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日像と法華教団

(2001年4月1日一部加筆修正)

 能登の妙成寺の開創伝承によれば、法華経を至上とする専唱題目(せんしょうだいもく)の教え(日蓮宗)が、能登に初めて伝えられたのは、鎌倉時代も後期の永仁2年(1294)のことであったとされている。
 小丸山公園第一公園に立つ日像像この年、日朗(にちろう)門下で、日蓮の孫弟子にあたる
肥後坊日像(ひごぼうにちぞう)が、佐渡の日蓮の旧跡を巡拝し、日本海経由で京都に向かう途中、船中で法論(ほうろん)を交わして折伏(しゃくふく)した能登 石動山 の住僧乗徴(じょうちょう)阿闍梨(後、日乗と改める)の案内で、能登に立ち寄ったのであった。乗徴阿闍梨は、能登の所口湊(七尾市)で、下船後、日像を伴い石動山に登ったが、衆徒らの襲撃にあい、ともども命からがら逃げ出し、羽咋郡甘田保の領主であり日乗の叔父にあたる柴原将監の元に命からがら逃れたらしい。日像は、その柴原将監一族の帰依を得たのち、再び京都に向かった。弟子となって残された乗徴は、日乗と名を改め、柴原一族の外護(げご)により、その後、甘田保の滝谷に法華堂を建立する。これが発展し、妙成寺となったという。
 この頃、既に京都布教を果たして妙顕寺にいた日像が、能登国に住む日乗に、数幅の曼荼羅本尊を授与している。元徳2年(1330)正月の紀年銘を持つ日像曼荼羅本尊(京都市湧泉寺蔵)によれば、日乗は一宮気多社の住僧と記されている。中世の能登一宮気多社と二宮である石動山の間には、住僧の交流は極めて盛んであった。あるいは日乗は、元は石動山の大宮坊に属した僧であったが、後に一宮の社僧坊に住んでいたのかもしれない。気多の社僧には、鎌倉仏教にいち早く帰依を志す者がいたらしく、興味深い。
 その後、能登においては、南北朝期から室町期を通して、滝谷法華堂から発展した妙成寺を中心に、羽咋郡から鳳至郡にかけての外浦地域や、邑知地溝帯の村々に、
滝谷門流(羽咋法華)の教線が広がっていった。それは、まず地方の豪族を外護者としたのち、下降的にその支配下にある百姓達を宗徒化していく布教方法によるものであった。殺生への自覚がもたらす後生(ごしょう)への不安に対し、その生業の立場を肯定し、殺生による悪の立場を超えた信仰の世界を呈示する日蓮の教説が、日像門流の人々を通して、在来の民間信仰と習合しつつ、武士や民衆の間に受け入れられていったのであった。
 さらに、室町時代の後期の15世紀後葉に至り、加賀・能登の地に、日蓮宗信仰の第2波伝播がもたらされる。さきに上洛の宿願を果たした日像の洛中伝道の成果によって、京都の町衆の間に繁盛することになった日蓮宗の教線が、やがて京都と地方を結ぶ商品流通のルートに乗って、各地に広まったのである。
 この町衆法華の首長するところは、拝金主義の容認など、現実社会を積極的に肯定しつつも、万民全てが題目を唱和する世界、「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の実現をめざしたものであった。
 したがって加賀では、日像の巡錫(じゅんしゃく)以来の法華信仰の基盤に加え、石川郡の野々市や河北郡から越中(富山県)の福光に抜ける街道筋の三谷(現、金沢市森本町三谷地区)付近の村々に、京都法華の教線が及んでいた。ことに三谷では、京都の立本寺(りゅうほんじ)末の薬師本興寺(やくしほんこうじ)や妙顕寺(みょうけんじ)末の車宝乗寺(くるまほうじょうじ)などが中心に、濃密な法華信仰圏
三谷法華」が形成され、戦国時代の一向一揆体制のもとでも、加賀の片隅で法華の孤塁を守り続けていた。小丸山公園日像像の前にある日像菩薩銅像縁起
 また能登においても、戦国期を通して、在来の滝谷門流の広がりとは別に、京都の本法寺・本国寺・本禅寺などの教線が、領国経済の中心であった鹿島郡八田郷の府中や新しく形成された戦国城下町七尾に弘通(ぐつう)し、そこに住む武士や商手工業者の間に広く受容され、
「七尾法華」を構成するようになっていた。そしてその教線は、七尾湾・富山湾の流通路を通して、奥能登の内浦沿岸地域に及んでいた。
 のちに桃山画壇の巨匠として知られるようになる長谷川等伯が、まだ信春(しんしゅん)と称した若き日、七尾の染物屋で日蓮宗本延寺(ほんねんじ)の信徒である長谷川家の養子となり、能登で画業に励んでいたことは有名である。彼はやがて上洛して、本格的に絵師として活動する際に、その拠点としたのは、本延寺の本寺にあたる京都の本法寺であった。七尾の町人社会とそこにおける法華文化が、画聖等伯を育んだのだ。
 だが、こうした加賀・能登における中世日蓮教団の展開は、やがて互いにその本末関係を異にしながらも、当時北陸で圧倒的な宗教勢力を形成していた真宗本願寺教団に抗する上から、戦国時代の後期には、滝谷妙成寺を中心に、法華勢力の地域的結集をはかるようになっていた。
 今日でも妙成寺で催される「寄合会(きごうえ)」は日乗忌の法会(ほうえ)であるが、その実質は、加賀・能登の法華信徒の寄合い法会であり、この時、加賀の三乗法華の信徒たちは、茅を一束ずつ持参して参詣するのが慣例であったとも言われている。
また、現在妙成寺に所蔵される「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)日乗上人像」や「絹本著色仏涅槃図」は、長谷川信春(等伯)が七尾在住の頃、羽咋法華の中核寺院であった妙成寺の懇願によって描いたものであるが、それは同時に、当時の「七尾法華」と「羽咋法華」の宗教的交流を物語るものであった。
 この他、妙成寺所蔵の「得田版妙法蓮華経版木」(64枚)は、北陸地方に遺存する最古の法華経の版木で、室町前期の応永22年(1415)8月に、羽咋郡得田保の地頭得田章光(とくだのりみつ)が願主となって開版したものである。
 得田氏は、羽咋郡北部の有力国人(地方豪族)であるが、室町期には、法華の信者となり、妙成寺の外護者(げごしゃ)となっていたらしい。妙成寺の発展は、こうした得田氏や開基の一族柴原氏(滝谷殿)らの支援によるところが大きく、南北朝以降、日蓮教団においては、京都の妙顕寺(日像の開山)の末寺となる一方、能登で独自の滝谷門流を形成していたことは注目される。

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