このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
畠山義総(はたけやまよしふさ)(1491〜1545)
(1999年9月20日作成、9月28日更新)
畠山慶致 の子。仮名(けみょう)は次郎。以後、歴代の嗣子は、これを襲名した。再度能登守護の地位についた叔父義元の後継者に、若くして定められた。将軍足利義稙の御供衆として活動した後、永正末年頃の能登の内乱では、永正11年(1514)下国して事態の収拾に調停的役割を果たす一方、叔父を補佐して、当該期における能登畠山氏の大名権力の確立(戦国大名化)に努めた。
従って、病床にあった義元の最晩年には、守護の執務を代行しており、永正12年(1516)9、10月頃、義元が死去すると、その後を襲って家督を相続、能登守護となり、翌13年には左衛門佐の官途を受けた。第7代当主。次いで天文4年(1535)8月、修理大夫に進んで従四位下に叙せられ、翌5年には、剃髪して修理大夫入道悳胤(とくいん)と号し、同11年(1542)5月、幕府内談衆の大館常興の仲介で、管領家の格式に准ずる「道服(どうふく)」着用の許可を受けていた。これらは、戦国中期の能登国の政治的安定を背景に、義総が朝廷や室町幕府将軍足利義晴に度々礼物を贈って、接近を重ねた所産であり、彼の領国(能登)における権威を高める役割を果たした。
この他、永正16、17年(1519〜20)の越中の内乱では、同国の不在守護であった宗家の畠山尚順の要請により、越後守護代の長尾為景と結んで、神保慶宗・一向一揆の討伐をおこなった。以後、義総は領国の主導権を握る越後長尾、越中遊佐・神保らの守護代層と提携し、両越能三国同盟を成立させ、加賀一向一揆を指導する本泉寺蓮悟らとも強調して、北陸の政治情勢の安定化をはかった。
また、義総は、天文8年(1539)6月、当時、将軍足利義晴擁立の中心にいた近江守護六角定頼と姻戚関係を結び、定頼の斡旋しで同年12月、石山本願寺(証如)と和睦し、能登の一向一揆勢力と緊張緩和に腐心するなど、その外交政策には、見るべきものがあった。しかし、義総の一族間では、彼に対する反発があったらしく、天文7年(1538)8月には、庶兄の畠山九郎(義総の弟?)や畠山駿河(義総の弟)・勝禅寺(義総の弟)らが、加賀に遁走し、加賀の一向一揆や能登一向一揆の頭目・羽咋本念寺・阿岸本誓寺らと結んで、能登に進攻する内紛も生じていた。義総の本願寺との講和は、この内訌の拡大に歯止めを試みたものであった。
この他義総には、文芸活動面では注目すべきものがあった。彼は叔父義元に従って在京していた永正11年(1515)に、当代和学(古典研究)の第一人者であった公家の三条西実隆のもとを訪れ、『源氏物語』の講義を受けている。以後、能登に帰国してからも、実隆・公条父子らとの文芸交渉が活発に続けられ、その関心は、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』の古典文学研究から、歌道・儒学・漢詩文・連歌と多岐に及んだ。
また、重臣丸山梅雪の庇護による茶湯愛好など、家臣も多く文芸愛好の傾向があった。このため、畠山義総の文芸愛好熱を頼って、多くの公家・禅僧・連歌師・歌人・猿楽大夫らが、戦乱の都を避けて能登に下向し、都鄙(とひ)文化の交流がはかられた。ここに 能登畠山文化 の黄金期が出現した。
義総政権下の能登では、彼の居城である七尾城の麓に城下町七尾が形成され、それが旧来の守護所のあった府中町と連続して広がりをみせており、武士や商工業者の集住・往来によって活況を呈していた。また、30年間に及ぶ義総の時代には、彼の卓抜した政治的手腕に支えられ、比較的安定した政情を保っていた。能登畠山氏にあっては最盛期と言って過言あるまい。
従って、彼の文芸愛好には、嗜好性が強かったが、他方においては、政治的意義も認められる。武家法である。「貞永式目」の入手や、清原宣賢(公家)・彭叔守仙(禅僧)らから学んだ儒学や仏教の知識は、戦国大名としての政治理念の陶冶(とうや)の上で有効であり、月村斎宗碩(そうせき)ら、都と地方を回遊する連歌師・歌人達がもたらした諸国の情報は、政治的関心の高い彼にとって、貴重であった。
義総は、天文14年(1545)7月12日、この世を去った。享年55歳。法名は興臨院殿伝翁徳(悳)胤大禅定門。京都大徳寺にある塔頭(たっちゅう)の興臨院は、その菩提所である。
なお、義総の時代の守護代は、最初遊佐秀盛、後、遊佐秀頼が務める。また家臣には、畠山政栄、 畠山家俊 、井上総英、笠松但馬守、後藤兵部丞、神保総誠、温井総貞、温井孝宗、平総知、丸山梅雪、三宅続長、三宅総広、三宅総賢、遊佐秀倫、飯川義明、長英連、遊佐慶親などがいる。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |