このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
(能登畠山家家臣)温井氏一族
○温井彦五郎(ぬくいひこごろう)(?〜1514)
能登畠山家の家臣。
畠山義元
にに仕え、鳳至郡志津良荘(門前町・輪島市)の代官を務めた。能登の乱で戦死し、子の若松丸は義元から同荘の代官職を与えられた。
○温井俊宗(ぬくいとしむね)
備中守景春。文明8年(1476)地頭温井備中守俊宗
○温井為宗(ぬくいためむね)
代官。俊宗の兄弟?彦右衛門尉。
○温井統永(ぬくいむねなが)
能登畠山氏の家臣。藤八郎。畠山
義統
・
義元
・
慶致
に仕えた。永正4年の鳳至郡岩倉寺(輪島市)の再建の際に、大檀那として名が見える。
○温井孝宗(ぬくいたかむね)(?〜1531)
能登畠山氏の家臣。温井俊宗の子。藤五郎・備中守景国・兵庫助。鳳至郡輪島を本貫とする奥能登の有力国人。畠山
義統
・
義元
・
慶致
・
義総
に仕えた。永正から大永年間に、鳳至郡の寺社に寺領寄進や社殿造営などを行った。和歌をよくし、三条西実隆に賞賛された。享禄4年加賀一向一揆の内紛で、加賀国河北郡太田(津幡町)の合戦で敗死した。
○温井景家(ぬくいかげいえ)
備中守。孝宗の子。総貞の兄?。総貞の前に当主となる。病死?
○温井千松丸(ぬくいせんしょうまる)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。
○温井七郎(ぬくいしちろう)
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では曾良を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○温井彦左衛門尉(ぬくいひこざえもんのじょう)
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では矢波を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○温井兵庫助
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では志津見(七海)、鵜川を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。総貞と同一人物?
○温井総貞(ぬくいふささだ)(?〜1555)
能登畠山氏の家臣。温井孝宗の嫡子。兵庫助・備中守・備中入道紹春。義総を継いだ義続と結び、総貞と畠山家臣の双璧であった
遊佐続光
と争った。のち彼らを含む
能登畠山七人衆
による支配体制が確立され、畠山氏の権威は失墜した。弘治元年大名権力の回復を目指す畠山義綱によって暗殺され、七人衆体制は崩壊した。
○温井続基(ぬくいつぐもと)
能登畠山氏の家臣。温井景員(ぬくいかげかず)と同一人物。山城守。畠山
義続
・
義綱
に仕えた。弘治元年温井氏の惣領
温井総貞(紹春)が義綱に殺され
、阿岸本誓寺(門前町)らの能登一向一揆と結んで義綱に反乱を起したが、鎮圧された。
○温井続宗(ぬくいつぐむね)
能登畠山氏の家臣。温井総貞(紹春)の子。兵庫助。父総貞が畠山氏家臣団の中で政治的に台頭するのを、軍事行動で補佐した。天文20年温井・遊佐氏の確執による内乱の直後に家督を継ぎ、遊佐氏が没落したことから発言力を高めた。弘治元年父が
畠山義綱
によって殺害されたことから義綱方と戦うが、やがて没落した。
○温井景隆(ぬくいかげたか)(?〜1582)
能登畠山氏家臣温井総貞の子か?温井備前守景利の子とある資料もある。兵庫助。備中守。
総貞が長続連に殺害されたのち
、弟(三宅長盛)とともに加賀に逃れた。弘治元年年一向一揆と結んで能登に侵入したが、永禄3年頃畠山義綱によって撃退された。のち能登七尾城にあり、
天正5年上杉謙信によって攻略されたが
、
謙信に内応した景隆は采地を与えられて能登に帰った
。謙信の没後は、三宅長盛らと上杉氏家臣を能登から追い、七尾城に拠って、織田信長と結んだが、信長と以前から結んでいた長連龍に撃破され、石動山に退いた。信長の没後、能登に入ったが、
前田利家
の求めに応じた佐久間盛政に攻められ、殺害された。
○三宅長盛(みやけながもり)
能登畠山氏の家臣。温井景隆の弟で、
三宅総広
の養子となる。備後守。温井・
三宅一族
が
畠山義綱
に抵抗して没落すると、兄景隆とともに、一向一揆を頼って加賀に逃れた。永禄9年義綱が近江(滋賀県)に出奔すると、能登畠山氏に帰参し、
畠山義慶
に仕えた。
上杉謙信による七尾城攻略
後は、
上杉謙信の家臣となる
。さらに謙信の没後、上杉勢を追い、能登七尾城に住んで織田信長に仕えたが、織田方の長連龍に攻められ、のち越後(新潟県)に逃れる。信長の死後、能登に入国し、
前田利家
に反した。金沢城の佐久間盛政に攻められて殺された。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |