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パーシヴァル・ローエル「NOTO」抜粋・第Ⅸ章 荒山峠を越える |
私の心を決めた能登の地に、第1歩を印する日の朝が3階の私の寝室に飛び込み、私は目を覚ます。障子を開いて見ると、これ以上も望みようもない快晴であった。
目に入ってくる全ての物からは、花嫁のヴェールにも似た、微かな靄(もや)が立ち昇り、澄み切った青空が覗いていた。それは憧れの朝であり、まだ明けきらぬ羞らいを含んだ乙女のような朝だが、まがいなく快適な暖かい一日を展開してゆくことを、厚味のある大気が約束していた。
私は急いで表へ飛び出し、朝の大気の中に身を置いた。宿の玄関先には、人力車が3台我々を待機しており、全従業員の「さよなら」の別れの挨拶に送られ、多くの町の人たちの感歎の声を後にし、この町(氷見←畝源三郎の註)の本通りを意気揚々と出発する。
温気を含んだ空気が頬にキスをして走り去り、日光は細長くあわいスカーフのような光芒を、東の方に横たわる丘陵に投げかけられていた。車を引く男達はそれに元気づけられてか、威勢のいい掛け声で、お互いに気合を入れつつ、足音も軽く駆け出してゆく。田畑で仕事をしていた農夫達も、白い歯を見せて、にこやかに我々を見送ってくれた。
人間は苦労をして得たものほど、その有難味が身にしみてわかるものだ。道路もこの理屈に則って、我々に苦難を味わらす意図なのか、だんだん先細りになってゆき、氷見の町が視界から去ってしまった頃には、車輪の跡のあちこちに、穴ぼこが数珠つなぎにできるようになってしまった。こんな道とは呼べない荒野原を、乳母車まがいの乗物で走ってゆくのだから、身も心もくたくたになってしまうのは当然だ。
そんな苦労にさいなまれながら、5マイルほど前進すると、車はついに走る機能を完全に奪われてしまい、我々は荒山峠の麓の谷間にある、1軒の茶店の前で下ろされてしまった。右手には、なだらかな山が立ちはだかって海を遮断し、左手には能登と越中の境界をなす山脈が、高く聳立っている。
ここでは、近くの田畑に働いている農夫に頼み込んで、荷物の運搬をやってもらうことにする。我々が情況のせいで、徒歩旅行にならざるを得なかったと同じように、彼らも臨時の荷担ぎ人夫になってくれたのであえる。
このあたりでは、荷物の運搬は人間の肩に頼る他はないので、彼らは自分たちの荷物を運ぶのと同じやり方で、荷物を背中に括りつけた木の枠に載せて運んだ。このやり方は日本の何処の地方でも見られるものだが、1つだけ目を引いたのは農夫達の、驚嘆に値する几帳面さである。
彼らは、我々が先を急いでいることなど目もくれず、1人分ずつの荷物を長さ6フィートもある天秤棒にかけて目方を計り、算盤をはじいて運賃を計算した。私は要求された金額を手渡したのだが、それは男と男の実に公正な取引きであり、こちらが損したのは、それに費やした費用であった。こうして我々は出発した。
谷間の茶店から先に続く道は、およそ原始的なものであったが、急坂をなしており、後方の谷は見る間に小さくなっていった。天候は出がけに予想された通り温かくなっていき、道端にうつらうつらと、心地良さそうにヘビが1匹日向ぼっこをしており、それはそっくりそのまま、人夫たちの気持ちのように思われた。
もし速く歩くことが人間の命を縮めるものならば、この連中は随分と長生きする人種に相違あるまい。彼らはまるで、懸命になって急いで歩くのを拒否しているかのようである。
もし私が彼らを生涯雇ったのならば、彼らが体力の消耗にそんなにも留意していることは、寧ろ満足に思うべきかもしれないが、残念ながら、私は臨時に雇ったのである。一歩一歩機械のような節度で、彼らが歩いているのを眺めていると、こちらの方が疲労を覚えてしまう。
普通の歩行者ならば、彼らと歩調を合わせて歩くのは不可能に近く、そのまろやかな加減は、ショッピングをやっている女でなければ決して真似のできるものではないだろう。眺めているとカタツムリが動いているようでもあり、目を離すと歩行を中止したのではないかと疑ってしまうほど遅くなってしまい、時には後戻りをしているのではないかとさえ思われた。
能登へ通じている道は2本しかなく、我々が選んだ道は人が滅多に通らない方であった。つまり裏街道で山脈の北側を走る道であり、表街道を山脈の向こう側に沿って抜けているのである。
能登半島を、本土から遮断している人跡未踏の山脈は、半島の付け根を走って海まで達しているが、同時にそれは、左手に能登と加賀連結する低地帯を残している。加賀から越中に至るためには、この山脈の南の部分を越えねばならぬ。
我々が横断を試みた地点は、荒山峠と呼ぶ海抜1500フィートほどの高所だが、その十倍もある高さの峠を思わせるほどの形状をなしている。
頂上への最後の1ファーロング(1マイルの1/8)は道がジグザグをなして非常に険しく、その中ほどまで登り詰めた所で、後を振り返って見た。渓谷は広大な越中平野に至るまで、なだらかに尾を引き、くねくねした山道があちらこちらに顔を出しているが、ここからは荷物を運んでいる人夫の姿は、その影すらも目に入ってこない。
左手に低く連なる幾つかの山稜の向う側には、海が横たわり、広大な三日月形の海岸が、その果てを見極めつきかねるほど遠くまで延びている。背後には越中平野が広まっているのだが、その果ての平野を取り巻く山々には春霞に包まれて視界に入ってこなかったのである。
私の目は機械的にどんよりと潤んだ青空を見渡したが、思いがけなくも、1つの真っ白い雲に捕らえられた。しかし、雲にしては少し変だなと目を擦りながらよく見直すと、それは紛れもない雪であり、雪に被われて雄然とそそり立つ孤峰の頂上であった。
見つめていると、その雪の塔は言語に絶する威容さで私に迫り、かすかなサフラン色を帯びていた。目を更に高く上げると、こちらにも1つ、あちらにも1つと、同じような雪の峰が平野の上空に、聳えているのが見えてきた。しかし、どれもこれも巨大なカゲロウのように1本の線、いわば雪の線から下の部分は消えてしまって見えず、雪と地面の中間には、青空のようなものが横たわっていた。
これは5月の空に漂う霞が、遠い山を隠しているのであり、頂上の雪だけがくっきりと浮かびあがって見えるのである。これらの山々は立山連峰の雄姿で、人間の登攀を許さぬ荘厳さを示して、私に対峙していたのだ。
峠の頂上には、2軒の茶店が互いに競い合うようにして客を待っていた。この峠も、日本の峠はどこでもそうであるように、刀の刃を立てたような地形に位置していた。歩みはそれに委せなかったかもしれぬが、私は息をはずませながら頂点に到達した。
そして左右の茶店の「お客さん、どうぞ一服なさって」の呼び声を耳に入れずに通り過ぎ、向う側の断崖の際まで行き、西の方角に展開された、数千フィートの広がりを持つ土地に眺めいった。能登の国は、眼前に立つ新緑の若葉をつけた1本の枝々の隙間を通し、私のすぐ足の下にその全容を現したのだ。
とは言うものの正直なところ、宿願を果たした歓喜の一瞬が過ぎると、能登との対面はある種の幻滅にとって代わった。色々と想像をたくましくして期待したその場所には、私の期待を裏切って眼前には、低い山脈を背にした段々になった水田があるだけで、緑色と茶色のタイルの寄木細工を見るような気がした。未練めいた言い方だが、これは当然のことであり、今眺められるのは能登のほんの入り口に過ぎず、半島の中心の町である七尾や、それの面する内海など、行手の山々に隠されてまだ見えないのである。
つまり、私なりの理屈をつけるならば、これは眺望にはつきものの、一種の風刺とでも言えようか。景色の眺望というものは、実は痛ましいほど平凡なものであり、うまくいっても地図を眺めるのと大差はない。ただ高い所に立っているので、眼下のものはすべて、、同一平面上にあるかのように見えるだけの話なのだ。田畑、森林地帯、市街、湖水などはそれぞれの色彩を見せて、印刷されたように並んで目に映る。
そんなことならいっそ、正確な地図を床の上に広げておき、自分は椅子の上にでも立って眺めれば事が足りる訳で、こんな風に考えながら、実際の風景を戯画化して眺めるのも新鮮な味わいがするだろう。
このあたりの住民達は、彼らの地図をより整ったものにする目的で、一切の苦難も厭わずに努力したものらしく、細部にわたって田畑の幾何学的な線が、滑稽なほどはっきりと描かれている。まるで子供が丹念に多くの線を、ただ機械的に入り交じらせてできあがった地図のように。
2軒ある茶店は、峠を登ってきて疲れた男や女の旅人でとても繁盛している。茶をすすりながら話に興ずる客があるかと思うと、弁当を食べているものもあったが、草鞋(わらじ)を脱ぐのを面倒がって我々のように敷居に腰をかけて休んでいるだけの者がほとんどだった。
茶店のお内儀さんは、なかなか女らしさに溢れた人で、亭主の方は遠慮して、店の奥の方で何かをしているらしかった。お内儀さんは1人々々の客に対して親切に愛嬌よく応対し「いらっしゃいませ」、「毎度ありがとうございます」と、店に入ってくる客、出て行く客の区別なく、挨拶の言葉を絶やさないでいた。峠を登ってくる重労働と、山のすがすがしい空気のせいで、誰もが腹ぺこになっているのだ。西洋人の価値判断からすると、彼女の請求する代価は話にならないほど安いものだが、それでもきっといい商売になっているのだろう。
人夫を伴って旅をする者にとり、昼食の一休みは神の恵みに値するほど有難い。人夫達はいやでも足を速めて追いつかなければならないし、彼らが姿を現したら雇傭主である私は、小言を言うこともできるのだ。
また、たとえ小言が功を奏さなくても、憂さ晴らしぐらいにはなるだろう。ところが彼らはなかなか姿を現さず、小言を言う機会を逸したかと気にもしたが、腹ごしらえが終わると、そんな事は取るに足らぬ事だと思いはじめた。
そこへ人夫達は忽然と姿を現した。幸いにも、彼らはほんの少しの休息を要求しただけであったし、能登へ下る山道は越中からの山道より急だったので、30分ほど歩くと人力車の通れる平坦地へ着いた(鹿島町芹川と思われる←私・畝の註)。
樹木が繁み合っている、イギリスの田舎道を思わせるくねくねした小道を抜けると、我々は1軒の茶店の前に出た。ここで馬車を注文していると、1かたまりの子供達が我々の見物にやってき、これは、こちらにとっては最初の能登の住民に対面する機会となった。
彼らは一般の日本人達よりも、大きく見開いた目をしている事に気がついたが、いや、これは彼らが驚きのあまりの表情なのだとも思った。子供たちが目を大きく見開いて、栄二郎(ローエルが連れているボーイ兼コックの日本人)と私を眺めいっているのは、無言の歓迎と思ってよいのだろう。
こちらを、なおも見続ける子供たちをその場に残して、一路、七尾を目指して馬車を走らせつづけ、ひときわ高くなって草の生い繁った一角に差し掛かった時、七尾の町がちらちら見えてきた。
この港町は内浦の手前から延びた陸地に囲まれた湾に面しており、沖合いは申し訳のように船があちこちに碇泊していた。七尾は思ったより大きな所で、予想していたよりも活気を呈していると思われた。町の周辺のそこここに立ちはだかり、町を外界から隔てているかに見える小高い山々は、町の繁栄には何らの影響を与えていないように窺がわれた。
温泉で有名な和倉が、七尾の僅か6マイル先と聞いたので、まだ日も高いし先にそちらへゆき、七尾見物はその後にしようと心に決めた。後でというのが実際には翌日の夜になってしまったのだが、そう期待したこともなかった。
和倉温泉 は木炭と並んで、能登では天下に知られており、その評判は我々が信州ですでに耳にしたところである。しかし、その地に近づくにつれて名声が拡大されていった。
この温泉について話をしてくれるどの人も、評判になっていることを話す場合の常として、その事を話す事自体が一種の誇りであり、信仰心のような雰囲気を漂わすのであった。こちらは、立ち寄らざるを得ないという気持ちに追い込まれてしまった。
七尾から和倉に抜ける途中には、見るべきものは2つしかなく、1つは観光客に公然と勧められるもので、もう一つはそうした性質でないものである。
前者は湾を背にして立っている、奇妙な形をした岩石で、その周辺が砂地なのは、これは近くの川から転げ出してきた玉石の迷い子なのだろう。頂上には祠が鎮座し、下の方にも少し大き目のもう一つの祠が岩を背にして立ち、岩の上におごそかに刻みこまれた凹みは、祠への参道と前庭を兼ねている(七尾市小島町の妙観院のこと?←私・畝の註)。
人にすすめられないもう1つのものは、すぐ近くで目撃した田圃であり、その周辺にはカエルが1フィートほどの棒切れに、田楽刺しにして立ててあり、同族の進入者への見せしめになっていた。
粘土質の切り通しを幾つか通りすぎてゆくと、納屋のような粗末な建物の一群の前に我々は出たが、これが和倉温泉らしい。湯治の季節にはまだ早いので、宿に泊まっている客はちらほらだった。
しかし、温泉の効能書に書き立ててある病名は数え切れぬほどで、泊まろうと目星をつけた宿屋の敷居に腰掛け、ここの温泉にきく病名の数々を説明されて、肝を冷やしてしまった。彼は温泉の効能について質的にも量的にも流暢に述べ立てたが、実際の効能は彼が誉めれば誉めるほど下落してゆくことに気がついていないのである。
彼が得意になって並べ立てる多くの病気の1つぐらい、私が持っているとでも思っているのであろうか?私はもう居たたまれなくなって、その宿を飛び出してしまおうかとさえ思った。
日本の宿屋では色々な設備が、極端に共用となっているので、現在は客は少ないにしても、病菌はいたる所にうようよ潜んでいるに相違ないと思う。しかし当初の休息の方が、先の心配より大切だと思ったので、私はこの宿に落ち着くことに決めた。
当てがわれた部屋は、すぐ庭に面しており1階にあった。部屋に入って間もなく、私は誰かに後ろから眺められている気配を感じたので、振り向くと、相手の男は急におどおどした態度を見せ、その付近を散歩しているような風を装った。
なんの事はないこの男は、物見高い大部隊の先鋒だったのである。隣室の泊り客である我々に少なからず興味を抱き、こちらに無礼にならない限りの手段を尽くして、何とか私を一目見ようと努力した結果、ついに思いを果たしたのであろう。
遠く離れた部屋の客達はと見れば、用事もないのに縁側をぶらぶら歩いて、こちらが相手に目を向けていないと見ると、素早く私に視線を浴びせかけた。
女中達は呼びもしないのに、私の部屋に押しかけてき、座り込んで長話をするので、客達に羨ましがられた。
そんな具合で私はすっかり、有名な存在になってしまったが、西洋人なら誰でも良かった訳で、そんな有名さなら今後欲しいとは思わない。
あとで、聞いたのだが、栄次郎は台所で、私に劣らないくらい多くの人たちの人気を集めていたそうで、そうでなかったならばもっと大勢の見物人が、私の方に流れてきたことだろう。
2人は色々とこの土地の話を聞いたのだが、その中で心嬉しからぬことが1つあった。それは私がこの和倉までやってきた、最初の外国人ではないということである。
ここは、つい最近まで外国人にとって未踏の処女地であったのだが、昨年の夏、2人のヨーロッパ人が意外にもやってきたというのだ。この2人は加賀の金沢で化学を教えていた連中で、この温泉の名声に誘われて、泉質の試験をしにきたらしい。(これはおそらく間違いと思われる。七尾には、幕末英語教師としてパーシヴァル・オーズボンが1年間ほど滞在したから、たぶん和倉にもきたはずである←私・畝の註)
事前に彼らが私に相談してくれたら、私はその通りの予言をしてやってもよかったのだが、それもせずに和倉に乗り込み、この土地のほんの少しの珍しさを味わっていたに過ぎないのだ。ともあれ、私は心から口惜しくてならなかった。
この事実は地球の表面が、近年になっていかに踏みあらされているかを物語っている。世界のどんな片隅でも、見るだけの価値があってすでに見られているか、まだ見られていないが、見る価値がないかの、2つのうちのどちらかに属する。この和倉温泉はすでに見られているが、見る価値を欠くという理由で、この2つの分類に跨っているように思われる。
1人で食事をしながら、そんな事を頭の中で考えていると、栄次郎がやってきて面会人があるという。通すように言うと、この土地の警察署長が案内されて入ってきた。
旅券を調べるのが表面上の用件なのだが、そんな事なら普通の警察官で充分できることだ。本当の目的は、何の事はない評判になっている外人を、自分も見たくなったのに他ならないのだ。
彼自身の旅券を見せる代りに、かつて東京に住んでいたという、、彼の自伝の1くさりを自慢そうに語りはじめた。彼の考えによると、その事実は彼と私が兄弟分であり、周囲の人達より高級なエリート意識を強調するものであった。
彼が懐かしげにその後の東京の様子を尋ねると、私はそれに答え、まるで2人の心は期せずして東京の郷愁に満たされてしまったみたいで、これは一種のコメディだと思った。なぜかというに、相手が芝居していることを、お互い認め合った会話であったからだ。
ともあれ、2人はきわめて愉しげに話を交わしつづけ、東京っ子である2人の間では、旅券のチェックなど固苦しいことなのだが、法律の定める所に忠実に、彼は私の旅券を一瞥した。
顔がタマゴ型だとか、鼻の格好は普通だとか、皮膚の色は中位とかの詳細な点については、私の旅券には記載されていない。つまり彼はこの旅券1枚で、私を見定めることはできなく、私の述べる事柄をそのまま認めるより他はないのである。
警察署長はそんな事には無頓着に、和服の袂から筆記具を取り出し、速やかに記入を終えると改めて丁寧に頭を下げ、今夜はゆっくり睡眠をとるようにと言って、私の部屋から出ていった。
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