このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

畠山義慶(はたけやまよしのり)(?〜1574)
畠山義隆(はたけやまよしたか)(?〜1576)
畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)(?〜1577)

(1999年9月20日作成、21日更新)

畠山義慶(はたけやまよしのり)
 畠山義綱の嫡子。仮名(けみょう)を次郎という。永禄9年(1566)、 祖父悳祐(義続)父義綱 らが、重臣遊佐続光・長続連や八代俊盛によって能登から追放されたのち、幼少の身で擁立あれ、やがて家督を相続し、七尾城主となった(第10代当主)。
その後、義慶政権は、温井景隆・長続連・平尭知・遊佐盛光の、若手の年寄り衆によって支えられ、佐脇綱盛らを中心とする奉行人制も整備された。天正元年(1573)には、すでに修理大夫の官途を受けており、同年4月、一宮気多社の摂社白山・若宮両社の造営を行っている。
しかし、重臣層の間では、複雑な権力の確執が内在しており、越後上杉謙信との表面上の提携関係とは裏腹に、温井氏が加賀の一向一揆と、長氏が織田信長とそれぞれ密に結ぶ動きもあり、義慶の立場は不安定であった。このような状況の中で、天正2年(1574)、義慶は変死を遂げた。その真相は定かでなく、うやむやのうちに迷宮入りとなったらしい。おそらく重臣層の何者かによって暗殺されたものであろう。遺存する義慶の鋭い大ぶりの型の花押から、剛直な若武者のイメージが偲ばれる。

畠山義隆(はたけやまよしたか)

畠山義綱の子(次男か?)。父義綱らが出奔したのち、兄の次郎義慶が家督を相続すると、二本松伊賀守と名乗ってそれを補佐した。奥州二本松の畠山の一族で、能登に来住していたものの名跡を継いだものであろうか。
天正2年(1574)、兄義慶が変死すると、義隆は暫定的にその跡を襲ったらしい(第11代当主)が、天正4年(1576)2月4日、若くして急死したという。翌5年9月、上杉謙信の攻略によって七尾城は陥落し、能登畠山氏は滅亡するが、その際、謙信は義隆の妻(京都公家三条家の娘)と遺児1人を、越後に連れ帰り、妻を家臣北条景広に再婚させ、遺児を謙信の養子とした。
義隆の事蹟については、不明な部分が多く、義慶と同人である可能性も残されているが、ここではとりあえず別人として扱った。


畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)

畠山義綱の三男。義隆死後、傀儡当主として仕立てられ、七尾城のい戦いでは最後の七尾城主として戦死した人物である。まだ詳しいことは、あまり知らないので、今後徐々に書き加えてゆきたい。

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