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(2001年3月13日一部加筆修正)
<九月十三夜>
霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶う
というのは、上杉謙信が、陥落間近の七尾城外(本陣としていた石動山大宮坊)で(天正5年)9月13日、諸将と名月を眺め、詠じた歌(漢詩)といわれている。この漢詩は頼山陽の名著『日本外史』に掲載されたため江戸時代の教養人なら知らぬものが無いほどに有名になったが、しかしながらこれは現在、後世の人々が上杉謙信に仮託した七尾城の挽歌であり、謙信の作ではないという説が一般的だが、そうであるにおしても、戦いの後の感慨を、七尾の城山からの景色とマッチさせた名歌といわなければなるまい。
天正元年(1573)武田信玄が病没すると、天下の勢力図がかわった。中国の毛利氏(毛利輝元)は、中央への意志が弱かったので、織田信長と上杉謙信の対立にかわった。謙信は、 天正3年、将軍足利義昭の要請などもあり、上洛を決意して、越中に侵攻した。越中の一向一揆を破り、越中を手に入れた。一方織田信長も、長島(愛知県)の一向一揆を殲滅し、越前・加賀へも兵を送り込んだ。この2大勢力が、北陸を中心に対立したのである。では、そのころ強大な戦国大名にはさまれた七尾城はどういう状況だったのか?
戦国末期の能登七尾城では、城主畠山義慶には統率力はなく、重臣たちが虚々実々の駆け引きを展開し、主導権を争っていた。畠山氏は、戦国時代を通して、北陸の一向一揆との対抗上、越後上杉氏と一貫した同盟関係にあったことから、遊佐続光は深く上杉謙信に通じていた。しかし、城内では反上杉方である長続連(ちょうつぐつら)・綱連(つなつら)父子は密に織田信長に与(くみ)し、温井景隆(ぬくいかげたか)は金沢御堂=一向一揆と結んでいた。そのため、能登畠山家を取り巻く状況は、複雑な様相を呈していた。
天正2年(1574)城主畠山義慶が毒殺され、弟の義隆が擁立されたものの同4年2月に病死し、城内には暗雲がたちこめた。この時、年寄衆による専横を排除し、越後に人質として送られていた上条(じょうじょう)義春(畠山義綱の弟)を七尾城に入れて能登畠山家を再興すると称し(大義名分を掲げ)、謙信が海陸3方から能登侵攻を開始した。謙信の真の目的は、織田方と結ぶ長一族を誅伐し、上杉領国を越後から越中、能登へと拡大し、越後から能登に及ぶ富山湾流通圏の掌握することであった。
将軍足利義昭は、本願寺・毛利氏と結んで、謙信にちかづいていたので、天正4年5月には、謙信は、一向一揆とも和睦し、さらに天正4年(1576)11月には能登に進んだ。そのため、七尾城は、ほとんど周りが謙信の味方となり、上杉勢は、各地を転戦しながら、七尾城に迫った。七尾城内では、上杉謙信の降伏を勧める手紙をめぐって、重臣達の間で、会議がもたれた。信長側に立とうという長氏と、謙信側に立とうという遊佐氏とに意見が分かれたが、長氏の意見が通り、七尾城は謙信の和議を拒絶した。この為、謙信は1万の兵を引き連れ、(七尾城下の)天神川原に陣取った。七尾城では、城の各部所に分かれた2千の兵が立てこもった。
この時、謙信は長期戦を覚悟したと見えて、七尾城の裏手にあたる 石動山 の大宮坊の太子堂裏手の山に石動山城を築いている。そして直江大和守景綱を守将としておいている。石動山城の山城の名が資料で最初に見えるのは、弘治3年(1557)に、温井備中がここに築砦し、城兵を置いた時の事である。しかし、おそらくは石動山衆徒によって古くから築かれていたものでしょう。現在跡を辿っても、七口といわれる、尾根筋を辿る各登拝口の要所要所には、空堀や土塁などの防御施設が築かれているのがわかります。大宮坊背後の本城は、天険による武装集団、石動山衆徒の本丸であったと考えていいでしょう。そして上杉謙信は、その堡塁・砦などを補強し、利用したのでしょう。石動山衆徒は、永禄12年(1569)越中を制圧した謙信に対して、戦勝を祈願し、大般若経を転読して巻数を送るなど、謙信方につく姿勢を早くから示していた。この戦いでは、槍や刀を持った多くの僧兵も戦う姿が見られたことであろう。石動山は、現在では地元以外の人には忘れられた存在だが、当時、北陸を代表する真言密教の霊山であり、中世の最盛期には寺領4万3千石を誇る大寺院であった。そのため城郭寺院としても、比叡山などと並び日本有数であったのだ。
