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(能登畠山家家臣)温井氏一族


○温井彦五郎(ぬくいひこごろう)(?〜1514)
能登畠山家の家臣。 畠山義元 にに仕え、鳳至郡志津良荘(門前町・輪島市)の代官を務めた。能登の乱で戦死し、子の若松丸は義元から同荘の代官職を与えられた。

○温井俊宗(ぬくいとしむね)
備中守景春。文明8年(1476)地頭温井備中守俊宗

○温井為宗(ぬくいためむね)
代官。俊宗の兄弟?彦右衛門尉。

○温井統永(ぬくいむねなが)
能登畠山氏の家臣。藤八郎。畠山
義統義元慶致 に仕えた。永正4年の鳳至郡岩倉寺(輪島市)の再建の際に、大檀那として名が見える。

○温井孝宗(ぬくいたかむね)(?〜1531)
能登畠山氏の家臣。温井俊宗の子。藤五郎・備中守景国・兵庫助。鳳至郡輪島を本貫とする奥能登の有力国人。畠山 義統義元慶致 義総 に仕えた。永正から大永年間に、鳳至郡の寺社に寺領寄進や社殿造営などを行った。和歌をよくし、三条西実隆に賞賛された。享禄4年加賀一向一揆の内紛で、加賀国河北郡太田(津幡町)の合戦で敗死した。

○温井景家(ぬくいかげいえ)
備中守。孝宗の子。総貞の兄?。総貞の前に当主となる。病死?

○温井千松丸(ぬくいせんしょうまる)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。

○温井七郎(ぬくいしちろう)
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では曾良を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。

○温井彦左衛門尉(ぬくいひこざえもんのじょう)
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では矢波を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。

○温井兵庫助
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では志津見(七海)、鵜川を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。総貞と同一人物?

○温井総貞(ぬくいふささだ)(?〜1555)
能登畠山氏の家臣。温井孝宗の嫡子。兵庫助・備中守・備中入道紹春。義総を継いだ義続と結び、総貞と畠山家臣の双璧であった 遊佐続光 と争った。のち彼らを含む 能登畠山七人衆 による支配体制が確立され、畠山氏の権威は失墜した。弘治元年大名権力の回復を目指す畠山義綱によって暗殺され、七人衆体制は崩壊した。

○温井続基(ぬくいつぐもと)
能登畠山氏の家臣。温井景員(ぬくいかげかず)と同一人物。山城守。畠山 義続義綱 に仕えた。弘治元年温井氏の惣領 温井総貞(紹春)が義綱に殺され 、阿岸本誓寺(門前町)らの能登一向一揆と結んで義綱に反乱を起したが、鎮圧された。

○温井続宗(ぬくいつぐむね)
能登畠山氏の家臣。温井総貞(紹春)の子。兵庫助。父総貞が畠山氏家臣団の中で政治的に台頭するのを、軍事行動で補佐した。天文20年温井・遊佐氏の確執による内乱の直後に家督を継ぎ、遊佐氏が没落したことから発言力を高めた。弘治元年父が 畠山義綱 によって殺害されたことから義綱方と戦うが、やがて没落した。

○温井景隆(ぬくいかげたか)(?〜1582)
能登畠山氏家臣温井総貞の子か?温井備前守景利の子とある資料もある。兵庫助。備中守。 総貞が長続連に殺害されたのち 、弟(三宅長盛)とともに加賀に逃れた。弘治元年年一向一揆と結んで能登に侵入したが、永禄3年頃畠山義綱によって撃退された。のち能登七尾城にあり、 天正5年上杉謙信によって攻略されたが謙信に内応した景隆は采地を与えられて能登に帰った 。謙信の没後は、三宅長盛らと上杉氏家臣を能登から追い、七尾城に拠って、織田信長と結んだが、信長と以前から結んでいた長連龍に撃破され、石動山に退いた。信長の没後、能登に入ったが、 前田利家 の求めに応じた佐久間盛政に攻められ、殺害された。

○三宅長盛(みやけながもり)
能登畠山氏の家臣。温井景隆の弟で、 三宅総広 の養子となる。備後守。温井・ 三宅一族畠山義綱 に抵抗して没落すると、兄景隆とともに、一向一揆を頼って加賀に逃れた。永禄9年義綱が近江(滋賀県)に出奔すると、能登畠山氏に帰参し、 畠山義慶 に仕えた。 上杉謙信による七尾城攻略 後は、 上杉謙信の家臣となる 。さらに謙信の没後、上杉勢を追い、能登七尾城に住んで織田信長に仕えたが、織田方の長連龍に攻められ、のち越後(新潟県)に逃れる。信長の死後、能登に入国し、 前田利家 に反した。金沢城の佐久間盛政に攻められて殺された。

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