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西暦 | 和暦 | 記事 |
1630 | 寛永7 | 10月6日 前田利常、石動山大宮坊勧進するを以て、周旋すべきを令す。(加賀藩史料) |
1633 | 寛永10 | 10月4日 利常、能美・江沼二郡に石動山勧進僧を宿泊せしむべきを令す。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 11月12日 利常、河北郡に石動山勧進僧を宿泊せしむべきを令す。(加賀藩史料) |
1642 | 寛永19 | 空照法印、寛永二年より十九年まで大宮坊座主を勤む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 713頁) |
1643 | 寛永20 | 11月12日 天平寺、前田光高夫人の安産を祈祷す。(加賀藩史料) |
1647 | 正保4 | 講堂・不動尊を槻谷の木材を伐り取り造営す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 713頁) |
1649 | 慶安2 | 3月1日 石動山社堂寺屋敷地詰帳を寺社奉行へ提出す。(加能郷土辞彙 489頁) |
1651 | 慶安4 | 5月8日 神地一件につき、公事場へ提出す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 713頁) |
1652 | 慶安5 | 9月15日 前田綱紀、多根村に於て(50石の上に)更に百石の寄進をする。(鹿島郡誌 昭和3年発行 714頁) 前田綱紀が石動山へ多根村(現七尾市)150石を寄進する。(国指定史跡 石動山 101頁) |
同年 | 同年 承応元 | 心王印宥春、寛永十九年(1642)より承応元年まで大宮坊座主を勤む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 714頁) |
1653 | 承応2 | 3月19日 利常、七尾の氷見屋助右衛門に先例により宅地・田地を与う。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 8月12日 利常、山上の(虚空蔵白山)権現堂(本殿)を寄進す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 714頁) 前田利常が石動山本社(現本殿)を建立する。(国指定史跡 石動山 101頁) |
同年 | 同年 | 神職清水氏下山して能登部上へ転住す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 714頁) |
1654 | 承応3 | 3月 林道春、利常の命により石動山天平寺縁起(新)を著す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 293頁) 前田利常が『石動山新縁起』(林道春(羅山)筆録)を石動山に寄進する。(国指定史跡 石動山 101頁) |
同年 | 同年 | 8月25日 天平寺院号を最勝院と号す。(宝池家史料 1頁) |
同年 | 同年 | 9月16日 利常より、大宮建立の札として祈祷の巻数を贈りたるため、悦の書状来る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 293頁) |
同年 | 同年 | 9月16日 前田綱紀よろ宝殿修造珍重との書状来る。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 8頁) |
同年 | 同年 | 9月 利常、本殿建立の棟札を納む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 714頁) |
---- | 承応の頃 | 神職清水、大森二氏僧徒の圧迫をうく。(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版 14頁) |
1657 | 明暦3 | 釣鐘堂再建す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 717頁) |
1663 | 寛文3 | 12月21日 石動山にて雉子の捕獲を禁止さる。(加賀藩史料) |
1667 | 寛文7 | 最勝院澄栄、寛文元年より七年まで大宮坊座主を勤む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 732頁) 石動山14坊が離山し、58坊となる。(国指定史跡 石動山 101頁) |
1668 | 寛文8 | 本社屋根・雪垣・石階段など修理す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 717頁) |
1671 | 寛文11 | 二宮村、石動山との山境につき公儀へ申出る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 542頁) |
同年 | 同年 | 9月3日 石動山、山境口の縮につき金沢の波着寺等へ申入す。(多根 桜井恒治文書 1頁) |
