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明治期〜戦前までの七尾(後編)

興味のある項目へジャンプ 1.変わる町の様子 2.七尾の農業
3.七尾の漁業 4.近代工業の成長 5.七尾市の誕生

<変わる町の様子>
明治の大火

明治12年(1879)
、女郎浜から出火、作事町、橘町の90戸を焼失。
明治15年、瀬戸浜(三島町の浜)、松本町の120戸を焼失。
明治28年には、三島町から出火して、御祓川を境にして、七尾の西半分、約1千戸を焼き尽くした。その時、裁判所、学校、寺院、病院、銀行なども焼失した。
明治38年には、府中町から出火して、作事町、橘町、大手町、桧物町から御祓川を越えて西部一帯、松本町まで焼き尽くした。
明治28年と明治38年の2度の大火については、 別のページ「七尾町の2度の大火」で詳述。興味のある方はココをしてください!

(火事対策)
相次ぐ大火に町でも消防強化が唱えられ、各地に貯水池を設けたり、蒸気ポンプを備えつけるようになった。明治41年(1908)、大正10(1921)には、ガソリンポンプ、昭和5年には、自動車ポンプが備えられて、消防力も強化した。

近代的病院

七尾での近代的な病院は、明治10年(1877)3月に宝塔寺に金沢病院七尾出張所が開設されたことに始まる。その後、明治13年7月には県立七尾病院が開設され、七尾医学校も置かれた。
銀行の設立
明治10年代には、多くの銀行が七尾でも誕生した。明治14年には、日要社、第一拡産社が設立された。日要社は七尾銀行の前身で、翌15年3月に営業を開始した。

電信の普及
電信は、七尾では明治15年、府中町に架設された。
郵便局
郵便局は、これより先5年の2月に同じく府中町に設置されたものの、和倉には43年、徳田は大正3年とかなり遅れた。ちなみに、明治期の郵便事業は郵便局長の自宅で行なわれるのが通例であった。なお、時代はさがるが明治40年には七尾郵便局に公衆電話が開設されている。

電気の普及
明治43年(1910)、津田嘉一郎などが中心になって魚町に七尾電気株式会社を設立し、火力発電で75kwの発電をして送電した。しかし、その頃、電灯が点いたのは、七尾町、矢田郷村の一部、西湊村小島の一部で、5百戸に過ぎなかった。大正10年代に漸く、電灯が普及してきたが、それでも、当時は1戸当たり市街地では、4灯か5灯、農村部でも1灯か2灯しか点けませんでした。

<七尾市域の電灯の始まり>(注:の欄の数字は大正13年末の数字である)
地区名供用年月電灯の数1戸当たりの
電灯数(区平均)
電気会社
南大呑
北大呑
崎山
東湊
矢田郷
徳田
七尾
西湊
石崎
端(はし)
高階
大正13年7月
大正13年8月
大正13年12月


大正10年12月
明治43年
大正9年
大正9年
大正10年7月
大正10年1月
373
400
98
366
418
872
2,837
333
476
235
317
1.3
1.5
1.8
1.8
1.8
2.1
4.5
2.5
1.3
3.4
1.7
氷見電気会社
氷見電気会社
能登電気会社
能登電気会社
能登電気会社
能登電気会社
能登電気会社
能登電気会社
能登電気会社
和倉は能州電気
能登電気会社

注1七尾電気は、大正7年三島町に移り、同9年志雄・輪島・高浜の各電気会社と合併して、能登電気となる
注2.氷見電気は、大正15年富山電気に合併。
注3和倉電気は、大正元年開業、同10年富来電気、中島電気とともに能州電気に合併。

七尾の農業
明治の農業
明治の初め頃までは、七尾町近くの農村では稲作が中心でした。しかし、町の近くの農村では、町へ売り出す野菜の栽培も行われたところもあった。
八幡筵(やわたむしろ)七尾町近くの村々で代表的だった副業に八幡筵として知られる筵の生産があった。江戸時代、七尾の大手町にいた上村屋金右衛門が松前(北海道)から数枚の筵を持ち帰り、八幡村の(神野)七之助・垣右衛門などに相談して、八幡村はじめ、近くの村々の人に作らせたのが、「八幡筵」の始まりといわれる。八幡筵は、北海道での海産物の包装に使われたもので、明治・大正・昭和と時代が経つにつれて、需用が高まった。鹿島郡役所でも、この生産に力を入れ、明治17年(1884)に、筵の検査制度を設け、品質の向上をはかった。明治41年には、鹿島郡筵商組合が発足し、製造方法を改良したり、石川県でも大正4年(1915)から、筵織りの機械を貸し与えるなどして、その普及に努めた。
※(参考) 「七尾筵と松前」を見たい人はココをクリックしてください!


七尾の漁業
七尾市域の海岸線は、曲がりくねっていて、磯浜・砂浜が多く、昔から沿岸漁業が盛んだった。七尾での漁法を大別すると、
灘浦の漁法と、湾内の漁法に分けることができる。
1)灘浦の漁法
古くから、大敷網を海中に仕掛け、魚が入ってくるのを待つという、
定置網漁法が盛んでした。最も大きな網は、ぶり網です。明治の初めころは、20人で網を海中から引き上げていたのが、明治40年頃には、80人が必要なほど網は大型になり、それにつれて漁獲量も多くなった。定置網で獲れる魚は、ぶり、たら、いか、いわしが主なもので、七尾や氷見(富山県)の魚市場を通して、関東・関西方面へも送られていた。 灘浦海岸の定置網漁業について詳しく知りたい人はココをクリックしてください!
2)湾内の漁法
七尾湾内の漁業は、石崎港を中心に網漁と釣漁を主に行ってきた。石崎の漁民は、大正の頃まで、
「浦ゆき」と言って、他の村々の地先まで出かけて漁をした。時には、出かけた先々の村で十数日も泊まり込んで、漁を続けたりもした。とれた魚は、女の人たちが近くの村々へ売りにでた。これを「里ゆき」と言います。大正14、5年(1925〜6)頃から次第に動力船が普及して「浦ゆき」の漁法はすたれたが、「里ゆき」は、現在でも続いています。
3)カキの養殖
北湾では、カキの養殖もはじめられました。始まった時期ははっきりしませんが、大正14年になって石川水産試験場が、カキ養殖の試験を手がけ、昭和4、5年頃から、沿岸の農村の人々もカキ養殖を始め、昭和10年頃になると、養殖する人も多くなり、良い成績をあげている。

明治36年北大呑地区の漁獲高
種類数量(貫)
イワシ
かつお
イカ
するめいか
サバ
マグロ
ブリ
タラ

エビ
アジ
フグ
その他
22,321
375
3,000
105
900
192
23,000
5,616
120
48
1,500
300
1,351
58,828
1貫は約4.0kg

市街地の産業
旧七尾町の主な生産物に、酒、木製品、海産物加工品などがあった。その中でも酒は生産量が多く、江戸時代の昔から秋田・山形・新潟・下関などへ積み出し、明治に入ると遠く北海道まで積み出されていた。

明治41年 主要生産物
種類産 額価 格(円)
清酒
醤油
精米
木製品
漆器
海産物
するめ
4,302石
1,665石
28,000石
建具、桧物細工など


5,000〆
172,080
33,300
392,000
26,200
5,300
66,120
5,500
5,500

近代工業の成長
肥料工場

明治43年に創業を始めた
堺硫酸肥料株式会社(のちに、「大日本人造肥料株式会社七尾工場」)があります。同工場は、矢田新の海岸に建てられ、能登島でとれる燐鉱などを原料として硫酸と肥料を生産したもので、従業員は180人いた。製品は開通して間もない七尾線で、主として北海道、九州、中部地方へ送られました。この工場の生産額が増えるにつれて、肥料用の藁かますの需用が増え、七尾均衡の村々では、かますの生産が増えたが、一方では、工場の煙害も出てきた。大正15年(1926)に、同工場が、農作物に与えた被害を補償した記録が残っている。
セメント工場
昭和4年(1929)、当時の西湊村字津向(つむぎ)に
七尾セメント会社(現在は住友大坂セメント)が創業を開始した。大きな近代的な工場に、高い煙突に当時の人は目をみはりました。この工場は、はじめ、石動山の近くの蟇谷(がばだん)から石灰石をケーブル(空中トロッコ)で運び、原料が近くにあったこと、また、製品は七尾港や七尾線を使って運び出すのに便利であったため、順調に発展した。工場が発足して間もなく、北朝鮮や満州で建設事業が盛んになると生産量も多くなり、七尾では最も大きな工場となった。
イソライト工業
これは、和倉・石崎の近くの珪藻土を原料として、コンロや断熱耐火レンガを製造するもので、昭和になってから工場が建てられ盛んになった。最初の頃は、
コンロの生産が主で、これは原料をくだき、それを練って型に入れ、プレスして製造するもので大量生産ができた。太平洋戦争以前すでに、全国的に売り出され、国全体の販売量の80%を占めるほどに成長した。

七尾町の拡張
矢田新町の編入
七尾港が発展するにつれ、汽船の発着する矢田新埠頭、矢田新停車場のある地域を七尾町に編入しようとする動きがでてきた。すでに、明治45年(1912)4月、この県の計画は、鹿島郡長を通じて矢田郷村へ示され、同村では反対意見も少なく、大正2年(1913)1月、矢田郷村の矢田の大部分、矢田・府中の一部が七尾町へ編入されました。これ以降、七尾町と石川県は大きな予算をつぎ込んで、七尾港の整備工事に力をいれました。
シベリア出兵
大正3年(1914第一次世界大戦が始まると、日本も連合国側に加わり参戦しました。戦争は大正7年に終わりますが、戦争終盤(1917)にロシア革命が起き、ソビエト社会主義人民共和国ができるが、共産主義を好まない多くの国は、ソビエトの政府を押え込もうと、大量の軍隊をソ連に送った。この時、日本も、この機会にシベリアを日本の勢力下におこうと、大正7年8月軍隊をシベリア出兵し、ここに大量の軍隊を留めおいた。金沢市におかれていた第9師団にも出動命令が下り、七尾港から兵隊を載せた船がシベリア向けて出航していった。第1次世界大戦に続くシベリア出兵などで、七尾港は、艦船の出入りが多く活気が見られましたが、大正11年(1922)シベリアから軍隊が引き上げてからは、七尾港の動きもさびしいものになりました。大正13年、七尾開港場25周年記念式を行い、翌年9月には七尾港開発期成協会が発足することで港開発の動きは再び活発となった。
和倉町の誕生
昭和に入ってから、行政の合理化の動きから、町村の合併計画をすすめた。昭和9年6月、端村、田鶴浜、赤倉村が合併して和倉町が誕生した。合併の条件は、①和倉から七尾線和倉駅までの道路を舗装すること、②町名を和倉町とすること、③波止場をつくること、④和倉温泉小学校の建築に1千円を支出すること、⑤和倉温泉振興会へ毎年2千円、田鶴浜建具組合へ5百円の補助金を出すこと、などでした。

七尾市の誕生
町村合併の動き

七尾町を中心とした町村合併も、
昭和8年(1933)頃から石川県の強い勧めもあって、七尾町でも熱心に運動をすすめてきた。石川県は、昭和14年から、金沢と七尾港を結ぶ産業道路(国道159号線)の改修工事を盛んに行ってきた。港の整備も、それを取り巻く町や村の力を合わせて実施する必要がありました。また、七尾町の区域が狭く、七尾男児尋常高等小学校(のちに御祓小学校)、七尾女児尋常高等小学校(のち袖ヶ江小学校)をはじめ、色々な町の施設を隣村の村の区域に作らねばならなかったので、町村を合併して大きな区域にする必要があった。
はじめは、七尾町と矢田郷村、東湊村、西湊村、石崎村、和倉町を合併して七尾市とする計画でした。この計画に5ヶ村は賛成でしたが、和倉町の意見がまとまらず、結局、和倉町のうち、字和倉と奥原のみが市制に参加することとなりました。
昭和14年5月、県は七尾町、和倉町及び矢田郷、東湊、西湊、徳田、石崎の諸村代表を招待し、市政施行について指示、翌月これらの諸町村会で市政施行の賛成決議が行われた、市政施行の上申書が内務大臣に提出された。
町村会の賛成理由は「七尾港に対し内務省が250余万円の莫大なる費用を投じて日本海の主要港として朝鮮・満州などの取引軍需などの要港たらしむべく我等も又挙村一致宜く国策に順応すべく」(矢田郷村会)という理由、あるいは「純農村であるため年々負担が加重されるに反して収入の増加を見ること能はず・・・内心憂慮し・・・其の後時代の推移により増々その感を深くしたのであるが、今般市政施行の問題に直面して之は此の際参加して七尾港を生かすことによって但に亦生きる道を打開し、日本海時代の飛躍併進することが、能登地方の発展を促進するもとと信ぜられる」(徳田村会)
こうして、
昭和14年(1939)7月20日、七尾市が誕生しました。市になったのは、石川県では金沢に次いで2番目、人口3万2千2百人、面積は、0.9平方キロメートルから、82.78平方キロメートルにひろがりました。
新市の課題
この年(1939)8月
、市発足当初、最初の市議会議員選挙が行われ、45人の議員が当選、初代議長に西野勇喜智、初代市長に清水豊吉がなりました。新しく出発した七尾市は、港を発展させることによって商業や工業をさかんにし、それによって農産物の需用を増やし、農業もさかんにするという計画を中心に仕事をすすめるという考えでした。しかし、市の資金が少なく、その上戦争のために物価が急に値上がりしたため、計画した仕事ができず、特に、上・下水道工事など市民生活をよくする事業など、手付かずのまま、敗戦の日を迎えた。

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3.七尾の漁業 4.近代工業の成長 5..七尾市の誕生

(1999年9月2日更新)
(参考図書)「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾ものしりガイド・観光100問百答」、「七尾の歴史と文化」(七尾市)、
「コンサイス世界年表」(三省堂)、「広辞苑」(岩波書店)

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