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吉見太平記
忘れられた能登守護家能登吉見氏 

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1 前書き 15 能登島-金頸城の戦い
2 能登吉見氏の出自と能登への入部 16 三国湊奪回
3 建武の新政と南北朝の動乱 17 延文4年-越中侵攻
4 建武2年-石動山の合戦 18 康安2年-木尾嶽城の戦い
5 能登守護吉見氏 19 応安2年-金丸城・能登部城の攻防
6 越前での戦いの日々 20 桃井氏との加賀での戦い
4 滑河・高月の戦い 21 応安2年-松倉城攻め
8 貞和2年-木尾嶽城の戦い 22 山方城の戦い
9 貞和4年-吉見氏頼の越中進行 23 応安4年-五位荘の戦い
10 観応の擾乱(じょうらん) 24 吉見氏の衰退
11 観応元年末-
志雄越山の戦い・花見槻の戦い
飯山の戦い・金丸城の戦い
25 畠山時代の正院郷をめぐる吉見氏の動向
26 吉見統範の寄進状
27 能登吉見氏のその他の人物
12 観応2年-赤蔵山の戦い 28 南朝方の城砦
13 吉見氏被管-飯河氏 29 吉見氏の居館
30 最後に執筆感想他
14 文和元年・2年-越中各地での戦い 31予備欄


(前書き)
 吉見氏は、同じ能登守護家であった畠山氏と比べると、地元でもほとんど知られていません。
 歴史書でも、地元石川県の歴史家である東四柳史明氏(石川県立図書館史料編纂室次長)や橋本秀一郎氏(珠洲市文化財保護審議会委員)の研究がある程度で、一般の石川県関係の歴史書でも、あまり詳しいことは触れられていません。
 しかし私が思うに、その戦いに明け暮れた吉見氏の守護としての期間は30余年ですが、苦闘の戦史という面では畠山時代以上に数々の事件で綴られた非常に興味のつきない時代であったと思います。戦乱にあけくれた分、文化的事業に精を出すは余裕がなく、遺物も少ないですが、このHPで、石川県の中世史の一時期を彩った知られざる能登吉見氏の活躍を皆さんに少しでも知ってもらえればと、思い取り組むことにしました。もしこれによって皆さんが少しでも能登吉見氏に関心を持ち、能登吉見氏に脚光が浴びるよすがにでもなれば、私としてもHP作りの冥利に尽きるものはないともの考えます。

 
(能登吉見氏の出自と能登への入部
 まず遠祖からいうと、諸系図はでは、鎌倉初期の武将・源義朝の六男の源範頼の孫にあたる為頼を祖とし、武蔵国比企郡吉見庄に知行を与えられて吉見氏を称したとあります。長子ほか他の子が殺されたのに対して、為頼の次男・(範円)は、幸い難を逃れ、母が比企禅尼(頼朝の乳母)(ひきのぜんに)の長女丹後局の娘であったので、比企禅尼の遺領・武州吉見を受け継いだと伝えられています。
 ちなみに源範頼は、治承4年(1180)兄頼朝が挙兵の際、それに従い武将となりましたが、治承7年(寿永2年(1183年))弟義経と共に源義仲を倒し、また平氏を倒して九州の経営に当たりました。文治元年(1185)11月11日義経追討の院宣が出され、続けて11月29日、頼朝は勅許を得て、謀反人・殺害人・盗賊の検挙と大番の催促などのために守護を設けました(同時に地頭も設けた)。守護地頭の設置も義経捕捉が大きな目的の1つでありました。文治5年(1189)義経は、頼朝の意を受けた藤原泰衡に衣川で討たれてなくなります。範頼はそのような義経の滅亡を見て頼朝に従順な姿勢を見せましたが、頼朝は範頼を疑い、範頼は、建久4年(1193)8月捕らえられて伊豆修善寺に幽閉され、ついに殺されてしまいます。

 その後の能登吉見氏につながる吉見家の系図ははっきりしておりません。私が探した系図の種類だけで5種類ほどありました。(A)吉見頼宗能登吉見氏の祖とする説や、(B)また吉見為忠を能登吉見氏の祖とし、頼忠、頼行の3代が、三河守となり、頼行の子・頼直の裔が能登に住したことから能州吉見氏と呼ばれることになったったとする説、(C)吉見圓忠能登吉見氏の祖とする説、(D)吉見為頼(為範)を能登吉見氏の祖とする説など諸説あります。そもそも能登守護だった頼隆自体が、頼宗の子とするもの、圓忠の子とするもの、頼有の子とするものなど色々あり、それだけで、系統が色々変わってしまいます。石川県田鶴浜町のHPでは能登吉見氏の祖はどの説をとっているかわからないが、能登守護(これは間違いで能登地頭職が正しい)だった頼行が蒙古(元軍)の再襲来に備え能登より、西石見(島根県西部)の津和野木部に移ったようにかかれてあります。能登吉見氏の名前も系図によってまちまちだし、親子兄弟関係も、種々説があるようで、本当に何が何だかわからなくなりそうです。

 の子為頼(為範)が守護北条朝時の補佐として、建久8年(1197)に能登に入国したと伝えている史料があります。しかし他の史料では、能登守護が不明とか、能登へ入国したとしても承久の乱(1221)以降とすると書いてあるものさえあるようです。北条朝時は名越氏の祖となる人ですが、北条氏の中でも有力な家で朝時自身、越中、越後、佐渡など守護していたようです。幕府中枢の人物ですから実際は、能登へは下向していないと考えられます(ただし承久の乱の際、越中まで出向き、宮崎・般若野で石黒三郎、宮崎定範らを討っています)。誰か守護代のようにして能登へ入った人物に随行したのかもしれません。詳細は不明のため、真偽も不明です。