同年 | 同年 | 郡奉行田伏弥右衛門、郡勘三郎一山見分の絵図を作る。(鹿島郡誌 昭和3年発行 739頁) |
1672 | 寛文12 | 五社権現の内火宮再建す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 717頁) |
1674 | 延宝2 | 五社権現の内梅宮再建す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 732頁) |
同年 | 同年 | 二宮村、論山で伐木するの故をもって、石動山衆徒断る。(加賀藩史料) |
1680 | 延宝8 | 3月27日 清水・大森両神主、能登触下の社人住所を報告す。 |
1685 | 貞享2 | 11月10日 藩は寺社制度を作り、伊須流岐比古神社も由緒書を出さす。(鹿島郡誌 昭和3年発行 717頁) |
1686 | 貞享3 | 5月 西塔院宰相時慶石動山縁起略を書く。(加能郷土辞彙 489頁) |
同年 | 同年 | 8月13日 石動山天平寺縁起を禁中へ答申す。(多根 桜井恒治文書 2頁) |
1687 | 貞享4 | 8月17日 勧修寺宮より衆徒上京するようとの書状来る。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 8頁) |
同年 | 同年 | 9月5日 天平寺、御室御所へ勅願寺たる綸旨を乞う願書を出す。(加能郷土辞彙 489頁) |
1688 | 元禄元 | 広禅法院延宝六年より元禄元年まで大宮坊座主を勤む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 732頁) |
1698 | 元禄11 | 多根村より論山にて薪取らざる旨誓約す。(多根 桜井恒治文書 2頁) |
1699 | 元禄12 | 9月26日 多根村百姓、論山にての法度書付を出す。(多根 桜井恒治文書 3頁) |
1700 | 元禄13 | 多根村百姓、論山縮遵守を誓約す。(多根 桜井恒治文書 3頁) |
1701 | 元禄14 | 御輿堂再建す。(鹿島郡誌昭和3年発行 717頁) 石動山衆徒が神輿堂(現拝殿)を建立する。(国指定史跡 石動山 101頁) |
同年 | 同年 | 9月21日 波着寺より寺社奉行へ石動山論山の不縮を報告す。(多根 桜井恒治文書 5頁) |
1704 | 元禄17 | 4月8日 宝達坊一代阿闍梨法印祐遍弘法大師御影尊像を寄附す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 295頁) |
同年 | 同年 | 藩内所領を有する寺社を調査す。(加賀藩史料) |
1704 | 元禄17 | 4月13日 十村より多根村へ論山縮を守るよう注意あり。(多根 桜井恒治文書 6頁) |
1705 | 宝永2 | 6月28日 多根村より論山縮を遵守する旨誓約す。(多根 桜井恒治文書 6頁) |
1710 | 宝永7 | 8月13日 多根村、論山法度遵守を誓約す。(多根 桜井恒治文書 9頁) |
1711 | 宝永8 | 3月10日 若林村より論山伐木の誤書付来る。(多根 桜井恒治文書 10頁) |
---- | 宝永の頃 | 天平寺、山麓の村々へ対し、神領として方五十町を主張し、境界紛争起る。(氷見市史 氷見市 昭和38年 251頁) |
1711 | 正徳元 | 多根村、石動山との山境につき申立す。(多根 桜井恒治文書 11頁) |
1714 | 正徳4 | 3月25日 多根村、論山にて薪取せざることを誓約す。(多根 桜井恒治文書 12頁) |
---- | 享保の頃 | 旧講堂を流用して拝殿竣工す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 後編 256頁) |
1722 | 享保7 | 12月15日 笊籬山(別名:伊掛山→七尾市東北部・崎山地区にあり)医王寺、石動山関係の由来書を出す。 |
1724 | 享保9 | 5月1日 前田吉徳、綱紀の病悩平癒を諸寺社に祈願せしむ。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 7月 肝煎起請文に伊勢神宮等と共に石動山五社大権現書入らる。(鹿島郡誌 昭和3年発行 738頁) |
1730 | 享保15 | 大宮坊監司、智識廻りが乱れてきたので往古の格式通りにと願出る。 |
1731 | 享保16 | 11月7日 越中新川郡村々より智識米に関する詫書状来る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 298頁) |
1732 | 享保17 | 3月 多根村百姓、十村へ石動山院貰弟子願書を出す。(多根 桜井恒治文書 7頁) |
1733 | 享保18 | 6月 仁和寺より七ヶ国智識廻往古の通りとの書状来る。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 9頁) |
1735 | 享保20 | 11月 加州三郡十村等、石動山天平寺廻の沿革につき上申す。(加賀藩史料) |
1737 | 元文2 | 5月6日 能登地区に鼡害多きため、鼡退治の祈祷を行う。(加賀藩史料) |
