このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石動山のコーナー(目次頁)へ  |  石動山関係写真集(目次頁)へ  |  年表-その2へ

石動山年表-その1
(崇神6年〜寛永2年(1625))

西暦和暦記事
----崇神6崇神天皇、方道仙人に勅して神代の宝剣を納め、社壇を起こす。(鹿島郡誌昭和3年発行 703頁)(石動山古縁起)
----同年北陸巡按使大比古命、勅命により伊須流岐比古神社を創建す。(鹿島郡誌昭和3年発行 703頁)
----垂仁(垂仁天皇第一)皇子誉津別王30に至り給ふも発言不能なりしを、方道仙人宝満宮前に祈祷し、発言できるように至る(鹿島郡誌昭和3年発行 703頁)
----垂仁26筒飯大臣宣旨を奉じて大宮坊(證誠殿)を建立し、寺号を石動山と称すという。(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版)
717養老元年4月 越知の泰澄が、石動山に登り、法道の衣鉢をうけて壇を弘む。(鹿島郡誌昭和3年発行 703頁)
石動山古縁起に、智徳上人が石動山に登り、求聞持頭巾法を説いたと伝えられる。(石動山古縁起)
石動山新縁起に泰澄大師が石動山を開いたと伝えられる。(石動山新縁起)
736天平8年泰澄、疱瘡の流行につき祈祷して霊験を現わす(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版)
756天平勝宝86月7日 泰澄、石動山に講堂を建立し、石動寺を改めて天平勝宝寺となす。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
同年同年天下に恙災あり、泰澄勅を受けて祈祷し、国土平穏に帰す。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
757天平宝字元3月11日 勅使左大臣藤原家通(左大臣)下向して、奉賽の誠を尽くされ、四至九里の地を賜い、更に加賀・能登・越中・越後・飛騨・信濃・佐渡を勧財の地と定めらる。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
763天平宝字76月 孝謙天皇重祚の祈願を宝満宮中禅動字閣に修す。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
765天平神護元10月 勅使藤原永手(永年か?)を遣わされ、神位並びに宮寺大宮坊座主に正一位和尚位、五官位、永宣の官符、能州一ノ宮勧貞之管摂別当職を授けられる。 (鹿島郡誌昭和3年発行 705頁)
767神護景雲元3月18日 泰澄入寂す(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
同年同年6月 勅使右大臣吉備公下着、叡旨を奉じて大師号を賜わる。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
同年同年同月 泰澄の死後、仁和寺、勧修寺の法親王交互大宮坊座主位を管摂す。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
927延長5この年に完成した「延喜式」に伊須流岐比古神社の名前が見える。文献上の初見。
1110天永2鳥羽院上皇勅願あり、一品太王命を奉じて下着す。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
1125天治2崇徳天皇勅願あり、五社大権現に正二位を授けらる。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
1142康治元8月 仁和寺覚順僧正大宮坊七代座主となる。(鹿島郡誌昭和3年発行 731頁)
1143康治25月 一山の縁起紛乱につき、御室御所所蔵の旧記を校合し、西塔院権中納言時興をして筆記せしむ。(鹿島郡誌昭和3年発行 704頁)
1154久寿元近衛院祈願の事あり。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
1163永暦46月10日 二条帝祈願の事あり。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
1173承安312月 勅使藤原家通下向し、神位正一位を授く。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
1224貞応3文献上に石動山が皇室の祈願所であることが見える。
1246寛元4慈尊院栄海大僧正下向し、大宮坊座主となる。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
同年同年伊須流岐比古神社は北越の霊社として別当天平寺の盛威は北州を圧せるの観あり。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
1252建長46月8日 宣陽門院・覲子内親王(後白河天皇皇女)崩御時の所領目録に、応分として上日庄と上日新庄があり、御祈祷所として石動山があげられている。(島田文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1294永仁24月  日像 佐渡より能登に向かう船中、大宮坊満蔵を法論の末屈伏させ、日乗と改名改宗さす。(加能郷土辞彙 676頁)
同年同年日像・日乗石動山へ登り、日蓮の教えを説くも反対され、加賀太郎・北太郎兄弟に救われ、滝谷へ行く。(加能郷土辞彙 676頁)
1295永仁2文献上に初めて石動山五社(五社権現)の名前が見える。
1298永仁63月 これより先、石動山五社神輿の造替の事を衆徒と神官が仁和寺に奏上を願った。(実躬卿記裏文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1328嘉暦37月27日 石動講堂炎上(永寺年代記)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1335建武211月 国司中院定清石動山により、越中国守護普門蔵人と戦い斃れ、、山上の360余坊の諸刹灰燼に帰す。(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
同年同年12月12日 石動山兵火にかかり、中院定清戦死す。(石川県史 石川県 416頁)
12月12日 建武新政に離反した足利尊氏に応じた越中国守護普門(井上)俊俊等が同国国司中院定清を石動山に攻めこれを破り、寺院は悉く兵火にかかった。(太平記)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
石動山が南朝方の越中国司中院定清をかくまったため、北朝方の越中守護普門利清に攻められ、全山焼き打ちされる。(国指定史跡石動山 100頁)
1341暦応4足利尊氏石動山に対し再建を促す(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版 247頁)
同年同年勧修寺寛胤法親王、石動山検校職となる(新鵜2 75頁)
石動山が再興される。本山の京都勧修寺から導師を迎えて、再建の堂塔供養が行われる。(石動山散策ガイド・鹿島町教育委員会編)
石動山跡の五重塔や講堂供養が行われ、石動山別当山城国勧修寺慈尊院院主栄海が導師を勤めた。石動山の検校者は勧修寺門跡(興胤)であった(勧修寺文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
足利尊氏が巧妙天皇の勅命を得て、石動山を再興する。本山の山城勧修寺から導師を迎えて、再建の堂供養がおこなわれる。(国指定史跡 石動山 100頁)
1346貞和210月8日 勧修寺慈尊院前僧正栄海が俊然律師に能登国上日庄三分一を与えた。上日庄は故聖伊阿闍梨(伊顕朝臣息・三条か?)相伝の私領であったものを惣庄と石動山を勧修寺長吏寛胤法親王に寄進の際、栄海に三分一を分与していたものであった。(勧修寺文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1353天平8
(文和2)
1月13日 石動山「佛説如意虚空蔵菩薩陀羅尼経」を出版す。(密田教授退官記念論集 57頁)
1月13日 石動山竹林坊重胤が勧進し、佛蔵坊賢海が願主となり、虚空蔵菩薩陀羅尼経を開版した(版木如意虚空蔵菩薩陀羅経刊記)。(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1359延文4是頃、安居院、石動山・白山権現等、諸国神社の縁起・祭事を類聚し、『神道集』が編纂された(神道集・天理図書館所蔵)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」78頁)
