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畠山義統(はたけやまよしむね)(?〜1497)

(1999年9月18日制作、9月28日更新)

畠山義忠 の嫡孫で、同 義有 の子。義忠の嫡子であった父義有が、永享9年(1437)頃、大和河内方面の擾乱鎮圧に赴き、戦死したため、幼くして家督後継者に定められた。康正元年(1455)すでに能登守護に補任されていた年少の義統が左衛門佐に任じられており、引退した前守護の祖父義忠の後見のもとに、その地位に就いていたらしい。3代目当主である。祖父の義忠は畠山氏の内紛では 畠山宗家の畠山義就 とともに戦ったが、寛正元年(1460)の義就追放の時、引退した。祖父の大原隠棲後は、自立して将軍の御相伴衆にも列しており、畠山一族の内紛では、畠山持国・同義就派を支持した。守護代としては、譜代の遊佐秀統を起用している。応仁の乱においては、畠山政長と結ぶ管領細川勝元らの東軍に対抗して、山名宗全・畠山義就らと共闘し、西軍の主力を構成している。この立場は、祖父義忠の志を受け継ぐもので、同時に弟の次郎政国が、宗家の畠山義就の猶子となっていた関係によるものであった。
だが、文明2年(1470)10月、義統と義就の間に不和が生じ、弟政国が越前で朝倉孝景に殺害された事件が起こった頃から、次第に戦意を喪失したらしいが、文明9年(1477)11月、応仁の乱の終結によって分国能登に下向するまでの間は、一応西軍の間にとどまり、節を変えなかった。従って以後、義統は能登に在国して、守護支配の再建・強化に努めるが、文明11年(1479)には、越後守護の上杉房定と結んで、畠山宗家の分国越中への侵攻を企てるなど、北陸においてすこぶる勢力があった。と同時に他方では、この間、室町将軍家に、進物を贈っており、幕府における地歩の回復に向けた努力も怠っていない。
こうした義統の分国における勢威を頼って、応仁の乱後、能の観世大夫や和歌の招月庵正広など、 京都文化人の能登下向 が見られ、鹿島郡府中の守護館では、和歌や連歌の会が催されることもたびたびあった。また、義統は、亨禄年間(1528-32)当時禅僧の間でも師儒といわれて尊敬を集めていた清生宣賢を京都より招き『孟子趙注』や『中庸章句』などの講義を受け、文化人大名として知られている。しかし、当時の北陸は、加賀や越中の一向一揆の台頭によって、政治的昏迷の色を深めており、長享2年(1488)には幕命により加賀に出兵して一向一揆と戦った。能登でも一向一揆による反乱の企てもみられたが、義統はその弾圧に成功し未然に防いだ。それにより能登畠山氏領国の基礎を固めた。明応2年(1493)越中に走った前将軍足利義材(のち義稙)を奉じて京都奪還をはかるが成功しなかった。義統は晩年、中風を患っており、明応6年(1497)8月20日、守護館で死去したが、その人柄は、信仰心に厚く、風雅に富み、思慮深く、重厚さに満ちていたといわれる。幼くして父に死別し、文芸に長じた祖父の薫陶を受けたことと、一族の内紛と応仁の乱の激動を生き抜いた、守護在職40年間の政治体験が、彼の人格形成に大きく影響していたものであろう。法名は、大寧寺殿大彦徳孫大禅定門。菩提寺大寧寺(廃寺)は、死後、能登府中の付近(石川県七尾市内)に創建された。
彼に仕えた家臣としては、松波義智、天野次郎、井上統英、隠岐統朝、平光知、寺岡紹春、温井孝宗、温井統永、吉見統範、吉見統頼などがいる。なお、家臣に「統」の字が多いのは、当主、義統の編諱であろう。
なお、文明6年(1477)、義統の3男義智が現内浦町松波に入り、松波城を築いたのが、 松波畠山氏 の始まりである。能登畠山家の庶流である。、常陸守を称した。以後、歴代の松波畠山当主は、常陸守から一階級おとした常陸介を名乗る。初代を、畏敬してのことであろうか。所領の知行高(及び石高)は、松波一帯のの約3千貫(11100石)である。

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