなかの一人から、

「大丈夫ですか?」

 と声をかけられた。たったそれだけのことなのに、実にうれしかった。スポーツ選手がよく「サポーターにパワーを貰った」「声援に助けられた」と言っている意味が、体感として理解できた。これらは決して社交辞令でないと実感できた。人間とは、誰かから応援されると、自然に力が湧いてくるいきものなのだ。現に筆者においても、力が湧いてきた。

 とはいえ、ここまでくると疲労は拭いがたい。品川・新橋までの距離表示を見て、気が遠くなってきたこともまた事実だったりする。





■22時30分頃

 品川保健センター(新馬場駅付近)で休憩。累計23.3km前進。区間時速 3.2km/h。

 センター入口の階段に腰掛け、初めての休憩をとる。残念ながら、体力の限界が見えてきた。しかしながら、こんなところで挫折すれば、最悪の場合凍死しかねない。センターには帰宅困難者受入先(品川区総合体育館)の案内が示されているものの、これとて至近にあるわけではない。半ば投げやりになりつつ、行けるところまで行くしかない、と思い定める。

 休憩を終えて再び進み始める。従前以上に歩きにくい。東京方面からの歩行者が明らかに増えている。絶対数は蒲田ほどではないにしても、歩道幅員が狭く、圧力は増している。流れに逆らって歩くのは、疲れた身にはかなり堪える。

 八ツ山陸橋脇に公衆便所があり、用を足すことができた。公園・コンビニエンスストアのトイレはどこも行列ができており、いたずらに時間を空費せずにすんだのは助かった。

 余談だが、八ツ山陸橋近傍には C-Flyerが抑止されたままになっており、線路内に立ち入り写真を撮っている馬鹿者たちがいた。危険である。





■23時頃

 品川駅前通過。累計24.6km前進。区間時速 2.6km/h。

 休憩で時間を消費しているため、区間時速が明確に悪化している。

 気力・体力ともに限界に近いことが自覚できた。ならば居酒屋で夜明かしするかと物色するも、席が空いている店はない。しかし、結果的にはこれが幸いした。





■23時30分頃

 泉岳寺駅到着。累計25.8km前進。区間時速 2.4km/h。

 どこまで歩くべきか思案していたところ、なんだか様子が違うことに気づく。

 地下鉄の出入口から人が出てきている!

 即ち、都営地下鉄は復旧しているということだ!

「都営地下鉄わんだほー!」

 と叫びたいほどだった。これは助かる。実にありがたい。

 既に筋肉痛がこびりついている足に活を入れつつ、階段を降りる。浅草線は浅草橋まで動いていると案内されている。浅草橋まで進めれば、だいぶ距離を稼げる。

 運行間隔が長いようで、しばし待つ。





【電車・タクシー編】



■23時50分頃

 泉岳寺から浅草線電車に乗車。京浜急行との相互直通運転は中止したままでも、西馬込方面の電車は生きていた。車内は吊革が埋まる程度の混み具合。座れないのは辛いのだが、それでも歩き続けるよりは楽である。

 泉岳寺を出発して、車内放送が入る。

「次は三田。三田線電車西高島平行に接続します」

 思わず「よしっ!」と大声が出てしまう。三田線に乗れば白山まで行けるから、浅草橋よりもさらに楽ではないか。

 三田での乗換はホーム全長を歩かねばならず、かつ階段のアップダウンがあり、疲れた身には堪えた。「次の三田線は最終電車です」というアナウンスがあり、筆者含め周囲の利用者の顔色が変わる(ただし実際には終電時刻はだいぶ繰下げたらしい)。

 三田線ホームに着くと、ちょうど大手町方面からの電車が到着したところ。どっと利用者が降りてくる。この大人数はおそらく、浅草線で行けるところまで行って、あとは歩くことになるのだろう。

 ほどなく三田線電車は出発した。混雑は先ほどの浅草線電車と同じく、吊革が埋まるかどうか、という程度。芝公園・御成門・内幸町・日比谷と進み、大手町では乗降とも多数あり、混雑がやや増した。九段下・水道橋では動きが少なく、これで落ち着くだろう、と安堵した。

 その読みは甘かった。大江戸線も運行再開しており、春日のホームには利用者が溢れんばかりになっている。これはとんでもない圧力がくる、と覚悟せざるをえなかった。

 春日で扉が開くと、想像したとおりの圧力がきた。これはきつい。身体がポールに押しつけられ、痛いのなんの。白山で降車するため、一区間の我慢ですんだのは幸いだった。





■24時30分頃

 白山で三田線電車を降車した。ここまでくれば、先は見えたも同然である。疲れ切ってはいるものの、電車に身を委ねている間にある程度は回復しており、階段を前向きな気持で昇ることができた。

 地上の道路は、第一京浜よりひどい有様だった。白山通(中山道:三田線の上)も本郷通(日光御成街道:南北線の上)も、ぴたりと固まったまま動かない。あふれんばかりの自動車の行先は埼玉県内が主と見受ける。

 こちらは都内ローカルの動きだから、たいして混んではいないだろうと、急に楽観的な気分になってくる。実際のところ、草63のルート沿いに歩いてみても、反対方向は長蛇の大渋滞であるのに対し、進行方向はすいすい流れている。

 疲れてもいるし、時間も時間だし、流しのタクシーがいればつかまえようと身構える。ここからならば、30分・3000円以内程度で到着できるだろう。

 歩くことしばし、24時50分頃に、タクシーは簡単につかまった。これでようやく投了、全行程が事実上終わった、と安堵しシートに身を預ける。……しかし、安心するのはまだ早かった。不忍通に入ってからの渋滞がひどく、道灌山下交差点を曲がるまで相当の時間を要し、西日暮里駅前交差点手前で動かなくなってしまった。

 やむなく裏道をかきわけ迂回を試みるも、明治通手前で再び渋滞に揉まれることになる。いちおう前に進んでいるとはいえ、蝸牛の如き超低速度で、歩いた方がどう考えても速い。疲れがなければ疾くにタクシーを捨てているところだ。あまりのノロノロ運転に、前車に至っては眠りに落ちた様子を示したほど。

 尾久橋通だから混んでいるのかと判断し、小台橋→江北橋への迂回を試みても、渋滞はどこも同じであった。小台橋付近でメーターが5000円近くに達したため、ここでタクシーを諦めた。25時45分頃であった。





■26時前後

 再び歩き出し、隅田川沿いに尾久橋通に戻ってみる。河口が近い川沿いに歩くのは恐怖感が伴う(理由は【サマリー】にて詳述する)。

 なんというほどのことはない、渋滞の先頭は足立小台駅前交差点(扇大橋南詰)なのであった。尾久橋通でよくある現象で、南北方向の交通量に比べて信号の青現示時間が短く、渋滞が生じてしまうのである。交通量の絶対値がさほどでもないのに渋滞が生じるから、筆者はよく腹立たしさを覚えていたりする。

 ともあれ、渋滞は埼玉県内まで延々と続くわけではないことがわかった。ならば、ここは楽すべき場面である。扇大橋を渡り切り、扇大橋駅前交差点でもう一度タクシーに乗り、自宅付近まで一気に近づく。タクシーを降り、ようやく自宅に辿り着いたのは、26時30分頃になっていた。

 寝る前に風呂に入ったところ、顔は汗の塩と埃にまみれ、ごわごわになっていた。





【サマリー】



■素朴な感想

 職場(最寄駅:桜木町)から自宅(最寄駅:江北)まで42kmあまり。フルマラソンにも匹敵する道のりだ。世界的なランナーであれば 2時間そこそこで走り切ってしまうだろうが、トップアスリートならぬ凡百の身としては、地道に歩くしかない。総所要時間は実に 8時間。電車・タクシーをまじえてこの時間だから、鈍足もいいところと自嘲しなければなるまい。

