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畠山義続(はたけやまよしつぐ)(?〜1590)

(1999年9月20日作成、9月28日更新)


畠山義総 の次男。兄の次郎義繁(義総の嫡男・大用寺殿心月徳安)が、天文2年(1533)6月5日に早世したため、義総の後継者として早くから認められており、家督相続の以前から、左衛門佐の官途を受けていた。天文14年(1545)6月、畠山宗家の稙長が死去するに際し、分家にあたる能登畠山家の義統を、その後継者となすよう遺言したが、同年8月、義続の父義総も死去したため、実現しなかった。
義続は、義総の死後、家督を相続した。能登守護(七尾城主)となったが(第8代当主)、若年であった。家老の遊佐続光はそんな畠山家を補佐する遊佐・神保・平・誉田四家老の筆頭として国政を采配していたようである。だが、遊佐続光の政治施策は、失敗続きで他の重臣や領民から不興を買った。遊佐続光は、失策への批判を粛正で押えつけようとしたが、収まらないので、天文12年、越中より傭兵を呼び込み、一気に事態を収拾しようとした。しかし、その失策及び暴挙が、飯川義宗により畠山義続にしらされる。すると、下克上として遊佐氏が叛旗を翻す。鞍川清房・同清経や平重冬も加わり、大きな戦い(石塚の合戦)となるが、温井総貞、長続連、飯川義宗、飯川義明らの畠山義続軍に撃退され、鞍川清房・同清経は敗死し、遊佐続光は越前へ逃亡した。また、天文16年(1547)閏7月、さきに能登守護から出奔していた叔父の畠山駿河入道(義総の弟)が、一向一揆と結んで乱入し、内乱状態に陥った。これは、重臣温井氏らの奮闘によって撃退したが、それに先立つ同15年11月には、能登一国に徳政令を発布しており、領国支配体制に動揺が見られた。次いで、天文19年(1550)に至り、遊佐続光が再起を賭けて、越後・加賀を経て、能登進入をはかる。 彼は松根城の洲崎兵庫に援軍を頼み、兵五千を率いて進行したが、このとき彼は、「主君に対して他意があってのことではない。 自分を妬み逆心の汚名を着せた同僚へ恨みを晴らす為にやって来た。」と、畠山義続に告げたという。 この進行の決着の詳細はよく伝わっていない。
 だが、翌20年春頃、何らかの和解が為され両派の講和が成立した模様だ。途中の詳しい経緯はわからないが、記録を見ると、義続が引退する頃には、何もなかったかのように、遊佐続光は元の鞘、家老職に居り、飯川義宗、飯川義明・長続連・温井総貞らの家臣らの名が以前と同様に書き連ねてある。
しかし、義続の指導力の低下はすでに覆い難く、この結果、重臣7人( 畠山七人衆 :遊佐続光、温井紹春(総貞)、長続連、三宅総広、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円)が、義続を傀儡化して彼らの合議に基づく領国統治体制を成立させた。義続は剃髪して、左衛門佐入道悳祐(とくゆう)と号し、やがて家督を嫡子次郎 義綱 に譲って、その後見人となり、重臣層の専横を排除する機会を狙った。そのうちに七人衆の間で確執が生まれ、先の遊佐氏の反乱で政治的に台頭した温井氏に対して、譜代で元筆頭家老であった自尊心の強い遊佐続光は、勢力挽回を試みる。しかし、遊佐続光は天文22年(1553)に、またもや温井紹春との抗争で敗れ、国外に逃亡した。天文23年(1554)、河内の畠山宗家の被官(河内遊佐宗家)らの支援を得た遊佐続光は、畠山義綱が家督相続に異議を名目として、能登に侵入して、鹿島郡大槻や羽咋郡一宮で両軍併せて1万以上の兵力となる大合戦を演じるが(大槻・一宮の合戦)、七尾城方の畠山義綱軍(畠山義続、温井総貞、長続連、土居但馬守、加藤将監などを主力とする)に、大敗し、またもや越前へ逃亡する(「能登畠山氏・七尾の歴史」の著者である畠山義綱氏は土肥但馬守が遊佐続光をかくまう としている)。何にしても、面白いのは、この遊佐続光がその後再度帰参して(弘治元年閏10月)、家老職に復帰していることだ。どうして、こんなに何度も復帰可能だったのか、不思議としか言いようない。
合戦後、温井総貞は、隠居して温井紹春を名乗る。この内乱の過程で、温井紹春の主導で七人衆の再編がはかられ、従来の長続連、遊佐宗円に、神保総誠、飯川光誠、温井続宗、三宅綱賢が、新たに加わった。だが7人体制の実権は、依然と隠居した温井紹春が握っており、これが弘治元年(1555)に至り、大名権力の回復を企てる、畠山悳祐(とくゆう)(義続の隠居名)・義綱父子による温井紹春暗殺事件へと繋がった。原因は、権力をさらに握ろうとした紹春が、義綱を幽閉しようと謀ったが、その動きを、長続連が義綱に報告し、逆に、義綱が紹春を連歌の会と偽って、飯川邸に誘い出し暗殺した。これに反発した温井一族及び温井氏と血縁関係にある三宅氏(三宅総広ら)は、いったん加賀に逃れたが、やがて甲斐の武田晴信(信玄)や本願寺顕如の支援を受けて、畠山一族の 四郎晴俊 を擁立して口能登一帯を占領し、鹿島郡の勝山城(現鹿島町芹川)に拠って、七尾城に籠城する畠山義続・畠山義綱方と対峙した。しかし、永禄元年(1558)3月頃には、七尾城方が、越後の長尾景虎(上杉謙信)の加勢を得て攻勢に転じ、その後温井氏残党の能登への乱入もあったが、永禄3年には、能登から温井の残党を一掃し6年間に及ぶ内乱に終止符を打ち、義続・義綱の企図した大名権力の回復は一応成功した。
大名畠山義綱の専制的立場が強まると、彼は、近臣を登用して領国経営の実務にあたらせる一方、一宮気多社の造営などを通して、大名権力の強化を企てた。だがこのことはやがて遊佐続光・長続連ら重臣層の反発を招くことになり、永禄9年(1566)9月、畠山悳祐・義綱父子は、能登国から近江国坂本へと逃れた。
その結果、長続連・遊佐続光ら年寄衆が、義綱の子義慶(よしのり)を七尾城主に擁立し、傀儡君主の下で、再び領国の主導権を握った。
その後、畠山悳祐・義綱父子は、能登入国作戦をしばしば企てたが、次第に味方将士の離反などもあって、成功せず、再び帰国することはなかった。能登畠山氏の滅亡後、12年を経た天正18年(1590)3月12日、他国の空の下で、生き長らえてこの世を去った。法名は、興源院殿霊岩徳(悳)祐大居士。

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