このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

畠山慶致(はたけやまよしむね)(?〜1525)

Cool金沢出張所 「歴史/本記&歴史/外伝」 「人物列伝&人物異聞」 「能登畠山氏当主及び主要人物」

(1999年9月20日作成、21日更新)

 畠山義統の次男。仮名(けみょう)を弥次郎という。左衛門佐を称す。義統の在世中から父のもとに近侍し、その寵愛を受けていた。明応6年(1497)の義統の死後、兄の左馬助義元が家督を継いだが、家臣の間で反発が多く、同9年(1500)、義元は越後に遁走した。このため、慶致が守護代遊佐秀統や三宅忠俊など、領国経営の中枢にあった重臣層に擁立され、能登守護に就任し、父と同様な左衛門佐の官途を受けることになる。5代目能登畠山当主である。文亀3年(1503)8月20日、父義統の7周忌を、能登国府中の瑞王山大寧寺で盛大に施行したのは、守護慶致の正統的立場を、内外に誇示したのものであった。家臣としては、三宅俊長、三宅俊忠、温井孝宗、温井統永らがいる。
だが、家臣の内には、兄義元を支持する勢力も潜在し加えて永正3年(1506)畿内から北陸にかけて一向一揆の武装蜂起がはかられると、領国能登でも動揺が生じた。このため慶致は、守護家の存続を維持する目的から、越後に逃亡中の兄義元に家督を返還し、併せて慶致の嫡子次郎義総を、将来、義元の後継者とする約束を取り付けた。ここに、能登畠山家臣団の義元・慶致両派は、和睦して一体化し、戦国移行期の難局を切り抜けることになる。
慶致は引退後、剃髪して保寧院徳宗(ほねいいんとくそう)と称して、しばしば京都に上がって、前関白近衛尚通らと家族ぐるみの親交を持つ一方、領国にあっては、義元政権のもとで、嗣子次郎義総の後見人として、引き続き隠然たる勢力を維持していた。また彼は、書道や絵画にも関心が深く、権力志向の強い兄の義元に比べて、枯淡な性格の風雅の士であったらしい。大永5年(1525)閏11月18日、当時、能登畠山氏の家督を相続していた実子の義総にみとられながら、能登七尾城(戦国大名能登畠山氏の居城)で生涯を閉じた。

また畠山義綱氏のHPの 「畠山慶致特集」 及び 「畠山歴代当主とその家臣」 は色々と参考にさせてもらったのでここに記しておく

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