 それ以上に、ひどく疲れた。翌日は夕刻までまともに動けなかったほどだ。たいへんな目に遭ったことは、否定しがたい事実ではある。しかしながら、疲労をはるか上回る重みをもって、得難い経験ができた、有意義だった、興味深い一夜だった、という思いも同時に芽生えたのであった。

 たとえ囂々と批判されようとも、敢えて記さなければなるまい。現に存在する危険から目を背けるのは、愚か者のしわざと筆者は信念する。

 首都圏をじかに痛撃する大地震の発生は、将来いずれ不可避である。きたるべき「その日」に備えて、遠距離徒歩帰宅を実地演習する機会を得たことは、社会的にも個人的にも意義深いものがあった、と考えるべきであろう。

 実際のところ、やってみなければわからないことが多々あった。それらを記憶と記録に刻む営みによって、われわれは少しでも賢くなれるのではあるまいか。





■結果論

 なるべく早く自宅に到着する、という観点からは、職場泊を回避して正解だった。JR東日本の運行再開は翌朝 9時以降にずれこみ、しかも運行再開当初は激しく混雑した、と報じられている。おそらく、自宅到着は正午を回ったはずで、10時間程度の差が生じたのではないかと思われる。

 「帰心矢の如し」ともいう。早く自宅に帰って安心したいのは人情として当然である。ひとり筆者のみならず、たとえ遠距離であろうとも、帰宅行動を抑制することは難しいといえる。

 上記の観点において、遠距離徒歩帰宅は一つの有力な選択肢になりうるだろう。しかし、このたびの大地震では幸運な結果に恵まれたにすぎない面があり、原則としてはなるべく避けたほうが良いと指摘せざるをえない。

 なぜか。端的にいえば、危険だからである。このたびの大地震、首都圏への直接の打撃はまだ微弱なものだった。それゆえ、ほんらい存在したはずの危険が過小評価されている懸念がある。もしそれら危険が顕在化していたと仮定すれば、第一京浜の沿道だけでも、万人単位の死傷者が発生した可能性がある。かような惨禍が生じなかったのは、繰り返しながら単なる幸運な結果にすぎない。





■遠距離徒歩帰宅にひそむ危険

 筆者が考える、遠距離徒歩帰宅に伴う危険は、主に以下の三点である。

   1)津波(高潮)被害の危険
   2)沿道の建物倒壊・火災に伴う危険
   3)疲労蓄積による停頓・及び道路閉塞による危険


1)津波(高潮)被害の危険

 これについては本文中に既述した。そして、筆者が最も危険と考えた点でもある。当日おそらく(そして今日においてなお)、この点を意識した方は皆無に近いのではなかろうか。繰り返しのくどさをおそれず、改めて記す。

 大岡川の遊歩道が水没していたことから判断して、東京湾(横浜港)は満潮時から 1m近く潮位が上がっていたと思われる。たとえ内湾の東京湾であろうとも、津波(高潮)が生じないという保証はない。実際のところ、潮位は上がった。潮位がさらに上がり、50cmほどの波が道路を洗っただけでも、歩行者は薙ぎ倒されていたのではないか。

 混雑する路上で一人が倒れるだけで、連鎖反応的に転倒者が続出する。起き上がろうともがく人に、蹴躓いて倒れる人が折り重なり、収拾がつかない大混乱が惹起される。なにかに絡まり、動けなくなった人は、溺死しかねない。……想像するだけでも怖ろしくなるほどの、阿鼻叫喚の大惨事が顕現していた懸念がある。



2)沿道の建物倒壊・火災に伴う危険

 九段会館では建物が損傷し、死亡者が出た。浦安市の広範囲では液状化から地盤沈下が生じ、多くの建物が擱座した。第一京浜沿道で建物倒壊や火災がなかったのは、まったくの偶然・僥倖・天佑神助にすぎない。看板や窓ガラスの落下破損だけでも、影響はあったはずだ。

