このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

畠山義有 (はたけやまよしあり)

畠山晴俊 (はたけやまはるとし)(?〜1558)

畠山家俊 (はたけやまいえとし)(?〜1531)

松波義親 (まつなみよしちか)(?〜1573)
Cool金沢出張所 「歴史/本記&歴史/外伝」 「人物列伝&人物異聞」 「能登畠山氏当主及び主要人物」

(1999年9月20日作成)


畠山義有 (はたけやまよしあり)
畠山義忠 の嫡子で、同義統の父。治部少輔を称し、後に阿波守の官途を受けていたらしい。永享5年(1533)、京都北野社に法楽百首歌会を張行したのを始め、石清水八幡宮に和歌百種の奉納をおこなったり、、自邸で歌会を催したりしており、父義忠の影響を受けて歌道に熱心であった。従って、当代歌壇の中心的存在であった招月庵正徹らとの雅交もはかられ、将来を渇望されていたが、永享11・12年(1439・40)頃、大和方面での凶徒鎮圧の幕府軍に加わり、陣中で若くして病没した。そのため、能登畠山の家督は、義有の父義忠から義有の子 畠山義統 へと、嫡孫に継承されることとなった。

畠山晴俊 (はたけやまはるとし)

能登畠山氏の一族であるが、系譜関係は不明。仮名(けみょう)は四郎。天文24年(1555)に起こった能登の内乱において、畠山七人衆(年寄衆)のうちの温井続宗・神保総誠・三宅綱賢に擁立され、反乱軍の盟主として、大名畠山義綱らを七尾籠城に追い込んだ。
晴俊らの軍事行動は、長延寺実了を介して、甲斐の武田晴信や加賀の一向一揆と結んでおり、阿岸本願寺など能登一向一揆の呼応を得て戦勝を重ね、弘治3年(1557)頃までの間、口能登周辺を占拠し、鹿島郡の勝山城を拠点として、占拠地支配を展開した。だが、やがて、越後の長尾景虎や越中の椎名宮千代の支援を受けた 畠山義綱 ら七尾城方の反撃に遭い、弘治4年頃に至り、勝山城は陥落し、晴俊らは敗死した。
晴俊の一字は、将軍足利義晴の偏諱と思われるが、『幕府申次日記』に見える、天文14年(1545)3月、将軍義晴に太刀など献上して、家督の相続を謝した、畠山四郎が、晴俊と同人か否かは定かではない。

畠山家俊 (はたけやまいえとし)
能登畠山氏の一族ではあるが、系譜関係は不明である。羽咋郡鉈打郷の西谷内城主畠山政栄の子と言われ、大隅守の官途を受領す。
享禄4年(1531)12月、加賀一向一揆の内紛(享禄の錯乱)に際し、若松本泉寺ら加賀の3ヶ寺を救援するため、 畠山義総 の派遣軍の主将として出陣したが、加賀国河北郡太田の合戦で戦死した。本願寺蓮如の後妻蓮能尼は、家俊の姉と言われ、公家の万里小路惟房の妻(輔房の母)は、彼の娘である。

松波義親 (まつなみよしちか)
畠山義綱の子(三男か?)。常陸介と称す。天正初年頃、奥能登の有力国人 松波畠山氏 を相続した。ただし、この松波畠山氏は、もともとは能登畠山氏3代 畠山義統 の3男畠山義智が創設したもので、いわば能登畠山氏の庶流だったが、時間の流れとともに国人衆のようになっていた。このため松波氏は、再度、能登畠山氏の一門に列し、その居城松波城は、七尾本城の支城的役割を担うようになった。天正元年(1573)、義親の長兄義慶とその一族家臣が、一宮気多社に奉加した交名に見える「松波常陸」は、彼の養父と思われるが、この段階では、義親の松波氏への入婿は、いまだはかられていなかったらしい。
天正5年(1577)9月25日、越後上杉謙信の攻略に際し、その武将長沢光国に攻められ、義親は敗死したという。義親の妻は、京都の公家烏丸氏の娘とも伝えられる。法名は、福翁常満居士といい、石川県珠洲郡内浦町の万福寺に葬られているが、義親および松波畠山氏の事蹟や性格には、不明な点が多い。

なお、ここでは畠山義綱氏のHPの 「その他の一門衆」「松波畠山氏とは?」
「畠山歴代当主とその家臣」 は色々と参考にさせてもらったのでここに記しておく

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