このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

七尾町二度の大火

(1999年9月2日作成)

「明治期から戦前までの七尾(後編)」へ

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同タイトルのページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。


明治28年(1895)4月と、同38年11月の2度に七尾町の中心部を焼き尽くす大火災があった。
明治28年4月29日、三島町の浜納屋から出た火は、御祓川以西の13町のほとんどを類焼。この時、郡役所、警察署、裁判所、町役場、尋常中学校分校(七尾高校の前身)、七尾尋常小学校、光徳寺などの他、民家1千戸を焼失した。
38年11月25日の場合は、府中町の旅館から出火。大手町、檜物町、さらに御祓川を越えて松本町辺りまで、東は作事町、橘町の一部まで類焼。郡役所、町役場、税務署、郵便局、七尾商業学校、神社2社の他、民家689戸が類焼した。この時の詳細は『七尾市史資料編六巻』の「大地主(おおとこぬし)神社社掌日誌」に12ページにわたる記録がある。
復旧事業
当時の七尾町の戸数は2千数百戸、その3〜4割が罹災。しかも2度ともの類焼罹災者が多い疲弊した中での大復旧事業であった。役場の2度の焼失による帳簿類の復旧、道路の拡幅、橋の架け替え、防火貯水池の増新設、蒸気ポンプの購入等、その上、七尾男児尋常高等小学校、同女児尋常高等小学校、七尾商業学校の建設が重なった。明治41年度の場合、七尾町予算歳出総額の約3割、経常費の75%が復旧関係費であった。
川渕道路の完成
特に道路復旧は2度の大火の教訓か火除地(ひよけち)(防火地帯)が作られた。それまでの御祓川の泰平橋から南には現在の川渕通りはなく、細い小路を隔てて7軒が建っていた。38年の大火では、この7軒が焼け御祓川の西へ延焼した。その為、慶応橋から南、亀橋まで防火地帯としての川渕空地が設けられた。
平成7年に決められたシンボルロードの原型である川渕通りは、その後の大正14年(1925)に七尾駅が本府中から現在地に移転、駅前と亀橋間に道路が造られ、ようやく七尾駅から府中町埠頭までつながった。

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