 私は、自説というか可能性として、次のようなこともありえたのではないかと考えています。私は、 能登守護一覧 のページでは能登の最初の守護は、比企朝宗としています。話は少し迂回しますが、比企家は北条家と同じく流人となった頼朝を援けた家であります。そのため鎌倉幕府では有力御家人となり、比企能員(よしかず)2代目の将軍源頼家の乳父(めのと)となり、さらに比企能員の娘(一説では妹)を娶り、その頃比企家は北条家の並ぶ権勢を誇りました。乳父というのは、武士の棟梁の子などを養育する者とその家族のことをいいます。だから女でない比企能員も乳父(乳母と書くこともある)と呼ばれるのです。ちなみに比企能員は比企禅尼の養子であり、比企朝宗は比企禅尼の実子で、鎌倉幕府当初権勢誇った比企能員とは義兄弟となり、そういった関係から能登守護に任じられます。能登以外にも、越前、加賀、越中、越後、佐渡と北陸のほとんどを守護したようです。
 この比企朝宗が能登守護となった時、おそらく一族の誰かを代理として派遣したと思いますが、その時比企一族の与党として、地頭職として入部した可能性もあるのではないでしょうか。または後の守護代か執事のような役割で、吉見氏が能登に入ったかもしれません。比企氏との関係からも十分考えられる事だし、もともと先祖は頼朝とも兄弟であり源家と深い関係もある家柄です。これぐらいのことは十分ありそうな話です。その後、比企家は、頼朝の死後、北条家との勢力争いに敗れます。吉見氏は能登にいたため、または比企家とは区別されたため災難から逃れたのではないでしょうか。もし為頼(為範)のとき北条氏の守護代の補佐となったとしても、それは地元にすでにいた吉見氏が補佐したのではないでしょうか。

 なお吉見頼行が元寇の時代に、能登から津和野の地に移った時の記録は、石見の方の記録では能登地頭職となっているようですが、実際は頼行は能登吉見氏の庶家で、石見吉賀郡の地頭職を得て下向したもののようです。

 しかしここでは、これ以上あまり鎌倉期までの吉見氏にはこだわらず、能登の史料などに見える吉見氏を行跡を追うことに留めたいと思います。ちなみに私の吉見氏の取り扱いですが 能登守護一覧 のページをみればわかりますが、私は、能登へ最初に入部した吉見氏は不明とし、吉見家で能登最初の守護は、吉見頼為(宗寂)としています。よって私は、今回、吉見氏の系図を取上げましたが、あくまで私の案であって、皆さんも参考にする程度にしてください。吉見氏はとにかく鎌倉時代の初期に能登へ入部したと考えられますが、吉見氏は、邑知潟西南の平野部に定着して所領を拡大し、鎌倉時代の後期には、口能登では得田氏、得江氏などと並ぶ有力武士団に成長するに至ったようです。

(建武の新政と南北朝の動乱)       ↑Topへ戻る
 元弘3年(正慶2年)(1333)4月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して名和長年に守られ船上山に楯篭もると、それに呼応して各地で幕府に反抗し挙兵します。同年5月、足利高氏が、京都近辺の反乱軍討伐の途中で叛旗を翻すと、北条軍は一気に瓦解します。関東でも、同時期に、新田貞義が挙兵し、連戦連勝の勢いで鎌倉へ押し寄せ、鎌倉を堅守していた北条軍も由比ガ浜から侵入を許すと、鎌倉は落ち、北条氏と鎌倉幕府は滅亡しました。その後、後醍醐天皇は、「公家一統」を目指す復古的な建武政権を成立させましたが、建武親政下における地方の支配組織は、国司と守護を併置したものでありました。例えば、地方では、律令制度時代の地方長官としての国司と、鎌倉の武家政権発足以来の守護が併存するるという、混乱を引き起こすような状況が生まれてしまいました。
 このような後醍醐天皇の公家優先の復古政策は、大半の武士勢力の反発をまねき、やがて建武の新制の功労者だが武士の棟梁でもある足利尊氏を担いで後醍醐天皇と対立するようになりました
尊氏は、京都において武家の棟梁として実質上振舞い、征夷大将軍の官職を求めるが朝廷側は最後まで認めませんでした。そんな頃(建武2年7月)、北条氏の残党・北条時行が鎌倉を攻め、尊氏の嫡子・義詮を守って鎌倉を管理していた直義が破れ窮地に陥る事件があった。尊氏はこれを機に征夷大将軍の地位を得て、直義らを援けに行くため、再度後醍醐天皇にその地位直訴しましたが、許されず、征東将軍という地位で、勝手に東征し、時行を破ります。この勝手なの行動に対して朝廷は尊氏討伐を決め、新田義貞を大将とする軍を派遣しますが、新田軍は、箱根竹下で破れます。これ以降、後醍醐派と尊氏派は相争うことになりました。この時期能登吉見氏の行動は不明ですが、鎌倉末期に、吉見圓忠らが、本貫地を離れて足利氏の軍事行動に加わり、畿内で勲功をあげていますから、能登吉見氏も冨樫氏と同様、一族を挙げて積極的に動乱の渦中に身を投じたものと想像できます。 
(建武2年の石動山の合戦)
 建武2年(1335)、能登でも 石動山 において、合戦が繰り広げられ、堂塔伽藍が、兵火にあって炎上するという事件がありました。これは能登の勢力のからんだ戦いではありませんでした。11月27日に越中の普門俊清や井上・野尻・長沢・波多野の諸氏が、新田義貞の誅伐を揚げる足利尊氏の意を受けた弟足利直義発給の御教書に応じて、隣国からも軍勢を集めて後醍醐天皇の新政府(建武政権・宮片)叛旗を翻したことに起因していました。石動山は能登のみならず北陸を代表する霊山で、朝廷の祈願所や多くの僧坊・衆徒を擁する一大宗教勢力でありました。最盛時には360坊を数え、3000人の衆徒を擁したといわれています。宮方の越中国司中院定清は、全国有数の城郭寺院であった能登越中の国境にあった石動山に篭り敵対勢力と対抗しようとしました。彼の父、中院定平は能登国司でもありましたから、その勢威を頼ってのことでもありました。この結果、普門勢らが雲霞のごとく押し寄せ、定清は戦死し、盛時には360坊あったといわれる石動山の堂塔伽藍は悉く灰燼に帰しました。この時、能登吉見氏の長・吉見頼隆はどこにいたかというと、どうやら尊氏の側近にいたらしく、京都近辺の戦いに参加していたようです。