1362正平17
(康安2)
宮方(南朝方)の桃井直和、越中に蜂起し、桃井直常石動山により能登の武家方と戦う。(石川県史 石川県 426頁)
同年同年5月22日 これ(この日)より先、能登守護吉見氏頼は石動山に拠った南朝方の桃井直常と戦い、同27日、氏頼は再度石動山に戦い、次いで七月十八日、桃井直広の拠る石動山城を攻略した(岩清水文書・加越能古文叢・足利義詮御判教書・吉見伝書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」79頁)
1369正平246月1日 能登の武家方桃井直常を撃退す。(石川県史 石川県 426頁) (参考  忘れられた能登守護 能登吉見氏
1375天授年間足利義満社殿を再興す。(鹿島郡誌昭和3年発行 736頁)
1376永和25月13日 大宮坊実海が、「佛説如意虚空蔵菩薩陀羅尼経」を重版する。(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」79頁)
1386至徳3石動山の講堂が炎上する。(永寺年代記)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」79頁)
1416応永23勧修寺御門跡実順僧正、石動山検校職となる。(新鵜2 75頁)
本山の京都勧修寺から導師を迎えて、石動山の五重塔、講堂の造立供養が行われる。(石動山散策ガイド・鹿島町教育委員会編)AND(国指定史跡 石動山 100頁)
1486文明18青蓮院道興石動山に参詣し法楽す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 1頁)
山城聖護院道興が石動山に参詣し、和歌「うこきなきみよに変わりて石動の山とは神や名つけそめけん」を奉納する。(石動山散策ガイド・鹿島町教育委員会編)AND(国指定史跡 石動山 100頁)
----延徳の頃定賢の宝篋印塔作られる。(石川県銘文集成 158頁)
1512永正93月20日 大宮坊中興座主賢海上人入寂。(五辻中納言俊息)(鹿島郡誌昭和3年発行 706頁)
1517永正14和歌の名門冷泉為広が石動山に参詣し、和歌「これや此 神の力の ゆするぎや四方に名高き山風の声」を奉納する。(石動山散策ガイド・鹿島町教育委員会編)AND(国指定史跡 石動山 100頁)。余談だが、この冷泉為広は大永6年(1526)能登七尾の地(おそらく能登畠山氏の舘)で亡くなった。
1518永正15後柏原天皇綸旨写しによると、石動山天平寺が回禄、衆僧奉言叡聴に達し、宸裏を給い、大講堂・諸堂を再造することを命ぜられた。(天平寺綸旨・消息写)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 369-370頁)
1524大永411月28日 石動山般若坊盛宥は能州一宮桜井大炊助に一宮免田下地を永代売り渡した。合一反の在邑は戸川尺迦講田の沖、号す六の田、年貢六俵。此の田地は一宮座主職の内に為すと雖(いえど)も、※永享十八年智俊座主より柳田七郎兵衛方へ、永代買得したものを、十八年に仰せ下しは、盛尊が永代買得し、即ち法師に譲り与えたが、用要有るにより、代銭九貫文に一宮桜井大炊へ、永代売り渡す所實也、天下一同の得政が行われ、違乱の輩が出来ても此の状に任せるとした。(気多大宮司桜井家文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 382-383頁)
 ※永享18年→こういう年は無い。書き間違い? 因みに永享年間は、1429年9月5日〜1441年2月17日まで。
1525大永52月28日 泉福坊の碑作らる。(石川県銘文集成 170頁)
1534天文33月7日 大宮坊座主乗観法師入寂(鹿島郡誌)
1557弘治3温井備中等福水に陣し、麻ヶ嵩・石動山・槻木に堡(とりで)を築き、長続連と戦う。(能登志徴 森田柿園著 269頁)
----永禄の頃温井続宗石動山妙日坊へ十貫文寄進す。(七尾城の歴史 277頁)
1560永禄3温井・三宅、荒山・石動山へ出兵し、長続連と接戦す。(越登賀三州志 富田景周著 130頁)
1562永禄53月2日 (能登守護畠山)義綱の命を受けた井上英教と長連理は笠松但馬守に対し、石動山妙日坊が相違しているので、月百疋宛て、三月より十二月までの十貫文を定納するよう申し付けた。笠松但馬守は石動山寺院を監督していたものと思われる。(笠松文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 462頁)
