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畠山義綱(はたけやまよしつな)(?〜1593)

(1999年9月20日作成、9月28日更新)


  畠山義続 の嫡男。仮名(けみょう)を次郎と称す。天文20年(1551)末から翌21年初頭の頃、父義続が引退した跡を受けて家督を相続し、能登守護(七尾城主)となる(第9代当主)。当時の能登は、重臣 畠山七人衆 が領国の主導権を掌握しており、大名権力の失墜は著しく、実質的には、父義続が年少の当主義綱の後見的役割を果たしていた。
義綱の戦国大名(能登畠山氏の当主)としての活動が、具体的に知られるようになるのは、七人衆体制の分裂にともなう 「弘治の内乱」 時においてである。当時、一族の 畠山晴俊 を擁立し、一向一揆とも結ぶ温井続宗・神保総誠らの反乱により、七尾篭城を続けていた義綱が、弘治2年(1556)秋頃から、国人・土豪層の再掌握を通じて、軍事力の増強を試みるようになるのが確認できる。この頃から、義綱の自立した行動が見えることになり、弘治3年(1558)頃には、反乱軍の拠る鹿島郡の勝山城を陥落させた。次いで、温井・三宅氏残党の能登侵攻もはかられたが、永禄3年(1560)には、その掃討も一段落し、大名権力の回復に伴う義綱専制が成立した。 ここに詳細を記すと、畠山義続とかなり内容がダブッてしまうので、詳しくは 畠山義続 の項をみてもらいたい。
義綱は、長連理・井上英教らの奉行人を通して、領国支配の再編をはかる一方、永禄5年(1562)には、能登一宮気多社の造営も行っている。また、これに先立つ永禄3年には、修理大夫の官途を受領していた。だが、義綱政権を支える重臣の長続連・遊佐続光と飯川光誠の間で、やがて反目が生じ、加えて義綱専制への反目も強まると、彼は能登から追放され、父義続や飯川光誠らとともに、永禄9年(1565)9月、近江国坂本に逃れた。
義綱追放後の能登では、幼少の彼の嫡子次郎義慶が、長・遊佐氏らによって擁立されたが、義綱は、永禄11年81568)5月、能登入国作戦を企て、七尾城へと急迫した。しかし、やがて義綱方将士の間で離反が相次ぎ、彼は捲土重来を期して、やむなく能登から近江へと撤退する。以後、義綱の入国工作は、能登畠山氏滅亡(天正5年9月)直前の天正4年(1576)に至るまで、執拗なほどに続けられたが、ついに実現しなかった。
能登出奔後の義綱は、父義続とともに、京都や近江の付近に移り住んだが、長く生き長らえ、流浪の末、文禄2年(1593)12月21日、近江の国伊香郡の余呉浦で、波乱に富んだ生涯を閉じた。法名は興禅院殿華岳徳栄大居士。妻は、近江六角義賢の娘という。また、彼は能登出奔直後、「義胤」と一時改名したが、天正初年頃には、再びもとの「義綱」に復していた。なお、彼の前期の花押には、祖父義総のそれに酷似した形態が認められ、戦国中期の能登に、30年間にわたる政治的安定と、文芸活動の高揚をもたらした祖父の政治的姿勢に、深い憧憬の念を抱いていたのがわかる。

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