1753 | 宝暦3 | 1月17日 寺社奉行へ智識米の整理勧財につき願書を出す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 730頁) |
同年 | 同年 | 4月 仁和寺坊官主任手嶋民部郷より石動山検校職再興内信来る。(新鵜2号 清水一布 昭和32-33年 75頁) |
同年 | 同年 | 5月 智識田につき寺社奉行より郡奉行・十村へと令達さる。(鹿島郡誌 昭和3年発行 731頁) |
1754 | 宝暦4 | 2月 東林院・延命院二僧上京し、仁和寺の執奏を乞い、再び石動山天平寺検校職再興・御撫物拝載・御巻数献上は従来通りとなる。(鹿島郡誌昭和3年発行 718頁) |
1755 | 宝暦5 | 2月 寺社奉行へ石動山天平寺の来歴を報告す。(井田 宝池良尾家史料 4頁) |
同年 | 同年 | 6月2日 巡見上使松平頼母、石動山天平寺へ参詣す。(加賀藩史料) |
1757 | 宝暦7 | 5月12日 石動山各坊院、持山境界を定む。(井田 長谷快賢家文書 1頁) |
同年 | 同年 | 6月29日 仁和寺より、天平寺は鬼門の鎮守、北陸魔障鎮圧の祈願所との教示状をうく。(鹿島郡誌 昭和3年発行 719頁) |
1763 | 宝暦13 | 桜町上皇より撫物授かる。(井田 宝池良尾家史料 4頁) |
1764 | 明和元 | 1月6日 石動山、富突を田井天神社に行いたしと願うも、能州にて興行するよう命ぜらる。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 6月13日 本多図書の家来、石動山富突の落札に付口論し、即死一人、負傷三人出す。(加賀藩史料) |
1767 | 明和4 | 5月3日 石動山修覆の為、万人講を十会寺町真長寺で興行す。(加賀藩史料) |
1772 | 明和9 | 2月19日 後桃園院より能登・加賀・越中・越後・佐渡・飛騨・信濃の七ヶ国の人民を産子とし、御穀神納の綸旨を拝載す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 722頁) |
同年 | 同年 | 2月25日 仁和寺法親王庁より下文あり。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 300頁) |
同年 | 同年 | 後桃園天皇の勅旨を得て勅願寺となり、七ヶ国の智識米集めが公認され、天平寺次第に繁栄す。(氷見市史 氷見市 昭和38年 251頁) |
同年 | 同年 | 2月25日 真乗院前大僧正より寺禄、座禄の配当状をうく。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 300頁) |
---- | 安永の頃 | 七ヶ国にて集めたる智識米二万余石に上る。(鹿島郡誌 昭和3年発行 734頁) |
同年 | 同年 | 諸国巡業の衆徒、五社権現の威霊功徳を説きしため、各地に分霊社創設さる。(鹿島郡誌 昭和3年発行 734頁) |
1775 | 安永4 | 3月 前田治脩、領内の寺社に命じ、徳川家治のため厄払の祈祷を行わしむ。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 4月27日 大宮坊庫裡石居建上棟上す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 743頁) |
1783 | 天明3 | 5月20日 高持神社、石動山へ初穂米出さぬ所あるにより、違背なきよう奉行より注意あり。(国事雑抄 県図書館協会 昭和46年 691頁) |
同年 | 同年 | 12月 多根村、十村へ山崩による用捨免願を出す。(多根 桜井恒治文書 40頁) |
同年 | 同年 | 12月 多根村、十村へ年貢米納入延期願を出す。(多根 桜井恒治文書 41頁) |
1786 | 天明6 | 五社権現・講堂・神輿堂・経蔵・開山堂・其他諸堂宇二十一。(鹿島郡誌 昭和3年発行 739頁) |
1790 | 寛政2 | 6月21日 前田利鎌より祈祷之巻数贈給の礼状来る。(鹿島郡誌 昭和3年発行 737頁) |
1794 | 寛政6 | 多根村、十村へ一作御一免願を出す。(多根 桜井恒治文書 43頁) |
1795 | 寛政7 | 5月13日 多根村、十村へ石動山論山谷々の田畑荒所しらべを報告す。(多根 桜井恒治文書 13頁) |
同年 | 同年 | 6月 多根村、十村へ論山内の薪・にお・木切跡しらべ報告す。(多根 桜井恒治文書 14頁) |
1796 | 寛政8 | 4月 多根村、十村へ論山内の割木・におを調べ報告す。(多根 桜井恒治文書 15頁) |
1801 | 寛政13 | 2月3日 天平寺、富山藩のため、五穀豊穣の祈祷をなす。(井田 宝池良尾家史料 5頁) |
---- | 享和の頃 | 遠国各地で集められた智識米は巡行の費にあて、一山へは羽鹿二郡の千五百石と定む。(鹿島郡誌 昭和3年発行 734頁) |
---- | 同上 | 伊須流岐比古神社に仕える神主と天平寺衆徒との間に争起こる。(氷見市史 氷見市 昭和38年 252頁) |
1804 | 文化元 | 石動山と山麓諸村との境界問題落着す。(加賀藩史料) |
