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長氏一族

(1999年10月20日制作、2003年9月21日一部追記・削除修正)
(参考)「戦国時代人物総覧」(新人物往来社)他

 長氏は、能登守護畠山氏の守護代を務め、清和源氏を称している。つまり、孝頼が大和国にすんで長谷部氏を称し、季頼の曾孫為連が、三河国長馬(現愛知県岡崎市?)に住んで長馬新太夫を称し、為連の子信連が久安3年(1147)遠江国長村に生まれたことから長氏を称するようになったのだという(『石川県史』第1編)その後、朝連・政連・有連を経て盛連に至る。
 長谷部(長)氏は、鎌倉初期に能登国大屋荘の地頭として入部した長谷部信連の子孫と言われ、鎌倉後期には能登各地に発展したことが知られている。
 長頼連から室町幕府に近習として仕えて、何代か奉公衆として仕えること続くが、このことがかえって、能登の国人としての力を弱める結果となった。出仕すると在京することが多く、能登に戻ることは少なかった。それに対して、温井氏は、畠山氏と密着する方法で台頭したようだ。
「『輪島重蔵宮』の棟札に、文明8年(1476)地頭温井備中俊宗(景春)、代官温井彦右衛門尉為宗、大永4年(1524)温井備中守孝宗(景国)、また別所谷八幡宮の寄進札に明応2年(1493)領主藤原朝臣俊宗(→温井俊宗のこと)とあり、温井氏が長谷部氏に代わって大屋荘を手中に収めたことがわかります」
 温井氏は越中守護桃井氏の末裔と伝えられるが、畠山義統が能登守護として入部すると積極的に近づき、穴水城家臣団の中核となった。これによって、桃井氏を滅ぼした一部族であった長氏への復讐も含められていたのではなかろうか(畝の考え)。畠山義統の執事に温井俊宗が見出されるが、その事は温井氏が長氏にかわった(長氏の力を上回った)ことを証左するものであろう。しかし、応仁・文明の乱による幕府権力の失墜がおこると、長氏も在京をやめ領地に戻り経営に務めざるをえず、戦国時代が到来すると、畠山氏の配下に次第に組み込まれていった。

長谷部信連(はせべのぶつら)

○長朝連(ちょうともつら)
承久3年(1221)、幕命で京都へ出陣。将軍藤原頼経上洛の時従い上洛。

○長政連(ちょうまさつら)

○長有連(ちょうありつら)
将軍宗尊親王に仕える。

○長谷部宗連(はせべむねのぶ)
 嘉元4年(1306)当時の能登島の地頭。伊夜比咩神社の造営の際の中心人物であったことからわかる。能登島全体の地頭か、能登島西方の地頭かは不明。ただし伊夜比咩神社の造営には、能登島に地頭代が置かれていたこともかかれているので、長谷部宗信は、ここを本貫地として居住した地頭ではおそらくないのでは、と想像される。対岸にお穴水保方面の地頭ではなかったろうか。


長盛連(ちょうもりつら)
 南北朝時代の武将。信連から4代目の長氏当主。長有連の子。通称九郎左衛門。元弘年間、能登国の戦乱を避けて加賀国江沼郡塚谷保(山中町)に移った。建武2年(1335)名越時兼と加賀大聖寺城にあったが、後醍醐天皇が北条方の名越時兼討伐のため派遣すると桃井直常に通じて彼に属し、討滅に功を挙げている。但馬・薩摩の一部を領地として与えられた。のち足利尊氏と直義の対立に際しては、足利尊氏に属した。

○長国連(ちょうくにつら)
 南北朝時代の武将。信連から6代目の長氏当主。はじめ後醍醐天皇方。建武の親政崩壊し、南北朝の争乱が起こると、足利尊氏に転じる。九州で南朝方諸将と戦う。足利尊氏とその弟直義との対立に際しては、長氏一族に内部分裂が起こり、国連が桃井直常に従い上洛し、直義側について、尊氏と戦う。観応2年(1351)、大隅国出陣の功により、能登国深井保を賜った。


○長秀信(ちょうひでのぶ)
 南北朝時代の武将。観応の擾乱(足利尊氏と弟の足利直義の対立・主導権争い)に際して、観応2年(1351)2月、 守護吉見氏頼 と結び、足利直義派の越中桃井直常と戦っている。田鶴浜の赤倉山の近くには、観応の擾乱の際に、長秀信が拠った「曲松要害」跡地がある。

○長胤連(ちょうたねつら)
南北朝時代の武将。南朝側に立ち越中守護桃井氏と組む。文和3年(1353)7月、能登島の金頚城で北朝側の能登守護吉見氏頼の軍と戦い、破れ没落する。

○長宗連(ちょうむねつら)
南北朝時代の武将。信連から7代目の長氏当主。国連の弟。

○長正連(ちょうまさつら)
南北朝期の武将。信連から8代目の長氏当主。長国連の子で、長宗連の養子となる。
通称九郎左衛門・左近将監・遠江守。真言宗から禅宗に改宗。はじめ能登国鳳至郡櫛比荘荒屋(門前町)に住んだ(荒屋城)が、荘内に總持寺があったので、能登總持寺の外護者として一族・被官を率いて積極的に活動をする。同寺に永和元年をはじめ、六通の土地寄進状がある。總持寺が永平寺に次いで(と同等位に)曹洞宗の中核的寺院になる基礎を作る。のち同国穴水城(穴水町)に移る。正平17年南朝に属し、但馬国で戦う(但馬国へ移住)。仁木氏らと戦った。

○長頼連(ちょうよりつら)
正連の子。室町幕府の近習として仕えている。応安7年(1374)、将軍足利義満の九州征伐の時、畠山義深に属し、鎮西へ出陣した。応永6年、大内義弘征伐のため将軍足利義持の命で出陣。畠山方に属し、戦功をたてる。

○長泰連(ちょうやすつら)
嘉吉の乱の時、赤松満佑の居城播磨国白旗城攻めに出陣。

○長政連(ちょうまさつら)
応仁2年、将軍足利義政の命で但馬国で山名軍と戦い戦死。

○長光連(ちょうみつつら)
政連の弟。兄戦死後当主(それとも秀連の後見か?)。

○長秀連(ちょうひでつら)
政連の子。長氏当主。

○長氏連(ちょううじつら)
長氏連の子。長氏当主。

○長連之
長氏連の兄弟(兄か?)

○長教連(ちょうのりつら)
長氏連の子。長氏当主。加賀一向一揆が能登に乱入した際、穴水城で戦死した(長享2年(1488)の長享の一揆)。

○長英連
長教連の子。信光の兄か?英連の時、穴水城で父と戦うが落城敗北(長享2年(1488))。しばらく辺地へ逃れ隠れる。のち穴水城を奪還して足利義輝に仕える。享禄4年(1531)越前朝倉氏と結び、本願寺坊官下間等と加賀国で戦う。

○長信光(ちょうのぶみつ)
教連の子。長氏当主。

○長連理(ちょうつらまさ)
能登畠山氏の家臣。長氏の庶流。三河守。永禄年間に井上英教とならんで 畠山義綱 の筆頭奉行人として活躍する。永禄9年義綱が長続連らに能登から追放されると、新たに擁立された 畠山義慶 に仕えた。

○長続連(ちょうつぐつら)(?〜1577)
能登畠山氏の家臣。平加賀守盛信の次男。
新九郎・九郎左衛門・対馬守。信連から19代目の長氏当主。叔父の英連(18代当主)の婿養子となり、能登穴水城に居城した。将軍足利義輝に仕えて 畠山義続 に属し、永禄8年子の綱連に家督を譲る。天文12年(1543)、畠山氏家臣ら(遊佐続光など)と石塚で戦う。また天文19年、遊佐続光・加賀一向一揆の将(洲崎兵庫)などの能登国乱入の時、大槻で戦う。一向一揆との戦いに東奔西走した。 天正4年5年(1576−77)の上杉謙信の能登出陣 に抵抗し、2度とも篭城したが、上杉方に内応した 温井景隆遊佐続光 らによって謀略により一族とともに自害した。

○長綱連(ちょうつなつら)(?〜1577)
能登畠山氏の家臣。長続連の子。大九郎・左兵衛・
九郎左衛門。永禄8年家督を継いで 畠山義綱 に仕えた。畠山義綱の後継者をめぐる畠山氏家臣の内紛で、七尾城に入る(永禄8年(1565))。のち畠山春王丸が2歳で当主になり、後見となるが、天正4年(1576)からの上杉謙信の七尾城の攻撃に際し、父弟とともに七尾城に篭城した。家臣内部の分裂を激しくさせた。 天正5年9月七尾城は陥落する 。父に続いて上杉方に内応した温井景隆・遊佐続光らによって謀殺された。

○長連龍(ちょうつらたつ)(1546〜1619)
加賀藩老臣長氏家祖。長続連の次男。通称万松・九郎
左衛門。長じて出家し定蓮寺(現中島町)や孝恩寺(現七尾市)の住職となった。 天正4年の上杉謙信の七尾城攻撃 の際は、還俗して七尾城に篭城。謙信が一旦引き上げた後天正5年5月、熊木・富来城を奪還した。同月下旬、穴水城を囲む。天正5年閏7月、謙信再び能登に侵入。2度目の謙信の七尾攻城に際しては、途中で織田家に援軍を求めにるため、池崎孝恩寺の僧だった連龍を乞食僧に変装させて囲みを脱出させられたので、七尾城落城の際、生き残ることができた。七尾城落城後は、第21代長氏当主となり、織田信長に属し、天正6年、兵を率いて海路より富来に上陸し、穴水を一時奪還するが、すぐ 温井三宅 兄弟などの上杉勢力に追われ、越中神保氏張を頼る。11月に信長は越中の諸将に連龍への合力を命じた。ところが、上杉謙信が没すると、 温井・三宅兄弟 は上杉方を離反して信長に帰服した。そこで、天正7年、信長は連龍に温井・三宅への遺恨をすてるように再三説得を試みるが、連龍は従わなかった。温井景隆・三宅長盛の兄弟は、同年8月頃、上杉氏の家臣・鯵坂長実(あじさかながざね)を七尾城から追って、能登の上杉勢力を排除し、 平加賀守遊佐続光 らも含む旧臣の合議体制を樹立した。これに対して連龍は復讐の念に燃えて、同年(天正7年)冬から能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波に陣を据え、翌年3月には羽咋郡福水に移る。温井・三宅等の七尾方も、本郷(本江)鉢伏山や金丸仏性山等の砦に拠って、邑地潟をはさんで対峙する。能登の主導権をめぐる温井・三宅兄弟らと連龍の戦いは、天正8年5月5日と6月9日の2度、菱脇(現羽咋市)を中心に展開し、いずれも連龍が勝利を収めた。連敗した七尾方は、三宅長盛を信長の許に派遣して、降伏と七尾城明け渡しを願い出た。信長はこれを容れ、連龍に追撃を止めさせ9月1日鹿島半郡を(二宮川以西の59ヶ村)を与え、能登福水城(羽咋市)を居城とした。翌天正9年(1581)、信長は菅屋長頼(すがやながより)を七尾城代として派遣した。遊佐続光・盛光父子は七尾城を逐電したが、6月連龍に捕らわれて殺害された。危機を感じた温井・三宅兄弟は、上杉氏を頼って越後に逃亡。天正9年8月信長から能登一国を与えられた前田利家の与力となり、のち3万1千石となる(連龍の鹿島半郡は2重知行の形となる)。天正10年には、鳳至郡棚木城に立て篭もる上杉景勝の家臣・長与氏を滅ぼし、信長・利家より書状を賜る。同年の本能寺の変の後、温井・三宅氏が石動山衆徒と一緒に前田利家に背き、石動山衆徒と連携を取り荒山城に拠ったが、利家は佐久間盛政の援軍を得てこれを攻め、この時連龍が先陣として戦う(温井・三宅兄弟は佐久間盛政に攻められ敗死した)。天正11年の秀吉と勝家の戦い(賤ヶ嶽の戦い)では、利家に従い近江に出陣。また翌年、秀吉と織田信雄との戦いでは、秀吉に従い美濃へ出陣。天正12年の佐々成政が末森城に来襲時は、利家の命令で出陣し、撃退する。翌年、秀吉による佐々成政討伐に際しても出陣し、功により羽織り・黄金を賜る。また天正15年の秀吉の島津義久征討時は、利家に従い京都に在陣した。能登徳丸城(鹿西町)を経て能登田鶴浜城(田鶴浜町)に移り、慶長5年大聖寺戦などに従軍、3万3千石となる。慶長11年、如庵と名乗り、田鶴浜の館に隠退したという。

○長連頼(ちょうつらより)(1604〜71)
加賀藩老臣長氏の2代。長連龍の次男。長松・左衛門二郎・左兵衛・安芸守・九郎左衛門。元和5年連龍が没し、能登鹿島半郡と加賀能登に3万3千石を継ぐ。織田信長からの領知宛行状により、独自の領地経営を行っていたが、寛文5年隠田検地を実施、浦野事件を引き起こした。その後、鹿島半郡は藩領となった。

○長元連(ちょうもとつら)(1628〜97)
長連頼の嫡男。石千代・左兵衛。連頼の実施した隠田検地に反対した浦野孫右衛門に抱き込まれ(浦野事件)、藩によって浦野派が処罰され、蟄居を命じられた。

○長連弘(ちょうつらひろ)(1815〜57)
加賀藩老臣長氏の9代。音吉・又三郎・将之佐・
九郎左衛門。本田政礼の次男で、長連愛の養子となり、天保2年長氏を継いだ。17歳で年寄職となる。天保14年執政奥村栄実が没すると政権を握るようになり、藩政改革派の上田作之丞の門下生らによる黒羽織党の中心人物となる。のち黒羽織党は失脚し、安政元年年寄職を免じられた。


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