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枡形山城跡探訪記

 ここ数年何度かこの地を訪れようとしたが、道路工事による通行止めでなかなか行けなかった。2004年12月12日、この季節にしては、いい日和だったので、久しぶりに石動山へ自動車で登った。ついでに枡形山方面の道を調べてみたら、自動車が通れるようになっていたので、訪れてみました。
  ◆枡形山城(or荒山砦跡or荒山城跡)(鹿島町原山)についての説明◆
 石動山の南西方約2.5km、荒山峠の北約0.8kmの屋根上標高486mに位置し、「桝形山」の城跡とも称する(能登志徴)。邑知潟地溝帯などへの眺望は極めて良い。詳細な分布調査は行われていないが、丘頂部に一辺約250mの広大な平坦面を持つ単郭式とみられ、中腹部にかけて小規模な郭群が認められる。
 天正10年(1582)8月16日の佐久間盛政書状(温故足徴)に「新山与申古城」とみえ、石動山合戦で金沢から前田方の救援に赴いた盛政によって当砦に追い込められた温井氏・三宅氏らは、一人残らず討ち取られた。この石動山合戦は、石動山衆徒が当時越後にあった温井備中守景隆・三宅備後守長盛一党に対して、織田信長の同年6月2日の本能寺の変での死を契機に能登への入国を促し、前田利家への反乱蜂起を勧めたことに始まるという。
 温井氏らは、6月23日の夜半に石動山へ登り、衆徒らと謀って荒山に要害を構え始めた。 一方その報に接した前田利家は、盛政の助援を得て、密かに石動山と荒山峠の境にあたる柴峠に、陣を進め、荒山砦の普請作業に赴く温井・三宅勢4300余人を急襲した。
 不意を衝かれた温井勢は当砦に立て篭もったため、佐久間勢は砦に攻撃を加えた。
 温井景隆・般若院快存らは砦に拠って防戦に努めたが、攻勢に耐えかね石動山に退く者が続出し、やがて大将の景隆らも相次いで討死にし、荒山砦は陥落する。(これを荒山合戦という)
 次いで利家は、 石動山 を攻略し(これを石動山合戦という)、堂塔を焼き払ったため全山・三百六十坊は焦土と化したという(太閤記・荒山合戦記)。荒山砦の陥落と、石動山炎上の時期について戦記類は6月26日とするが、実際は1ヶ月遅れの7月26日のことであった(「笠間権兵衛書上写」秘笈叢書)。
 なお「古城」(佐久間盛政書状)とあるから、砦は以前からすでに存在していたことになるが、構築の施主や時期については、七尾城主の能登畠山氏が上杉謙信の乱入に備えて天正5年に築城したとの説や、それ以前に石動山の衆徒が砦として築いたとの伝えもあって、詳細は不明である(能登志徴)。
 
 以下現地を訪問した際、撮った写真の説明です。
 鹿島町の二宮の石動山口から道を登り、かなり上の方までくると、(七尾の)城山方面へ行く道と、石動山へ行く道、枡形山方面へ行く道が交わった四角に出ます。そこを枡形山方面に、1・2kmほど進むと、枡形山への登り口が見えます。左上の写真が、その近くにあるガイド用の地図です。右上は枡形山城跡の歴史を書いた案内板です。 
この上の写真が、枡形山城跡登り口です。 この上の写真は、5分ほど登ったところで、下から写したものです。山頂までは、確か10分から15分ほどかかりました。でもお歳をめした方は20分くらいかかるかもしれません。
 本丸の風景です。上の2枚とも方向ははっきりしません。本丸はかなり広いでしょう。七尾城本丸跡よりは少し狭いかな。
本丸跡から七尾方向を撮影。本丸跡から千里浜(羽咋方面)を撮影。山の途中に見える池は荒山峠の原山池である。明治期に、能登に来て「NOTO」という旅行記を書き、後に天文学者として有名になる パーシヴァル・ローエル は、この池の横の峠道を富山方面から来て、鹿島の方へ降りています。
本丸跡から、氷見方面を撮影。 登る際、あまり他の郭(くるわ)には眼がいかなかったが、下る際、多数の郭があるのが、よくわかった。下の2枚の写真も、別の郭を撮影したものである。
上の写真は、枡形山と石動山の中くらいにある展望台です。ここにも荒山合戦の説明をした看板がおいあるので、よく知らない人はここを枡形山砦跡と思っている人もいるようです。荒山砦跡の下で見つけた板に書かれた説明文です。

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