1806 | 文化3 | 天平寺、石動山由来を寺社奉行へ報告す。(国事雑抄 県図書館協会 昭和46年 816頁) |
1807 | 文化4 | 1月 天平寺、麓との山境論争の答書を寺社奉行へ出す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 492頁) |
同年 | 同年 | 9月15日 石動山論所の裁判方法に関し稟議す。(加賀藩史料) |
1808 | 文化5 | 5月 多根村より十村へ論山内立木しらべを報告す。(多根 桜井恒治文書 16頁) |
同年 | 同年 | 6月 多根村より十村へ論山堀切役人宿料を報告す。(多根 桜井恒治文書 17頁) |
同年 | 同年 | 10月7日 石動山と大窪村との山境論地問題解決す。(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版 34頁) |
1810 | 文化7 | 3月 大宮坊看司に大徳坊を願い出る。(鹿島町井田 宝池良尾家文書 6頁) |
1812 | 文化9 | 6月15日 御室御所より下文あり。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 11頁) |
1816 | 文化13 | 6月16日 泰澄大師一千五十年法事を講堂に於て行う。(加賀藩史料) |
1817 | 文化14 | 2月 神職大森氏、石動山より三階へ移住す。(七尾市西三階町 大森重外家文書 28頁) |
同年 | 同年 | 3月 伊須流岐比古神社社頭道を修理す。(多根 桜井恒治文書 8頁) |
1819 | 文政2 | 6月 前田土佐守道標石を寄進す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 737頁) (ただし「国指定史跡 石動山」では、文政3年 「前田土佐守が石動山へ二宮口道標を寄進する」(102頁)となっている。) |
1820 | 文政3 | 6月27日 石動山の役僧、御撫物・御巻数献上の道中、御会符の使用を誤り、役人と論議す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 725頁) |
同年 | 同年 | 10月 御会符焼失せしため再び頂戴す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 726頁) |
1822 | 文政5 | (加賀)藩より石動山へ、一宮の祭礼に必ず出るようとの達あり。(鹿島町井田 宝池良尾家文書 12頁) |
同年 | 同年 | 7月5日 石動山天平寺の僧、禁裏御所の撫物を守護し帰国するをもって、金沢下口における刑法者の取除を請求す。(加賀藩史料) |
1824 | 文政7 | 延命院より出火し、十一ヶ寺類焼す。(能都町鵜川 多田六蔵家文書 13頁) |
1827 | 文政10 | 8月9日 石動山麓の村々に、天平寺領との境塚を復旧すべきことを告ぐ。(加賀藩史料) |
1829 | 文政12 | 大森神職西三階より多根へ移住。(七尾市西三階町 大森重外家文書) |
1830 | 文政13 | 1月22日 御室御所より下文あり。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 13頁) |
同年 | 同年 | 11月 石動山衆徒、前法務僧正より教誡状をうく。(鹿島郡誌 昭和3年発行 727頁) |
---- | 文政の頃 | 諸国巡行中の衆徒その地に馴れ、帰山せざるものあり。(鹿島郡誌 昭和3年発行 734頁) |
1832 | 天保3 | 1月22日 御室御所より下文あり。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 13頁) |
1837 | 天保8 | 12月28日 小金森村組合頭、石動山へ借銀証文を出す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 849頁) |
1838 | 天保9 | 5月 天平寺、寺社奉行へ多根村免等書上帳を出す。(鹿島町井田 宝池良尾家文書 27頁) |
同年 | 同年 | 6月4日 藩、気候不順により石動山・白山等に祈祷行わしむ。(加賀藩史料) |
同年 | 同年 | 大森神職多根より西三階へ帰る。(七尾市西三階町 大森重外家文書) |
1847 | 弘化4 | 6月3日 本社屋根を銅瓦に葺き替え、正遷宮慶賀祭を行う。(鹿島郡誌 昭和3年発行 737頁) |
1848 | 嘉永元 | 7月8日 高野山へ金堂再建のため、金弐拾両寄進す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 13頁) |
1853 | 嘉永6 | 4月22日 (海岸防備視察のため能登巡視中の)前田斉泰、石動山へ登る。(加賀藩史料) |
1855 | 安政2 | 6月 宝池院、御会符落手の書状を禁裏御所へ出す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 14頁) |
1857 | 安政4 | 庵村百姓、石動山天平寺より金六拾両借る。(七尾市史資料編二巻 若林喜三郎 昭和46年 2頁・160頁) |
1862 | 文久2 | 2月25日 普門院鑁住(ばんじゅう)遺書を残す。(石動山の古文書 清水宣英 金沢女子短大学葉 七集 14頁) |
同年 | 同年 | 5月 清水・大森二家より御礼献上の願を出す。(七尾市西三階町 大森重外家文書 25頁) |
1868 | 慶応2 | 12月 二宮長百姓、石動山へ借金証文を出す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 548頁) |
同年 | 同年 | 2月12日 使僧より宝池院へ開山知識米上納目録を出す。(鹿島町井田 宝池良尾家文書 7頁) |
同年 | 同年 | 大政奉還もせまり、藩候寄進の八十一石の定納米の最後の配分をする。(新鵜2号 清水一布 昭和32-33年 6頁・52頁) |
1867 | 慶応3 | 10月 幕府は大政を奉還し、領有地は新政府の所有となる。(新鵜2号 清水一布 昭和32-33年 6頁・52頁) |
1868 | 明治元 | 3月4日 神仏混淆は禁じられ、神社所属の別当、社僧は復職すべきことは命ぜらる。(加賀藩史料) 神仏分離令が発せられ、以後、全国に廃仏毀釈運動が吹き荒れる。(国指定史跡 石動山 102頁) |
同年 | 同年 | 3月17日 新政府・神社の別当・社僧に還俗を命ずる。 |
同年 | 同年 | 3月28日 新政府、神社が仏語を神号とし、仏像を神体とすることを禁ず。廃仏毀釈運動起る。 |
同年 | 同年 | 5月 一山の経営、各人の生計につき全山衆議し、還俗を申合す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 744頁) 石動山天平寺が瓦解し、衆徒らが還俗する。(国指定史跡 石動山 102頁) |
1869 | 明治2 | 民政寮より七ヶ国勧財を見合すよう通達あり。(氷見市史 氷見市 昭和38年 252頁) |
同年 | 同年 | 4月14日 収入の道を失った衆徒は協議の結果、一同還俗して伊須流岐比古神社の社家となり、七ヶ国の勧進は天平寺でなく、伊須流岐比古神社として行いたいと神祗官へ嘆願書を出す。(氷見市史 氷見市 昭和38年 252頁) |
同年 | 同年 | 8月18日 天平寺、金沢藩管轄となる。(七尾市立図書館諸事抜書 小田吉之丈 1頁) |
同年 | 同年 | 8月 伊須流岐比古神社、社領高を民政寮へ報告す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 302頁) |
同年 | 同年 | 9月13日 四十一ヶ寺は社家として復飾改名を届出で、七坊は還俗せず居住替し、西尾にある延命院は天平寺の名を継承す。九院は無住。(氷見市史 氷見市 昭和38年 252頁) |
同年 | 同年 | 10月5日 衆徒所有の立木、山林等売買さる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 10頁) |
同年 | 同年 | 難渋の石動山衆徒は山内の立木五万五千本を売却し生活の資とす。(新鵜1・2・6号 清水一布 昭和32-33年) |
同年 | 同年 | 民政寮へ御撫物、御礼献上につき伺を出す。(七尾市立図書館諸事抜書 小田吉之丈 2頁) |
同年 | 同年 | 11月 一山難渋につき拝借米下附を願い出ず。(七尾市立図書館諸事抜書 小田吉之丈 8頁) |
同年 | 同年 | 11月28日 祭礼は新・旧神職、別々に行わぬようにとの願を出す。(七尾市立図書館諸事抜書 小田吉之丈 7頁) |
1870 | 明治3 | 1月20日 石動山等五社、祈祷を指止めらる。 |
同年 | 同年 | 長谷覚円還俗せず、一山の仏体を集め、高野山派の真言宗直蔵院として残る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 277頁) |
同年 | 同年 | 4月14日 石動山神職惣代より神職官役所へ勅祭社並に綸旨書改の嘆願書を出すも、聞き入れられず。(鹿島郡誌 昭和3年発行 745頁) |
同年 | 同年 | 5月 還俗せざりし十三ヶ寺も復飾改名す。(新鵜1・2・6号 清水一布 昭和32-33年) |
同年 | 同年 | 9月 初穂米取集め従前通りとの達あり(但村々申渡は致さず)。 |
同年 | 同年 | 9月18日 社祠方廃止となり、社家は民政所管轄となる。 |
1871 | 明治4 | 1月5日 境内を除き、他の社寺領を上地させ、代わって廩米を支給する事を決定、その管轄を府藩県とする。 |
同年 | 同年 | 2月 神祭用弊串、斎竹等の拝領差止めらる。(井田 宝池良尾家史料 10頁) |
同年 | 同年 | 5月 生活困窮の石動山へ米千五百石配給され、四十二ヶ寺へ配分す。(新鵜1・2・6号 清水一布 昭和32-33年) |
同年 | 同年 | 5月9日 石動山天平寺、御撫物を返献す。(井田 宝池良尾家史料 9頁) |
同年 | 同年 | 5月14日 神社は凡て国家の宗祀たることを宣し、神官の世襲を排し、神社の社格、神官の職制を定む。 |
同年 | 同年 | 6月17日 太政官の達により撫物廃され、祈祷巻数ならびに諸献上物停止さる。(能登志徴 森田柿園 昭和44年復刻 2巻 401頁) |
1872 | 明治5 | 5月2日 旧神職惣代、石動山山地の開拓願を県へ出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 46頁) |
同年 | 同年 | 5月20 旧神職39人、山林四百九十二町歩開拓の願を県へ出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 47頁) |
同年 | 同年 | 8月 伊須流岐比古神社、郷社となる。(能登志徴 森田柿園 昭和44年復刻 2巻 401頁) |
同年 | 同年 | 9月 旧神官惣代、新聞見込場所を報告す。(井田 宝池良尾家史料 13頁) |
---- | 明治5年頃 | 伊須流岐比古神社の本殿・拝殿と天平寺(延命院)を残し、他の社殿を売却して収入をはかる。(鹿島郡誌 昭和3年発行 747頁) |
1873 | 明治6 | 6月5日 宝池幾代治、宝池院由緒書を出す。(井田 宝池良尾家史料 16頁) |
1874 | 明治7 | 元の未進地払下の願を県へ出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 31頁) |
同年 | 同年 | 6月13日 山内の総地払下不許可となる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 30頁) |
同年 | 同年 | 6月13日 伊須流岐比古神社社頭営繕方伺を県へ出す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 302頁) |
同年 | 同年 | 9月20日 嶺上の各社を廃し、五社を大宮へ合祀し、神輿堂を拝殿として今の地に移し、正遷宮慶賀祭を行う。(鹿島郡誌 昭和3年発行 747頁) 石動山御前(山頂)の本社を伊須流岐比古神社本殿として現在地へ移転し、神輿堂を拝殿とする。 石動山の行者堂、剣宮、火宮、梅宮、開山堂など主要建物が売却される。(国指定史跡 石動山 102頁) |
同年 | 同年 | 10月28日 県より石動山山林につき尋ね度儀あり、出頭されたしとの書状来る。(井田 宝池良尾家史料 14頁) |
同年 | 同年 | 12月 墓地反別につき県へ答申書を出す。(井田 宝池良尾家史料 15頁) |
1875 | 明治8 | 石動山山林官有林となる。(氷見市史 氷見市 昭和38年 253頁) |
同年 | 同年 | 11月 伊須流岐比古神社立金仕法定書を作る。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 303頁) |
1877 | 明治10 | 白峰・鶴来方面より炭焼を業とするもの石動山へ来り、開拓や植林にあたる。(石動山の研究 氷見高校 昭和30年版 23頁) |
1879 | 明治12 | 2月19日 柴田暉熈、県より伊須流岐比古神社祠官申付らる。(七尾市多根町 桜井恒次家文書 23頁) |
同年 | 同年 | 4月2日 伊須流岐神社氏子総代・神社祠官・祠掌撰挙伺を郡へ出す。(井田 宝池良尾家史料 17頁) |
同年 | 同年 | 5月 再び石動山山地の払下願を県へ出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 53頁) |
同年 | 同年 | 6月 仁王門を能登部下長楽寺へ売却移転す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 399頁) |
1881 | 明治14 | 2月22日 山地払下不許可となる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 54頁) |
1882 | 明治15 | 安養院(藤島家)で、石動山小学校が開校される。児童数21人。(国指定史跡 石動山 102頁) |
1883 | 明治16 | 石動山の人口214人。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1884 | 明治17 | 9月20日 石動山官有地の開墾を県へ願出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 57頁) |
1885 | 明治18 | 3月2日 石動山官有地の借用を県へ願出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 59頁) |
同年 | 同年 | 7月31日 官有地開墾の願聞届けられ、遵守事項の提出を求めらる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 58頁) |
1886 | 明治19 | 簡易科石動山小学校が創立。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1887 | 明治20 | 9月21日 官有地借用願不許可となる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 60頁) |
1888 | 明治21 | 石動山の人口241人。戸数62戸。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1889 | 明治22 | 町村制施行により越路村が成立する。 鹿島郡小島(現七尾市)にあった日蓮宗上慶寺を石動山へ移し、日澄寺と改称する。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1898 | 明治31 | 12月19日 石動山山林、戻下の申請を国へ出す。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 63頁) |
1902 | 明治35 | (簡易科石動山小学校→)二宮尋常高等小学校石動山分校と改称される。(国指定史跡 石動山 103頁) 石動山の人口176人。戸数37戸。(国指定史跡 石動山 103頁) 真蔵院を天平寺と改称す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 277頁) 神仏分離後還俗しなかったが長谷覚円が真蔵院を建て法灯を継いだが、真蔵院を天平寺と改称する。(能登石動山 北国新聞社 98頁) |
同年 | 同年 | 復飾せる社家は収入少く次々山を下り、社家は四、五軒となる。(氷見市史 氷見市 昭和38年 253頁) |
1903 | 明治36 | 二宮尋常高等小学校石動山分教場と改称し、天平寺へ移転する。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1904 | 明治37 | 1月29日 山林戻下の申請不許可となる。(鹿島町井田 長谷快賢家文書 63頁) |
1906 | 明治39 | 日露戦役記念として石動山山林五百十六町歩、県有造林となる。(一志茂樹博士喜寿記念論集 昭和46年 168頁) 明治維新後、国有地となった旧天平寺領のうち516町余りが石川県に払い下げられる。以後県営造林が始まる。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1911 | 明治44 | 国有地42町余りが越路村に払い下げられる。価格1500円。うち荒山口31町余りを学校基本財産(学校林)、杓子ヶ峰10町余りを村基本財産に編入する。(国指定史跡 石動山 103頁) |
1913 | 大正2 | 3月12日 境内の稲荷社・水波女社・瀧社・神明社を本社に合祀す。(鹿島郡誌 昭和3年発行 後巻 255頁) |
1921 | 大正10 | 5月12日 伊須流岐比古神社、神饌幣帛供神社に指定さる。(鹿島郡誌 昭和3年発行 後巻 255頁) |
---- | 昭和10 | 天平寺、雪のため倒壊す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 278頁) |
1942 | 明治17 | 村に町制が施される。越路町立越路小学校石動山分校となる。(国指定史跡 石動山 104頁) |
1943 | 昭和18 | 天平寺を再興するにあたり、仮本堂として三蔵坊(広田家)を借用する。(国指定史跡 石動山 104頁) |
1949 | 昭和24 | 天平寺を再建す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 278頁) |
1955 | 昭和30 | 旧越路町、滝尾村、久江村、御祖(みおや)村を合併して新町「鹿島町」が誕生。(国指定史跡 石動山 104頁) |
1957 | 昭和32 | 第一次鹿島町建設五ヵ年計画を作成。(国指定史跡 石動山 104頁) |
1958 | 昭和33 | 石動山が町指定史跡に指定される。 豪雨災害。 石動山林道が完成。(国指定史跡 石動山 104頁) |
1960 | 昭和35 | 石動山礎石・笠石・道標・古文書・棟札等、鹿島町指定有形文化財にに指定される。(能登石動山 北国新聞社 98頁) |
1961 | 昭和36 | 石動山天平寺旧跡、石川県指定史跡に指定される。(能登石動山 北国新聞社 98頁) |
1966 | 昭和41 | 7月7日 天平寺住職不在のため、本尊・法具等を伊須流岐比古神社へ移し保管す。(鹿島町史資料編巻 若林喜三郎等 昭和41年 278頁) |
1967 | 昭和42 | 伊須流岐比古神社本殿及び拝殿、石川県指定有形文化財に指定される。(国指定史跡 石動山 104頁) 石動山麓に道閑公園完成。 |
1968 | 昭和43 | 旧観坊・経塚等、鹿島町指定有形文化財に指定される。 石動山が能登半島国定公園に指定される(228ヘクタール)。(国指定史跡 石動山 105頁) |
1971 | 昭和46年 | 濱岡賢太郎氏、羽咋高校の地理歴史クラブのメンバーを引きつれて、現地の堂塔跡地など、地表に見えている部分の礎石測量調査を行う。 地理歴史クラブメンバーは、1班は土居富士夫(2年)、小坂哲(2年)、下川和夫(1年)、勝二雅美(1年)、中村英子(1年)の松浦五郎氏の指導のもと、県道から石段を登った平地宝蔵のたっている広場(新絵図に講堂(金銅)、鐘楼、動字石、鰯池のある寺院の中心部)を測図を実施した。2班は河野重樹(3年)、左藤良一(3年)、三宅尚火子(1年)、杉口久仁子(1年)、中永郁子(1年)は現社殿の前面側面に並ぶ礎石群を含み現拝殿を測図した。3班、藤田和夫(3年)、杉本久志(1年)、松本文恵(1年)、山下恵寿子(1年)は、神社本殿左側から山中に入り、山頂に通ずる道路左側の塔跡を調査した。ついで仁王門、火の宮、剣の宮の実測を行った。(能登の文化材 第8輯 石動山院の調査 昭和46年3月31日発行) |
1972 | 昭和49 | 史跡実測図の作成。 旧参道史跡遊歩道の整備。(〜昭和50年まで) 伊須流岐比古神社本殿及び拝殿の保存修理。 |
1973 | 昭和48 | 伊須流岐比古神社本殿及び拝殿の修復工事が行われる(県補助 昭和49年完成)(国指定史跡 石動山 105頁) 越路小学校石動山分校が休校となる。(国指定史跡 石動山 105頁) |
1975 | 昭和50 | 石動山旧観坊が県指定文化財に指定され、修復工事が行われる(県補助 昭和51年完成)(国指定史跡 石動山 105頁) |
1977 | 昭和52 | 石動山の本格的発掘が開始される。(国・県補助)(国指定史跡 石動山 105頁) 第一次発掘調査(五重塔跡、開山堂跡、多宝塔跡、籠堂跡) |
1978 | 昭和53 | 石動山が国指定史跡に指定される。 第二次発掘調査(講堂跡周辺・行者堂跡) 航空写真測量が行われる。 |
1979 | 昭和54 | 史跡石動山保存管理計画が策定される。 |
1980 | 昭和55 | 五重塔跡礎石保存修理。 |
1981 | 昭和56 | 史跡石動山環境整備事業が開始される。(国・県補助) |
1982 | 昭和57 | 発掘調査(五重塔跡周辺・大師堂跡) |
1983 | 昭和58 | 発掘調査(経蔵跡・仁王門跡) |
1984 | 昭和59 | 発掘調査(東林院跡) |
1985 | 昭和60 | 発掘調査(東林院跡) |
1986 | 昭和61 | 発掘調査(東林院跡排水路) 『鹿島町史』石動山資料編が刊行される。 |
1987 | 昭和62 | 発掘調査(東林院跡庭園) |
1988 | 昭和63 | 発掘調査(東林院跡) 修景簡易整備工事(イワシガ池の修復及び雨乞い場修景整備工事) |
1989 | 平成元 | 作家村上元三の句碑「史を語れ いするぎ山の 青葉風」が建立される。 発掘調査(行者堂跡)及び行者堂整備工事(行者堂移築復元工事) 石動山交流会議「史跡ルネッサンス’89in鹿島」が開催される。 |
1990 | 平成2 | 発掘調査(大宮坊跡庭園) 参道整備(東林院から石動山城に至る延長244.3mの道を砂利舗装道として整備) 修景整備簡易工事(石動山城跡修景整備工事、東林院跡修景整備工事) |
1991 | 平成3 | 発掘調査(大宮坊跡建物) 修景整備簡易工事(旧観坊北側整備工事) |
1992 | 平成4 | 発掘調査(大宮坊跡) 石動山史料館がオープンする。 修景整備簡易工事(千手院跡整備工事) |
1993 | 平成5 | 発掘調査(大宮坊跡) 修景整備簡易工事(性空坊跡、重蔵院跡整備工事) 越路小学校石動山分校が廃校となる。 |
1994 | 平成6 | 発掘調査(大宮坊跡) 修景整備簡易工事(円光坊跡整備工事) |
1995 | 平成7 | 発掘調査(宝池院跡) 修景整備簡易工事(尊祥院跡、レの部12-1番地、子甲4番地整備工事) 能登歴史公園整備事業(県事業)が着工する。 |
1996 | 平成8 | 発掘調査(宝池院跡) 修景整備簡易工事(レの部5、11-1、11-2、4-1、4-2番地整備工事) 聖護院道興の歌碑「うこきなき みよに変わりて 石動の山とは神や 名つけそめけん」が建立される。 石動山を中心とする「豊かな森林づくり事業」(県事業)が着工する。 史跡石動山大宮坊跡整備基本構想が策定される。 |
1997 | 平成9 | 修景簡易整備工事(宝池院跡、心王院跡整備工事) 石動山還住400年祭が開催される。 |
1998 | 平成10 | 発掘調査(大宮坊北側発掘調査<石垣・石積み他、水路跡等の遺構を確認>) 大宮坊復元工事の実施設計監理を委託。 |
1999 | 平成11 | 書院台所棟建物復元工事が着手する。 御成門他復元工事が着手する。 8月5日、大宮坊復元工事の安全祈願祭及び起工式が行われる。 |
2000 | 平成12 | 大宮坊立柱式が行われる。 9月25日、大宮坊上棟式が行われる。 発掘調査(大宮坊跡と講堂跡との間にあった旧道の調査) |
2001 | 平成13 | 「かしまサミット」の中で大宮坊跡記念植樹が行われる。 発掘調査(旧道及び大宮坊前の堀跡調査) |
2002 | 平成14 | 発掘調査8庭園跡調査及び堀跡調査) 11月8日、大宮坊完成式が行われる。 |
2003 | 平成15 | 能登歴史公園が一部供用開始となる。 国指定史跡25周年を記念して「石動山ゆかりの人々の集い」が開催される。 清水屋敷跡発掘調査が開始される。 |
<この年表作成のために利用させてもらった図書>
●鹿島郡誌 昭和3年発刊
●加能郷土辞語 日置謙篇 北国出版社
●国指定史跡 石動山(石川県鹿島町)
●石川県大百科事典 北国出版社
●能登の文化財 第8輯 (能登文化財保護連絡協議会)(昭和47年3月31日発行)
●鹿島町史 資料編
●能登石動山 (櫻井甚一・清水宣英・濱岡賢太郎・田川捷一 共著:北国出版社)
●石動山散策ガイド(鹿島町教育委員会編)
●史料年表 能登の中世戦国史 七尾城と小丸山城(坂下喜久次著・北国新聞社出版局)
他
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