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七尾の江戸時代の学問と文芸

興味のある項目へジャンプ! 1)儒教
2)和歌と俳諧
3)蘭学 4)紀行文と七尾

(200311月4日一部加筆修正)

1)儒教
 江戸時代、七尾は儒教が盛んであった。それをささえたのは実は、岩城家(屋号は塩屋)という廻船業の一族であった。長くなるので、詳しいことはリンクの別頁にて述べたい。
  江戸時代能登を代表する文化人を輩出した一族・廻船業者・岩城家

2)和歌と俳諧
和歌に関して)
和歌に関しては、七尾は、応仁の乱当時、連歌で有名であった、宗祇(連歌会最高の名誉職宗匠を与えられた人)や、冷泉為広・為和父子などが尋ねてきたことからもわかるように、畠山文化の影響で早くから親しみ古くから盛んであった。七尾の各地の神社に「三十六歌仙額」が奉納されている。三十六歌仙額とは、歌仙と呼ばれた36人の名高い歌人の絵姿に詠歌一首を添えた扁額である。
 
(三十六歌仙額)
1.
矢田松尾天神社には、七尾城址の麓に鎮座し、能登畠山氏の守護神であったと伝えられているだけに、現在市指定文化財になっている「天満天神宮三十六歌仙額」36面(一面一歌仙の形式)が残されている。江戸初頭の慶長14年(1609)2月25日、七尾に居住する前田の家臣と見られる高山織部助その他35名の武士達が、奉納したものである。
その狙いは、前年に棟上げした天満天神拝殿の完成を祝い、その殿内を荘厳にして法楽(ほうらく)することであった。しかも、その奉納日は、菅原道真の命日にあたる2月25日の天神忌であった。正中に天満天神をいただき、その両側を束帯や唐衣装の華やかな歌仙たちが、左右18面ずつ歌合の態をなして掲げられたのである。これは単に歌が神意にかなうということでは言い尽くせない意味が秘められている。
言うまでもなく、天神様は詩文の神様として広く崇められているが、とりわけ連歌の道においては守護神として厚く崇敬された。連歌会では、天神の絵像や名号を掲げる習わしがあり、その周囲を歌仙額で荘厳することがあった。つまり三十六歌仙額で飾られた天満天神社の殿内は、さながら連歌会所のようであり、
天神法楽の名のもとにおこなわれた連歌会の光景を想起させるものである。
いきおい、これは天満天神社において法楽連歌が行われていたことを窺わせている。してみると、寄進者となった一座の武士は、連歌興行に参画した連衆(れんじゅ)達ではなかったろうか。外来の前田氏の家臣達にとって、連歌は単なる風雅を楽しむものではなく、連句によって一味同心を確認する恰好の機会であったろう。すなわち、この三十六歌仙図奉納の背景には、法楽連歌に仮託した初期前田家臣団の和合があったとみられる。
もとより戦国期には、畠山氏の旺盛な文芸活動が知られ、矢田金台寺などで北野法楽連歌が張行されたいた。畠山連歌と松尾天神社との関係を示す資料は知らないが、この三十六歌仙図額を通して畠山連歌の遺風も感じられる。
その他にも
2.
古府惣社には、極彩色の三十六歌仙額がある。これは、寛永15年(1638)2がつ、七尾の町人、後藤彦左衛門が、寄進したものである。
大田熊野神社にも、また三十六歌仙額がある。これは、寛文4年(1664)9月9日、東新町大工市郎右衛門・府中町六右衛門・魚町八兵衛はじめ多くの町人が、同じく三十六歌仙額を、大田熊野神社(菅原道真)の神前に奉納したものである。
俳諧に関して)
元禄時代は、七尾で俳諧がもっとも盛んだった時代である。元禄2年に松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅に出て、金沢をはじめ加賀地方にやってきていますが、その頃の七尾の俳人達は芭蕉の俳諧の影響はあまり受けていません。芭蕉は、金沢・小松に足跡を残したが、辺鄙な能登には来ていないので、蕉風は吹かず、相変わらず貞門派の俳句が親しまれたのだ、という人もあるが、と言うより、、京都や大坂との往来が盛んで、そちらの貞門派の宗匠の指導を早くから受けていたから、簡単には蕉風には転派できなかったのである。下記の貞門派の俳人達が、この頃は俳書を刊行したのは、貞門派の前途を案じて七尾貞門派の集大成の意味もあったと思われる。それで「能登釜」、「櫟炭(くぬぎすみ)」「珠洲之海」の3書とも京都の池西言水・滝方山・爪木晩山などの貞門派重鎮が文や句を寄せているのである。
菊池提要が、京・大坂で連歌を張行し、句集「能登釜」を元禄12年(1699)京都の版元から出版。涼風軒と号した。貞門派。
代表的な句、「花売りもさのみ欲なし神の梅」「晩鐘の音に動せぬ柳かな」「城山や今夏艸(草)の露一つ」
大野長久が、句集「櫟炭(くぬぎすみ)」を元禄13年(1700)京都の版元から出版。細流軒と号した。貞徳の高弟吟花堂晩山を師とする長久は、貞徳の句を冒頭に載せ、晩山に序を求めた。同書には、岩城長好など七尾の俳人も多い。
代表的な句、「咲花や所の口のふし拝み」「二またや股(もも)迄渡る御祓川」「年の端や長き七尾のかさり縄」
勝木勤文(かつききんぶん)が、句集「珠洲之海」を元禄13年(1700)京都の版元から出版。余力堂を名乗る。談林派の言水や蕉門派の其角などと交流のあった人で、七尾俳壇に新風を吹き込んだ。ただし貞門派に入れられる。
代表的な句、「里の人鵜に使はるる神事哉」「二またや誰かあた恋の御祓川」
ところで、勝木勤文は、勤文ではなく勒文(ろくぶみ)ではないかとの説もある。「珠洲之海」で勤文が、『万葉集』の能登の歌を万葉仮名で紹介し、自分の句を紹介している。これは80歳の老齢から『万葉集』の研究に没頭した貞門に学んでのことであり、加賀藩における『万葉集』研究の草分け的なものでありまた、地誌のさきがけ的な本であった。俳書のみならず、「能登の名跡誌」の基本書となったことも高く評価して良い。勤文の子孫は七尾町で蝋燭屋さんを営んでいたと伝えるが詳細は不明である。
大野亀吉(大野長久の孫)が、長久の追善句集「俳諧三年草」を、宝永元年(1704)に出版している。
岩城司鱸(いわきしろ)(初代塩屋清五郎)は、1740年代前後、俳諧で活躍した。名を令徳といい、司鱸と号した。

