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(能登畠山家家臣)遊佐氏一族

(1999年11月23日作成)

○遊佐忠光
能登畠山氏の家臣。

○遊佐統秀(ゆさむねひで)
能登畠山氏の側近。遊佐忠光の子。主人義統と同様、文化人であり、府中の守護館で催される歌会に出席したり、自分の館でも歌会を催したりした。美作守。畠山 義統慶致 の守護代。義統の嫡男 義元 が越後(新潟県)に出奔、次男慶致を擁立した。
遊佐秀統は、能登守護代の地位にあり、主人・義統が在京していた時にも、能登府中の守護所で、ずっと守護支配の実質的執務を担っていた。
文明9年(1477)守護被官の五井兵庫頭(ごいひょうごのかみ)が、珠洲郡方上保(かたかみのほ)の高座宮(たかくらのみや)(現、須須神社)の神田(しんでん)を押領した事件では、兵庫の横暴を
高座宮神主の友永(ともなが)が、府中に赴き、守護法廷に訴えている。この時、在京中の守護・畠山義統にかわって、神主友永の訴えを審理したのが、守護代の遊佐秀統であった。秀統は、双方を府中に呼び出し、争いの経緯を確認して、高座宮側の正当性を認め、高座宮大宮(大宮司のこと)の申状に、自身の推挙状を添え、京都にいた守護義統の裁許を仰いだ。その結果、高座宮に神田を還付せよとの義統の裁許が府中の守護所にもたらされ、一件落着となった事件があった。このように遊佐家は守護代として、義統の能登下国による直接統治が始るまで、重要な案件は一応当主に裁許をはかるが、それ以外はかなりの裁量を許され、能登支配の実質的執務者であったのである。

○遊佐大法師(ゆさおおぼうし)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。

○遊佐秀盛(ゆさひでもり)
能登畠山氏の家臣。遊佐統秀の子。孫右衛門尉。 畠山 義総 に仕え、永正12年から永正17年まで守護代として領国の支配にあたる。永正年間の越中(富山県)の内乱では参謀役を務め、越前(福井県)・越中・能登の三国同盟の成立にも尽力した。

○遊佐秀倫(ゆさひでみち)
能登畠山氏の家臣。左馬允。 畠山 義総 の近臣。永正年間、越後長尾(上杉)氏との交渉にあたる。茶の湯をよくし、名物茶器を所有した。

○遊佐秀頼(ゆさひでより)
能登畠山氏の家臣。遊佐秀盛の子。豊後守。 畠山 義総 に仕え、天文元年から天文13年まで守護代として活躍した。義総と将軍足利義晴との交渉で奏者を務めた。天文13年、能登七尾城で温井紹春との抗争に敗れた遊佐続光に加担した。


○遊佐宗円(ゆさそうえん)
能登畠山氏の家臣。信濃入道。 畠山義続 に仕え、天文20年能登の内乱後に成立した領国の指導権を握った 畠山七人衆 の1人。同23年の遊佐続光と温井紹春との抗争では、紹春に味方して勝利した。

○遊佐続光(ゆさつぐみつ)(?〜1581)
能登畠山氏の重臣畠山七人衆の一人。美作守。畠山 義続義綱義慶・義隆 に仕えた。天文12年能登の支配権を狙ったが、温井・ 三宅 ・長氏らの畠山家臣に越中国(富山県)に追われた。同19年加賀一向一揆の洲崎氏に援助されて加賀に侵入したが失敗。永禄9年、 畠山義則(義綱) も追放し、天正2年 畠山義慶 も毒殺したといわれている。のち織田方、ついで上杉方につき、織田軍に殺害された。

○遊佐孫四郎
一宮合戦にて戦死。

○遊佐孫八郎
一宮の合戦にて戦死。

○遊佐五郎兵衛
一宮の合戦にて戦死。

○遊佐盛光(ゆさもりみつ)
能登畠山氏の家臣。遊佐続光の子。孫太郎・四郎右衛門尉。はじめ綱光。畠山氏の年寄衆の1人。天正4年からの越後の上杉謙信の能登攻略では、上杉方に内応したが、謙信の没後は上杉氏の能登支配に反し、織田方についた。しかし、織田方の長氏にかつて上杉氏に与したことを許されず、同9年織田信長の奉行が能登に入部すると、一族と共に逐電。能登国鳳至郡小石村(門前町)の狂言師翁新五郎宅に潜んでいたのを捕らえられ、斬首されたという。

〇遊佐長員(ゆさながかず)
『荒山合戦記』によれば、天正10年6月23日、温井景隆・三宅長盛兄弟と、上杉景員らとともに、一緒に石動山に登り、荒山城に拠ったとあります。そして6月25日の石動山を一帯とした戦いで、前田利家の援軍として来援していた佐久間盛政と前田利家の軍に挟撃され討ち取られたとあります。

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