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上杉氏の能登支配〜信長の支配まで
(1999年8月6日制作)
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上杉氏の能登支配
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温井景隆・三宅長盛兄弟と長連龍と
1.上杉氏の能登支配
天正5年(1577)9月七尾城を攻略した上杉謙信は、家臣の鯵坂長実(あじさかながざね)を七尾城将とし、国衆代表の遊佐続光(ゆさつぐみつ)と共に、能登国支配を担当させた。謙信が能登侵攻の旗標(はたじるし)とした上条政繁(義春)(じょうじょうまさしげ)も、能登に配置されたが、畠山家の再興ではなかった。長一族の頑強な抵抗や、畠山重臣層の対立を目の当たりにした謙信は、強権による直轄統治が急務と判断し、能登守護家の再興を断念したのであろう。鯵坂長実や上条政繁と謙信との間を媒介する奏者には、吉江信景(よしえのぶかげ)が等が起用された。
同年10月25日、長実・続光が連署で出した13箇条の制札は、前年越中に出した9箇条より内容が整い、分国法の性格が強い。無道狼藉・博打・親の敵討(かたきう)ち・妻敵(めがたき)(密通)討ちを禁じ、喧嘩両成敗を定めた。寺社領・給人領(きゅうにんりょう)への違乱を制し、境相論(さかいそうろん)の裁判権は謙信が掌握する。押買(賞品の無理な買取り)を禁じ、黄金の取引きは京目(きょうめ)(一両=四匁五分)ではなく、鄙目(いなかめ)(一両=四匁、五匁など不定)すなわち現地で用いてる量目に従う。そして年貢米収納の升は、長実と続光が指定した升に統一する。謙信の最晩年の最も整った施策が、能登で実施されようとしたのである。
11月、謙信は飯田与三右衛門や島倉泰明に、畠山家臣の闕所地(けっしょち)から珠洲・鳳至両郡で知行をあてがい、貫高に応じて鑓(やり)・馬上・鉄砲等の軍役を賦課した。同月、吉江信景は能登一宮気多社に、寺家・社家知行分等を安堵する謙信の意向を伝えた。上杉氏は貫高制に基づく所領を目指したのである。12月に作成された家臣名簿に、能登では謙信が派遣した上条政繁・長景連(ちょうかげつら)等6人に加えて、遊佐続光・三宅長盛(みやけながもり)以下の国衆8人の名が見える。
翌天正6年謙信が越後で脳溢血のため急死すると、鯵坂長実は能登の諸将を七尾城に集めて血判誓詞を呈出させ、上杉領の引締めをはかった。しかし、謙信後継をめぐる御館(おたて)の乱が勃発が統制力を低下させ、同7年8月頃、鯵坂長実自身が七尾城を追われてしまう。上杉氏の能登支配は、2年足らずで終わったのである。
能登国の上杉家臣団 | |
上条弥五郎(政繁) 直江大和守(景綱) 長沢筑前守(光国) 平子若狭守(房長) 井上肥後守 長与一(景連) | 派遣衆 |
遊佐美作守(続光) 三宅肥後守(長盛) 三宅小五郎(宗隆) 温井備中守(景隆) 平加賀守(尭知) 西野隼人佑 畠山大隅守 畠山将監 | 国衆(旧畠山家家臣がほとんど) (参考: 能登畠山家の家臣達 ) |
天正5年12月に81名書き上げた上杉家家中名字尽より能登国の分を抜き出し表示したもの。 鯵坂長実や土肥親真は越中国に見える。 |
2.温井景隆・三宅長盛兄弟と長連龍と
天正6年(1578)3月の上杉謙信の急死は、能登に再び戦雲を巻き起こした。七尾落城の折り、父
続連
(つぐつら)から織田信長の許に援軍要請に派遣されていて、一人生き残った
長連龍(ちょうつらたつ)
は、畠山重臣で上杉方に内応した
遊佐続光
・
温井景隆
・
三宅長盛
等に対する復讐の念に燃えていた。同年6月越前から海路は羽咋郡富来についた長連龍は、故城穴水を奪回したが、すぐに温井・三宅氏や上杉勢逐われ、越中氷見に神保氏張(じんぼうじはる)を頼った。11月、信長は越中の諸将に連龍への合力を命じている。ところが、温井・三宅兄弟は、上杉方を離反して信長に帰服した。そこで同7年になると、信長は連龍に温井・三宅への遺恨を捨てるように再三説得を試みるが、連龍は従わない。
温井・三宅兄弟は、同年8月頃、鯵坂長実を七尾城から逐って能登の上杉勢力を排除し、平・遊佐等も含む畠山旧臣の合議体制を樹立した。これに対して長連龍は、同年冬から能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波(しきなみ)宿に陣を据え、翌8年3月には同郡福水(ふくみず)に移り、丹治山福水寺(修験道場の寺だったらしい)を拠点とした。温井・三宅等の七尾方も、本郷(本江)鉢伏(はちぶせ)山や金丸仏性山(かねまるぶっしょうざん)等の砦に拠り、邑知潟をはさんで対峙する。
能登の主導権をめぐる長連龍と温井・三宅等との戦いは、同8年5月5日と6月9日の2度、菱脇(ひしわき)(現羽咋市)を中心に展開し、いずれも長連龍が勝利を収めた。連敗した七尾方は、三宅長盛を信長の許に派遣して、降伏と七尾城明け渡しを願い出た。信長はこれを容れ、連龍に追撃をやめさせ9月1日鹿島半郡(二宮川以西の59ヶ村)を与え、居城を福水とすることを承認している。
翌天正9年(1581)3月、信長は菅屋長頼(すがやながより)を七尾城代として派遣した。遊佐続光・盛光父子は七尾城を逐電したが、6月連龍に捕らわれ殺害された。危険を感じた温井景隆・三宅長盛兄弟は、石動山に隠れ、更に上杉景勝を頼って越後に逃亡した。8月、能登一国は前田利家に与えられ、連龍の鹿島半郡は2重知行の形となった。上杉方に味方した石動山は、この年、織田信長から、天平寺領5000貫を没収され、1千貫の地を与えられている。
天正10年6月2日、信長が本能寺の変でなくなると、越後にあった温井・三宅兄弟は、寺領を削減した信長に対して密に奪回を画策していた石動山衆徒と結び、また上杉の助勢も借りて、能登奪回を企てて、6月23日(←「荒山合戦記」、七月説も有力な説のようだ)石動山に近い荒山城に拠った。それにより実質能登守護となっていた前田利家と対峙する。利家は、越前の柴田利家と佐久間盛政に書を送って加勢を頼み、自分は先手をとって石動山に進み、石動山と荒山の中間にある柴峠に陣を張り、石動山の温井景隆・三宅長盛兄弟の軍勢が、荒山に向かうところを急襲した。温井景隆・三宅長盛軍は、このため石動山と荒山の2つに分断された。この頃佐久間盛政(さくまもりまさ)は、2500人の兵を引き連れ、高畠に陣取っていたが、その知らせを聞き、直ちに荒山城を攻めた。温井景隆・三宅長盛兄弟は佐久間盛政の攻撃で敗死し、利家は、伊賀の倫組50余人に伽藍を放火させ、敵軍を破った。
石動山は、この天正10年の石動山の戦いで360余坊あった寺院群が、灰燼に帰してしまった。この敗戦によって、石動山衆徒は、北方の伊掛山(七尾市江泊町)に移され、監視(監視役:高橋・石垣)されることとなった。天正10年、天平寺領から没収された土地のうち、鹿島半郡が長連龍に与えられている。
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