蘭学
江戸時代後期、七尾の医師・安田竹荘(やすだちくそう)は、儒学や蘭学を学び、その集めた蔵書は数万冊に達し、「香島文庫」と呼ばれた。
<志摩則正・好と開方盤>
文化文政の頃、七尾の
志摩好矩(よしかね)・則正(のりまさ)父子は、数学者として名高く、2人が考案したソロバンは、縦8段、横23段で、高次方程式を解くことの出来るすぐれたものだった。
江戸時代に各地に普及した関流(せきりゅう)の和算加賀藩に伝わったのは正徳から享保(1711〜1736)の頃だとされているが、金沢や富山などにも和算の稽古所が開かれた。たとえば、天保2年(1831)11月に出版された「関流高木門人諸方算者見立角力
(しょほうさんじゃみたてずもう)」という番付は、越中富山の和算家高木吉兵衛広当の門人をあまねく紹介したものであるが、富山湾沿岸一帯に門弟が分布しており、七尾在住と思われる者も十数名見受けられる。
その中でも行司として登場する
志摩則正は、文政13年(1830)8月、穴水の美麻那比古(みまなひこ)神社に1枚の算額を奉納しており、それは長谷部信連に発する名家の長家の紋である「銭九曜」を題材として、「大円と小円の直径」を求める和算額であった。これに先立ち文政6年(1823)9月には熊木の久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社にも算額を奉納しているが、これらの額には「関流越之中州富山高木久蔵允胤(ただたね)門人七尾志摩吉左衛門則正」と記されている。
志摩好矩、高木門流で学び、先に紹介した番付では東の小結に列している。好矩は、屋号を丹後屋と言い、吉兵衛と称した。則正は好矩の子とされているが、この番付から類推すると、則正の子が好矩と見るべきであろうか。いずれにせよ則正と好矩は、概(おおむ)ね寛政から天保(1798〜1838)の頃にかけて「算法矩合」「算法展鼠解」「算法術解」「和算遺墨」など和算書を著わしており、文政年間頃には稽古所を開き、門弟を募った。好矩が考案したとされる開方盤上段一珠・下段五珠を八段・二十四桁に配した算盤である。和算においては、方眼紙に算木を布いて行なうそれまでの高次計算方法に代わり6乗計算まで可能にした点で全国に類を見ないものであった。好矩は天保9年(1838)4月に没している。

4)紀行文と七尾
能登を訪れて紀行文を残した文人・墨客は多い。それらの紀行文は能登各地を巡り、その土地の名所・旧蹟を訪ね、いずれも深い感銘をもって生き生きと描かれている。七尾についても、町のたたずまい、七尾城址、妙観院や小島の寺々、青柏祭などの祭礼、和倉温泉などの記述も多い。
七尾町は、「家居のいつくしさ、市町のにぎはしさ、片田舎かたくななるには似も似ず、人の心のすなほなるに、所の景気のすぐれたる。とかく風土のよろしき故ならんとおもはる」(『三日月の記』)、「七尾家数三千あまり、いらかをつらね物あきなふ店立ちて、往来いとにぎわし」(『能登日記』)とあるように、能登国第一の都としておおいに賑わっていた。
どの紀行文も湧浦・石崎をはじめ、屏風浦・男嶋・女嶋などの景色を眺め、その素晴らしさに絶賛しているが、特に妙観院については、「小嶋妙観院、境内秀景限なし」、「観音堂にのぼれば、海山を詠めて佳景の地也」と古くから景勝の地として知られており、妙観院から見る景色は絶景であった。
また、和倉温泉も多くの人々が訪れているが、当時の様子を見ると、「湯ざやは前口六間奥行四間にして、中にも柱二本を建、四方さくみ、前に六尺入口あり。其角を二間四方女湯に圍ひ、さくみの方に三尺の入口あり。ここにも桶をならべて、皆汲湯にして潮を指合して入。(略)入口左の方に三尺六尺の押込あり。屋根は板にてふく。昔は此湯島の渡し舟なりしに、近年橋架るゆゑ、宿々よりも又経橋をなす。打付欄干にてあさまなるもの也」(『能登日記』)とあり、以前舟にて渡っていたところ、陸から島まで板橋を架し、湯屋に小屋まで設けられていることなど、変遷も窺い知ることができる。

能 登 紀 行 一 覧
書名著者期間(刊行年)概要
三日月の日記浅加久敬加賀藩士元禄9年4月3日〜6月3日奥能登出船御用のため
珠洲之海勝木勒文七尾の俳人元禄13年(1700)俳書、一部能登の名跡の記事
能登一覧記作者不明(加賀藩士)宝永元年(1704)4月5日〜4月29日能登国巡見記
能登浦伝浅加久敬加賀藩士宝永6年(1709)2月27日〜6月12日奥能登出船御用のため、輪島を拠点とし外浦記事が多い。
能州紀行森田盛昌加賀藩士享保2年(1717)3月10日〜5月30日能州口郡出船御用のため、田鶴浜を拠点。
能北日記今枝恒明加賀藩士享保12年(1727)7月25日〜8月20日和倉湯治として能登に入り、各地で鷹狩した日記
能登の海九淵斉由巳輪島の人天明7年(1787)鳳至郡を中心とした能登故事編纂物
能登遊記金子鶴邨鶴来の儒者文化13年(1816)3月21日〜5月22日内浦を遊覧、漢文の紀行文
能登日記田辺政己加賀藩士文化14年(1817)10月1日〜10月22日藩命によるが目的不明。能登巡覧記。
10能州日暦宝田 敬新川郡の十村天保7年(1837)4月8日〜5月2日十村笠師村三輪宇八郎と、鳳至郡へ漁場争い裁定のため。
11能登遊嚢(ゆうのう)毛利半山金沢の儒者嘉永7年(1854)遊嚢詩集
12能州遊よう綿引東海常陸の文人明治24年(1891)12月23日〜明治25年6月7日和倉温泉を拠点とし、能登各地を巡覧。
13能登日記武藤元信金沢の文人明治27年(1894)8月26日〜8月29日珠洲郡国語講習会出席のため。
14能登紀行村上珍休小田原の文人明治29年(1896)7月14日〜7月21日漢文の紀行文
※注石川県図書館協会刊行『能登路の旅』、『続・能登路の旅』に収録された紀行文を年代順の編成をした。なお、表中最後にある○印の本は、「続」に掲載されていることを示す

(参考文献)
「先人群像・上」(石川県図書館協会)、「広辞苑」(岩波書店)、「能登風土記」(佐々波與佐次郎著)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)

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