このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日和山と鵜捕崖
(1999年9月1日作成)
江戸時代の七尾の人々の暮らし |
※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同じタイトル名のページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。
七尾南湾は古くから日本海を航行する船の寄港地として栄えてきた。湾内の入口を小口瀬戸と呼び、荒神鼻(こうじんはな)、福浦崎に至る間は水路も狭く曲がりくねり、祖浜出シ、七甲瀬、森田礁等の暗礁が点在して船の座礁が多かった。
江戸時代の海岸絵図には七尾湾周辺の村の磯際は浅瀬や岩礁が多く大船(300石以上)が近寄ることができず、沖から橋船で磯へあがるよう注記されている。唯一鵜浦村の「よしの潤」のみ磯近くまで寄ることができた。湾内の船の安全を図る一環として崎山半島(七尾南湾入口の北に突き出た能登半島の中の2次的半島)先端の鹿渡島の日和山に灯台が建設されたのである。
日和山は湾内に出入りする船の見張りをする為の場所であり、鹿渡島の日和山では日時計が据えられていた。能登観音崎灯台は大正2年に建設され、翌3年1月27日にアセチレンガスを使用して燈下された。当初は七尾湾口燈台と称し、昭和50年4月に無人化となり、昭和60年11月に改修されて現在に至っている。日和山は能登島町野崎と向かい合い、富山湾と能都町宇出津までも遠望でき、毎年5月の灯台祭りには地元をはじめ多くの市民が訪れる憩いの場となっている。
日和山の断崖には侵食によってできた洞窟や高さ15mの岸壁上方に突き出た幅約50m程の帯状に形造られた鵜捕場(うとりば)がある。鵜捕場は鵜休場(うやすみば)とも称され、普段ここに鵜が群れて留まっている。
毎年12月10日前後にこの崖で、鵜捕主任小西寛之氏によって新鵜捕が行われる。12日の未明には、白装束に烏帽子姿で鵜籠を背負った鵜捕部(うとりべ)3人が鹿渡島を出立する。鵜捕部は「鵜捕部、鵜捕部!」と高唱しながら羽咋市の気多大社まで二泊三日、約40kmの鵜様道中を徒歩で行き、16日午前3時に鵜祭神事が行なわれる。江戸時代の神事には進物で鹿渡島の鱈が供えられた。
鵜捕部21人には鵜田と呼ばれる前田利家から天正13年(1585)に与えられた2反の田地があり、毎年3人ずつ交代で耕している。400年以上の歴史を現在でも守り続けられている特殊な神事であり、気多大社では豊作・豊漁を祈る神事である。
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