 沿道の一部で停電が生じただけで、歩行に危険と恐怖を感じたほどなのだ。さらに物理的な障害が発生していたならば、無事に切り抜けられるのは困難だったといえる。



3)疲労蓄積による行動停頓・及び通路閉塞による危険

 遠距離徒歩帰宅には、以下に挙げるような疲労促進要因がある。準備や状況次第で回避可能なものもあるが、社会的にはいずれも回避困難といわざるをえない。

   a)日常を大幅に逸脱する長距離歩行
   b)革靴・背広による拘束(女性の靴・服装ではさらに厳しい)
   c)手荷物が重石になる(手提鞄では苦しい)
   d)路面には段差や凹凸が多い(点字ブロックが恨めしく思えたほど)
   e)混雑に揉まれる(特に逆方向に進むのはしんどい)
   f)食糧・飲料調達が難しい(品物は売り切れ/外食店は満席もしくは閉店)
   g)悪天候による体力低下(寒風雨天下では凍死・真夏には熱中症の危険も)
   h)しかも休憩できる場所が少ない(ベンチはないも同然・トイレは少なくどこも大混雑)
    :
    :

 疲労が蓄積していきなり死に至る、という事態までは考えにくいとしても、行動が停頓することはおおいにありうる。もっとも、個々人が動けなくなるだけならば、問題事象に発展するとは思われまい。問題は、日本の歩道の狭さにある。一人が疲れ果てて座りこみ、通路を塞いでしまう状況を想像してみるがよい。たちどころに大渋滞が生じるのは自明である。

 渋滞は即ち混雑であって、混雑はさらなる疲労を招く。悪循環が加速され、事態は急速かつ劇的に悪化していく。死傷者が生じる危険は、混雑に比例して増すばかりであろう。





■一難避けてもまた一難

 以上までが、筆者の考える遠距離徒歩帰宅の危険である。このたびの大地震では、偶然の幸運・僥倖・天佑神助が幾重にも重なり、遠距離徒歩帰宅者から死傷者は出なかった(あるいは報道されていないだけかもしれない)が、それは単なる結果論にすぎないわけで、危険が内在しているという事実は覆いようがないのである。

 このたびの大地震では、誰もがその事実に気づかないまま行動した。社会的にも個人的にも未経験の領域ゆえ、やむをえない面があるとしても、気づいた者がここにいる以上、意見を発せずにはいられない。

 筆者自身、もし「次の機会」あるならば、もはや迷わず職場泊を選ぶ。大地震の夜には緊張・興奮・高揚が押し寄せており、実に得難い経験ができたと感じはしても、同じことを繰り返そうとまでは思わない。

 ただし、「次の機会」で職場泊を選択しても、今度は「兵糧攻め」に遭う可能性が高い点をあわせて指摘しなければなるまい。一時的に供給が絶たれ、需要が殺到した時なにが起こるか、このたびの大地震では数え切れないほどの典型例が顕現しているではないか。しかもオフィス街では、食糧備蓄などないに等しい。敢えて「飢餓」なる言葉を使いたくなるような現象が、生じるのではないか。

 それほどの大地震に見舞われれば、鉄道がすぐに復旧するとは考えにくい。設備が損傷を受ければ、簡単に復旧できなくなる。必然的に、多数の通勤者が足止めを受けることになる。「兵糧攻め」が数日に及ぶ事態を想像すると、慄然とせざるをえない。





■誰もがハンディキャップドになりうる

 筆者が歩いた道筋では、六郷橋東詰の歩行者階段(下りる方向)において渋滞が生じていた。歩行者の数や道幅などの状況からして、渋滞の必然性を直感できず、どういうことかと訝しく思ったものだが、理由はすぐにわかった。足腰の弱い高齢者が、階段を慎重に下っていたのであった。

 「流れを阻害しているなあ」とまず思った狭量を、告白しなければなるまい。そして今となっては、ひとり筆者のみならず誰もが、この高齢者の如く渋滞の先頭になりうる可能性があることにも気づいてしまった。時と場合によって、だれもがハンディキャップドに変化しうるのだ。

