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江戸時代の能登の人々の暮らし

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(2000年11月3日一部加筆修正)

人口江戸時代幕末の加賀藩の人口 は、108万人程度
(内訳」)農・工・商に従事した人々:101万5千人程度(うち年貢を納めている農民は80万人程度)武士は6万5千人程度。

<農民の暮らし>

御算用場奉行改作奉行十村(とむら)村肝煎
(むらきもいり)
郡奉行組合頭
御預地方御用
(御預所)
(十村)庄屋
組頭
御算用場奉行加賀藩の会計を統括する役所を御算用場といい、そこの長を御算用場奉行という。加賀藩独特の役職であり、藩の収納・会計関係の主要役所がその中に附設されています。この御算用場奉行の下に御算用場横目という、いわゆる会計監査役にあたる者と、実務を取り仕切る御算用者小頭がおり、実務をする者が御算用者である。米主体の江戸時代にあっては、農村を取り仕切る役所の頂点は、ここであったわけである。ところで、この時代、武士で算盤を習うものは、御算用場者の子弟ぐらいであったが、明治維新になって、加賀藩出身者で、新政府に取り立てられた者は、この御算用場者が少なくなかった。
改作奉行生産面の支配を担当。
郡奉行郡奉行(こおりぶぎょう):人の支配を担当。
十村の制度 加賀藩は、農政機構として、寛永年間頃加賀藩ですでに出来上がっていた十村肝煎−村肝煎の体制を利用し、慶長9(1609)年、侍代官を廃止し、十村を代官に任じました。そして一部の者に扶持を与え、鑓・馬の使用あるいは苗字・帯刀の使用を許した。つまり十村とは、十ほどの(十とは限らない)村を管理監督する大庄屋兼代官のことである。
 これにより、算用場−郡奉行−十村−村肝煎に一元系列化し、農村支配を強化した。
年貢納入の義務がある最小単位。藩からの種々の命令などは、改作奉行か郡奉行を経て十村に届き、十村からそれぞれの村に届いた。
村の役人(三役)肝煎(きもいり)(肝煎の主な仕事)キリシタンの取り締まり、年間村費の収支決算の記帳・読み聞かせ・十村への提出、藩の問合せに対する回答の義務、百姓の耕作への督促
(肝煎)
村の代表者で、組合頭以下百姓全員が認めた人を、十村を経て改作奉行まで届出て、奉行の認可を得てその役についた。肝煎や組合頭の役につくと、藩の掟(法律)を守って任務を果たすという誓いを立てた。
(参考)
「阿弥陀裏起請文」:阿弥陀如来を描いた紙の裏に、この誓いに背いた時、仏罰を受ける、と書いてあり、いかにも真宗王国らしい、起請文である。
組合頭(くみあいかしら)
長百姓(おさひゃくしょう)(百姓惣代)
扶持百姓 初期扶持百姓〝高橋〟を見たい人はここをクリックしてください!
五人組村には向こう3軒両隣を一組にする5人組があった。5人組が力を合わせて年貢を納めなければならず、一軒でも納められないと、残りの4軒で助けなければならない仕組みであった。また、5人組のうち、1軒でも逃散(ちょうさん)すると他の4軒が罰せられるという、相互監視の体制でもあった。
寄合い村民の総意を決定する場である。毎年正月に寄合いを行い、それ以外は折りにふれ集まった。寄合いでは、村御印を床の間に飾り、お神酒などを供え、一礼してから話し合いを始めた。それは、藩からの伝達を徹底させる機会でもあり、また、村毎のきまりえを決める場でもあり、御印の前で決めるということに絶対的な権威を求めた。そのきまりは、村用人足賃の定めや、入会地の用益など、共同体としてのきまりを内容とするものであった。村の経理も、こうした機会に決定され、百姓達の負担額がここで決められた。
村御印について、「鵜浦村(うのうらむら)の村御印」の例を知りたい人はここをクリックしてください
村方二日読延宝6(1678)年、前田綱紀は、農民の生活心得を書いた「村方二日読(むらかたふつかよみ)」を出した。これは、毎年2度、村肝煎が村民たちに読み聞かせ、これによって農民の生活を取締まり、決まった年貢を確実に出納させるためのものでした。これにより、家の間取りや、衣装、食べ物(「雑穀類を食べ、米をみだりに食べてはならない」等)、娯楽に関して、ことごとく規制した。一般農民は、奥行き二間、ひさし一間の平屋より大きい建物を建ててはならず、食べ物についても、正月と冠婚葬祭だけが、米を自由に食べてよい日になっていた。お寺参りでさえ、制限されていた。
五ヵ村組合隣り合う五カ村をもって、五ヵ村組合をつくらせ、相互援助や相互監視をさせた。これは、五人組の考えを、村同志にまで拡大したものである。