天正4年(1576)10月の七尾の防備体制は、
①大手赤坂口/長綱連・杉山則直・長孝恩寺、②搦手大石谷/温井景隆・三宅長盛、③木落口/遊佐義房
という配置だった。
自然の要害を巧みに利用した難攻不落を誇る七尾城は容易には落ちない。長綱連は、謙信の背後から攻めさせ、戦局を有利にする為、かつて誼のあった一向一揆に助力を求めた。それをうけて、穴水・中島の6千人の一向一揆が謙信の背後を攻めた。だが結果は戦上手な謙信に逆襲され、一向一揆は敗北してしまった。この一揆があってから、謙信は、一段と激しく城を攻め、能登で越年して三月まで滞陣したが、関東の政情不安(北条氏の上杉氏領内進入)によりいったん越後に帰った。この知らせで勢いを盛り返した城兵は、七尾城を包囲する残留守備兵を蹴散らし、失った熊木(くまき)城・富木城(富来)をいったん奪い返した。
天正5年閏7月、上杉謙信が再び能登に攻め入ってきた。この再度の謙信の遠征のため『能登国司畠山殿伝記』では、「国中の男女が謙信を恐れ、驚き、殿、助けてくれ!!と城内に入り、山中にあふれ、謙信は、石動山大宮坊に止宿して総指揮をとった。そして7月より9月まで、城を取り巻き攻め立て、城内城外を問わず、雑人(ぞうにん)共の、糞尿で悪臭がたち込め、悪病が流行し、病死する者多し」と記されるような苦境に陥った。
天正5年の七尾方の諸将の配備は、
①大手赤坂口/長綱連・杉山則直・長孝恩寺・平綱知・飯川義清・その他の長氏一族、②大石谷口/温井景隆・三宅長盛、
③木落口/遊佐続光・遊佐義房という配置だった。
長綱連は、信長の援軍を待つよりは他に道が無いと考え、弟の長連龍(ちょうつらたつ)を信長の許に派遣し、救援を頼ませた。一方、上杉謙信も、遊佐氏へ密かに手紙を送り、降伏を勧めた。遊佐氏は、温井・三宅の重臣を誘って謙信に降伏及び城の明け渡しを約束した。遊佐氏は長氏に、これ以上戦うことは無理だと降伏を勧めたが、長氏は、信長の援軍が必ず来ると信じ、降伏は武士の恥である、として拒絶した。遊佐氏は、それでは仕方が無いと考え、謙信と約束を実行した。
この様にして9月15日、謙信は、遊佐続光の内応によって軍勢を城内に入れ、最後まで抵抗した長続連・綱連ら一族100余人を討ち取り、ついに陥落させたのである。謙信は、この時、石動山大宮坊の本陣に陣を構え、七尾城開城の知らせを聞いた。そして、温井景隆・三宅長盛・平綱知などは助命、許されて上杉氏の国衆家臣団として加えられた。そして彼らに即日城を修築させた。
一方、落城を知らない長連龍は、信長の家臣羽柴秀吉・柴田勝家・前田利長の4万の援軍を先導して、七尾に向かって進軍してきたが、途中の加賀水島で落城を聞かされ、さらに、兄をはじめ、一族の晒し首を倉部浜(松任市)で見て、悔し涙を流し、復讐を誓った。
また、三代守護の畠山義統の末子義智(よしとも)が築城したと伝えられる奥能登の松波城でも、最後の戦いが行なわれたが、9月25日に落城し、松波城の畠山義親(よしちか)も華々しく戦い、戦死した。ここに能登は、ことごとく謙信によって征服されたのである。
9月26日、初めて七尾城に登城した謙信は、その絶景に感嘆し、「聞きしに及び候より名地、(加)賀・越(中)・能(登)の金目(きんもく)の地形といい、要害山海に相応し、海頬嶋々(うみづらしまじま)の躰(てい)までも、絵像(えぞう)に写しがたき景勝までに候」と家臣(国もとの家臣という説と、上野深沢城将の長尾秀忠という説がある)に、手紙を書き送っている。謙信は、これに先立ち加賀に出陣していた。17日に末森城(現押水町)を攻略して加賀に南下し、23日手取川の夜戦で、柴田勝家ら織田軍に大勝したのち、七尾に戻ったのだ。26日が吉日なので、城の改築を指示しようと登城した謙信は、その絶景に感嘆したのであった。先の同じ手紙にまた「天険の要害だから、普請も短期間で済むであろう」とも、書いている。能登畠山氏の滅亡により、残された畠山義隆の妻(公家の三条家の女)と幼児は謙信が越後へ伴い、妻は北条景広(ほうじょうかげひろ)に再嫁し、幼児は謙信のもとで、養育されたという。
七尾城を手に入れた謙信は、鯵坂長実を城代として、七尾に置き、能登を治めさせ、上杉方に味方した旧畠山氏の家臣遊佐続光らがこれに協力した。
謙信は、信長の援軍を手取川の戦いで破ったことから、天下統一はできると信じ、越後で京都に攻め上る時期を待ったが、天正6年3月、七尾城が陥落してわずか半年後、突然、病気で亡くなった。
(七尾城のその後と三万棹の書籍の行方は?)
ところで、七尾城は、長い篭城戦だったが、最後は遊佐氏の裏切りにより、あっけなく畠山側(というより、長氏側)が敗北した訳だが、そのため、堅固を誇る七尾城は、あまり燃えることや壊れることもなく、残った。だからこそ、上杉謙信は、これからの能登支配の要として使えると思い、落城と同時に新たに自分の家臣に組み入れた遊佐・温井・三宅などの旧畠山の家臣たちに七尾城の修築を命じたのであった。実際、上杉氏撤退後、城代の鯵坂長実や、その追放後も、旧畠山家臣団が、根拠地の城として何使った。
では、そうなると逆に、疑問が生じる。城が燃えたのでなければ、義総の能登畠山家の黄金時代に3万棹もあったという書籍はどこにいったのであろうか。従来、このことから能登畠山家には実際には、それほど書籍はなく、あの話はホラ話か単に過大にいったに過ぎぬといわれたりもしたが、最近、京都のお寺などの史料から、どうも京都など他所へ持ち出されたらしいことがわかってきた。よって、やはり当時の残された歌集や旅行記などから推測される能登畠山家の文化水準から見て、あの話(三万棹の書籍を持っていたという話)はやはり真実らしい。今後、また詳しいことが、わかったら、報告もしくはこの文章を書き換えたいと考えている。
では、七尾城はいつ頃は廃虚となったのだろうか。それは、前田利家が、能登一国を織田信長に任され、七尾城という山城を拠点とするのをやめ(当時、鉄砲などによる戦法の変化から山城の利点がなくなり、平城が主流となりはじめていた)、府中とも隣接し、古くから能登一帯の流通の拠点として賑わっていた所口の近くの小丸山というちょとした丘(標高10〜20m前後)に城を築いたのである。そして所口をあらためて城下町として整備し、商手工業者を呼んだのである。そして七尾城は、他国から能登(七尾)への進入者の拠点となっても都合が悪いので、利家の命令で、城割(城郭を破却すること)したのである。これにより、七尾城は消えてしまった。ただ攻城戦によって破壊された城でないせいか、比較的に石垣が残されたことが、後世にその痕跡を多くとどめる結果となったようだ。
(最後に余談)「滝とカラス」(七尾古府町の伝説)
上杉謙信が、七尾城を取り囲んだ時の話しである。謙信は城をすっかりととり囲んで、1滴の水も城内に入れないようにした。それから数ヶ月したある日、城内の水が尽きただろうと思って、古府の橋の上に立ち、城山を見つめると、城山の山上から白い水が滝のように流れ落ちていた。
これを見た謙信は、長期戦をあきらめて、越後へ戻りかけた(この橋を戻り橋という)。その時、家来の一人が、「白い滝にカラスが群がりはじめたぞ!」と叫ぶので振り返って見ると、それは確かにカラスであり、白い滝のように見えたのは、白米だった。謙信は再び引き返して城山を攻め、陥落させたという。
(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾の歴史と文化」(七尾市)、「七尾市史」(七尾市)、「かしまの歴史探訪」(鹿島町教育委員会)
「エアリアマップ観光ガイド・能登半島」、「石川県の歴史」(河出書房新社)、「七尾の地方史」(七尾市)、「石川県の歴史」(山川出版社)他
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