 理由は既に3)に記してある。疲労が蓄積して動けなくなった者は、そのままハンディキャップドではないか。筆者が歩いた道筋においても、疲労が重なり動きが鈍っている方が散見された。その方々の大部分が渋滞の先頭にならなかったのは、残る道幅が歩行者の数に対応できる範囲内だった、というだけのことにすぎない。ハンディキャップドがさらに増え、歩行者の絶対数も増えていけば、3)に記したとおり事態は急速かつ劇的に悪化したと考えなければなるまい。

 負傷者が出ればなおのこと。路上に横臥させなければならない状態の方がいれば、渋滞どころではなく、道路は簡単に閉塞する。このたびの大地震でかような事態がなかったのは、ほとんど奇跡に近い。

 遠距離徒歩帰宅において、ハンディキャップド対策はきわめて重要であろう。もとからのハンディキャップドだけでなく、誰もがハンディキャップドになりうる、という要素があるだけに、かなり難しい課題である。





■危険行為そのもの

 今まで記してきたのは、遠距離徒歩帰宅に伴う危険であるが、危険行為そのものを実行していた輩も少なくない。以下に列挙し、後の戒めとしたい。

   イ)歩道を自転車で走行する
   ロ)歩きタバコ
   ハ)アルコール飲み歩き
   ニ)犬の散歩
   ホ)こども帯同


イ)歩道を自転車で走行する
 混雑する歩道上を、歩行者が恐怖感を覚えるほどの速度で突っ走る顰蹙者も少なからず実在した。筆者自身が自転車乗りだっただけに、強い怒りを覚える危険行為である。気が逸るのはやむをえないとしても、未必の害意があるとしか思えない。高速で走るならば、車道を走るのは常識。車道走行には自転車側に危険が伴うのだが、歩道走行では歩行者側にその危険を転嫁していることを自覚していない。きわめて無神経、かつ自分本位の勝手な行い、と断じざるをえない。

ロ)歩きタバコ
 ただでさえ排ガスが充満しているというのに、呼吸が苦しくなる。路傍での喫煙も同様。

ハ)アルコール飲み歩き
 食べ歩きはカロリー補給の観点から許容せざるをえないが、物見遊山や花見ではないのだから、活動レベルを下げるアルコール摂取はそもそも慎むべきであろう。

ニ)犬の散歩
 なにもこんな時に第一京浜でやらずとも……、と素朴に感じた。周囲の状況がまったく見えていない証拠。こういう人たちは、修羅場で足を引っ張る。

ホ)こども帯同
 「帰らなければ」という思いが切実なのはよく理解できる。しかしながら、歩行速度が遅く、また家族単位でまとまっていることから、流れを阻害していることもまた事実なのである。保護を必要とする層である一方で、そのために全体の流れが阻害されるという、二律背反な課題でもある。前述したハンディキャップド論に通じる面がある。





■結語

 長かった 8時間を通じて、日本の道路は歩きやすい環境ではないと、切実に実感できた。そもそも、日本は天災の危険に常時さらされている割には、天災発生を意識した都市構造をつくっていない、とも感じられた。

 それでも、遠距離徒歩帰宅行動は多数の方が実行しておられた。厳密に数えたわけではないが、すれ違った人数だけでも万人単位にのぼるだろう。横浜駅付近→川崎駅付近や、東京都心→蒲田くらいの距離を歩く方々は多かった。

 遠距離徒歩帰宅に危険が伴うことは厳然たる事実としてある。経験を通した筆者の実感・直感としていえば、総所要時間2〜3時間の範囲が一般的な限界ではなかろうか。





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※本稿はリンク先「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。

※事実関係は主に記憶により再現し、後に補強・補正・修正したため、予稿段階から差違が生じている。

※「流れに棹さして」が字義通りに使われていない、という旨の御指摘をいただき、修正いたしました。





遠距離徒歩帰宅行動関連文献

  「日経ビジネス」より
(01) 記者が歩いて帰った20km 脆弱な首都「TOKYO」を実感 (白壁達久)

  「週刊朝日」より
(02) 首都東京の強みと弱さ いざという時はこう生き延びろ!





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