<町民の暮らし>

御算用場奉行所口町奉行町年寄惣肝煎
町肝煎
散肝煎(ちりきもいり)
組合頭
所口町戸数(安政3年)
町 名戸 数町 名戸 数町 名戸 数町 名戸 数
阿良町104塗師町53大手町41白銀町16
豆腐町50鍛冶町70作事町32米町67
府中町277川原博労町49大工町59竹町50
一本杉町115檜物町37魚町81東地子町336
味噌屋町77中小池町97木町64西地子町208
総戸数1,883
町奉行所七尾の町は昔、所口と言われていましたが、所口町の町民は、所口町奉行所が支配していました(現在の小丸山公園の国道と七尾線を挟んで南側に位置している「オカシヤ山」に町奉行所があったと思われる以前はここも小丸山城の一画をなしていた。小丸山城廃城とともに、武家屋敷が建てられた所である)所口町奉行は所口町の最高責任者であるが、その役職がいつ定められたかは不明である。しかし、文禄3年(1594)前田五郎兵衛(安勝、利家の兄)発給の文書の中に所口町奉行下代へとあり、すでにこの頃には、町奉行所の職制があったことがわかる。そして、元和期までには町奉行の制度も確立していった。また、初代町奉行には三輪藤兵衛が就いていたものと思われる。三輪藤兵衛は初期所口町の経営や統治の中心的人物として活躍していた。
町奉行の執務する所が奉行所であるが、当初決まった奉行所はなく、各奉行がそれぞれ宿を決めて町奉行所として町政に当たっていた。その後、文政5年(1822)野村隼人の代に御貸屋を直し、町奉行所として執務するようになった。
町奉行の下には、代官(1名、100石〜200石前後の武士がなる)、小代官(6人前後、時代により一定しない)、足軽(10人前後、時代により一定しない)など藩の役人と、町民から選ばれた町役人がいました。町役人は、(所口)町全体の町政にあたる町年寄と、所口町内の各町の代表者である町肝煎などがいました。なお、町奉行も御算用場奉行の配下に置かれていた。
代官、小代官、足軽らは遠所御用・詰米方(つめまいがた)・盗賊改方御用など最前線に立ってその任に当たっていた。彼らの屋敷は小丸山城を取り巻くように並んでいた。

(所口町奉行の職務)
所口町奉行は、町政一般を司るが、延宝4年(1676)の所口町奉行勤め方によると、租税・小代官・宗門改・御詰米・御産物・交通・交易のことなど18ケ条にわたっている。更に所口町奉行は奥能登盗賊改方も兼帯し、能登全般の治安にあたるので、輪島・飯田・宇出津・中居に在住した小代官・足軽を掌握するとともに、能登4郡の御普請道具や他国へ出る者の船切手なども出していたので、所口一般のほか、能登4郡を支配する面もあった。
町役人の仕事天罰起請文町役人が、自分の務めを果たすことを誓い書いた起請文。文化12(1815)年、町年寄清水屋四平の書いた天罰起請文。
1.公務の秘密を厳守する。
1.藩から出された命令を、町役人が勝手に変えない。
1.町の出来事はありのままに町奉行に報告し、町年寄の判断で勝手に変更してはならない。
1.公のこと、訴訟の時などには、賄賂をとらず、ひいきをしない。
1.町役人の仕事は真面目に行う。もし悪いものがいたら注意する。注意しても聞かない者がいたら、町奉行へ報告する。
その他の町役人の仕事町民の身元や宗旨の調査をはじめ、相続や家屋売買の立会い、町民の身上相談まで多くの仕事があった。また、町役人が中心になって、町民達は町中のとりまとめ、年貢の納入、年中行事などを相談しあった。所口役人のことを詳しく知りたい人は ココをクリックしてください!
借家人や間借人の待遇町民たちは、年貢の納入や、年中行事などの色々な事を寄り合って決めたが、借家人や間借人は発言が認められなかった。また、年中行事に参加することもできませんでした。これは、町民の町役負担は、家の間口を基本とする町役銀(宅地税)が中心になっていて、町役銀のかからない借家人などは、町民とみなされなかったからです。ところで江戸中期(1715)の、所口町全体の家持ち町民は、70〜80%くらいであったと推量されています。
十人組農民の五人組と同様、相互扶助、相互監視(犯罪防止)の目的で出来た隣組制度。
町方御定書「七尾町御定書十一条」七尾の町民統制のために書かれた町方二日読みけんか、火の用心、相続、質物、振売り(路上に声をあげて売り歩くこと)、借金、宿貸し、賭け、傾城(じょろう)、かこい女、駆け落ちなどについて、厳しい注意や禁止条項が書かれている。
町民の年貢農民の年貢と比べると、はるかに低いものである。主なものは、町夫(まちふ:人足を出す代わりの税地子役(じしやく:宅地税浦役銀(営業税)、商売している町民に対しては酒税四十物役(あいものやく:産業税などである。
(注)あいもの:生魚に近い味を残すため、塩漬けの塩を少なくし、生かわきにした魚類のこと。
由緒町人由緒町人の代表例・ 「性寂坊と氷見屋」を見たい人はココをクリック!
火消し
鍛冶町火消方の係と人数
係 名人数
町内纏持役
鳶役
熊手役
綱持役
御奉行所詰
町会所詰
一本杉町組合頭詰
町内留守居
弁当持役
役屋敷詰
水掛桶役12
42
江戸時代を通じて、七尾では百件以上焼失した火事は、六回もあった。
1.享保12年3月17日 府中、東地子町305軒
2.明和3年8月28日 所口、2,000余軒
3.明和9年2月22日 所口、5,00余軒
4.文化8年9月7日 所口、700余軒
5.文化11年5月27日 所口、923軒、府中村16軒
6.嘉永6年4月20日 東地子町より出火 372軒
所口町奉行詰消化隊人数
係名人数
纏持
鳶持14
梯子持17
手明き
提灯持
45
安政2(1855)年に各町の町夫中心に火消しを編成した。
(鍛冶町の例)まとい持役、とび役、熊手役、綱持役、水掛桶役、御奉行所詰役など11の係りで42人の火消し方がいた(左の表を参照のこと)。御奉行所へ詰める係りの人は鍛冶町の場合、3人が割り当てられていますが、所口全体では45人おり、この人達が足軽の指図の下で消火にあたった。
盗賊改方元禄3年(1690)3月16日金沢で900軒焼失する火事があり、翌17日未明再び出火し、6,339軒もの家が焼け、2日間に7,539軒もの家が焼失する大火になった。その上、1週間後の27日313軒の火事があり、金沢町民を脅かした。しかも火災原因が火付けであった事や、火事場泥棒が横行するなど治安が大いに乱れた。この件を重視した藩では、翌年元禄4年(1691)盗賊改方の職を初めて設けた。この時、任命されたのは、加藤十左衛門(加州)・村上助右衛門(能州)・井上久太郎(越中)の3名である。村上助右衛門は口郡に在住を命ぜられてので所口に住んだと思われる。奥郡の方は所口町奉行が盗賊改の任務を行った。『藩国官職通考』には、能州は井上久太郎が任命され、享保6年(1721)12月由比孫兵衛昌清の死亡後、この役が任命されなかったとしている。「能州所口後例集」に村上助右衛門が任命されたとあるので、村上の方が適当と考えられる。ともあれ、盗賊改奉行が単に盗賊を取り締まるだけでなく、遊芸の者や無用の品物を売り歩く族まで取り締まる役であり、与力2人・足軽30人の家来を持つのみならず、情報提供者として藤内などの被差別民を利用したのである。

<娯楽、産業、庶民文化など>
祭り生活に細かい制限を受けていた農民や町民も、許された範囲での楽しみがあった。その中でも、青柏祭は、山王神社の大祭で、毎年旧暦の四月の申(さる)の日に行われていた。この祭礼には、府中町、鍛冶町、魚町から3台の山車・デカ山が曳き出されます。江戸時代の記録によると、山車の高さは9間(約16m)ほどもあり、三方を筵で囲み、その後ろに鉾旗などを十数本たてて、前の舞台には歌舞伎人形をかざった。祭りの前日(宵祭)からデカ山を曳き出し(宵山)、当日は山王神社に3台のデカ山が勢揃いします(本山)。ここで、御大守(殿様)のご安泰、国中の安全、五穀の豊穣などを祈ります。翌日(裏祭)には、デカ山(裏山)をもとの町へ曳き戻します。
このお祭りの時も、ご馳走は一汁三菜に漬物、酒は杯を2回まわすにとどめると定められていた。しかし、これらのお祭りの時には、人々は米のご飯やお持ちを、腹一杯食べることを許されていた。この他にも、お正月、雛祭り、端午の節句、お盆のお墓参り、報恩講(親鸞上人のご命日の前後に、信者が集まって、報恩仏事を行うこと)などの行事があり、人々の暮らしに潤いを与えていた。
(↓現在のデカ山の写真)
デカ山(魚町)デカ山(府中町)デカ山(鍛冶町)
和倉温泉和倉温泉のページを別に作ってあるので、興味のある人は ここをクリックしてください
歌舞伎歌舞伎は慶長以来、長く禁止されていたが、民衆の根強い人気に支えられて、元禄時代に、武士により多く富みを貯えた町民達に大いにもてはやされ、著しい発展を遂げた。この時代、毎年、旧暦3月13日気多本宮祭には、盛大な氏子歌舞伎が興行された。最初のころは、一本杉町、荒町(現在の阿良町)、豆腐町(生駒町)の3町共同でおこなわれたが、元禄を過ぎた頃から、3年交替の当番制になった模様。気多本宮本殿前の仮舞台で、30人ばかりが、歌舞伎、狂言、やっこ踊りなど演じ、毎年大盛況の賑わいであったようだ。
工芸と絵画前田利家が七尾城を築いた頃、彫金の名手、後藤琢乗は、所口で活躍していた。琢乗が、七尾を去った後も、その門下、後藤甚右衛門は所口に住んで彫金を行い、能登後藤といわれた。
同じ頃、所口に箔屋佐助がいた。箔屋佐助は、京都山崎にいた浪人の松井惣兵衛の倅であり、箔打ちの技術に通暁していたため、京都から能登の鹿島郡矢田郷村字矢田(現在の七尾市)に移り、箔商売をした。佐助が打ち上げた箔を利家に献上したところ、とても気に入られ、諸役免除の許可を得たばかりでなく、百間四方の屋敷まで賜ったとされ、前田家とは特別な関係を結んでいたと伝えられている。その後、所口には金箔細工がさかんになった(所口ばかりでなく、箔屋佐助は、加賀の金箔工芸史において無くてはならぬ重要人物とされている。)また、所口には、金箔装飾と関係の深い御輿が多く造られた。御輿の需要は、七尾周辺にある神社の御輿造営などで、かなり多かったと思われます。安政2年(1855)羽咋郡福井村の御輿造営を、所口の請負業者、免濃屋(めんのうや)が行いました。免濃屋は、大工職、塗師職、金具職など御輿造営に関係のある職人を配下に持っていた。現在、その時の注文書などが残されている。
また、利家が、創建した小島の長齢寺には、絹本着色の前田利家像をはじめ、前田氏とゆかりの深い優れた美術品が多く残されている。この事から、七尾には、前田氏の御用絵師がいたのではないか、と察せられます。
絵馬文化現在、市内に残されている絵馬は、確認されているものだけで、5百点を超え、文化文政期(江戸後期)以降のものが、大部分を占めます。題材は、歌舞伎絵、歌仙図、俳諧図などで、七尾の文化活動のようすをよくあらわしています。また、絵馬は祈願や謝辞のために、寺社へ奉納する額であることを考えると、文化文政期以降が特に多いということは、加賀藩では文化・文政・天保と凶作が続いたが、そういった状況や、幕末真近の不穏な世相が、庶民に絵馬を奉納させたものと思われる。
<久宝の絵馬>
天保4年(1834)は、極端な低温と長雨による天候不順が続き、東日本を中心として大凶作となった。加賀藩領内でも、米不足から物価が高騰し、物乞いと御救小屋に収容される窮民が激増したと伝えられている。世に言う「天保の飢饉」のはじまりである。
その翌年の3月、中挟村太郎兵衛は飢えに苦しむ村人の窮状をみかね、鎮守藤原四手緒(してのお)神社に一枚の絵馬を奉納した。その画題は、武勇をとどろかせた女武者・巴御前である。画面左側には、絵師によって「天保五年三月吉日」の年代が書き込まれている。ところが、飢饉からの解放と豊作を切望する太郎兵衛は、その公年号を忌避し、裏面に「久寶元年申午三月吉日御寶前」と力強く墨書したのである。「久寶元年」、それは太郎兵衛が村人たちとの思案の末考え付いた私年号である。そもそも「天保」の改元の年から不作続きであった。それが、ひとたび凶作から飢饉へと暗転したとき、行き届かない御政道に対する人々の不満は隠しがたいものであった。憤懣やるかたない太郎兵衛は、御法度に背くのもかえりみず、ひそかに「久寶」の私年号を建て、その言霊(ことだま)に飢饉からの離脱と豊作を託したのであある。それは、神に祈る以外にすべを持たない村人達の「世直し」への希求であった。
さて、絵馬の多くは、地元の職人絵師か在所の絵心のある人によって描かれることが多く、その名を記すものは少ない。この私年号絵馬もまた、絵師の名がない。だが、想像される一人の職人絵師が太郎兵衛の身近にいた。山下郁雄氏によって知られた地元中挟村百姓・徳衛門こと、徳島白雲である。
山下氏の研究によれば、白雲は絵馬を描く傍ら、土人形や天狗面などを作り、ときには芝居や獅子舞の振り付けもした多才な絵師であったという。藤原四手緒神社には、白雲が健筆おふるった歌舞伎絵馬があり、「安政三歳辰八月十四日/徳嶋六十壱才ニ而/寫之」と記されている。となると、若き白雲がこの私年号絵馬を描いたとも考えられる。その当否はわからないが、当時の町や村には、白雲のような名を欲しない職人絵師が人々の身近にいたのであり、彼らこそ人々の真摯な祈りに応えてくれる「絵馬屋」の実態であった。

<絵馬師・徳島白雲>

市内の社寺に奉納されている絵馬のうち、作者名の確認されているものは少ない。そのような中に徳島白雲の在名品が6面確認できることは貴重である。
徳島は寛政7年(1795)中派挟村に生まれ本名・徳右衛門と名乗る百姓であった。そして文政9年(1829)から安政3年(1856)までの、30歳から60歳までの間、徳島白雲として活躍した百姓である。
絵馬作品は歌舞伎図、合戦図、武者絵図などの大絵馬などの大絵馬が得意で、とくに萬行神社の絵馬は圧巻である。天地135cm幅540cmの大型で、仮名手本忠臣蔵全十一段の各場面を克明に描き出し、607人もの人物を登場させている。
制作年代は化成文化と推測できるが、彩色が鮮明で保存状態も良好で、この種の大作では市内随一であろう。 これに次いで、国分町久志伊奈太伎姫神社の源平合戦は90cmに360cmで武者26人と馬5騎を描いている。
また白雲は自身も歌舞伎など芸事えお能くし、近在に芝居や獅子舞の振り付けをしたり、それに用いる道具も制作したという。その他に彼は「ひんな」と言われる土人形や玩具を作り、その伝作品が現存する。多才な在郷絵馬師、徳島白雲の作品は江戸時代末期の民衆文化を現代に残している。
七尾酒江戸時代、「七尾の甘口3年酒」と言われるほど七尾は古来より芳醇をもって知られる酒の名産地といわれ、所口の諸産業の中でもずば抜けて産額が多かった。寛永年間には、酒造業が101軒あり、明暦年間には5,725石も生産していた、と記録されている。また、明暦3年(1657)の小物成(こものなり)を見ても酒役が四貫580匁と他の諸役に比べて圧倒的に多く、諸産業の中でも徳に盛んであったのが酒造業であった。
このように酒造業が栄えた理由は、第1に、七尾は能登半島の中央に位置し、諸産物の集散地として栄え、海運も盛んで各方面に販路も開拓できたこと。町奉行所の所在地として、法制面での手続きが容易に行われたこと。北は越中・越後・松前から南は赤間関まで広く日本海側各地に積送り、売り裁いていた。第2に、酒造用水としては、鉄分、アンモニアをほとんど含んでおらず、酵母の発育に関係のあるカリやリンを含む岩屋の霊水(七尾石灰質砂岩層を浸透して湧出する地下水)に恵まれ、江戸後期から(明治初年にかけて)臨海部の井戸水を利用するが、これも適度の塩素量を保っていたこと。第3に、酒造技術は、諸白造りから寒造りと革新され、広大なスペースを要する酒蔵を必要とするが、七尾の商人はこれに対応する資本力をもっていたことがあげられる。

酒の生産量は、藩から制限されたり、これが緩和されたり一定しないが、安永8年(1779)に能登全体の60%弱の生産量が鹿島郡にあり、その大部分が七尾であった。天明3年(1783)当地の鹿間屋仁左衛門が加賀・越中・能登の酒造交名額を金沢卯辰山麓の鶯町に鎮座する松尾天神社に奉納している。それによると、34軒の酒造家とその酒造の銘柄が知れる。
天名3年七尾町酒造一覧
銘柄酒造業者名銘柄酒造業者名銘柄酒造業者名銘柄酒造業者名
老松酒鹿間屋三郎右衛門三笠山鹿島屋伊右衛門清椰酒鹿島屋忠兵衛大黒酒鹿島屋吉兵衛
花鳥山鹿島屋仁左衛門志良雪酒中嶋屋三郎左衛門邯鄲木下与次右衛門竹林酒善屋庄右衛門
春日山奈良屋弥三右衛門滝音麩屋孫三郎朝日山角屋助四郎金罍酒八田屋与兵衛
涛陽酒古府屋五兵衛岩谷酒山本屋五左衛門梅薫酒山本屋五郎兵衛竹林酒和泉屋与左衛門
八重菊越前屋善左衛門石清水岩井屋与三右衛門青柳酒飴屋庄右衛門栄山酒坂本屋吉右衛門
香明酒加藤屋彦四郎御祓川正屋瀬兵衛幾久川黒氏屋清兵衛松栄酒直海屋亦四郎
音羽山清水屋徳兵衛紅葉川和倉屋四郎右衛門五柳酒清水屋与次右衛門羽衣酒若松屋九郎右衛門
合計28 人
 しかし盛んであった酒造業も、米価の高騰やそれに伴う統制によりだんだんと衰退し、江戸中期には約40軒、文化期には24軒と減少していった。その打開策の一つとして、江戸への販路を広げることになった。
 所口町佐味屋吉郎左衛門は、享和2年(1802)50樽の酒を江戸へ出荷し、260貫文の利益を得た。そこで佐味屋吉郎左衛門らは、所口町奉行や御算用場に掛け合って藩の許可を得、文化11年(1814)4月、試しに4斗入り48樽の七尾酒を当町春木屋理右衛門の船に乗せて江戸へ送った。その結果、まずまずの成果をあげたので、伊丹の杜氏を招き、「辛口」の酒を造り、本格的に江戸送りを始めようとした。
 そこで加賀藩は3,400石の御貸米と27貫文目の樽代を貸して2万石の酒を江戸へ送った。その酒造法も腐敗を少なくするため、甘口から「辛口」の伊丹酒造法で作ったが、伊丹酒も及ばない出来栄えと褒められたという。
それを受け佐味屋吉郎左衛門らはさらに出荷を増やそうと、5万石出荷の願いを出すが、不許可となる。理由ははっきりしない。江戸送りは失敗に終わった。
 米経済を主体とする藩は以後酒造量を制限しだした。
 酒造量を1/3に減らされた隙に、七尾の得意先の越中へ越中酒が3万樽も入り、さらに打撃を受ける。
 七尾酒連盟で、他国酒が入らないように陳情したが、大勢はいかんともし難かったようだ。
 低迷する酒造業ではあったが、文化元年(1804)10月、羽衣酒が藩主の御膳酒(二の丸御膳酒)に選ばれ、七尾酒の名を高めるのに大いに役立った。黒氏屋与左衛門がその役目を仰せつかり、その後、八田屋与左衛門(与兵衛)が金罍酒を、山本屋五郎兵衛が梅薫酒を一ヶ月交代で納めることとなった。
 明治2年(1869)の小物成で酒役は、出入津役に次いで、第2位で、全体の32%であった。
鋳物と鍛冶寒雉の釣鐘>
天正10年(1582)利家が、七尾に入った時、能登中居(現在の穴水町仲居)の鋳物師の彦九郎を連れてきた。彦九郎は、小丸山城の普請に、その腕を振るったと思われる。その子孫に
宮崎彦九郎義一がおり、寒雉(かんち)と号して茶釜造りで有名である。小島町の西光寺長寿寺、大田町の海門寺3個所の梵鐘に、寒雉の銘があります。いずれも貞享元年(1684)春先の寄進とあります。これらは七尾市内でも最も古い釣鐘である。寒雉とは、宮崎彦九郎義一の晩年の称号である。寒雉も穴水町中居(なかい)の出身である。「寒雉釜」の技術は現在14代宮崎寒雉に受け継がれている。
①西光寺は、小幡七郎兵衛尉信義をはじめとした惣檀那衆中(そうだんなしゅうちゅう)が願主である。小幡家は江戸期を通じて加賀藩前田家の直臣で知行役四百石の平士であった。西光寺の最有力門徒と見られ、小幡家の墓は墓域の最上段に据えられている。②長寿寺は七尾箔の元祖といわれる山崎屋の寄進であり、山崎屋権左衛門はその4代目である。山崎和由家文書の「山崎屋家系之伝聞」と「先祖代々留」には七尾箔の祖・箔屋佐助との関係が記されている。それによれば、京都の山崎の箔打ち佐助が利家に召し出され、矢田村天満(てんま)に百間四方の細工所を拝領したと伝えている。③海門寺の釣鐘は本堂内の鐘点棚(しょうてんたな)に吊るされており、形もやや小振りの半鐘である。願主は上湯川八兵衛とあるが、上湯川の豪農であろう。寺伝では「穴水の中居から八兵衛の家へ寒雉の親戚が嫁いでおり、その関係から釣鐘が造られた」とされている。
また『石川県史』第3編には、「元禄9年(1696)11月廿八日能登郡羽坂村永教寺に寄進、冶工(やこう)加州金沢住宮崎彦九郎義治」と刻まれた2代目
寒雉の釣鐘が鵜浦町称念寺に所在していると記されている。しかし、昭和16年の「金属類回収令」により失われてしまっている。県内には、多くの「寒雉の釣鐘」が残されており、いずれも指定文化財とされ寒雉の技と音色が大切に守り継がれている。
<鍛治町>

鍛冶町は、文録5年(1596)の記録に、「本かしや町」と町名があり、早くから栄えていた職業と思われます。天保13年(1842)所口町の鍛冶屋は60軒もあり、120人の職人がいたと記録されています。主な産物は、鍬、鎌などで、原材料の鉄は石見や但馬から移入していた。
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(参考図書)「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、
「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」
(七尾市観光協会)
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)
「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)

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