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 和倉温泉について

(1999年9月14日更新)

和倉温泉観光協会は今年設立50周年記念に当たります。
(参考図書)「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」、「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾の歴史と文化」(七尾市)

このページの好きな項目へジャンプ! 地名の由来、温泉発見のエピソード 和倉の「湯島」とは 和倉の昔の様子
湯番頭小五郎 温泉の泉質、温度、効能など 現代の和倉温泉 和倉町の変遷

地名の由来、温泉の発見のエピソード等
温泉の発見については、今から、1,200年も昔、一羽の白鷺が傷ついた足を湯で癒していたのを漁師が見つけて温泉を発見した。また、平安初期大同年間(806〜809)に薬師嶽の西湯谷(にしのゆのたに)の湯が噴き出ていて、近くの人々が利用していた。これが、永承3年(1048)に地震の為、湯脈が変わり海の中へ湧出するようになった。あるいは、室町時代に能登国守護の畠山氏が温泉を利用していた。以上が古い記録だが、それらは伝承に過ぎず確証はない。藩政期に入って慶長16年(1611)2代藩主利長が腫物で困っていた時、越中の商人が和倉湯の「ききめ」を上申したので、その存在が知られるようになった、などと言われている。
文献上「わくら」の名が見えるのは、鎌倉時代の初め、承久3年(1221)の能登国大田文(おおたぶみ)(各国の政治を司る国衙が、
国衙領や荘園の面積や地頭名を調べて幕府に注進した史料)の中に「南湯浦保」とあるのが、今の和倉に当たると考えられている。ちなみに、「東湯浦村」とは、今の鵜浦のことであろう。
戦国末期の天文13年に、彭叔守仙(ほうしゅくせん)が「独楽亭記」を撰するが、この中で「北ノカタ海ノ滸(ほとり)ヲ望メバ、或ハ熊来湧浦(くまきわく)ト号シ、或ハ松百石崎(まつどういしさき)ト号シ」と言っているが、この「湧浦」というのが、今の和倉である。江戸時代初期の正保3年(1646)の高辻帳に「和倉村」とあり、寛文10年(1670)村御印に「湧浦村」とある。延宝2年(1670)に藩から正保の高辻帳のように「和倉村」とせよと命じられ、元禄14年(1701)に湧浦村の村名復活を望んだが許されなかった。このように「わくら」の漢字表記は、南湯浦−湧浦−和倉−和倉−和倉と変遷した。
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和倉の「湯島」とは
和倉の温泉は、もと、海中に湧き出したもので、入湯に不便なため、寛永18年(1641)、所口町(七尾町の旧名)奉行石黒覚左衛門のときに湯島を築き、湯役(入湯税)を徴収するようになった。湯島は、湯壷を一辺6尺(約1.8m)の方形で石囲いし、その周囲約10間(18m)に土を盛って島とした。島の上には、藁葺きの家を建て、小屋には浴桶(あびおけ)を並べてあった。当時の浴客は自分で桶に湯を汲みいれ、海水でぬるめて入浴した。
安永・寛政期(18世紀)頃は、このように粗末な施設であったが、文化・文政の頃ともなると、屋根のある湯ざや(浴室)も建てられ女湯も造られた。もと、渡し舟で、湯島へ渡っていたが、その頃には、陸地から橋が架けられ、宿々からも粗末ながら懸橋も作られるようになった。

和倉の昔の様子
湧浦々々と家なら七つ島に湯が出にゃ誰いこや
和倉の昔の侘びしい様子を歌った唄である。いつ頃のものか分からないが、承応2年(1653)の記録に百姓数7軒とあり、長左衛門、源作、助太郎、柴端、興四兵衛、義右衛門、興平の草分けと言われている。
和倉温泉は初めから栄えていた訳ではなく、安永・寛政の頃(18世紀末)の様子は、湯に入るときは、湯桶を舟に積んで湯島へ渡り、その桶で入湯する。その場合でも、日覆などもなく見苦しい。村では、寝巻や蒲団を貸してくれるが、粗末な品であり、ノミや蚊に悩まされ、食事も不自由であった。したがって、武士や裕福な町民は七尾に宿をとり、和倉から湯を運んで湯治した。
時代がすすみ、文化14年(1817)の頃になると、浴室も建てられ、女湯も分けられた。また、湯島には橋も架けられ便利になった。幕末には、嘉永6年(1853)藩主斉泰が能登巡視の折りに和倉で小休止。文久3年(1863)には京都持明院の寺侍主従4人が肝煎五右衛門方に宿り湯治した、等々各地の名士も訪れる程評判の良い温泉に発展した。

湯番徒小五郎
面(つら)のくいやつあ 小島の湯番徒 海へ蹴こみゃ 二十日のやみに あげるふりして また蹴こめ
和倉惣湯跡の記念碑に刻まれた俗謡である。和倉の人々にとって、海に蹴込んでやりたいほど憎らしい湯番徒とは何であったのか。
江戸期の湯役銀の受領書から見ると、和倉の管理者は、寛永11年(1634)に金沢の卯辰町孫十郎の名があり、変遷を経て同18年には、和倉の肝煎が管理権を得て、和倉村が湯役銀を上納していた。どんな事情があったか定かではないが、温泉の管理権は金沢の商人観音寺町小五郎の手に移った。小五郎は毎年一定の湯役銀70目を七尾町の定小物成として納入することにし、和倉村との関係を絶ちきった。
その後、承応2年(1653)頃、七尾町新町(阿良町?)に移り住み、本格的に入湯客からの湯銭徴収、汲み湯(湯を汲み上げて陸地へ運ぶ)料金などを厳しく取り立てて、更に、盗賊改方の下役も兼ねて、治安維持に当たり、全ての面で取り締まりを強化した。この事が、和倉村民との対立関係を深めた。
維新後の明治5年(1872)、七尾県の時代に、和倉村民と小五郎との間で約束を取り交わし、小五郎は一切温泉に関与しない。和倉村は、小五郎が他の商売をする為の生活費として銭2千貫を渡して、その支配から離れた。

温泉の泉質、温度、効能など
和倉温泉の効能は古くから広く世に知られ、享保2年(1802)に「東海道中膝栗毛」で有名なた十辺舎一九(1765〜1831)が著した「金草鞋(かねのわらじ)」の中で「湯の効能は疝気(せんき)、中風、手足の麻痺、腰の痛み一切の血を調(ととの)え、萬病に効しといへり。」と言っている。また、明治14年(1881)に、ドイツのフランクフルトで開催された鉱泉学博覧会で和倉温泉が3等の栄誉に輝いたこともある。泉質は、塩化土類弱食塩泉で摂氏95度。塩辛く石鹸は効かない。適応症状は、外傷、胃腸病、神経痛、婦人病及び腺病質などがあげられる。

現代の和倉温泉
七尾市が全国にその名を博するものの1つに「和倉温泉」がある。昭和57年以来年間浴客数は100万人を超え(平成3年には150万人超)、「にっぽん温泉百選1位」にも選ばれるほどの温泉地となっている。旅館協同組合や観光協会を中心に地域住民や行政が一体となり長年積み重ねてきた努力が結実したのである(上記「湯番頭小五郎」参照)。
温泉の玄関口JR(旧国鉄)の「和倉駅」が開設されたのが大正14年12月15日ということである。「温泉をPRするにはやはり駅名に〝温泉名〟を」という念願がかなって「和倉温泉駅」と改称されたのが昭和55年7月1日、大都市圏からの誘客のために平成3年4月1日から電化され、9月からは直通の電車も往復を始めた。その陰には関係各位のなみなみならぬ努力があったことは言うまでもない。
もう1つ、現在の和倉温泉で特徴的な事は、毎年8月に開催される「モントレージャズフェスティバル・イン能登」である。世界3大フェスティバルの1つに数えられるモントレージャズフェスティバルの開催は、七尾市と姉妹都市であるモントレー市(アメリカ)との市民間の交流が進み、深い友情関係が築かれてきたことの証であり、市民の協力と親善を図る地域的結びつきが原動力となっている。
今後の和倉温泉は、先人たちが築き上げてきた数々の財産を大事に継承するとともに、「花いっぱいの町づくり」や{YOSAKOIかいかい祭り」などのように、「やさしさ」や「力強さ」を形あるものとして全国にアピールずる温泉地を目指している。

和倉町の変遷
<幻の和倉村>
明治36年、町村制による合併が思うように進まないため、県議会で合併促進案が議決された。明治22年、和倉村など7ヶ村が合併してできた端村は、表1のように第8号に該当し、西湊、石崎、端の3村が合併して戸数921戸、人口5594人の村となる案であった。しかし、4ヶ年の歳月をかけた明治末期の町村合併は、湧浦村が幻になるなど行き詰まり状態になっていた。
<端村から和倉町へ>
県は、昭和7年に新たな町村合併案を提示してきた。それは、端村、田鶴浜、赤蔵村を合併して、戸数815戸の新村をつくる案(表2)であった。農村疲弊で喘いでいた農業主体の田鶴浜、赤蔵村、端村の奥原村などは合併案に賛成し、和倉村だけが反対し、昭和8年1月31日、多田館に住民約100人が集まり、合併反対決議集会を開催した。和倉村が強硬に反対したのは、今後の和倉村の急速な発展と、地理的状況からみて新村名が田鶴浜村となり、役場も田鶴浜に置かれて主導権が奪われることを危惧したからである。単なる合併反対では、時勢に合わないと判断した多田喜二郎村長は、合併のための五つの条件を提示した。
①和倉から和倉駅までの道路舗装
②新町名を和倉町とすること
③和倉波止場を築成すること
④和倉小学校建築に1000円支出すること
⑤和倉温泉振興会へ毎年町費補助200円、田鶴浜建具組合へ500円支出すること
しかし、この5つの条件が認められ、三村が昭和9年6月1日に合併した。端村は石川県鹿島郡和倉町字和倉となった。
(表2)端村など三村戸数推移(表1)明治末年和倉関係合併試案
村名明治22年昭和8年試案提出日新村名合併関係村
戸数人口戸数人口予算(円)明治36.1.13第8号西湊・端・石崎
田鶴浜村2741,3872581,22913,200明治39.6.12湧浦村西湊(小島を除く)・石崎・端(和倉・奥原)
赤蔵村2321,175212946946明治39.7.27湧浦村西湊・石崎・端
端 村2151,1433451,94922,875明治39.11.30田鶴浜村田鶴浜・赤蔵・金ヶ崎・端
7213,0758154,12443,415
※端村は、温泉の遊興税により台所が支えられていた
※「石川県町村合併誌」上巻、「田鶴浜町史」より
『石川県町村合併誌』上巻、『田鶴浜町史』より作成
<七尾市和倉町の誕生>
大変な陣痛を続けて和倉町が誕生したころ、七尾町では周辺の町村を合併して七尾市制を布く気運が高まっているた。七尾市への和倉町の合併については、和倉町成立の経緯もあり、田鶴浜、赤蔵地区の反対意志は強く県知事の説得に対しても反対意志は変わらなかった。それで、県は昭和14年5月20日、和倉町を解体し、和倉・奥原地区は七尾市へ合併し、田鶴浜と赤崎地区は田鶴浜町として再出発することに決定した。

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