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畠山七人衆と弘治の乱
(2001年3月28日加筆修正)
天文14年(1545)7月、戦国時代の能登で30年間にわたって領国の安泰を維持し、能登畠山家の黄金時代を築いた
畠山義総
が、この世を去ると、嫡男畠山義繁(よししげ)がすでに亡くなっていたため、かわって次男の
畠山義続(よしつぐ)
が家督を相続し、七尾城主となった。しかし同16年閏7月、さきに畠山家の内紛で加賀に亡命していた叔父の畠山駿河(義総の弟)らが能登に乱入するに至り、能登畠山氏の領国体制に動揺が生じた。 この侵攻は、近臣の温井一族が奮戦して撃退した(押水の戦い)が、これを契機に、
温井総貞(ぬくいふさただ)
の政治的台頭が図られた。
温井総貞はその後、天文19年(1550)7月から、守護代の系譜を引く重臣・
遊佐続光(ゆさつぐみつ)
と、畠山義続政権下の主導権を争い、権力抗争が生じた。遊佐続光は、室町以来の能登守護代を務めた遊佐氏嫡系で、畠山家臣の中で随一の家柄であり、総貞は、先代の畠山義総の近臣No.1の立場にあった実力者であり、義続体制の中でも、その勢威は他をはるかに圧倒していた。義総時代に、おそらく永正の乱の反省からであろう、守護代の世襲をやめ、別の近臣団を育てることにより、有力家臣の台頭をおさえる政策がとられた。義総の政治手腕のもとでは抵抗できなかった遊佐続光だが、義続政権での温井氏の台頭を見て、このままでは遊佐氏が排除されてしまうと感じたのだろう。やられる前にやれ、ということではなかろうか。遊佐続光は遊佐一族嫡系当主という武士の面子をかけて、権力奪取の戦いに挑んだ。
遊佐・温井両派の抗争にともなう内乱は、篭城する畠山義続・温井総貞サイドに対して、遊佐続光一党は七尾城外に出て、石動山衆徒や、加賀の洲崎氏を中心とする一向宗徒らと結んで、七尾城を包囲する形で展開された。この間、石動山や城下の周辺では、たびたび激しい戦闘が繰返された。しかし、翌20年(1551)の春に至り、七尾城方が攻勢に転じたことなどから、両派の和睦が成立し、内乱はいったんは収束した。
しかし、大名・
畠山義続
の権威失墜は著しく、ついに遊佐続光・温井紹春(じょうしゅん)(総貞)・
長続連
・
三宅総広
・平総知・伊丹総堅・
遊佐宗円(そうえん)
の重臣7名が、年寄衆(としよりしゅう)となって領国支配の実権を掌握し、いわゆる「畠山七人衆」が成立すした。義続は、20年の暮ごろ隠居し(入道悳祐)、あらたに家督の地位に就いた嫡男・
畠山義綱(よしつな)
の後見人となり、父子の連携によって、七人衆を牽制した。
その後も依然として、七人衆の間に確執が見られ、再度温井紹春との抗争に敗れた遊佐続光は、いったん国外に逃れた。天文22年(1553)暮12月、続光は河内の畠山宗家の被官らの支援を得て、能登に侵攻したが、大槻の合戦(鹿島郡鳥屋町)や
一宮の合戦
(羽咋市一宮)で、七尾城方の温井勢に大敗し、続光は命からがら越前国へ逃亡した。この時、遊佐勢に加担し、討ち取られた者に、遊佐一族や年寄衆の伊丹続堅(つぐかた)など、畠山譜代の家臣が多かった。
この内乱の後、温井紹春の主導で七人衆の再編が図られ、従来の長続連・三宅総広・遊佐宗円に、
神保総誠・飯川光誠
・
温井続宗
・
三宅綱賢
が新たに加わった。だが七人衆体制の実権は、依然として引退した温井紹春(総貞)が握っており、これが弘治元年(1555)に至り、大名権力の回復を企てる、畠山悳裕(とくゆう)(義統)・義綱父子による紹春暗殺事件につながった。
畠山七人衆は、そこで再び分裂し、温井紹春(総貞)の与党だった温井続宗・三宅総広・神保総誠ら一党は、いったん加賀に逃れたが、天文24年(1555)9月頃、甲斐の武田晴信(信玄)や本願寺・顕如(加賀・能登の一向一揆)の支援を受け、畠山一族の
畠山四郎晴俊(はるとし)
を擁立して進撃し、口能登一帯を占領し、鹿島郡の勝山城(現鹿島郡芹川)に拠った。これに対して、畠山義綱を支える飯川光誠・長続光らの七尾城方は、越前から帰参した遊佐続光らを加え、七尾城に篭城し、温井・三宅・神保方と対峙した(弘治の内乱)。しかし、永禄元年(1558)3月頃には、七尾城方が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の加勢を得て攻勢に転じ、勝山城は陥落し、温井ら一党は再び加賀に撤退した。そののち温井氏残党の能登への乱入もあったが、同3年には6年間に及ぶ内乱も鎮静した。その結果、畠山義綱政権の建て直しがはかられ、大名畠山義綱の専制的立場が強まった。義綱は、領国経営にあたる奉行衆に、近臣を登用したり、一宮気多(けた)社の造営などを通して、大名権力の強化を企てたが、やがてそれは、重臣層(年寄衆)の反発を生んだ。
永禄9年(1566)9月、
畠山悳裕(義続)
・
畠山義綱
父子と側近の飯川光誠らは、長続光・遊佐続光らの重臣たちに追われ、能登から近江国へ出奔した。その結果、長続連・遊佐続光ら年寄衆が、義綱の子息・
畠山義慶(よしのり)
を七尾城主に擁立し、再び領国の主導権を掌握した。その後、弘治の内乱で加賀に逃れていた温井景隆と三宅長盛ら温井一党も復帰し、再び年寄衆の合議制による領国支配体制が採られるようになった。
畠山父子の能登帰国作戦、以後度々試みられた。永禄11年(1568)には、軍勢を率いて能登に侵攻し、七尾城周辺の出城群を一時占拠したが、やがて次第に味方将士の離反にあい、成功しなかった。そのため畠山父子は能登を撤退し、再び能登の地を踏むことはなかった。
年寄衆による合議制の支配体制ができた時点で、義慶は傀儡化していたが、義綱の侵攻がなくなると、専横化は更に強まり、その後、義慶は(おそらく毒殺などによる暗殺であろう)変死を遂げ、代わって弟の
義隆
が家督を継いだ。
(参考図書)「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)、
「かしまの歴史探訪」(鹿島町教育委員会)、「石川県の歴史」(山川出版社)
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