1568永禄118月 天平寺大般若経を転読して、上杉謙信の戦勝を祈願する。(七尾城の歴史 594頁)
1569永禄129月 天平寺上杉輝虎のため戦勝を祈願する。(七尾城の歴史 277頁)
1570永禄136月13日 畠山義綱石動山福智院へ三千疋宛行なう。(七尾城の歴史 594頁)
1575天正3畠山の臣・温井氏、麻ヶ嵩・石動山・槻木に堡(とりで)を築く。(鹿島郡誌 707頁)
1576天正410月 上杉謙信能州石動城を構築し、直江大和守景綱を入れおく。(加能郷土辞彙 489頁)
同年同年同月 上杉謙信石動山の戌として麻ヶ嵩城に上杉織部義辰を入れおく。(能登志徴 森田柿園著 269頁)
1577天正5年9月 上杉謙信大宮坊に止宿して七尾(城)を攻略す。(鹿島郡誌 707頁) (参考  霜は軍営に満ちて秋気清し
1578天正6年長連龍、復讐のため能登へ討入り、石動山に至る。(能登志徴 森田柿園著 380頁)
同年同年3月13日 上杉謙信死去す。(越登賀三州志 富田景周著 167頁)
同年同年長連龍、柴田勝家の援を得て穴水にありしも、七尾の城兵に攻められて石動山阿弥陀院にかくれ、さらに越中へ逃げる。(能登志徴 森田柿園著 380頁)
1581天正94月 長連龍、前田利家の援を得て七尾城を奪回す。遊佐続光・温井景隆・三宅長盛は七尾城を脱出せしも、続光は捕らえられて殺され、景隆・長盛は石動山に隠れ、更に越後の上杉景勝にたよる。(氷見市史 昭和38年版 249頁)
同年同年7月12日 温井・三宅氏七尾城を菅屋長頼に明け渡し、石動山へ登る。(越登賀三州志 富田景周著 182頁)
同年同年7月23日 織田信長、鹿島郡内にある天平寺神領を長連龍に与う。(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版 7頁)
7月23日 菅谷長頼は連龍に対し、先年謙信が当国(能登)へ乱入以来の石動山の新神領について、貴所へ朱印を以って仰せ付けられた鹿島半郡内にある神領は、上様(織田信長)が存知無いことなので貴所は朱印の旨に任せ知行すること相違ないと知らせた(長家文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 604頁)
同年同年織田信長、天平寺領五千貫を没収し、千貫の地を与う。(鹿島郡誌昭和3年発行 709頁)
同年同年10月2日 織田信長、前田利家を能登一州の封候とす。(越登賀三州志 富田景周著 184頁)
1582天正106月2日 織田信長、京都本能寺にて明智光秀の為に弑される。
同年同年6月19日 温井景隆・三宅長盛、能登を襲うと聞き、前田利家之を柴田勝家・佐久間盛政に告ぐ。(加賀藩史料)
同年同年織田信長弑せらるや、石動山衆徒は畠山氏の反将と謀り、上杉勢をたのみ前田氏と戦う。(鹿島郡誌昭和3年発行 707頁)
同年同年6月20日 温井景隆・三宅長盛・上杉景勝の援兵を率い、天平寺衆徒の協力を得て女良(現在:富山県氷見市女良)に上陸し、荒山に城を築き始む。(氷見市史 昭和38年版 249頁)
同年同年6月23日 温井・三宅、越後の兵を率いて石動山に入り、荒山に城を築く。(加賀藩史料)
 (参考:荒山城(別名:枡形山城)→ 枡形山城跡探訪記
同年同年前田利家再び柴田勝家、佐久間盛政の来援を求む。(石川県史 昭和2〜15年)
同年同年温井備中守・三宅備後守、石動山衆徒と共に前田利家と柴峠に戦い敗戦す。(鹿島郡誌昭和3年発行 708頁)
同年同年6月25日 佐久間盛政の援軍高畠(現在:中能登町高畠)に達す。夜半前田利家七尾を発す。(石川県史 昭和2〜15年)
同年同年6月25日 前田利家、佐久間盛政の援を得て七尾を発し、二十五日荒山峠で(温井)景隆、(三宅)長盛を破り、石動山衆徒も敗死す。(氷見市史 昭和38年版 249頁)
同年同年6月26日 前田利家石動山を攻撃し、佐久間盛政金沢より来りて之を援く。(加賀藩史料)
同年同年6月26日 佐久間盛政、荒山の塁を陥る。(石川県史 昭和2〜15年)
同年同年6月26日 前田利家、石動山を焚く。(石川県史 昭和2〜15年)
同年同年6月26日 石動山兵燹にかかり、三百余坊烏有に帰し、衆徒五社権現を奉じて難を笊籬山(別名:伊掛山→七尾市東北部・崎山地区にあり)に避く。伝灯を継ぐもの七十八。(鹿島郡誌昭和3年発行 709頁)
石動山が前田家の攻撃により、全山焼き打ちされる(石動山合戦)。石動山衆徒が、五社権現を奉じ伊掛山((現七尾市)へ逃れる。(国指定史跡 石動山 100頁)