  (能登守護吉見氏)
 このわずか2年半で瓦解した政変に、その南北朝の争乱は端を発していました。以後60年間にわたり、全国各地で争乱が展開されたことになります。
足利尊氏が建武新政府に離反した際、能登一帯の吉見一族挙げていち早く尊氏に味方するることで、吉見頼隆十郎三郎・三河守・大蔵大輔)は能登国守護に任命されました。(この時、同時に越中守護に任命され1、2年ほど兼任したようです)。その後どういう事情があったのだろうか、不勉強でわかりませんが、建武3年8月には能登守護として吉見頼顕(孫三郎・右馬助)の名前が見えます。また同年末には能登守護として吉見頼隆の名前が再度見えます。逆に吉見頼顕がこんなに早く能登守護でなくなったというのは、これまた不勉強でわかりませんが、病気か死去でもしたのでしょう。(ただ吉見頼隆は、記録などではどうやら吉見頼顕の弟という記述もあります)。吉見頼隆は、建武3年?月から貞和2年(1236)閏9月まで能登守護の任にありました。そしてその後を今度は、子の吉見氏頼(掃部助・三河守・右馬頭・道源入道)が継いでいます。

(註)一部の辞典では、吉見宗寂を吉見頼隆と同一人物とせず、吉見頼宗と同一人物であるとする説もあるようですが、頼宗ではちょっと無理があるようなので、ここでは吉見宗寂=吉見頼宗であり能登守護は頼為、頼隆、頼顕、氏頼の4人とする説をとっています
  ともかくも、このように頼為、頼隆、頼顕、氏頼の4人が、およそ30余年、吉見氏が守護職の地位にありました。
私が考える能登吉見氏の系図か下記のとおり通りです。(○の中の数字は能登守護に就いた順序です。)
   八幡太郎義家━義親━為義━義朝━範頼(義朝六男)━範円(範頼次男)━為頼(能登吉見氏祖)
            ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
            ┗為頼(能登吉見氏祖)━頼宗(宗寂)━┳頼為①━氏頼③
                              ┗頼隆②━頼顕④
 
(越前での戦いの日々)
 その間、北陸においても、京都で尊氏に破れた新田義貞が、大和の吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇の皇子を擁し、越前敦賀に下り、金ヶ崎城に拠ったため、これに呼応する在地の勢力もあらわれ、軍事的緊張が高まりました。義貞は延元8年(1338)7月、越前藤島で戦死しますが、暦応2年(延元4年)(1339)から同4年(興国2年)(1341)にかけて、その残党ともいうべき義貞の弟だった脇屋義助(わきやよしすけ)や畑時能(はたときよし)らの越前における南朝勢力を制圧するため、吉見氏は、 得江 (得江頼員:志雄保地頭(旧志雄町・現宝達志水町))・土田(土田十郎右衛門:志賀町)得田 (志賀町)高田 (田鶴浜町)・天野(能登島)などの能登武士足利尊氏の配下にいた守護吉見十郎三郎頼隆に率いられ、越前の各地で転戦していました。
 たとえば暦応3年(1340)3月7日、吉見十郎三郎頼隆は得田頼員や岡部六郎兵衛らを引き連れ、越前国莇田城を攻めている。(得江文書)
 また同年の8月には、吉見頼隆の軍は越前に入って、南朝軍が占拠する三国湊を奪取しています(得田文書)。
 他の文書でも、高田彦次(現田鶴浜の高田保を本貫地とする武士)が、8月1日、越前国金津上野(現福井県金津)の合戦で吉見頼隆の軍に参加しており、同月17日から20日にかけての黒丸城(現福井市)の合戦でも高田弥次郎の参戦が知られています(暦応3年9月日「石河頼景軍忠状」天野文書)。
 黒丸城のそのすぐ後9月13日には、足利方の有力武将斯波高経が越前府中(武生)を落としています。
またこの時(建武3年6月18日)足利尊氏が、能登の得田章真に新田義貞の討伐に加わるよう上洛を促した記録も残っています。
(参考)
その他の北朝方の能登の武士としては、万行(七尾)、三階(七尾)、飯河(七尾)、 温井 (輪島市大屋湊)、 (穴水)、弥郡(輪島市大沢)、本庄(珠洲市馬緤浦)、五井(珠洲市)などがいました。


 
(滑河・高月の戦い)  
 井上俊清が越中守護を罷免され幕府に敵対すると、康永4年(1344)10月25日、足利尊氏は、能登守護吉見頼隆に南朝方の井上俊清を討伐するように命じ、康永5年(1345)7月11日、今度は井上俊清と能登守護吉見頼隆が堀江荘内滑河、高月(現滑川市)で激突、吉見氏が勝利を収めます。


  貞和2年-木尾嶽城の戦い              ↑Topへ戻る
 貞和2年(正平元年)(1346)3月6日、直義党の井上宮内権少輔俊清(前越中守護)が、八条殿(井上氏一族)新田式部権少輔貞員栗沢弾正忠政景らが能登に乱入し、直義党をかかげて羽咋郡富来院の木尾嶽(きおだけ)城にたてこもる富来彦十郎俊行(とぎとしゆき)に迎えられ、尊氏党の吉見氏頼勢と戦っています。木尾嶽は現在の富来町の市街地に注ぐ富来川(二級河川)の河口付近から2km強ほどさかのぼったところ、富来川と支流広地川と二つの川に挟まれた険しい山丘(通称城ヶ根山)の上に、木尾嶽城跡があります。富来は古くは荒木郷と呼ばれたが、地名には縁起の良い字(嘉字)を当てよ、とのことから富来と改名したと伝えられています。能登守護吉見頼隆の子・氏頼を大将とする得江頼員・長野季らの能登守護方の軍勢が、3月16日には木尾嶽城を攻撃し、18日には大手に押し寄せるなどの合戦を繰り返しました。木尾嶽城はこのとき、砦(とりで)のような小規模なものだったので、吉見氏頼を大将とする軍勢に攻められ、5月4日落城しています(貞和2年5月日「得江頼員軍忠状」得江文書)。足利尊氏方の軍勢の中には、能登地頭だった得江頼員率いる兵たちもありました。落城後も、富来俊行は、富来院内に勢力を保持し続けて残ったもようです。
(註)一部の本の表記では富来俊行が井上俊清の家臣のような記述になっているものもあります。つまりそれでいくと、先行して能登に攻め入って木尾城に立て篭り、井上俊清を迎えたことになりますので、ここではその説はとりません。

  貞和4年-吉見氏頼の越中侵攻)
 いったん吉見軍に降参した井上俊清ですが、失地回復を望む土居氏らを従え貞和4年(1348)再度挙兵しました。足利尊氏は、越中守護に桃井直を任じ、井上俊清を討伐させます。吉見氏頼を大将とした能登方の軍勢も、再度越中に深く進攻して、桃井・吉見の連合軍が、井上俊清と約1ヶ月間、戦いの居城松倉城(魚津市)や出城の水尾城(魚津市)、水尾南城(魚津市)を攻め落し、井上利清は松倉城から敗退し、吉見軍はさらには、内山城(宇奈月町)も攻略しています。


 
(貞和5年-吉見氏頼の南朝方討伐)
 貞和5年(1349)7月〜8月、能登守護 桃井兵部大輔(ひょうぶたいゆ)頼義(盛義) が南朝方討伐に赴き、得田氏は老体の得田素章にかわって一族の代官大津章広従ったとあります(同年大津章広着到状写」(得田文書)。どこに能登守護桃井氏が、どこに赴いたか私の史料では書かれていないので、わかり次第、また訂正したいと存じます。

 
(観応の擾乱)
 北党方(室町幕府)が優位に立つと、南北朝の対立を基軸とした争乱も、観応元年(正平5年)(1350)10月、その中枢にあった室町将軍足利尊氏と弟の直義(ただよし)の間に、不和が生じるに伴い一変します。最初は、尊氏の執事高師直と、足利直義の戦いで、一時は高師直は、直義をかばった尊氏もろとも包囲しますが、さすがに主の尊氏までは弓を引くことが出来ず、その後、高師直やその弟高師泰を中心とした高一族は、行軍途中尊氏により謀られ誅され一族は滅びます。高師直がやぶれると、つぎは尊氏と弟直義が戦い、天下の形勢は、尊氏党・直義党・南党の三者鼎立によって、複雑さを増していきました。

  (観応元年末-志雄越山の戦い・花見槻の戦い・飯山(いのやま)の戦い・金丸城の戦い)
 北陸においては、直義党の越中守桃井直常(もものいただつね)が、南朝方勢力と結んで越中松倉城(現富山県魚津市鹿熊(かくま))を拠点として活発な軍事行動を開始しました。観応元年(1350)10月桃井直常及び桃井刑部大輔直信(直常の弟)は数千騎を率いて、まず能登守護方の湊となっていた越中・氷見湊を前進基地として確保してから芝峠のある(おそらく現在の国道415号線とほぼ同じルートで)志雄山を越えようとしました。この際、尊氏派の得江氏(堀切石王丸の一族など)はその所領志雄越山を警護したびたび衝突し、合戦となっています(得江文書)。
 しかし越中の桃井直常の軍勢は、国境を越えて邑知潟低地帯の東側・高畠宿にに陣取り、金丸城に拠る尊氏派の能登守護の桃井兵部大輔(ひょうぶだいゆ)頼義(盛義)と対峙しました。
 11月3日、足利直義党の井上布袋丸富来彦十郎俊行らが、拠点の羽咋郡富来院(現志賀町(旧富来町))から花見槻(現中能登町花見月付近一帯)に進出し、得江石王丸代の長野彦五郎季光らを引き連れた桃井頼義(盛義)と戦って撃退されています(観応2年正月日「長野季光軍忠状」得江文書)。富来俊行は、当時、再度木尾嶽城跡に拠ったと思われます。金丸城は美眉山山系の山の中腹にありますが、花見槻はその山のほぼ裏側の山間地集落で、井上布袋丸・富来俊行らは、おそらく邑知潟東側にいる越中桃井勢とで、能登守護方を挟み撃ちにでもしようとしたのでしょう。
 11月4日には、越中桃井勢は、桃井頼義(盛義)飯山宿一帯の戦いで撃破されます。越中桃井直常は一時退避しただけらしく、今度は直義党の越中の桃井直信(直常の弟)軍数千騎が能登に乱入し、街道筋を占拠し、高畠宿に布陣しました。これを迎え撃つ能登守護勢は、眉丈山系の麓にあたる鹿島郡の金丸城に拠って楯篭り、邑知地溝帯を挟んで高畠宿の桃井軍と対峙しました。その後、約1ヶ月間近い睨み合いの後に、12月13日、桃井軍が金丸城に迫りましたが、能登守護勢が城外に出て応戦し、激しい戦闘の末に、やがて桃井軍が撃退されています(金丸城の戦い)。 
 また観応2年1月21日、里見彦七(不勉強のためどの一族の者か詳細不明)が、長野季光らを引き連れ、羽田城に向かい合戦を行い、麓を焼き払い、25日まで毎日軍忠するとも記録にある。これらのことは観応2年(1351)1月の、得江石王丸代の長野季光が能登守護桃井頼義に具申した軍忠状(得江文書)に書かれています。
 能登守護桃井頼義とあるのは、
観応の擾乱の頃、一時期吉見氏は能登守護ではなくなっていたようです。
しかし金丸保などの一帯は当時の吉見氏の重要な拠点ですし、能登吉見氏は一貫して尊氏派ですからおそらく、少なくとも吉見氏の援軍が戦闘に加わっているものと思われます。
 このようにみてくると桃井直常らの乱入は、能登に残った富来俊行などとの高度な連携プレーの作戦行動だったと思われます。 それを考えると、能登守護方は、能登奥郡は去就明確でなく援軍はよこさない上、背後に富来一党の直義勢力があるとい非常に不利な状況の中、非常によく耐え健闘したというべきでしょう。

(参考) 桃井盛義(頼義) :〔能登守護任期期間:? 〜貞和5年(1350)7月〜観応2年(1351)10月〜?〕
 役職は兵部大輔
。また書物によっては、桃井義綱とかいた書物も2、3ある。なおこの桃井盛義は、観応2年8月、足利尊氏が直義と戦ったときも、得江石王丸の家臣長野光信などを引き連れ、参戦しています。また9月12日には、近江八相山にて足利直義に味方する越中守護桃井直常をやぶっています。

  (観応2年-赤蔵山の戦い)           ↑Topへ戻る
 観応2年(1351)8月18日、足利尊氏党の吉見氏頼が8000の兵力で郡の三引山赤蔵寺(現、田鶴浜町)に楯篭りました(当時赤蔵山は、三引山と呼ばれていました)。桃井直常(弟の直信というい史料もあり)を大将とした越中勢は、約1万の軍勢で能登に乱入し赤蔵山押し寄せ合戦となりました。
合戦は、8月18日〜9月21日まで(35日間)続き、激闘と呼べる攻防戦が繰り広げられました。そのころの 赤蔵山 は、中能登の霊山信仰の拠点のとして賑わい、山頂から山麓にかけて数十坊の建物があり、ちょっとした城郭の役割を果たせたと考えられます。石動山は南北朝のはじめ灰燼に帰していますから、要塞としては使えず赤蔵山に楯篭ったと考えられます。吉見頼隆も、隠居して赤倉山にはいっていたともいいます。多数の僧侶の助けも得られたことも頼った主な要因でしょう。石動山は、今までどちらかというと、反尊氏勢力が陣居していたことを考えると、そこを避けたことも考えられるし、また同じ能登の修験道の聖地とは言え、赤蔵山と石動山との間でも意外と勢力争いがあったのかもしれません。いずれにせよ、赤蔵山に陣拠することにより、桃井方と吉見方の勢力はたがいに同じくらいになった考えられています。

↑赤蔵山の案内図と赤蔵山の拝殿の「写真


 足利尊氏は、各地から吉見氏が楯篭る赤蔵山に援軍を送りましたが、勝負が決まらず、尊氏は穴水城主長国連に応援を命じました。9月16日当時大津(現田鶴浜町大津)にいた長一族の長秀信が応援にかけつけて赤蔵山に激しい戦いをしていた吉見氏頼の武将長野家光軍と合流して、赤蔵山要所の地であった曲松要をうばい返し、そこを拠点として反撃してくる桃井軍を撃退したのです。9月19日、桃井軍は赤蔵山の南から攻撃をかけ、その背後をまもる三引南山(吉田城山)に陣どっていた吉見軍を攻撃しましたが、失敗し後退しました。

 9月20日、桃井軍は、体制を立て直すため、赤蔵山にせめて来ました。桃井軍の勇将、小山田遠江掃部助が、夜襲に出ましたが、これも失敗して桃井軍は劣勢となり、それをみた吉見方は、9月21日、吉見軍は総力をあげて、桃井軍の本営三引御敵城(現在の県立田鶴浜高校付近の大塚山)を攻撃、桃井軍は高田、垣吉方面へ後退し、逆襲を試みましたが、吉見軍におされ、ついに荒山峠をこえ越中に押し返されました。この戦いで、吉見方の勇将、長野家光は、頭部に負傷してしまいましたが、その勇戦ぶりが大きく伝えられています。(得江文書「長野家光軍忠状」)

 赤蔵山の戦いで赤蔵山の殿堂は数多く焼失したと伝えられ、また、戦死者を埋葬したといわれる大塚山には多数の墳墓があり、そのうちもっとも大きいものは、この戦いで戦死したといわれている長秀信の墳墓だと伝えられています。高田と垣吉の境の山(松崎)にも戦死者の墓があり、伊久留浄願寺の後ろの山にある塚は長野家光の家臣と吉田城で戦死した武士の墓であると伝えられています。余談ですが、赤蔵山も石動山と同様に2度も兵火にあい、盛時には一里四方の境内に僧坊が120もあったといわれました。それらの建物は上杉謙信の能登攻略の際兵火にあって灰燼と帰しています。

 観応3年(1352)正月直義は尊氏と和して鎌倉に入りますが、2月26日直義は兄尊氏により殺害されます。しかし桃井直常は越中松倉城にあって尊氏側勢力と抗戦し、吉見氏頼とも越中氷見で合戦を繰り返すことになります。桃井直常の子桃井直和(ただかず)らは南朝方に転じました。

 
(吉見氏被官ー飯河氏)            ↑Topへ戻る
 この観応の擾乱の時、また、その後、吉見氏の守護代として登場してくる能登の有力国人・飯河氏の名が被官として出てきます。飯河氏は、鹿島郡飯河保(現在の七尾市飯河保)を本貫地としており、『尊卑分脈』によれば、加賀の有力武士・林氏の一族飯河三郎資光を始祖としています。観応3年(1352)、守護吉見氏頼が越中の桃井直常を討伐した際の軍奉行(いくさぶぎょう)として、飯河五郎左衛門の名が見えます。
 応安元年(1368)7月2日に実際発給された文書には、守護吉見氏頼が、得江八郎次郎に本知行地を返付するにあたり、飯河左近将監(さこんしょうげん)家光と共に遵行(じゅんぎょう)(守護の命令を下達)することを守護代である飯河左衛門尉藤光(さえもんのじょうふじみつ)がに命じています。またこの書状を受けて同年7月4日には、飯河左近将監家光と飯河左衛門尉藤光の連署で打渡状(当事者に伝達するための文書)が出ています。このことから能登の有力国人であった飯河藤光はこの頃、守護代であることがわかり、同族の飯河家光は、その役割からみて守護使として働いていたことが推測できます。(飯河氏の名は、その後も室町期において畠山の被官、前田家では十村として(飯川家)として名が出てきます)

  (文和元年・2年-越中各地での戦い)
 文和元年(1352)足利義詮は、能登国守護吉見氏頼(この頃吉見氏は守護に復帰していたようだ)に、地頭・御家人に対して味方するものに、安堵の下文を与えるよう告げています。また尊氏自信も、6月3日、得田素章に本領を安堵しています。これらは、尊氏や義詮の出陣要請に能登の武士がなかなか応じなかったことと関係しています。今まで比較的協力的であった得田氏や得江氏にしても、得江石王丸は、代理の長野光信を派するだけで自身は動かないし、得田章真は、命令にもかかわらず参戦したもようがなく、義詮も再三にわたって出陣要請しています。このように難しい状況の中、吉見氏、何とか能登の武士を引き連れて、この年6月、南朝に味方する越中の桃井直常を討伐するため、まず芝峠(一刎城)に陣を置き、上余川と柿谷の境にある水谷城(氷見市)を攻め、稲積の木谷城(氷見市)、三角山城(氷見市)、獅子頭城(氷見市)を攻めて打撃を与えて撤退しました。この頃になると足利直義が毒殺され桃井直常は守護職を奪われていました。越中守護は前守護の井上氏に戻りますが井上利清は桃井直常と手を組み越中勢力を集めます。文和2年(1353) 桃井直常、桃井直信兄弟は芝峠を奪還しようとしましたが失敗します。

  (能登島-金頸城の戦い)
 能登島の金頸城も、島西方地頭で南朝方の武将であった
長胤連(ちょうたねつら)の城砦とされ、文和2年(正平8年)(1353)と同4年には、守護

↑能登島向田にある金頸城跡(現在通称:城ヶ鼻)

吉見氏頼勢と胤連およびその残党の間で、島の西方全域を戦場にして、激しい攻防戦を繰り広げていました。胤連の居館は、向田村内にあって金頸城と近接していました。城砦の位置には、向田の集落の北東岸の岬にある「城山」または通称:「城ヶ鼻(じょうがはな)」と呼ばれる地に比定でき、七尾北湾に面した海城の立地をなしており、海に近い一段低い郭の「水手口」からは、海から物資を城内に運び込むこともできるようになっていました。 
 文和2年(1353)8月、南朝方の桃井兵庫助・長胤連らを討伐するため、能登守護吉見氏頼の嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢が七尾湾を渡り、長胤らと鴫島・飯浦(半浦)の合戦を戦い、同月29日長胤連の館に押し寄せて館を焼き払ったため、胤連勢は金頸城に立籠り、吉見軍は「一口駒崎」に陣取りました(文和2年9月日「得田素章代斎藤章房軍忠状写」)。駒崎は向田地内の地名で、胤連の居館や城砦の金頸城は向田にあったと考えられます。
 同4年(1355)越前各地で戦い諸城を落とした後(下記「三国湊奪回参照)、3月17日金頸城は、再度吉見詮軍の攻撃を受け、連日の合戦の末、6月14日の夜落城しました(同年3月26日「天野遠軍忠状」、同年7月日「遠経代堀籠宗重軍忠状」天野文書、同年9月5日「吉見詮頼感状」)。
これらの文書から、この能登島の戦いには、得田氏の一族や、地元能登島の天野氏などが吉見側に立って戦ったこともわかります。
このように金頸城は、ついには落城したものの、守護方の大軍による再度の攻撃にあいながらも、いずれ数ヶ月間の篭城に耐えてほどの難攻不落の要塞でした。能登内浦沿岸部で屈指の天然の要害であった。能登の分国支配にとって、能登府中(七尾市府中町付近)の守護所と奥能登を海上で結ぶ、富山湾・七尾湾の制海権の掌握は不可欠であり、守護吉見氏頼が金頸城の攻略に心血をそそいだのは、そのためでもありました。
 なお余談になりますが、能登島の西方の地頭は、この戦いの後、吉見氏頼の一族・吉見某、嘉慶元年(1387)10月には本庄宗成に移っており、守護領地化していきました。また東方は、胤連追討に加わった天野遠政が、戦いの前の観応2年(1351)7月24日先に宛行われていた能登島の東方地頭職を重ねて打渡されています(「紀朝久藤原朝房連署打渡状」天野文書)。延文2年(1357)7月2日にも天野遠政の所領能登島東方野崎・飯浦両村が守護方から預人を退けた上で打渡されていますが(惟宗経光打渡状」天野文書)、その後天野遠政は諏訪神左衛門尉に領地を掠め取られたらしく、康安2年(1362)には、諏訪神左衛門尉の東方地頭職押領を停止し、自分(天野遠政)に安堵すべき旨を訴えています(「同年8月5日「吉見氏頼披露状」天野文書)が、遠政の所領回復は実現しなかったらしく、以後天野氏の東方地頭職は知られません。このことは、いくら守護などに自己の所領を安堵してもらっても、土地を近隣の力あるものに押領されれば、結局は実力で奪い返して守るしかない厳しいこの頃の現実を、よく表しているといえます。

  
(三国湊奪回
 暦応3年(1340)南朝軍が占拠していた三国湊は、吉見頼隆によって奪取され、北朝軍が拠っていましたが、文和3年(1354)暮れから翌年(1355)春にかけて、桃井直常の軍勢が三国湊をおさえて、京都に遠征しています。これをうけて翌年(文和4年)(1356)、吉見氏頼の能登の軍勢が越前に入って三国湊を再び奪回しています。京都に戦う桃井直常の軍は、この輸送・補給の中継基地としたと推測されます。吉見氏頼は、その後方をおさえて補給を断つ行動にでたのです。直常の入京後、鎮西を従えた南朝方の足利直冬(足利尊氏の隠し子・直義の養子)なども京に入り、京都で南北両軍が2月に激突することになります。吉見氏などの作戦も少しは効を奏したのでしょうか、南軍は破れ、桃井直常軍も、越中に撤退することになります。

 
(延文4年-越中侵攻)
 延文4年(1359) 吉見氏頼軍が、志雄山の芝峠を通り越中に進撃しました。白河城(氷見市白川)、宇波城(氷見市)、八代城(氷見市)、朝日山城(氷見市)、角間砦(氷見市)、千久里(千九里)城(氷見市)を陥落させ、桃井方に十分な打撃を与えてから、能登に撤退しました。

  康安2年-木尾嶽城の戦い)
 康安元年(1361)細川清氏が南朝に組みし、桃井直常がこれに応じると富来斉藤次が木尾嶽によりました。翌年(1362)には、16年前とは違い南北朝争乱が長期化する中で、能登の南朝方においても、軍事的要害の整備を図っていたのがわかります。砦を強化した城郭が築かれ、周辺にも出城(尾崎城)が配置されていました。しかし康安2年(1362)5月に吉見氏頼の軍に討ち取られ(「足利義詮御教書案」尊経閣古文書纂)、木尾(嶽)城も同年7月には再度陥落しています(康安2年8月2日「足利義詮感状案」尊経閣古文書纂)同じ頃、また一軍は木尾嶽城の出城であった同じ羽咋郡の尾崎城も攻め落としています。ほぼ同じ頃桃井氏の残党も石動山こもり抵抗した模様です。しかし抗しきれず、桃井氏は越中を去って関東や京で奮戦することになりました。

  応安2年-金丸城・能登部城の攻防)          ↑Topへ戻る
 貞治5年(正平21年)(1366)桃井弾圧を主張していた幕府の執事(後の管領)斯波義将が失脚し、貞治6年(正平22年)(1367)越中守護に、桃井直信が任じられました。将軍足利義詮は南北合一の事を議したりしましたが、貞治6年(正平22年)(1367)、南朝からの講和の働きかけが、幕府方の拒否にあって、不調に終わりました。斯波氏が復帰した応安元年(正平23年)(1368)桃井直常・直信・直和ら桃井一党は、越中に帰ります。応安2年(正平24年)(1369)になって桃井直和らは、越中や能登で、ふたたび積極的な動きを起すようになっており、戦乱の渦は、加賀にも拡大されていきました。
 応安2年(1369)4月28日、越中の前守護桃井直常勢が能登に侵攻し、邑知潟低地帯東側に陣取ったた際にも、羽咋郡周辺の武士達は守護方に参陣し、鹿島郡の眉丈山系の邑知潟地溝帯及び邑知潟に望む中腹部の金丸・能登部(のとべ)両城に楯篭もり、6月1日まで桃井軍と戦闘を繰り返した。金丸城の大将は吉見氏頼で、羽咋郡得田保(現志賀町)の地頭得田章房章親の兄弟がこれにしたがい、また能登部城の主将は守護一族の吉見伊予入道で咋郡志雄保(現志雄町)の地頭得江季員らがこれにしたがった(同年12月日「得田章房軍忠状」得田文書)。

  (桃井氏との加賀での戦い)
 その後(応安2年(1369)夏)、桃井直和勢が劣勢を挽回すべく加賀に侵攻し、石川郡の平岡野(現、金沢市内)に陣を敷き、加賀
守護冨樫昌家(北朝方)のたてこもる冨樫城を攻略すると、その救援のため、8月15日、得田章房・得江季員らの能登勢は、守護吉見氏頼に率いられて加賀に赴き、石川郡の野々市で、連日にわたり日夜桃井勢と合戦に及びました。ついで、9月7日、桃井勢が北加賀の要港で臨川寺領であった石川郡の大野庄湊(宮腰津)に攻め寄せ、そこを占拠しまひた。吉見氏頼の能登勢はそれを討つため、野々市から宮腰へ進み、同月12日、桃井方を隣接する大野宿(おおのしゅく)に追いつめました。こうして大野庄湊の大野宿と宮越を奪回しました。そののち、吉見・冨樫の連合軍の攻勢にあった桃井軍は、浅野川中流右岸の丘陵部にあたる宇多須山(うたすやま)(現、金沢卯辰山)の砦に退いて陣を構え、態勢の建て直しを図りました。しかし、9月15日、ここも能登勢に攻略され、同17日、越中国境の加賀(河北)郡の松根砦に撤退したが抗しきれず、翌18日には、越中の千代ヶ様(ちよがためし)城(現、富山県東砺波郡庄川町)に退却しました。だが、それも能登吉見勢によって攻め落とされています。(得江文書、得田文書)また一乗寺城(小矢部市)もそのときに吉見勢によって攻略されています。

  応安2年-松倉城攻め)
 応安2年(1369)10月22日能登の吉見氏頼軍は、、再び桃井勢討伐のため、新たに越中守護となった斯波義(越中守護:応安元年〜康暦元年)と協力して越中の松倉城攻略に出陣しました。吉見勢は、優勢のまま松倉城攻めを行い、さしも桃井直常も退却を余儀なくされたようです。得田文書によれば、
得田章房・得江季員らが能登に帰国したのは、北陸ではもう雪の深い12月2日のことでありました。
<参考>応安3年(1370)には、斯波義将と桃井直和らが長沢(婦中町)で戦い、桃井直和が討ち死にしています。この時、能登から援軍が出たかどうかは不明です。私は、この時も能登勢が出ていた可能性は強いのでは、と考えています)

  山方城の戦い)              ↑Topへ戻る
 羽咋郡得田保の地頭得田章房(のりふさ)章親の兄弟が、吉見氏頼に出した軍忠状によれば、こののち守護吉見氏頼の命令で、年の暮れも押し迫った12月28日、奥能登珠洲郡の若山荘にたてこもる南党方の
山方(やまがた)六郎左衛門入道らの守護吉見氏頼の討伐に章房・章親が加わり、同月晦日、宝立山山頂付近の山方城を陥落させています。山方城の位置は不明ですが、現在上戸町寺社にある高照寺のかつての山号が山形山であったことから、上戸・直地区に位置したものではないかと推定されています。

 
(応安4年-五位荘の戦い)
 応安4年(建徳2年)(1371)桃井勢は、再起かけ、飛騨国司姉小路氏らの援助を受け、能登吉見勢と五位荘で戦うが、やぶれ以後、桃井氏の消息はたたれます。

  (吉見氏の衰退)         
 しかし、康暦元年(1379)得田氏への軍忠状証判以降、守護としての吉見氏の名は現れません。それは 本庄氏との確執 が影響しています。
 珠洲郡若山荘の田所職(荘官)にあった本庄宗成(ほんじょうむねしげ)が、(足利将軍家と姻戚関係にあった) 若山荘 の領主・日野資教(すけのり)の家来(青侍)となって上京し、日野資教の妹・業子が将軍義満の正室となると、その乳父(めのと)として足利家の寵臣となり幕閣で権勢を振るうようにまでなりました。本庄氏は、野心が強く、室町幕府当初から吉見氏の守護の統制に服すことを好まず、直接足利将軍の奉公衆(親衛隊)に加わり、守護の分国支配から独立して行動していました。そのため京で出世した本庄宗成早くから能登守護を望んでおり、守護吉見氏とは険悪な関係にありました。永和3年(1377)京都で能登守護吉見氏頼が、本庄宗成誅を企て、宗成が義満邸に逃れて未遂に終わった事件の原因は、宗成が能登守護を競望し義満が認めようとしたため吉見氏頼が激怒したためといわれます。康暦元年(1379)賀茂祭りを見物した時の桟敷は寵臣で検非違使尉の本庄宗成が設営したものと言われています。そして、同年(1379)の康暦の政変で、それまで幕政の中枢にあった細川頼之が失脚すると、冨樫氏と同様に、細川頼之の忠実な協力者であった吉見氏頼もこれに連座し、かわって本庄宗成が守護の地位を得ました
 嘉慶2年(1388)には、押水庄の地頭・岡部加賀守が上日庄の地頭で多茂城に拠る武部氏が、武部で戦っており(武部合戦)、岡部加賀守が敗北し討ち死にしている(永光寺年代記)。郷土史研究家の坂下喜久次氏は前守護吉見氏と当時の守護本庄氏との争いとの関連性がある可能性を述べているが不明である。
 だが念願の能登守護の地位に就いた本庄氏の守護支配も、そののちしばらくして頓挫し、明徳2年(=元中8年、1391)の暮れ頃までには、室町幕府の有力一門守護の畠山基国が、河内・越中に加えて能登守護も兼務するようになりました。


 
(畠山時代の正院郷をめぐる吉見氏の動向)
 ここでいう正院郷は、中世の正院郷で、現珠洲市の正院地区及び蛸島町・三崎町雲津(もづ)・三崎町小泊(こどまり)・三崎町伏見・三崎町本・三崎町細屋・外浦の高屋町・折戸町・川浦町一帯に比定されています。応安5年(1372)6月23日、まだ吉見氏頼が守護の時代に、正院郷内のうち長近江入道母の所領からの闕所(けっしょ)地である伏見・小泊・毛須(もず)・蟹浦が吉見氏頼に与えられ被官・五位頼持が代官となっています(6月23日付「室町幕府執事下知状」(吉見文書)及び7月18日付「室町幕府引付頭人奉書」(吉見文書))。
 応永19年(1412)7月2日には、能登守護吉見氏の後裔で奉公衆の吉見家定が安堵されています。(「足利義持袖判御教書」吉見文書)
 享徳3年(1454)12月、能登守護が、畠山義忠の時代に、幕府奉公人の有力国人吉見家の所領の正院郷を、吉見氏の代官家であった地侍五位左近将監が代々の恩をあることを忘れて押領を進めたので、これに対して吉見家仲は、五位氏に替え新たな代官の入部を試みて争ったとあります。幕府は畠山義忠の能登守護代(遊佐五郎右衛門光貞or遊佐右衛門尉忠光)にその違乱を留めるように指示しています。しかし五位氏が事実上の知行としたようです。
 長禄3年(1459)8月16日には、将軍足利義政の御教書を獲得して、吉見家仲は、再び入部を試みていますが、すでにこの時には五位氏の支配下に置かれていたものと考えられています(長禄3年8月29日付「室町幕府管領細川勝元施行状」)。このような五位氏の押領の背景には、吉見氏譜代を脱して、畠山氏への被官となろうという狙いがあったと考えられています(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)。
この畠山義忠の時は、吉見氏は、長、飯川などの有力国人同様、将軍と直接結びつく奉公衆であったことは「吉見文書」などに示されているようです。畠山氏も、吉見氏同様、多難な領国形成を強いられていたようでした。ちなみにこの正院郷は戦国期には、完全に長氏の知行地となっていたようです。

 
(吉見統範の寄進状)
 文明2年(1470)畠山義統の家臣となっていた吉見孫太郎統範が長谷部氏出自の周堂玄昌の菩提を弔うため、重代相伝の鳳至郡櫛比荘二ヶ村(現門前町の田村、高根尾(たかねお)、日野尾(ひのお)、栃木(とちのき))のうち、鉄屋(かなや)の100刈の田地を(同年4月23日付吉見統範寄進状案)、同10年(1478)二ヶ村のうち橡(とち)の木100刈・年貢米1石8斗の田地を(同年3月9日付吉見統範寄進状案)、そして明応6年(1497)二ヶ村のうち田村村の高嶺尾(たかねお)110刈・年貢米1石九斗の田地を母の位牌料として(同年10月22日付吉見統範寄進状案)、それぞれ総持寺に寄進しています。またこのことから吉見統範及びその何代か前の先祖は、この櫛比荘二ヶ村を知行していたことがわかります。

  (能登吉見氏のその他の人物
 
吉見十郎三郎(よしみじゅうろうさぶろう)
 暦応3年(1340)吉見氏頼のもと、 得江頼員 などを引き連れ、越前に出陣し、越前守護斯波高経を援けたりしているのが記録に残っています。

 ○吉見伊予入道(よしみいよにゅうどう)
 能登守護代。 応安2年(1369)の越中守護・桃井直常能登乱入 に際して、能登守護方の拠点であった能登部の守りを担当していた記録などがあります。

 ○吉見頼基
 頼隆の弟。

 ○吉見頼重
 氏頼の弟。

 
○吉見統範(よしみむねのり)
 能登畠山氏の家臣。孫太郎。能登守護吉見氏の末裔で、 畠山義統 に仕えました。文明2年から明応2年、能登国鳳至郡櫛比荘(門前町)の田地を、能登 總持寺 に寄進しています


 
(南朝方の城砦)
 南北朝期における能登の南朝方の城砦としては、ここでは鹿島郡能登島の金頚城、羽咋郡の木尾嶽城、珠洲郡の山方城をあげましたが、他に尾崎城の存在が確認できます。詳しいことがわかりましたら、また随時、追記・修正・改定を行いたいと思います。

  (吉見氏の居館)
 吉見氏の居館は、守護になるまでは、現在の鹿西町あたりを地盤としていたので、金丸(鹿西町)に館があったらしい。居城も、金丸城で、出城として能登部城(鹿西町)があったようだ。吉見氏頼の時までそこにあり、吉見氏頼が、守護政所として、府中(現七尾市府中町付近)に館を移したらしい。

  (最後に執筆感想他)        ↑Topへ戻る
 私は、実は大の『太平記』ファンである。ここ10年ほど1年に最低1種類は太平記関係の本を読んでいる。もう4、50冊は軽く読んでいるだろう。今回、この能登吉見氏のコンテンツを書いていて、まるで、太平記余聞といった小説を書いているような気分を多少味わいました。このページのタイトルも作っている最初は「忘れられた能登守護家・能登吉見氏」だったのですが、もうちょっとタイトルを面白くしようと思い「吉見太平記 〜忘れられた能登守護家・能登吉見氏〜 」と最初に考えたタイトルをサブタイトルに変えてしまいました。今後も、どんどん補筆修正し改定していく考えです。場合によっては、いくつかに分割し、1つのコーナー、1つのサイトまで拡大してもいいのではないかと考えています。今後の能登吉見氏関連の記事の発展を乞う御期待!

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