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石動山の歴史

(2006年2月13日一部加筆修正)

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石動山信仰 石動山・熊野信仰との交流 石動山の合戦(建武2年)
いするぎ山伏の活動 石動山における合戦(戦国時代) 石動山の歴史年表
石動山史跡写真集
(大量に写真取材してあります)
石動山資料館 碁石ヶ峰の説明のある頁へ
石動山信仰
 
 
石動山は、鹿島町に聳える高さ564mの山で、古くは「いするぎやま」又「ゆするぎやま」と呼ばれた信仰の山であります。その名の由来は、伊須流岐比古神社の境内に鎮座する動字石(天漢石)にあります。 「石動山縁起」 では、この動字石が天から落ちて山が揺れ動いたため、石動山と名付けられたと記しています。石の横には「天より星落ちて、石となり、天漢石と号す」ブナ林に被われた石動山の石段と書かれています。しかし、実際には隕石ではなく、安山岩だそうです。現在、山頂は大御前といわれますが、その周囲には、ブナ林が15haも生い茂り(能登半島国定公園特別保護地区に指定されている)、その神秘さを深めています。

 伝承では、養老年間(717〜723)に、加賀の 白山 を開いた泰澄(たいちょう)が開いたといわれます(別の史料、鎌倉時代の『拾芥抄』という百科便覧には、智徳上人の養老元年(717)の開創と記しています。また地元鹿島町教育委員会では、上記2者の説も揚げつつ方道仙人が崇神6年の開創を有力視しています)。756年、泰澄は講堂を建立し、石動寺をあらためて天平勝宝寺とした。
をあらためて天平勝宝寺とした。767年泰の死後、真言宗の仁和寺(にんなじ)・勧修寺(かんじゅじ)の法親王が交互に、大宮坊座主位を管摂することとなりました。

 このように少なくとも奈良時代以降、神仏習合の思想を背景として、山頂に鎮座する伊須流岐比古(いするぎひこ)神社と、民間信仰としての山岳仏教が結びつき、社の祭られる大御前の岩場を修行場として開かれたもので、北陸修験者、つまり霊山信仰(修験道)の能登の中心地でした。彼らは、神に奉祀するかたわら、仏教徒として活動し、次第に山のあちこちに寺院が建ち、信仰の山としての形を整えていきました。

 鎌倉時代頃には、五社権現と呼ばれ、厳しい山岳修行を求めて多くの修験者らが、石動山に集まるようになりました。そして真言密教の霊峰として広く知られるようになりました。京都仁和寺(にんなじ)を本山とし、後白河天皇の皇女宣陽門院の祈願所であったことも権威を高めたかもしれません。(なお一般に石動山衆徒の事を仏教の一派のようにみられる傾向もあるが、彼らは密教的秘法に山岳信仰、民間信仰、道教の呪術などを巧みに取り入れた「行」を中心とする殉教的な集団であって、中世にあって天台系・真言系などの明確な区別があったとは考えられないと専門家は述べています。彼らの唱える呪や祈祷の護符には統一が無く、実に多種多様であったようです。)

真言宗本山・京都仁和寺(にんなじ)のもとに、勅願寺として勢力を振るう一方、北國七ヶ国の智識米勧進の特権(757年認可)をもっていました。つまり七ヶ国(加賀、能登、越中、佐渡、飛騨、信濃、越後)から寄進を求める「勧財」を許され、衆徒等が「智識米」として一戸当り3升の米を集めたのです。それはしばしば強引に行われ、そのため彼らは「泣く子も黙る石動山衆徒」と怖れられていました。とにもかくにも、このようにして石動山は、急速に勢力を拡大していきました。


 
越後・越中・飛騨・佐渡・加賀・越前・能登の7カ国を知行地とし、山上に石動五社権現(伊須流岐比古神社)をまつり、別当の石動山の案内板石動寺(いするぎてら=後の天平寺)、大宮坊を中心に、その最盛時には、本社以下80末社、社地54町四方、寺院は大宮坊を中心に360余の院坊、社領4万3千石あり、衆徒(山伏)が3千人もいたと伝えられています(近世においても、58坊あったと伝えられています)。

 その衆徒は、「いするぎ山伏」といわれ、鍛冶の技術を持ち、また、製薬の技術にもすぐれ、全国に持ち歩いて普及したといわれています。

 しばしば戦乱に巻き込まれ、2度の全山焼き討ち( 建武2年(1335)天正10年(1582) )の憂き目に遭っています。江戸時代になると、加賀藩の保護を受け、石動山は再び勢力を回復しました。大宮坊を中心とする58坊の寺院群は、総称して天平寺(あくまで近世以降の呼び名)と呼ばれました。

 全盛期の平安末期・鎌倉初期、または室町期の再興期ほどの勢威はないにしても、江戸時代においても石動山は、加賀藩前田家から保護を受けましたし、また明和9年(1772)2月後桃園天皇から、前と同様七ヶ国を産子として智識米徴収することを許す綸旨を賜ると、衆徒たちは積極的に七ヶ国の遠国へ勧財のために出向き、勢力を回復していったのでした。

 しかしながら大政奉還により徳川幕府という封建制度の社会が終わり、明治維新を迎えると、神仏分離、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れ、廃藩置県も行われた。庇護者なくなり敢え無く150石の寄進米が停止され、また新政府は七ヶ国の智識米勧進も禁止、さらに寺領が没収されてしまった。勢威を振るった石動山天平寺の経済的基盤は、完全に失われ、一挙に衰退することとなりました。今では、在住の僧は一人もおらず、草木に被われ、わずかに残された社寺や無数の石垣、礎石が、かつての栄華を偲ばせる縁(よすが)となっています。

 周囲には、霊場や行場跡など、関連施設が存在し、大御前を中心とした石動山曼荼羅の世界を形成していた。史跡指定(昭和53年国指定史跡とされる)された範囲は、こうした山全体に対してであり、東西21km、南北303km、約310ヘクタールであり、ほぼ近世の領域をカバーしています。

 右の写真は、伊須流岐比古神社拝殿である。伊須流岐比古神社「鹿島郡史」に神輿堂を移して拝殿としたと書かれているが、移築した訳ではない。境内には、厄除錫杖があり、持ち上げて「石動権現(いするぎごんげん)」と唱えて一度振ると、前途明るく身体を守ってくれるとある。

<石動山の主な神々>

 ここでも 白山信仰 などと同様に、本地垂迹説により神仏混合が行われています。本地垂迹説とは、本地の仏・菩薩が衆生を済度するために、迹(あと)を垂れて我が国の神祇となって現れるとする神仏同体説です。
・山頂の大御前の2社
  主神:大宮の大宮大権現(祭神・伊弉諾命/本地・虚空蔵菩薩)
   ※虚空蔵菩薩:智徳上人の開創といわれます。
 相殿の神:客人大権現(まろうどごんげん)(祭神・伊冉命/本地・十一面観世音菩薩)・・・・相殿の祭神については白山比咩命とす資料もある。
・山頂大御前南側斜面中腹の3社
  梅宮の鎮定大権現(祭神・天目一箇命/本地・勝軍地蔵菩薩)
  火宮の蔵王大権現(祭神・大物主命/本地聖観世音菩薩)
  剣宮の降魔大権現(祭神・市杵島姫命/本地倶梨伽羅不動明王)覆土が除去された五重塔跡

<石動山の登山道>

長坂道:富山県氷見市長坂から誉津石権現を経て旧観坊に至る道
平沢道:富山県氷見市平沢から石動山にいたる道です。
大窪道:氷見の阿尾から白川、戸津宮、大窪、石動山へと至る道です。
荒山道:富山県氷見市と石川県鹿島町を結ぶ現在の荒山峠越えの道の南側を通り、柴峠で氷見からの街道と合流し、石動山へ至る道です。
多根道:七尾市多根町から石動山に至る道です。
角間道:現在廃道

石動山・熊野信仰との交流
 
 旧福野潟周辺地域(羽咋郡志賀町)の主尊には、金剛界大日(こんごうかいだいにち)が圧倒的に多いが、これは能登地区全般に見られる傾向でもある。しかし、全国的にみた場合、阿弥陀を主尊とする場合が最も多く、大日の主尊が多いのは能登・陸奥の両国だけである。

 その理由の詳細は定かではないが、真言宗の守護仏とも言うべき大日如来の種子(しゅじ)のものが、石動山麓や旧福野潟周辺の石動山修験とかかわりの深い神社の境内に多く所在していることから、能登国の板碑造立に、真言系修験の「いするぎ法師(石動山山伏)」とその系列につらなる里山伏たちが、深く関与していた事が窺われる。
 この他、旧福野潟周辺では、鎌倉時代後期から南北朝期の板碑に、「反花蓮座(はんかれんざ)」を施したものが数少ないが存在する。これはこの地方の石工たちの中に、この種の蓮座を得意とする技術系統があったことを想像させる。

 能登では比較的少ない阿弥陀系板碑は、旧福野潟周辺においてはほとんど見られないが、近接する志賀町の土田・上熊野地区に多いことが注目される。この両地区及びその周辺部は、羽咋郡北域の山間地帯にあたり、得田保の森山熊野社をはじめ、直海保北方(のうみほきたかた)=熊野方の谷神(やちがみ)熊野社や釶打郷(なたうちごう)藤瀬の熊野権現(藤津比古神社)などの熊野系の古社も多く、能登において最も濃密な熊野信仰地帯を形成している。また紀伊熊野の証誠殿(しょうじょうでん)の本地仏が阿弥陀如来であることや、熊野信仰の盛んな関東地方などで、阿弥陀仏を主尊とする板碑が圧倒的に多いことも知られており、こうした状況から推測するに、羽咋郡北域山間部の阿弥陀系板碑の造立に、紀伊からやってきた熊野先達(せんだつ)や、地元の熊野信仰の担い手らが、深く関与していた可能性が強いと思われる。


石動山の合戦(建武2年)

 南北朝時代、南朝と北朝その両者の争いは北陸の地方にも及びました。
 建武親政下における地方の支配組織は、国司と守護を併置したものでありました。例えば、地方では、律令制度時代の地方長官としての国司と、鎌倉の武家政権発足以来の守護が併存するるという、混乱を引き起こすような状況が生まれてしまいました。このような後醍醐天皇の公家優先の復古政策は、大半の武士勢力の反発をまねき、やがて建武の新制の功労者ではあるが武士の棟梁である足利尊氏を担いで後醍醐天皇と対立するようになりました。

 『太平記』によると、建武2年(1335)10月27日、尊氏の呼びかけに応じた越中の守護・普門蔵人利清(ふもんとしきよ)が、同族の井上氏(普門利清は井上氏の出で井上利清ともいった)や、野尻・長沢・波多野らの越中諸氏と共に、後醍醐天皇に離反した足利尊氏の動きに呼応して軍勢を集めて、越中の国司・中院定清(なかのいんさだきよ)を攻めました。中院定清は、能登にしりぞき、石動山の宗徒を頼って同山に立て篭もりました。そこで普門利清は、大軍で中院定清を滅ぼし、同年12月12日、深雪におおわれた石動山の寺院を紅蓮の炎で焼き尽くしました。中院定清戦死の地は、山頂から東へ、およそ1kmほど離れた焼尾の台地です。当時、本陣が築かれた焼尾の尾根には幅約2m、二重に堀めぐらされた壕跡が今もそのまま崩れてあり、熊笹におおいかくされているといいます。
 
 この合戦については『太平記』・巻14・諸国朝敵蜂起事の段でも「其日(建武12年19日)の酉刻に能登国石動山の衆徒の中より、使者を立てて申しけるは、去年二十七日越中守護普門利清ならびに井上・野尻・長沢・波多野の者共、将軍の御教書を以て両国の勢を集め、叛逆を企る間、国司中院中将定清要害に就て、当山に盾籠らるる処、今月十二日彼逆徒等雲霞の勢を以て押寄る間、衆徒等義卒にくみし、身命を軽んすと雖も、一陣全きを得ずして、遂に定清戦場に於て命を堕され、寺院悉く兵火のために回禄せしめ畢んぬ」と記されています。ただしこの中で、普門利清を越中守護とされていますが、当時の越中守護は能登出身の 吉見頼隆(よしみよりたか) であり、利清は守護と目されるほどの有力豪族とするのが妥当でしょう。

 いずれにせよ、利清らの挙兵の背後には尊氏による北陸諸国の武士に対する軍勢催促がなされ、能登武士の動向は知られないものの、尊氏に呼応した者が多かったと思われます。また『後鑑(のちかがみ)』所収の「長尾系図」によれば、この時、越後の長尾景忠(かげただ)は、足利尊氏から「二引旗(にびきのはた)」を賜って、上杉憲顕(のりあき)の名代として石動山攻略に参戦し、その軍功により、尊氏から本領を安堵されていたとも伝えています(
丸に二の字の二引両は足利家の家紋であり、後の能登畠山家の家紋でもあります)。

 鎌倉期の『宣陽門院所領目録』によると、石動山がある上日本荘(あさひほんしょう)は、後白河法王の皇女宣陽門院覲子(きんし)内親王の所領でありました。その縁故か、「能登国石動山」は、皇室の祈願所となっており、その為や、また(中院定清の)父・ 中院定平 が能登国司であった関係もあったのであろうか、越中国司中院定清は石動山を頼ったのではないでしょうか。このような石動山の祈願所としての立場が、全山炎上という惨事をもたらしたと言えます。

 この後半世紀にわたって、大覚寺統の後醍醐天皇の流れをくむ南朝方と、持明院統(北朝)の天皇を擁立した足利尊氏にはじまる室町幕府の対立を基軸に、幕府の内部抗争が複雑にからまりあいながら、内乱の時代が展開される。建武2年(1335)12月に起こった石動山合戦は、まさに、北陸における南北朝内乱の幕開けを象徴する出来事だったのであります。

 建武2年(1335)の石動山合戦の後、一山は、興国2年(暦応4年:1341)、光明天皇が室町幕府に命じて、足利尊氏が再建する事となりました(大宮坊世代筋目書)。同年本山の勧修寺(京都)から導師を迎えて、再建の堂塔供養が執り行われました。つまりこの時から、本山は真言宗の御室仁和寺(おんむろにんなじ)から、同じ真言宗で山科にあった勧修寺(かんじゅじ)に変わりました。応永23年(1416)年には、本山勧修寺の導師を迎えて、石動山五重塔跡・講堂の造立つ供養が行なわれております(検校(寺務)職は、勧修寺二品法親王寛胤、別当は慈尊院栄海僧正とあります)。御会符一巻によると、当時なお360余坊、寺領4万3000石とあります。
 大宮坊世代筋目書によれば、寛胤法親王は後伏見の皇子、大宮坊検校職として在山27年、貞治6年(1367)入寂とあり、栄海僧正は群書類聚・東寺長者補任に後醍醐帝元徳2年(1330)4月21日東寺長者となり、康永(貞和元年・1354)、寺務法務宣下とあります。
 また再建後には、石動山衆徒の発願・勧進によって、正平8年(1353)『仏説如意虚空蔵菩薩陀羅尼経』が開板され、本地虚空蔵菩薩の功徳の弘布がはかられていました。そして日本海の沖を行き交う舟人達には、富山湾の奥深い石動山の峰から吹き降ろす西風は、船を無事に東北へ運んでくれる順風と信仰されていたのです。
 このようにしていったん廃虚となった石動山は復興される運びとなりました。しかし、南北朝の抗争は、次第にその本来の目的からはずれ、豪族間の勢力争いの様相を呈し、石動山でも衆徒をめぐって、能登、越中の守護たちの抗争が、しばらくは絶えませんでした。従って宮門跡の奏請により復興が促されたというものの、一部の衆徒らは一山に落ち着かず、地方に出向いて法力を説き、分霊社の勧請などの活動をしていたようであります。
 しかしながら仁和寺から極楽院賢海上人が迎えられるに至って、石動山の宗勢も元の如くに復興したらしく、一山において、この上人を大宮坊中興の座主として崇めています。上人は五辻中納言俊氏の子息であり、永正9年(1512)入寂、享年89歳でした。
 次いで左大臣源俊房の後裔、乗観法師が法脈を継ぎ、ここに石動山の宗勢は益々盛んになったといいます。大宮坊世代筋目書によれば、法師の入寂は天文3年(1534)7月とあります。
 

いするぎ山伏の活動
 
 室町時代以降、中興の兆しが見え始めた石動山衆徒は、神仏習合・本地垂迹説の思想を背景に、仏菩薩が一切の衆生を救うために神の姿になって現れたとして、伊須流岐比古神社に祀る五柱の祭神を五社権現となえ(ただし五社権現と称えられたのは鎌倉時代から)、それぞれの祭神に対比される本地仏を祀って、宗勢の発展に努めます。
 (詳しくは、上の「石動山信仰」の項の <石動山の主な神々> を参照願います)
 こうして、彼らは虚空蔵求聞持の修法を以って、即身成仏たらんと「行」三昧に明け暮れました。そして石動山が京都の鬼門の方向(東北)にあることから、皇室の安泰と鬼門鎮護の祈祷を行うとともに、自ら難行苦行を求めて諸国を遍歴し、「験力(げんりき)」あるところを示して、石動山の分霊社を勧請し設立していきました。

 そのため現在でも、各地にある分霊社は135社を数える(昭和48年時点)といいます。
 各県別に見ると 青森県 1社、 秋田県 2社、 山形県 8社、 新潟県 69社、 長野県 4社、 富山県 21社、 
            岐阜県 7社、 石川県(全て能登) 14社、福井県 1社、滋賀県 7社、 大阪府 1社(合計135社)
 この神社数は、宗教法人として登録されているもので、合祀され廃絶したものや、あるいは石動山の火の宮、剣宮よりの勧請を伝えるものを加えるならば、倍以上になるだろうと推定できます。
 これより石動山衆徒の活動範囲の広さが窺えるであろう。

 当時は各地の霊山に、こうした山伏が山林修行をしており、互いに繋がりを持ち、その「験力」のあるところを「験競(げんくら)べ」していました。石動山衆徒の験力は、京都において能州山伏、おるいは「いするぎ」山伏と呼ばれ評判で、相当高く評価されていたようです。
 石動山衆徒の修行は、毎年3月の晦日から5月3日まで山中に籠もって、掟を守り床堅(とこがため・不眠不動の行)、水断、穀断の荒行に耐えることから始められ、次いで呪術を習って「験力」を身につけたといいます。

 こうして一応の修行を終えると、彼らは期間を定めて十坊一組となり、自ら艱難苦行を求め、野宿しながら諸国を遍歴してまわった。こうした「行」を、一般に修験者の「とそう行」(‘と’は手篇に‘斗’、‘そう’は同じく手篇に‘数’と書く)といいます。
 そして一山の寺坊に寄食する時は、本寺大宮坊に帰属しながら教学を修め、広大なる寺領を警護するために武術を練っていました。
 したがって彼らは各地の情勢を容易に探り得たと同時に、一度政変が起こるや、知られざる間道を通って隠密的な役割を果たしたり、時には武器をとって出陣しました。

 石動山衆徒は、真言系の修験者といっても、中世の中頃までは真言・天台などの明確な区別があった訳ではなく、呪文や祈祷の護符は不統一なもので、天台系のものばかりでなく、民間宗教や陰陽道など雑多なものまで混じった実に多種多様なありさまでした。装束なども同様でした。
 しかしながら中世末期の頃になると、ようやく彼らの装束も整うようになってきました。不動明王の尊容をかたどって、十二因縁の襞(ひだ)をつけた黒い頭巾を冠り、麻で織った大袖の「篠懸(すずかけ)」を纏い、組糸で編んだ「結袈裟(ゆいげさ)」を着て、袴、引敷(尻当)、脚絆、甲掛をつけて草鞋を履き、錫杖の音を響かせて、足どりも勇ましく脚付の「笈(おいずる)」を背負い、その中に仏具、食器、薬餌などを携えていたのであります。
 おそらく建武から天正にかけて、こうした身なりの一山の衆徒が法螺貝を鳴らし、山中を跋渉したことと思われます。
石動山における合戦(戦国時代)
 
 
その後、石動山は、また戦場となりました。天正4年(1577)、5年には、七尾城の能登畠山氏を攻めるため遠征してきた上杉謙信が、石動山の大宮坊裏手に石動山城を築き戦っております。詳しくは、七尾城の戦い記した 「霜は軍営に満ちて・・・」 の頁を見てください。

 七尾城の落城の翌年、謙信は脳卒中で、急死します。七尾城は畠山の旧家臣と上杉方の軍で守られていましたが、彼の死後、七尾城や石動山は、信長方に奪回され、上杉方に味方したことや、見過ごせない勢力であることから、信長によって寺領を5千貫から1千貫に減らされます。

 天正10年(1582)6月2日織田信長が本能寺の変で亡くなってしまいました。石動山衆徒は、以前から寺領を削減した信長に対して密に奪回を画策していましたが、ここぞとばかり上杉方の助勢を得て越後から戻ってきた畠山の旧臣・温井長隆・三宅長盛兄弟と組み、前田利家を勢いに乗って葬ろうとしました。「荒山合戦記」では、温井・三宅兄弟が能登奪回を企てて、遊佐長員(ながかず)と共に、上杉景勝らの援兵などを率いて、海路より6月23日(7月の説もあり)早朝に、氷見女良浦に着き、石動山に登った。そして般若員快存(はんやいんかいぞん)・大宮坊立玄(おおみやぼうりゅうげん)・大和坊覚笑(やまとぼうかくしょう)・火宮坊らの率いる衆徒と合し、4千300の軍勢となった。翌6月24日、石動山に近い荒山城(桝形山)に拠って、堡柵を構えようとした、とあります。それにより実質能登守護となっていた 前田利家 と対峙することとなりました。

 話は前後しますが、利家はその年の3月、越中に武田勝頼の扇動による叛乱がおこり、利家はこの討伐のために出陣、その間隙をねらって奥能登には上杉方の長景連、温井景隆らが船で進出したので、それを迎え討つため長連龍が急派し、所口(現七尾)城代の前田安勝とともに、上杉軍が占領していた棚木城(現・穴水)を攻めされるという騒ぎがありました。利家らは進んで上杉軍の根拠たる魚津城を攻撃、6月2日ようやくこれを陥れましたが、まさにその日、京都では本能寺の変が勃発していたのでした。

 その報を知るや、織田方の諸将は後方の態勢を固めるため急ぎ帰国し、政権に野望のある者はその上で出直そうとしたのでした。利家も、信長の悲報を魚津で聞きましたが、越中海老江より船で大境(氷見市)まで逃れ、大境より夜道をついて小丸山城に戻りました。信長の死後、そんな織田方の諸将の中にあって、羽柴秀吉は、高松城を水攻めで窮地に追い込み、城主を切腹させ、その後、疾風迅雷の勢いで引き返し、6月13日山崎合戦で明智光秀を討ったのでした。
 
 一歩遅れた北陸諸将・特に柴田勝家は上方への出撃を決め、利家にも出馬催促をしましたが、利家は領内に一揆勃発の報があるという理由で6月17日、辞退しました。実際、上記のように石動山衆徒と温井長隆・三宅長盛兄弟による叛乱の動きがあった訳です。

 
利家は、石動山に向かい、かつ、尾山(金沢)城主・佐久間盛政、北ノ庄(福井)城主・柴田権六勝家に書状を送り加勢を請いました。そして自分は先手を3000の兵をもって石動山に進み、石動山と荒山の中間にある柴峠に陣を張り、石動山の温井景隆・三宅長盛兄弟の軍勢が、荒山に向かうところを急襲しました。温井景隆・三宅長盛軍は、このため石動山と荒山の2つに分断されました。

 この頃佐久間盛政(さくまもりまさ)は、2500人の兵を引き連れ、石動山の南麓の高畠村に陣取っていましたが、その知らせを聞き、直ちに荒山城を攻めました。温井景隆・三宅長盛兄弟及び遊佐長員らは佐久間盛政の攻撃で敗死し、利家は、伊賀の倫組50余人に伽藍を放火させ、敵軍を破りました。
 この時の戦いの余談ですが、利家は石動山に七尾町人・氷見屋善徳の次男が、 性寂坊(しょうじゃくぼう) の名で修行しているのを知り、密に彼と内通し、山中の様子を教えてもらったのでした。この情報により利家はいち早く行動し、勝利を収めたといいます。しかし性寂坊の方は、内通していた事がばれ僧兵達に磔刑とされたのでした。利家は、勝利の後、氷見屋に屋敷地を与え、その霊を慰めたのでした。

 なお温井景隆・三宅長盛の兄弟及び遊佐長員は、大芝峠で晒し首にされたとあります。翌朝(7月25日
の説もあり)前田利家は、濃霧の中を石動山に攻め込み、堂塔・坊舎に火を放ちました。不意を突かれた石動山衆徒と上杉勢は、武具もとれぬまま敗走したとあります。これによって一山は火の海となり、上杉景勝が援軍として送った3千の軍船は、虻ヶ島あたりから火煙を望見し、そのまま本国越後へ引き返したとあります。
 
 この天正10年の石動山合戦(前田利家・佐久間盛政・柴田勝家VS温井景隆・三宅長盛・遊佐続光・石動山衆徒)は、あまり知られた戦いではありませんが、それでも双方合わせて一万を越える兵の大戦でした。この戦いで行われた石動山の全山焼き討ち(7月26日)は、織田信長の比叡山焼き討ちに匹敵するほどだったといわれ、勿論天平寺院群は灰燼に帰しています。

 温井長隆・三宅長盛兄弟は石動山に近い
荒山城で敗死し、石動山衆徒もやぶれますが、戦後処置として、このとき石動山の五社権現が伊掛山(七尾市庵町)に遷座し、72坊の衆徒が伊掛山の境域に在住したと伝えられます。移された石動山衆徒は、その後、前田方の高橋と石垣(高橋氏と芝草屋五郎左衛門尉という史料もあり)という監視役のもとに置かれることになりました。

 天正11年(1583)朝廷は、石動山天平寺の再興を、時の権力者・羽柴秀吉に命じました。また、同年に正親町(おうぎまち)天皇は、石動山再興の綸旨を下しました。それで 前田利家 は、秀吉から命を受けて、大窪村(富山県氷見市)大工に屋敷地を与え、石動山天平寺の再興に携わります。天正19年(1591)には、利家は、大呑沢野村(七尾市沢野町)の内100俵を石動山天平寺に寄進しています。慶長2年(1597)、利家は、石動山天平寺の僧の監視を解き、伊掛山から、石動山へ還ることを許しました。そして承応2年(1653)には、前田利常が石動山本社(現在の本殿)を建立しております。

 天正12年
(1584)8月、越中富山城の佐々成政が秀吉に離反し、東海における秀吉と家康の対立を利用して、秀吉に与する前田利家を倒すため、8月28日、富山城から出軍し、能登半島の付け根にある朝日山(現・富山県氷見市朝日山公園)を攻めました。有名な末森城の合戦の端緒です。同時に、佐々成政の客将(守山城主)・神保氏春は、前田利家の重要な拠点・七尾を攻めるため、徳丸河原合戦の後、石動山脈で一番往来の多かった荒山峠越えの道を分岐させる要衝である勝山城に、彼の家臣・袋井隼人を入れ帰国しました。これに対して前田方は、前田安勝・利好らが、直ちに、これを攻めたが攻略できなかったとされています。9月8日夜から11日にかけての、主要戦場の末森城の戦いも、佐々成政は破れました。末森の合戦後、前田安勝らは再び勝山城を攻めました。袋井隼人はじめ守兵の多くが越中に帰り、残るものもわずかだったので、七尾(前田)方は容易に乗り込み城を破却しました。それまで前田利家に対して優位な立場にあった関係は、これらの戦いを境に完全に逆転することとなってしまいました。

 ところで、最近まで、この勝山城は、あまりその重要性が認識されていませんでしたが、昭和56年の調査によって、県内屈指の城跡であることがわかってきました。文献的にも調べ直され、勝山城は単なる砦ではなく、一時的には能登一国に指令を発する政庁の役割を果たしていたことがあrきらかとなりました。
 能登国守護畠山氏の内紛時、温井一続宗(つぐむね)党が、武田信玄、加賀一向一揆の支援のもと、能登の一向宗徒も味方して、能登各地を善戦し、畠山氏方を七尾城篭城に追い込むいました。そして温井続宗は、勝山城から占領地に統一的な知行表示(貫高制)を試行するなど積極的な政治支配を行ない、勝山城は、天文24年(1555)9月から永禄元年(1558)春までの2年半、政治的・軍事的拠点となっていました。
(参照)
「かしまの歴史探訪」(鹿島町教育委員会)
《石動山資料館》
場所:石川県鹿島郡鹿島町石動山ラ部1番地2
展示内容:石動山の歴史を知ることができる古文書、絵図、仏具、仏像など70点以上の資料が展示されています。
開館時間:午前8時30分〜午後4時
休館日:毎週 火・水・木曜日
冬季休館 11月11日〜3月10日
Tel
(0767)-76-0408
料金:大人(個人)200円、小人100円、大人(団体・20名以上)160円、小人(団体・20名以上)無料

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(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市史編纂専門委員会)、
「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)、「新こども石川県史」(石川県児童文化協会)
「石川県鹿島町史 資料編」(鹿島町)、「石川縣鹿島郡誌」((財)鹿島郡自治会・昭和3年)
「石川県大百科事典」(北国出版社)、「加能郷土辞彙」(日置謙編・北国新聞社)
「能登石動山」(櫻井甚一・濱岡賢太郎・清水宣英・田川捷一:北国出版社)
「能登の文化財 第8輯」(能登文化財保護連絡協議会)
「日本海世界と北陸」(神奈川大学、日本常民文化研究所)他

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