同年同年6月28日 前田利家、(温井)景隆、(三宅)長盛・般若院快存等の首を大柴峠に梟す。(氷見市史 昭和38年版 249頁)
同年同年8月20日 前田利家は成喜坊・遍照坊に対し、菅原縄打ちの内から五十俵は天神堂修理米として寄進、同四十俵は成喜坊・遍照坊へ扶助した、田地の有坪は、寺前・桜町・福屋・堂の前である。(志雄町菅原 菅原神社所蔵)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 638頁)
同年同年8月29日 前田利家、天平寺より没収したる地を長連龍に与う。(加賀藩史料)
同年同年8月29日 前田利家、石動山の没収領中 長氏の鹿島半郡に属するものを(長)連龍に与う。(石川県史 昭和2〜15年)
同年同年9月6日 前田利家、七尾の市人氷見屋某に宅地、田地を与えて性舜坊の功に報ゆ。(加賀藩史料)
9月6日 氷見屋の子・性寂坊は天平寺の僧で石動山戦役の前に前田利家に通牒し、宗徒の怒りを買い磔殺にされたと言う。天正十年九月六日、利家は性寂坊の位牌を立てることで、氷見屋に屋敷分二斗五升と小嶋村田地三段を扶助した。(能登古文書、氷見屋由緒書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 640頁)
同年同年10月10日 前田利家、中居村三右衛門に、石動山攻略の際功ありと弐拾俵扶持す。(加賀藩史料)
同年同年11月11日 前田利家、(前田五郎兵衛安勝など)将士を石動山におき、警備に任ぜしむ。(加賀藩史料)
1583天正111月23日 前田利家、庵の高橋・柴草屋へ笊籬山の枝木を取らぬよう、監視を命ずる。(七尾市史資料編二巻 若林喜三郎 昭和46年 120頁) 
同年同年10月17日 朝廷、天平寺の再興を羽柴秀吉に命ずる。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 280頁) 
10月17日 左中弁(万里小路充房)より蒲生飛騨守(賦秀)に対し、石動山の事、馳走ある旨、聞こし召され、勅願所の間、筑前守(羽柴秀吉)の権威を以て、再造する様沙汰あり、別けて叡忠なすこととある。(鹿島町 伊須流岐比古神社文書)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 677頁)
同年同年正親町院より石動山還住の綸命あり。同時に社殿再興、神地寄附につき前田氏に嘱す。(鹿島郡誌昭和3年発行 709頁)
1584天正128月28日 (前田)利家は青木善四郎(信照)へ、たね・ころさ両村の内半分宛てを兵糧米の為に知行させた。たね・ころさ両村は石動山中にあり、当時青木善四郎は石動山城にあり、佐々成政に対する警備強化の措置であったと思われる。(遺編類纂)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 671-672頁)
同年同年9月14日 (前田)利家は(当時石動山城の守備にあたった)青木善四郎(信照)と大屋助兵衛(勝重)に、越中へ神保安芸(氏張)等が返ったので、療治に城を出ることは無用である、無人で働くことがあってはならない、指し出たことするなと注意した。同日利家は青木善四郎への返事に、そこ元、在番油断するな、卒尓の働きなど無用であると心得を説いた。(遺編類纂)(「史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城」 680頁)
(参考)9月9日越中の佐々成政が、加賀能登の中間地帯にあたる前田方の軍事的拠点・末森城を包囲攻撃、この注進を受けた利家は11日払暁より、攻め立て佐々方を破り敗退させていた。また七尾にある前田五郎兵衛・中川清六は石動山に近い、荒山城と勝山城を攻め、これを陥していた。
同年同年12月9日 前田家の諸将、勝山の堡を攻め之を陥る。(越登賀三州志 富田景周著 230頁)
1587天正1512月 大窪村に遷り住んだ大工、前田氏から御判紙が与えられ、石動山天平寺の再興にたづさわる。(氷見市史 昭和38年版 250頁)
同年同年12月7日 前田利長、大窪村の大工に邸宅を与う。(加賀藩史料)
1591天正1911月25日 前田利家、大呑沢野内百俵を石動山天平寺へ寄進する。(鹿島郡誌昭和3年発行 709頁)
1597慶長27月9日 前田利家、石動山天平寺の僧に、天正十年以前の寺地へ還住することを許す。(加賀藩史料)
