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七尾筵(むしろ)と松前

(1999年8月31日作成)

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※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同じタイトル名のページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。


天保(1838)10月、加賀藩は、口能登の村々に対して、零細民の稼ぎとして松前に輸出する筵の生産を命じた。天保の凶作に苦しんでいる農民に現金収入の道を作り、藩も税収入があるなど一石二鳥と考えたからである。
当時の松前は、昆布・鰊が豊漁でそれを包む筵が不足しており、以前から筵を作っていた白馬村や国分村の農民が所口商人を通して松前まで売り出し、良い稼ぎになっていた。そのため、この筵生産を零細民に広げたいと考えたからである。その仕法を「松前行目形筵仕法(まつまえいきめかたむしろしほう)」と呼んだ。
仕法前の天保9年春には、17,000〜8,000束(10枚1束)の出荷があった。仕法後は出荷量は増えていないが、織り出す村が増え、冬仕事であったものが夏場も休まず織りたてているとの報告もされている。
この筵は、七尾筵とも記された。慶応2年(1866)7月に江差の関川家船が、七尾筵6束購入しており、明治2年(1869)4月に江差に向かった七尾の大宝丸は、七尾筵300束、七尾酒200樽、醤油15樽、竹原塩60俵、中間縄300丸を積んでいた。また、御預所八幡村は、すでに文政頃(1818〜1830)から筵を松前に輸出していた。これは八幡筵として知られている。明治10年代、北海道余市郡の問屋へ八幡筵223束が売られた記録もある。筵は、明治期に入っても生産が続けられ、一時不振の時期もあったが鹿島郡(七尾を含む)を代表する産物の1つとなった。

口郡目形筵仕法村割(七尾地区関係分、「御郡典」『藩法集』より)
製造村名調理役
三階村・般若野村・池崎村・瀬戸村・満仁村・温井村・伊久留村・町居村三階村組合頭 三右衛門
津向村・小島村津向村肝煎 太郎右衛門
新屋村・川尻村・垣吉村・舟尾村・奥原村・和倉村・田鶴浜村田鶴浜村百姓 嘉右衛門
中挟村・八田村・千野村・国下村・古府村・藤野村・古城村・古屋敷村・
竹町村・天神川原村・府中村
府中村組合頭 太郎兵衛
府中村百姓 喜右衛門
国分村・細口村・藤橋村・所口村細口村組合頭 長次郎
廿九日村・白馬村・新庄村新庄村組合頭 助九郎
直津村・赤浦村・松百村・新保村・石崎村・祖浜村赤浦村組合頭 助兵衛
二宮村・武部村・石塚村・久乃木村・坪川村・西村・在江村・若林村・
飯川村・江曽村
飯川村百姓万右衛門
武部村百姓 六三郎
矢田村・万行村・佐野村・三室村・大田村・沢野村・殿村・岡村・上湯川村矢田村組合頭 喜左衛門
万行村百姓 清五郎
筵を多く送り出す村は、2〜4ヶ村で1グループ、その他は10ヶ村前後のグループ。調理役は、生産
の管理・督励に当たった。松前への運送問屋は、所口商人四十物屋輿兵衛、玄妙屋喜兵衛の2名で
、織り出した筵は、この両人に集められた。

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