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俵物と海鼠(なまこ)猟
(1999年12月22日一部加筆修正)
参考図書:「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)他
他の個所でも、述べた所口(七尾)は、江戸時代においては所口(または七尾)町は、宮越町(現、金沢市金石町)に次ぐ、領内第2の港町で、能登の生産物集荷基地として大きな役割を果たしていた。ことに水産物の集散地として知られ、生鮮魚や加工された四十物(あいもの)(生魚と干魚の中間加工魚)・塩魚は、主として金沢に送られていました。
特に、海鼠(なまこ)は、能登の名産物である(現在でも、能登の港の堤防などで海を覗くと簡単に見つけることができる)。能登の特産品であったのは、太古からのようで平城京跡出土の木簡や※延喜式にも能登国の調(律令制度の現物納租税の1つ。繊維製品、海産物、鉱産物など土地の特産物などを徴収した)として上納されていたことが知られている。中世・室町時代においては守護畠山氏(
畠山義統
、
義元
など)から足利将軍家に頻繁に贈られたりしている。また近世にあっても所口商人らによって藩主前田公に献上されていた。それらの藩主の食膳や進物に使用される分は、「御用海鼠」を扱う(所口木町)中挟屋(なかさや)助五郎(資料によっては助三郎となっている)、(所口中町)殿村屋市右衛門、(同・中町)信濃屋与三右衛門、(同・中町)熊木屋仁兵衛などの串海鼠(くちこ)問屋によって金沢城下町の魚問屋に送られ、ここから城中に買い上げられた。
※延喜式:弘仁式・貞観式の後を受けて編集された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。延喜5年(905)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、延長5年(927)撰進。康保4年(967)施行。
海鼠は、生のままでも食べられるが、能登では煎海鼠(いりこ)という加工品も多く作られました。煎海鼠は、海鼠を鍋で煎りあげたもので、その乾燥方法により、ぶらこ・串海鼠・縄海鼠・つなぎ海鼠(連子(れんこ))とも呼ばれた。とりわけ江戸時・代藩政期においては煎海鼠は「俵物」の1つに数えられていたこともあり、加賀藩の産業奨励の後押しもあり、積極的に作られました。俵物とは、近世長崎貿易の主要な輸出品のことで、煎海鼠と干鮑(ほしあわび)の2品(のち鱶鰭(ふかひれ)も加わり3品となる)で、俵詰めにされ輸出された事からこう総称されていました。煎海鼠は今ではあまり中国料理に使われませんが、昔の中国では、高級食材として珍重されていたのです。そのため、輸入品の対価として支払われた金銀銅の海外流出を防ぐ目的も相まって、煎海鼠は盛んに輸出されていました。煎海鼠など俵物は、幕末の慶応元年(1865)の自由販売にいたるまでの間、幕府は一定量の中国向け煎海鼠を確保するため、各藩の割当量を決め、長崎・大坂などにおいて集荷されました。加賀藩の割当は、年間510貫、領内では七尾湾に面する鹿島郡の村々であった。加賀藩側でも、「長崎俵物御用」として海鼠の専売制を敷いて脇売を禁じました。この御用を務めたのが享保13年(1728)に煎海鼠問屋として藩の許可を得た所口町字豆腐町の魚問屋商人・塩屋清五郎であり、村々で煎られた海鼠を半製品の状態で集荷し、船などで、大坂に運び大坂町奉行所を通して、長崎俵物役所へ送られました。塩屋清五郎の権益が莫大であったためその利権を巡り、寛延4年(1751)、天明5年の2度にわたり幕府の調査の手が入るほどでありました。天明5年には江戸役人・平井弥三次・長崎会所役人北島栄次平・春梅次郎らが※塩屋清五郎(岩城穆斉)の煎海鼠専売の様子を調べに、能登までやってきましたが、不正はなく逆に生産者から塩屋の徳を称えたり、このまま塩屋を通して生業を続けたいという声ばかり返ってきて、かえって春梅次郎が自殺に追い込まれることになりました。また、その際、新たに海鼠猟に参入しようとした祖浜村(現七尾市祖浜)の新浦取立てが出願されたましが、所口魚町や小島村(現七尾市小島町)など近辺諸村の反対によってその意は達せられませんでした。
※
塩屋清五郎(岩城穆斉)については、「七尾の江戸時代の学問と文芸」にも詳しく書いてあるので、知りたい方はココをクリックしてください
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文政元年〜文政11年(1818〜28)頃には、小島村・津向村(現七尾市津向町)と御預所(旧幕府直轄領)の石崎村(現七尾市石崎町)との間に海鼠猟・鰯漁を巡る争論が起こりました。事件は、所口町の四十物(あいもの)商人をも巻き込んで複雑化したが、漁法・漁業権への考え方や領主支配の相違の為に問題は容易に解決しませんでした。
慶応元年に俵物の販売が自由化されると、幕府による価格統制はなくなり、価格が一挙に高騰しました。幕末、百万石という看板とは裏腹に財政危機にあった加賀藩は、収入増量の好機と、算用場(加賀藩の財政を管掌していた役所)が直接に買い上げ、これを金沢の商人の入れ札で払い下げられるようになりました。
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