前田利家が石動山衆徒の還住を許可する。その後、72坊が帰山する。
同年同年?前田利家の三男知好、利長の命により石動山にて出家す(加能郷土辞彙 854頁)
同年同年7月19日 石動山大宮等の五社・開山堂・権現堂・大師堂・籠り堂・講堂・鐘楼・経蔵・宝蔵・仁王門等の神殿、仏閣及び大宮坊等七十二坊悉く前田家により造営され、衆徒笊籬山(別名:伊掛山→七尾市東北部・崎山地区にあり)より還住す。神官二、坊院七十二。(能登志徴 森田柿園著 412頁)
1601慶長68月26日 宝池院等、一宮総中へ智識米寄進につき覚書を出す。(気多文書 48頁)
1609慶長149月 富山の前田利長、本地十一面観音を再興す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 3頁)
1610慶長15前田利家の妻芳春院、天平寺へ打敷を寄進す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 3頁)
1611慶長1611月13日 能州敷島観音堂山林、大宮坊空照裁許することとなる。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 3頁)
1615慶長20芳春院、天平寺へ打敷を寄進す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 3頁)
1616元和2石動山境を石市橋左門、津田和家検地し、東は錫杖坂、西は流地蔵、南は八大山、北は蟆蝦田川と定む。(多根 桜井恒治家文書 1頁)
1618元和46月18日 山伏神前にて湯立せぬよう誓う。(国事雑抄 県図書館協会 昭和46 三巻 670頁)
1623元和95月 西洞院時慶、天平寺も求めにより縁起書を書写す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年)
『石動山古縁起』が製作される。(国指定史跡 石動山)
同年同年5月16日 近衛信尋より勅願所を知らす文書来る。(鹿島郡誌昭和3年発行 711頁)
同年同年5月18日 板倉重宗より勅願所の添状来る。(鹿島郡誌昭和3年発行 711頁)
同年同年5月19日 後水尾天皇女房奉書廻送される(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 5頁)。権中納言局文廻送される(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 5頁)。
同年同年5月21日 西洞院時慶にたより、朝廷へ毎年宝祚の長久を祈る巻数を奉る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 287頁)
同年同年閏8月23日 西洞院時慶の書状来る。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 6頁)
1624寛永元8月17日 西洞院時慶の書状来る。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 6頁)
1625寛永24月25日 前田利常、石動山天平寺制法式目十一ヶ条をつくり、朝廷への巻数を毎年怠慢なくつとめること、堂塔大破の折は諸国を勧進して得た浄財にて修理することなどをきめる。(鹿島郡誌昭和3年発行 712頁)
同年同年最勝院、寛永元年大宮坊二十四代座主となるも、翌年悪僧として追放さる。(鹿島郡誌昭和3年発行 732頁)
同年同年最勝院離山の事につき、浄実坊等十四坊破却を命ぜられ、五十八坊となる。(能登志徴 森田柿園著 413頁)

この続きは、 年表-その2へ

<この年表作成のために利用させてもらった図書>
 ●鹿島郡誌 昭和3年発刊
 ●国指定史跡 石動山(石川県鹿島町)
 ●加能郷土辞語 日置謙篇 北国出版社
 ●石川県大百科事典 北国出版社
 ●能登の文化財 第8輯 (能登文化財保護連絡協議会)(昭和47年3月31日発行)
 ●鹿島町史 資料編
 ●能登石動山 (櫻井甚一・清水宣英・濱岡賢太郎・田川捷一 共著:北国出版社)
 ●石動山散策ガイド(鹿島町教育委員会編)
 ●史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城(坂下喜久次著・北国新聞社出版局)
  他

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください