このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

前田利家 (1538?〜1599)

(1999年12月7日一部加筆修正)   

 前田利家(孫四郎、又左衛門:幼名犬千代)秀吉麾下で羽柴姓を賜る。
<出生>
 尾張国荒子に居城を置く前田利昌の四男として生まれ、戌年にうまれたので、犬千代と名付けられた。はじめ信長の小姓として仕える。前田氏の発祥は系図の上では「菅原道真が太宰府に流された後もうけた二人の子のうち兄が前田を、弟が原田を称した。この前田の子孫が美作で繁栄し、さらにその子孫佐広が尾張に住み着いた」とされるとかかれているが、この時代の系図は、おおよそ自分の家系を飾るための嘘なので、信用しないほうがいい。ただ、利家自身は信じていたかもしれません。

 利家が、能登への派遣を命ぜられ、越前府中から羽咋郡菅原に移った。この地は京都北野天満宮の荘園であり、菅原道真をまつった菅原神社がありました。利家は、自分は菅原道真の子孫であると称して、この神社を厚く保護し、また菅原の土豪・国田行長には扶持を与えて、利家に協力するよう命じたりしています。前田氏の発祥は一般に美濃国安八郡とも尾張国海部郡とも言われています。

 確実であろうことは利家の祖父あたりから。前田利隆(利家の祖父)の後を子の蔵人利昌が、さらにその子(利家の兄)蔵人利久が嗣いだ。つまり、利家は庶流になるはずだったのが、永禄12年(1569)信長の命により、
兄利久にかわって前田家の家督を継ぐことになった。利久が病弱で戦には耐えられそうになく嗣子もいなかった為とされています。実は嗣子はいたのですが実子ではなく養子でした。

 どうしてそうなったかと言うと、利家の兄・利久は子がいなかったので、五郎兵衛安勝の娘を娶ったのでした。その娘は織田家中の滝川儀太夫(一益の一族)に嫁いでいて、儀太夫の子を身ごもったまま利久に再嫁したのでした。つまり、前田家とは血のつながりのない子をみごもったのでした。それを知った織田信長の一言で、利家の家督は決まったと言われています。ところで、その利久の養子はというと、最近マンガで有名になった前田慶次郎利益です。

<十阿弥殺害事件>
 利家は、天文21年(1552)萱津の戦いで初陣、早くもその時首級をあげた。先に書きましたが、前田家は織田家に従事しており、利家は14歳の時、信長の小姓として仕えることとなりました。当時は未だ、犬千代という幼名でした。尚、弟の佐脇藤八良之も同じく信長に小姓として仕えていました。元服後、孫四郎と改名。永禄元年(1558)従姉妹のお松と結婚。以後、稲生の戦い、浮野の戦い(この合戦後、名を又佐衛門と改める)と戦功をかさねていきます。

 ところが、ある日。信長に仕える同朋衆(お気に入りの茶坊主のようなもの)の十阿弥を、こともあろうに信長の目前で斬ってしまい、勘気を被り織田家を追放されてしまします。訳は(曲がったことが嫌いな利家は普段から、賄賂を好む十阿弥が嫌いであったが、ある日、十阿弥が利家の刀の口蓋を盗んだのである。激怒した利家は、十阿弥を成敗しようとしたところ、信長と佐々成政が仲裁に入り止めた。ところが、十阿弥は態度も改めず、逆に許した利家を陰で蔑みさえしたので、許せずに勢い切ったのであった。(時期には諸説ありますが、永禄2年頃と思われる。)

<織田家への帰参>
 牢人の身となった利家は信長のもとへ戻れるように苦心します。永禄3年(1560)、今川義元が上洛の為、尾張へ侵攻してきました。桶狭間の戦いです。この戦いの概要は皆さんもご存じのことと思いますし、詳細は諸説みだれているので省略致します。この時、利家はまだ信長に赦されておりません。しかし、利家は知人の陣を借りて、勝手に参陣したようです。

 この時、敵の首を3つ討ち取ったと言われていますが、信長はそれを無視し功績を認めなかった。そしてこの後も、戦の度に利家は勝手に参陣して闘ったようです。翌四年美濃攻略の為の(1561)森部の戦いで挙げた戦功を認められ、やっと帰参が叶いました。やがて、利家は赤母衣衆(本陣と前線にいる武将間の連絡係)に抜擢されます。その後、伊勢北畠氏、近江浅井氏との戦いにも戦功を挙げます。柴田勝家の与力(柴田の家臣ではなく、信長の家臣として勝家に助力する者)として北陸方面を担当した。

 天正3年(1575)、越前府中(現在の武生市)で初めて封を受けた(3万3千石)。北陸では、柴田勝家のもとで、不破光治、佐々成政とともに利家は「府中三人衆」と呼ばれていた。

<能登の領有>
 ところで、その頃能登はというと、能登を治めていた畠山氏の居城・七尾城が、上洛をめざす上杉謙信の2度にわたる遠征で、兵糧攻めにあい、最後には家臣・遊佐一族の裏切りなどもあって、天正5年(1577)旧暦9月に、落城しました。謙信は、その後、関東との境界争いがあったこともあり、引き上げるが、翌年(天正6年)病死する。その後、畠山氏の遺臣・長連龍(ちょうつらたつ)が織田方につき、活躍したこともあって、上杉氏に代わって、織田信長が能登を支配するようになった。

 といっても、能登の支配は、安定していなかったので、新参の長連龍では心配なため、信長は有力な家臣である菅屋長頼(すげやながのり)を七尾に、福富行清を富来に置き、それに前田利家を羽咋郡菅原に派遣し、協力して治めさせるよう命じた。この時、前田利家は最初の領地であった越前府中を長子・利勝(としかつ)に任せ、能登にやってきました。能登に入って半年たらずで、中国征伐に参加するために、菅屋長頼と福富行清は能登を出ていきました(この両将は本能寺の変で戦死)。

 その結果天正9年(1581)8月17日、利家が能登一国(約23万石)を与えられました。利家は、七尾港に近い所口(現・七尾市街地)の小丸山に新たに城を築きました。それまでの、七尾城は能登畠山氏が築いた非常に堅固な山城でありましたが、この時代、鉄砲の伝来とともに戦いの仕方が大きく変わり、城の作り方も、山城から小高い丘に築く平山城、さらに、平地に築く平城と移り変わっていたことから、旧城跡をすて、交通の要衝である港町に出てきたのでした。

 小丸山には、この時、気多本宮がありましたが、これを明神野(所口町・現在の気多本宮所在地)へ移し、堀川(現在の桜川)を挟んで西側の山地に寺を集め、城前方の出城代わりの押さえとしました。また、北側の海に向けて広がる平地には、新しい町を作りました。畠山氏が能登を治めていた時代に、城山の麓に栄えていた町もここへ移し代えられたといいます。これが七尾の町のはじまりです(それ以前にも町の形跡はあるが、今ほどまとまっていなかったが、利家の町造りによって、ほぼ現在の七尾旧市街地ができたといえます)。利家は、能登畠山氏が滅んだ後の政情不安に早急に対処するため、城造りや、町造りを急ぎました。

<天正10年・本能寺の変と石動山攻略>
 天正10年は、利家にとってすこぶる重要な年であった。(何よりも、6月2日には京都本能寺で信長がなくなった。)同年3月、越中に武田勝頼の扇動による叛乱がおこり、利家はこの討伐のために出陣、その間隙をねらって奥能登には上杉方の長景連が進出したので、それを迎え討つため長連龍が急派されるという騒ぎがあった。利家らは進んで上杉軍の根拠たる魚津城を攻撃、6月2日ようやくこれを陥れたが、まさにその日、京都では本能寺の変が勃発していたのである。その報を知るや、織田の諸将は急ぎ帰国し、利家も七尾に帰った。しかも、中国にあった羽柴秀吉が疾風迅雷の勢いで引き返し、山崎合戦で明智光秀を討ったのは6月13日でした。

 一歩遅れた北陸諸将・特に柴田勝家は上方への出撃を決め、利家にも出馬催促をしたが、利家は領内に一揆勃発の報があるという理由で6月17日、辞退した。実際、畠山の叛臣で上杉方に走った温井景隆・三宅長盛・遊佐景光らが、石動山衆徒の誘いによって潜入し、石動山を占拠した。そこで7月26日利家は石動山天平寺を攻めて焼き払い、利家に乞われて来援した佐久間盛政は荒山(桝形山)を攻め、ともに大勝した。

 石動山衆徒がこのような挙にでたのは、新旧仏教勢力を恐れ気もなく争い征服したことへの反発だが、利家は、領国統治の障害となるこの勢力を許さず、断固とした態度でのぞみ、これを攻略した。
 主の仇を討ち、当然次の天下統一者たるべき資格を身に付けた羽柴秀吉と、北陸の将・柴田勝家が対立すると、利家の立場は微妙になった。
(関連ページ)
 ○ 上杉氏の能登支配から信長の支配まで
 ○ 石動山の歴史(の中の石動山における合戦(戦国時代))

賤ヶ岳の戦いと加賀の領有>
 天正11年(1582)、利家は、信長亡き後の後継者選びのマッチレースで最後まで残った柴田勝家と羽柴秀吉との天下分け目の戦いである賤ヶ岳の戦い(4月)に、柴田勝家の与力であったことや、長年の義理もあり(先の十阿弥殺害のエピソードで信長の怒りを買い追放されたとき、それまで親しかった知人は誰も利家の元へ寄らなくなったという。

 柴田勝家と森可成、その他数人のみが、かわらなく訪れてくれて有り難く思うと共に、人間は窮地に
追い込まれないと真の友人とのつき合いが解らないと悟っている)、一応柴田勝家側につきました。しかし、もともと秀吉とは肝胆相照らす仲であったため、戦いのさなかは大局的には中立的な態度をとり、秀吉の呼びかけに応じて降りました(最初からの打ち合わせ?)。

 敗走した柴田勝家はその後、自分の居城である北ノ庄城(現在の福井)まで攻められ、そこで自害しています。利家はその北ノ庄攻めに先鋒として活躍しています。また、勝家自害を見届けた後、さらに秀吉の先鋒として金沢へ進撃、4月26日犀川河口の宮腰湊に到着し、宮腰の地侍・中山主計の先導で金沢城へ進みました。城主の佐久間盛政はすでに城外で逮捕されており、城は盛政の部下により守備されていたが、27日無血開城され、28日には秀吉が入城しました。

 利家は戦功により、能登23万石を安堵され、新たに石川・河北2郡を与えられたため、未完成の小丸山城を去って、金沢へ移りました。小丸山城と城下町はそのまま残りましたが、この時、古代からの能登の町として栄えてきた七尾から、政治・経済・文化の中心は金沢へ移ってしまうことになりました。

<末森城の戦い>
 天正12年(1584)8月、越中富山城の佐々成政が秀吉に離反し、東海における秀吉と家康の対立を利用して、秀吉に与する利家を倒すため、8月28日、富山城から出軍し、能登半島の付け根にある朝日山(現・富山県氷見市朝日山公園)を攻めた。利家も、信頼のおける武将・村井又兵衛を送り守らせました。又、加賀と越中の境界である倶梨伽羅峠を塞ぎました。

 佐々成政は、9月8日夜、能登と加賀を結ぶ要害の地、末森城(現・羽咋郡押水町末森山)をめざして一万(一説には8千ともある)の軍を動かした。末森城は、鶴首にも似た加賀・能登の国境地帯を扼する標高140mの丘陵に建てられた城塞で、能登と加賀の結節点であるとともに、越中方向に対しても要をなしており、ここが破られれば前田軍の勢力は2分され、加賀・能登の支配権は崩壊したにも等しかったのです。したがって、城塞には前田軍の勇将・奥村永富が守備していました。
 
 「田畑兵衛由緒帳」によれば、成政は出兵に当たって能登への先導を礪波郡の農民・田畑兵衛に頼んでいます。兵衛は深山幽谷、道なき道へと軍を誘導したため、佐々軍は疲労困憊に達していたという。加賀に入った佐々軍は末森城からおよそ8kmの坪井山に陣するとともに、金沢からの援軍を阻止するために、越中の武将・神保父子に兵4千人を与え、羽咋郡の北川尻と高松間の砂丘の松林に軍を隠しました。

 9月9日佐々軍は、鉄砲を撃って急襲、これを迎える末森城は副将土肥伊予が2百人を率いて城外に討って出、その半数が戦死しました。成政の陣頭指揮により、すでに三の丸が陥落し、二の丸も打ち破られようとしていた。時、にわかに霧のような雨が降り出し大雨となり、、戦場はぬかるみ、行き来もできない有様となりました。成政は軍をまとめて坪井山へ引き揚げました。

 夜になって民家に火がかけられ、炎が赤々と本丸を染めあげました。すでに食料の尽きた城はまさに風前の灯となっていました。守将奥村は援軍の来るまで城を死守しようと、一計を案じ、「米を以って馬を濯(あら)ひ、敵に水の乏しからざるを示す」という手段を講じたりしました。甫庵太閤記や「奥村氏碑誌」は永富の妻安みずから粥を炊いて将兵に配り士気を鼓舞したと記しています。

 なかでも甫庵太閤記では「かひかひしき女房二三人相伴い、長刀を横たへ、夜昼のさかひを分す城を打廻り、戦つかれ眠りかちなる番衆をは、事外にいかり禁め、或はをたやかにも睡をまし、(中略)或時は夜寒の袖の露を、はらはんかため、紅葉を焼き酒をあたため、塀裏の睡をさましけれ」(『改訂史籍集攬』)と記しています。

 一方、利家が末森からの急報に接したのが、9日の午後2時頃でありました。利家は午後8時頃わずかの手兵をもって出撃、津幡城に入りました。ここで、重臣達と攻撃・篭城を論議して直ちに進発しました。末森の海岸に入った時、将兵なお、2,500人という快進撃であったといいます。このあと神保軍に発見されないように浜伝いに兵を進め、11早朝末森城を包囲している佐々軍の背後を奇襲しました。

 包囲軍は周章狼狽して壊滅、こうして利家の末森救援は成功しました。成政は敗報を聞くと、ただちに兵を集め、河北郡下を焼きながら越中へと撤退したが、途中鳥越城を占領し、また、倶梨伽羅砦にも守備兵を置きました。以後、利家と成政は攻守を替え、利家の加賀能登における支配圏を不動のものとしました。

 この末森城の合戦の時、佐々成政の家来にで、一人、退却の殿軍(しんがり)の中にあり、一人で退路で踏みとどまり、押し寄せる加賀勢の中に駆け入っては退き、突き入っては退いて、首級十八を獲った猛者がいた。退却軍の中にあって、これほどの働きをした例はないと思われるが、彼の名を可児才蔵とよび、後、福島正則の家来となり活躍した。詳しくは、司馬遼太郎の「おれは権現」を参照!
(関連ページ)
 ○ 上杉氏の能登支配から信長の支配まで
 ○ 石動山の歴史


<加賀百万石へ>
 天正13年(1585)秀吉は、紀伊四国を平定すると同時に越中平定を企図し、8月越中に進入しました。成政は越中平野に林立する秀吉軍の旗・指物を見て降参しました。この結果、石川郡松任(まっとう)にあって4万石を領していた利家の長子利勝(としかつ)(後の2代藩主利長)は、越中のの礪波・射水・婦負(ねい)3郡を与えられて守山城に入り、利家は羽柴筑前守の名乗りを秀吉から許されました。

 天正15年(1587)新川郡を預かり領とされ、文録4年(1595)3月近江高島郡内にて、加増、ついで新川郡を加封、ここに利家は、能美郡・江沼郡と石川郡松任4万石を除く加賀・能登・越中3国にわたって82万石の大名となりました。
子の利長とあわせると百万石の文字通り北陸の太守となりました。

 その後、天正18年には、北条市征伐の軍に、子・利長とともに松田、松山、鉢形、八王子の北条氏の支城攻めに加わっています。また、天正20年(改元して文録元年)朝鮮出兵が始まります。文録の役には、利家も肥前名護屋に滞在しました。慶長3年(1598)家督を利長に譲ています。

<晩 年>
 慶長2年(1597)には従二位大納言となり、さらに五大老の地位に上り詰め(さらに加えるならば家康と共に大老の筆頭格である)たのは、秀吉の信頼
とともに彼の人望にもその理由があったと思われます。信長にともに仕え、秀吉と早くから交誼を結んだ上に、お互いの嫁の「ねね」と「松」はこれまた大の仲良しでありました。また、お互いに娘を嫁がせたり、お互いに灸をし合うという程の親密な仲であったといいます。

 秀吉の遺命によって、慶長4年(1599)1月10日、大坂城に登り、秀頼の補佐役を勤めるかたわら、決起にはやる武将達の軽挙盲動を抑え、家康の専横を牽制していたが、2ヶ月後に没した。秀吉の死後、家康が急速に支配力を増していった頃、豊臣家の大黒柱は利家でありました
。また、反家康派の精神的支柱も利家であったとも言えます。それだけに利家の死は、大きな意味を持ちました。

 歴史の流れは家康派・反家康派というだけにとどまらず、文吏・武闘派など様々な利害関係から
関ヶ原の戦いへと導かれていきました。利家がもう少し長生きをし、反家康派・秀吉恩顧大名を糾合しておれば、また違った展開になったのは確実でしょう。しかし、運命の女神というか現実の歴史は、利家を意外にも早くあの世へ行かせ、徳川家康を中心に新たな天下統一へと進むことになったのです。

 62歳で亡くなった彼は、彼の遺言により、金沢郊外の野田山に葬られました。法名は高徳院といいます。
最後に、頑固一徹だった彼の死ぬ間際のエピソード。坊さんより、死に際して自ら念仏を唱えてあの世へ旅立つよういわれた時、なかなか利家が言うことを聞かないので妻のお松(芳春院)は、泣きながら、「殿は、お若い頃からいくさに出られ、戦場で大勢の人をお殺しあそばしたゆえに、後生がいかがおなりあそばすか、それのみが恐ろしゅうございます。

 この京帷子をととのえましたゆえ、これをお召しくださるように」といった所、利家は怒り、「俺は武士の家に生まれたがゆえに人を殺さねばならなかったが、一度も非道なことをしたことはない。それゆえ地獄に落ちることはないが、万一、地獄に落ちれば俺より先に行っている俺の家来どもを従え、大いに地獄征伐をしてやろう、と言って念仏を唱えることも、京帷子も着る事がなかったと伝えられています。利家の死因は、症状から見て、癌であるように思われますが、利家は臨終の間際あまりの苦痛に腹を立て、剣をとり、自ら胸を突いて死んだといわれます。

(参考図書)
「加賀百万石」(田中喜男著・教育社歴史新書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)
「夏草の賦」(司馬遼太郎・文春文庫)
他各種人名辞典より

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください