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三宅氏一族
(2001年3月28日加筆修正)
○三宅忠俊(みやけただとし)
能登畠山氏の家臣、三郎右衛門尉。 畠山義統 の近臣。文明年間初めに畠山氏直領の能登国珠洲郡方上保(珠洲市)の代官を務めている。同国鹿島郡八田郷府中(七尾市)に邸があり、文明13年義統の招きで能登に下国した歌人招月庵正広が、忠俊邸の歌会に出席している。その点は主人義統と同様、文化人であり、時々自分の館でも歌会を催したりした。
○三宅俊長(みやけとしなが)
能登畠山氏の家臣。三宅忠俊の子。伊賀守。畠山 義元 ・ 慶致 に仕えた。義元・慶致の確執の後、守護請地羽咋郡土田賀茂荘(志賀町)の代官職を獲得、後に義元政権の老臣となる。永正年間の能登の錯乱では義元・ 義総 を助けた。享禄4年加賀一向一揆の内紛の際、加賀太田の戦いで戦死した。
○三宅総広(みやけふさひろ)
能登畠山氏の家臣。三宅俊長の子。筑前守。畠山 義総 ・ 義続 に仕えた。天文20年能登内乱の後、畠山七人衆に名があり、温井紹春らとともに領国の主導権を握った。天文22年温井氏と遊佐氏の主導権争いでは、温井方について勝利した。
○三宅総賢(みやけふさかた)
能登畠山氏の家臣。彦次郎。畠山 義総 ・ 義続 ・ 義綱 に仕えた。天文23年温井紹春と 遊佐続光 の主導権争いで温井方について勝利した。永禄4年には温井党の反乱を鎮圧した義綱に従う。永禄9年義綱が近江(滋賀県)に出奔したのに従い、能登入国の戦いに加わるが、敗れた。
○三宅綱賢(みやけつなかた)
総方のことか?第2次畠山七人衆の1人。
○三宅新四郎
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では阿曾良、甲を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○三宅小三郎
戦国時代後期の宇出津崎山城に拠った国人といわれる。戦国後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名が見える。給人とは、戦国時代、大名から恩給を与えられ家臣化した在地武士のことだから、畠山家臣といっても間違いないだろう。記録では、宇出津、波並、諸橋本郷を諸橋六郷沿岸部の給人として知行している。崎山城は後の棚木城とは別である、崎山は現在の宇出津港の西の小高い丘にあったが、それに対して棚木城は、現在の宇出津港の出口東側の丘にあった。族長または宗隆と同一人物?
○三宅続長(みやけつぐなが)
能登畠山氏の家臣。小三郎。畠山義総の寵臣小三郎某の子。畠山 義総 ・ 義続 ・ 義綱 ・ 義慶 に仕えた。能登国鳳至郡宇出津周辺を本拠地とした。弘治から永禄初年の温井・三宅氏の反乱では、一族から離れて畠山義綱方に属したという。
○三宅綱久(みやけつなひさ)
能登畠山氏の家臣。次郎右衛門尉。 畠山義綱 に仕えたが、弘治元年義綱が重臣温井紹春を殺害すると、姻戚関係にあった紹春の子・綱貞らと結んで反乱を起した。永禄初年には畠山一門の四郎某を擁し、能登一向一揆の支援を受けて戦ったが、後、義綱方に鎮圧された。
○三宅長盛(みやけながもり)
能登畠山氏の家臣。温井景隆の弟で、三宅総広の養子となる。備後守。温井・三宅一族が 畠山義綱 に抵抗して没落すると、兄景隆とともに、一向一揆を頼って加賀に逃れた。永禄9年義綱が近江(滋賀県)に出奔すると、能登畠山氏に帰参し、 畠山義慶 に仕えた。のち上杉謙信を経て、能登七尾城に住んで織田信長に仕えたが、織田方の長連龍に攻められ、のち越後(新潟県)に逃れる。信長の死後、能登に入国し、前田家に反した。金沢城の佐久間盛政に攻められて殺された。
○三宅宗隆(みやけむねたか)
能登畠山氏の家臣。三宅続長の子。小三郎。能登崎山城(能都町)城主で、 畠山義隆 に仕えた。天正5年上杉謙信が義隆の遺児を擁して七尾城を攻め、また長氏一族を討つ。宗隆は寝返り組であり戦いの後、上杉謙信の家臣となる。のち、能登から上杉を追い、七尾城に拠って能登を支配したが、織田信長勢の能登入部により越後に逃れた。信長の死後、能登に入国し、前田利家に反した。金沢城の織田方佐久間盛政に攻められ、捕らえられて越前国(福井県)へ流された。
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